第28話

ネイビーのチェックシャツにカーキのスラックス、リュックを背負った男子学生が、眼鏡を直しながらワンオペのおばちゃんに話しかけていた。やっと注文が落ち着いてきて、

「ここにシェフなんかいないよ、ただの料理好きのおばちゃんならいるけど。もちろん君のことは覚えてるよ。サバの味噌煮にもっと味噌を足してほしいって言ってた子でしょう」

「正解です。本当はランチはフレンチと決めているのだけど、ここの鯖は鮮度が良いので気に入っております。だけどシェフ?やはりこの味は頂けない。あと大さじ3分の2の味噌があるとこれは完全体になります」

「ごめんね、料理好きなこのおばちゃんは学生さんたちに身体を大事にしてほしいから、薄味にしているのよ。なかには自分で調味料持ってきていろいろ味を加えてる子もいるけどね」

微笑を浮かべながら、おばちゃんがこちらを見てくる。思わず席を立って厨房に向かった。

「おばちゃん、ごめんら!おばちゃんのそんな思いやりにはいつも感謝してるんよ。俺たちのことをいつも一番に思ってくれてるのは伝わってた。けど、俺は究極の味を追求したくて」

「分かってるよ。そこまで食事を楽しんでくれるとおばちゃんも作りがいがあるよ」

「おばちゃん、ありがとう」

おばちゃんの温かい声に、ふいに涙が出そうになった。自分の作った料理に調味料を足されるのは、料理人として許せないことだろう。だからこそ、おばちゃんにバレないように隠れて味を変えていたつもりだったが、既に見破られていたみたいだ。

「作った料理が厨房を出て私の手から離れたら、それはもうお客さんの料理だからね。美味しく食べてくれたらそれが一番いい」

調理鍋を豪快に動かしながらにこやかに答えるおばちゃんは、ずっと母親のようにここの学生たちを見守ってきたのだろう。料理人を目指していた時の、あの熱い何かが、沸々と沸き上がってきた。

「ただし、この厨房にいるまでは、私の料理を出させてもらいますからね。分かった?」

先ほどの眼鏡の学生に向き直って、おばちゃんは言い聞かせるように話す。そうか、おばちゃんにとっては厨房が境界線だったのか。なんとなく分かる気がする。眼鏡の学生は、少し下を向き、考え込んだ後、おばちゃんを見て言った。

「なるほど、そういうことでしたら、こちらも誠意を持ってシェフの味を堪能させていただきます。私もクリエイターなので、創作物への慈愛の感情には理解があるつもりです」

言っていることをよく理解することはできなかったが、どうやらおばちゃんと和解したいようなので安心した。と同時に、先ほどまで重要な話をしていたことを思い出し、席を振り返る。

「話の途中で悪かった、ってあれ」

先ほどまで二人が座っていた場所は、空席になっていた。一瞬の出来事に理解が追い付かない。もしかして、今まで幻を見ていたのだろうか。サスペンス映画のような展開を想像して少し怖くなる。しかし、綺麗に完食されたパフェの器がテーブルに残されているのを見て、先ほどの会話が確かにそこに存在していたことを思い出す。まだまだたくさん話したい事があったんだけどなあ。

 席について、生姜焼きの肉を噛み締める。今日は久々に何も味を加えずに食べてみた。生姜の爽やかさと肉肉しさが、舌にダイレクトに伝わってくる。何度も試行錯誤して、美味しい食べ方を研究してきたが、今日の生姜焼きが今までで一番美味しかった。この生姜焼きは出されたそのままが、完成された味だったんだ。事故に遭う前は、毎回新しい味に出会うのが楽しみで、料理にアレンジを加えていた。だけど事故に遭ってからは、何かを補うように、無理やり料理に味を加えていた気がする。始めから完成されている世界が存在することが怖かったんだ。足りなかったのは料理ではなかった。俺が足りない世界にいるから…。悔しくて涙が出そうになるが、白米を掻きこんでなんとか誤魔化す。

「おばちゃん、やっぱりこの味、俺には出せんわ」

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偶然パラドクス @satomi_jo

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