1齢
「はい、お待たせしちゃってすみません。今日のお約束でしたのに……。2週間後には必ず……はい、ご迷惑おかけしてすみません」
謝るだけ謝って私は電話を切った。相手は、今請け負っている仕事のクライアントだった。
フリーランスで働いているから時間に融通が利くとはいえ、突然の2週間の仕事の遅延はプロとして致命傷になりかねない。話を聞いてくれるクライアントで良かったと、私は胸をなで下ろす。
とにかく、私は彼の事を忘れてしまわなければ今は仕事も満足にこなせない状態だ。
――忘れなくては……ここに彼との思い出を全部捨てていこう。
私は腰掛けていたベッドから立ち上がり、バルコニーへと続くガラス戸に歩み寄った。
このホテルの売りである「全室オーシャンビュー」の広告通り、視線の先には、青く広大な海が広がっている。
そういえば、1年前に彼と出会ったのも、海辺の街のホテルのラウンジだった。日常から切り離された旅特有の寂寥感、そして高揚感も手伝ってか、彼の方から私に声をかけてくれたのだった。
しばらく海を眺めながら彼との出会いの日に想いを馳せていたら、ふと、頭の中に奇妙な「ゆらぎ」が生じた。彼と見た海辺の風景。水平線に沈む赤い夕日。彼の横顔。声。それらの全てにザラリとした靄がかかり、歪む。まるでテレビ画面がモザイク状に乱れた時のように。
私は思わず振り返った。
明るい木製のローテーブルの上には、深緑色の葉が生い茂る鉢植えと、小さなプラスチックケース。
おそるおそるプラスチックケースの中を覗き込む。
ミヤマオモイデバラの枝。そして、葉の上にくっついた小さな小さな卵。卵は心なしか、さっき見た時よりも少し色が黒っぽくなっていた。
「君が本当に私の記憶を忘れさせてくれるの?」
囁きかけると、返事のつもりなのか、卵の内側で影のようなものがもぞりと動いた……気がした。
「忘れたい記憶」を2週間で本当に消すことができるのか、まだ半信半疑だ。でも、疑おうが信じようが、今はこの1匹の虫に私の命運を賭けるしかない。
私は備え付けの電話機の横のメモ帳を1枚破り取り、傍らのボールペンを走らせた。
次の日の朝の朝食は絶品だった。ほどよく焼けた厚切りのトースト、菜の花のようなスクランブルエッグ、塩味が舌に沁みるオニオンスープ、ミニトマトの赤が瑞々しいサラダ……。シンプルな食事だがどれも美味しくて、ここしばらく食欲の無かった私の胃袋を優しく満たしてくれる。
オフシーズンのためか、朝食会場のレストランには私以外の宿泊客の姿はなかった。廊下でも誰にもすれ違わなかったし、そもそも今日の宿泊客は私ひとりなのかもしれない。
「おはようございます!」
窓の向こうの海をぼんやりと眺めながら食後の珈琲を飲んでいたら、元気な挨拶が聞こえた。いつの間にかカイエダ君がにこにこしながら私の傍らに立っていた。これでも人の気配には敏感なつもりだったから、声をかけられるまで彼に気が付かなかったことに私は自分でも少しびっくりした。自覚しているよりも疲れているのか、それとも、南国風リゾートホテルの開放的な雰囲気に気が緩んでいるのかもしれない。
「ホテルの居心地はどうでしょう? おくつろぎいただけていますか?」
「はい……ぐっすり眠れたし、食事も美味しかったです」
「それは良かった。ワスレナマダラアゲハの様子はどうでしょう? 今日の午前中には孵化するんんじゃないかと思うんですけど」
「それが……今朝はまだちゃんと確認してないんです。昨日も言ったけど、私、虫が苦手で……」
「ははは。大丈夫ですよ。よろしければ僕がお部屋にお伺いして様子を確認しますよ」
私はカイエダ君と一緒に部屋へ戻った。
「ああ、ちょうど孵化したところみたいですね」
プラスチックケースを覗き込んだカイエダ君が嬉しそうに声を上げた。
「卵の殻を食べていますね。生まれた幼虫はまず自分が出てきたばかりの卵の殻を食べるんです」
カイエダ君はケースを持ち上げて私に差し出した。私もおそるおそる覗き込む。生まれたての幼虫は私の爪よりも小さく、深緑色の葉の上にその姿を見つけられるまで5秒ほどの時間がかかった。
黒っぽい斑模様に彩られ、ところどころにピンと伸びた毛が生えている。体をくねらしながら透き通った卵の殻を無心に食べていた。
「卵を食べ終わったら、次はミヤマオモイデバラの葉を食べ始めます。糞も出ますからケースの底にティッシュを敷いておきましょう」
カイエダ君がケースの蓋を開けて、幼虫の付いた枝を取り出す。私は、言われるがままに、ケースの中にティッシュペーパーを敷いた。
「ワスレナマダラアゲハは成長が早いですからね。葉を食べるスピードも早い。葉が少なくなったら、鉢植えの葉を切り取ってケースに入れてください。小さいうちは、若くて柔らかい葉を選んで入れてあげるといいと思います。あ、ハサミはここにあるんで使ってください。何か分からないことがあったら、いつでも呼んでくださいね」
「はい……」
私は戸惑いながらも頷いた。幼虫に罪はないとはいえ、こうしてじっくり見るとやっぱり少しキモチワルイと思ってしまう。できたら触りたくない。本当に私はこの虫を蝶になるまでちゃんと育てあげることができるのだろうか? なんとなく不安な気持ちが頭の中にじんわりと広がる。
カイエダ君は、そんな私に気遣わし気な視線を向け、ふと口を開いた。
「……考えましたか?」
「え?」
「『忘れたい記憶』を……」
「あっ、そうだった。私、こんなにじっくり蝶の幼虫を見るの初めてだったから……つい忘れちゃってました、『忘れたい記憶』。まだ孵化したばっかりなのに、もう忘れちゃうなんて」
私が苦笑すると、カイエダ君は何も言わずににっこりと笑い返してくれた。その笑顔を見ていると、あの人の事を本当に忘れられるような気がしてくるから不思議だ。
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