2齢
ワスレナマダラアゲハ ワスレナマダラ科
千葉県
「へぇ、アゲハチョウとは違うんだ……」
私はふかふかのベッドに寝ころんだまま、スマートフォンの画面に表示されたワスレナマダラアゲハのプロフィールを眺めていた。名前にアゲハと付いているのにアゲハチョウじゃないなんて、虫の名前は随分とややこしいと思う。しかし「ものしりバタフライワールド」というタイトルのその個人サイトに載っている成虫の写真は、なるほど、私の知っているアゲハチョウのイメージに近い気がしなくもない。現に、つい5年程前までは、ワスレナマダラアゲハもアゲハチョウの一種だと考えられてきたのが、最近の研究で、全く別種の蝶だということが明らかになったのだという。
紺碧よりも暗い青に彩られた
全ての蝶に言えることだけれど、あんな不格好な芋虫がこんなに美しくて幻想的な生物に変身するだなんて、生命というものは本当に摩訶不思議だ。
寿命が短いというのは可哀想な気がしなくもないけれど、ただ子孫を残すためだけに生まれて死ぬという生き方も、人間のように余計な事に心惑わされて苦しむ必要がない分、幸せと言えるかもしれない。本能だけで生きていれば、忘れたくても忘れられない思い出なんてきっと無いのだ。それとも、ワスレナマダラアゲハが芋虫の頃に食べた人間の記憶は、大空を舞う蝶の意識にも投影されていたりするのだろうか?
「そうだ……様子を見ないと」
私はベッドからのろのろと起きあがった。
実を言えば、昨日、カイエダ君と一緒に孵化したばかりの幼虫を見てからは、一度もケースの中を確認していない。あの芋虫がどんどん大きくなったら、それこそ私は目を背けずにはいられなくなってしまうのではないかと思って怖じ気付いていたのだ。さっき朝食を食べにいった時、カイエダ君と目が合ったが、今日の彼はにっこり微笑んで会釈をしてくれるだけだった。確かにバイバイ・メモリイ・プラン付きでこのホテルに宿泊しているのはあくまで私だから、ワスレナマダラアゲハの世話をしなくてはならないのは私自身だ。彼は、こちらから頼んだ時に手助けはしてくれても、そうそう口出しはしてこないのだろう。
でも、カイエダ君が付いていてくれないと、ちゃんとワスレナマダラアゲハを世話出来る自信が正直言って、ない。その一方で、何度もカイエダ君に助けを求めるのもはばかられた。私だって良い大人だし、彼にだって他にやるべき仕事があるだろうし……。
そんな風にぐるぐると考えつつ、一人で部屋に戻り、今に至る。
今まで生きてきた中でも、仕事でも、怖い思いなんていくらでもしてきたはずだ。それなのに、一匹の虫にこんなに怯えているなんて、自分で考えてもだいぶ滑稽に思えた。
「あ、葉っぱがなくなってる……」
思い切ってこわごわとケースを覗き込むとミヤマオモイデバラの枝が丸裸になっていた。枝にひっついているワスレナマダラアゲハの幼虫も昨日見た時の倍以上の大きさだ。昨日は爪よりも小さくて見つけるのすら難しかったのに、今では小指の先から第2関節までに届くくらいになっている。
「あんた、これ一日で全部食べちゃったのねぇ」
呆れて呟くと、芋虫は身をよじりながらグネグネと上半身(?)を振り回した。食べるものがなくなったので怒っているように見える。キモカワイイ、というのか……見てるだけならば意外に平気かもしれない。
私は芋虫ごと枝をケースから取り出し、鉢植えのミヤマオモイデバラの葉に近づけた。ワスレナマダラアゲハは蠕動しながら鉢植えの葉に移る。しばらくウロウロしていたが、すぐに葉の縁をかじり出した。
彼(?)が鉢植えの葉を食べている間に私は糞のついたティッシュペーパーを捨て、ケースの中を丁寧に拭き取る。
そうして、ワスレナマダラアゲハが乗ったままの鉢植えの枝をハサミで切り取り、再びケースに入れようとしたところで、私の手はぴたりと止まった。
「あ、大変……」
「どうかされましたか?」
フロントに電話をかけるとカイエダ君はすぐにきてくれた。
「あの……幼虫に怪我をさせてしまったかもしれなくて……」
「怪我?」
おろおろする私の横で、カイエダ君は屈み込み、ケースの中のワスレナマダラアゲハをじっと見つめた。
幼虫の体にはひび割れたような筋が入り、後ろ半分が腫れたように膨れ、苦しそうに頻りに体をくねらせていた。
「ああ、ご心配には及びませんよ。怪我じゃなくて脱皮をしているだけです」
カイエダ君は顔をあげて微笑み、事も無げに言った。
「脱皮?」
「体が急激に大きくなると、皮膚が窮屈になるので脱ぎ捨てるんです。ワスレナマダラアゲハは蛹になるまで4回脱皮します。今日がその1回目です」
「なぁんだ、そうだったんだ……」
「個体差はありますが、2、3日おきに脱皮をします。でも、孵化してから丸1日で脱皮をするのは早いですね。きっとたくさん食べたのでしょう」
「ええ、気が付いたらケースに入れておいた葉がなくなっていて」
「葉ももちろんですけど……それだけではないですよね?」
カイエダ君のまっすぐな瞳が私をとらえた。心を全て見透かすかのように。
「……すみません。お客様が考え事をされる時間をつくるには、僕があまり出しゃばらない方がよいと思って、今朝はお声掛けしなかったんです。あ、実は、イガタさん……支配人に注意されたっていうのもありますけど。僕はおしゃべりなんで、お節介になりすぎないようにってね。でも、困ったり分からないことがあったらいつでも呼んでくださいね」
心安げな言葉に私も微笑み返そうとしたが上手く笑えなかった。
カイエダ君の去ったひとりの部屋で、私はぼんやりとワスレナマダラアゲハの幼虫を眺めていた。ただ、波の音だけが聞こえている。静けさが耳に痛い気がした。
優しいホテルマンの青年を相手に束の間であっても恋をしたなら、私はあの人の事を忘れられるだろうか? と、ふと考えてみる。だが、そんな単純な事ではないということは自分が一番よく分かっていた。
小さな小さなワスレナマダラアゲハは、大きく育つために、己の皮膚を少しずつ脱いでいく。
それを眺めながら、私の服のボタンをわざとじらすようにゆっくりと外していったあの人の掌の熱さを思い出す。
私の体は深緑色の艶やかな葉の生い茂る枝で、私の葉脈をなぞり、貪る、あの人の指は蝶の幼虫だった。
一緒に暮らしたのはほんの1年。それでも、あの人との思い出は、ここにある鉢植えの葉の数よりもずっと多い。
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