第4話
ドクターのアパートを出てから、細い路地を何度も曲がりくねって歩く。道にはゴミが散乱し、舗装されている場所もあればガラガラに崩れているところもあるし、土のところもある。それだけ多様な道を進んだ。
身体の痛みに顔をしかめながら、クロさんについて行った。ちなみに、ドクターのアパートは外から見ると朽ちているところがあったり、蔦が伸びていたり、鉄は錆びていたりと幽霊でも出てきそうな雰囲気だった。いつでも捨てられるように、とのことで、安いところを借りているらしい。しかし、アパートの中に置いていた医療器具や服からは貧乏さなど全く感じなかった。高いところでも十分住めるだけの財源はあるだろうことは余裕で想像が出来た。実際、私がアパートを出て行く時にクロさんがドクターに払っていた金額はすごかった。あのボロアパートの家賃とか諸々考えても、あり余るくらいの札束の厚さだったと思う。
前を歩くクロさんは、存在がとても希薄だった。集中していないと、すぐ闇に紛れて消えてしまいそうな、それほど感知するのが難しい存在感だった。足音もしないし。
とにかく必死についていく。
クロさんは、振り向くとかはしないけれど、時々歩幅を小さくしたりとこちらを気遣ってくれているように思えた。もう既に迷惑をかけてしまっているので、邪魔にならないようにこちらも頑張って歩く。道のりは覚えようとしたけれど、似たようなところを何度も曲がって、でも曲がった先はまた別の景色で、頭が混乱して覚えられなかった。でもこれは、覚えられないようにしようというクロさんの意図だと思う。文句はない。あるはずない。クロさんは、命の恩人だ。覚えられないようにしているのは、考えあってのことだろう。
アパートを出る前、ドクターから事の経緯を少し教えてもらった。私を『所有』していたあの人は、クロさんが何とかしてくれた、と。
何とかしてくれた、の部分は詳しく教えてくれなかった。でも、二度と私の前に現れることはないと言っていた。また今度、少しずつ教えてあげるとドクターは言っていた。大体は、想像がつく。そこまで気を遣って貰って、ありがたい気持ちと申し訳なさを感じた。
かなりの距離を歩いたところで、これまた幽霊が出てきそうなアパートについた。
この腐った街は、確かに酷いアパートや家が多い。ドクターのところもそうだがここもなかなかだった。
そうだ、ここは腐った街だった。自分が今までたまたま平穏に暮らせていただけで、誰かがいつも涙を流し、誰かはいつも笑っている。犯罪が横行する腐った街。悪しくか正しくか、恐らくは前者の富裕層が多く住むと同時に、世間では考えられないような極悪人が寄り集まった区画も存在する歪んだ街。しかし、忙しなく金が流れ、そして巡るこの街を、国は排除するわけにはいかなかった。この腐った街は、誰かの人生を糧に莫大な利益を国にもたらしている。あぁ、私自身がこんな目に合うまで、私はこの街を真に理解出来ていなかった。
さて、クロさんとドクターが住んでいる場所は、先述した『極悪人が寄り集まった区画』に該当する場所だ。入り組んだスラム街。だからこんなに酷い道やアパートが多いのだろう。初めて足を踏み入れた。これは確かに、子どもの頃から近付くなと言われるわけだ。空気が、重いというか、まとわりついて気色が悪い。
アパートの端部屋、そのドアの前でクロさんは止まり、ドアの上部にわかりにくく引っ掛かっていた、本当に小さな布を抜き取った。何だろうと思いながら見ていたけれど、クロさんは何も言わずに軋む音を立てながらドアを開けた。勝手な推測だけど、何度も路地を曲がっていたクロさんのことだ。侵入の対策とかなのだろう。
「入れ」
クロさんが、ドクターのアパートを出てから始めて喋った言葉がこれだった。
「はい」
私はすぐに答え、中に入った。
アパートの中は、小さな台所と六畳程の一部屋に押入れ、後はトイレとお風呂で一室ずつだった。
部屋の中には物が殆ど無かった。布団と、小さな机、その上に小さな置き時計だけが置かれていた。
どうしたらいいかわからず、とりあえず部屋の隅で佇んでいた。
お互い全く喋らないので、時計の秒針の音だけが響く。シンとしているのも気まずいが、これはこれで気まずい。
どうしたものかと思っていると、クロさんが話題でもないがポツリと喋ってくれた。
「…好きにしろ」
何かの話題を広げるどころか、話す気すらないようだ。
クロさんは、そう言うと押入れの襖を開いた。中は一畳分の広さで、上下に空間が分かれている。上部分には衣類などが見えた。下部分には…何に使うのかわからない道具が綺麗に並べられていた。
クロさんは、服やタオルを取り出すと私の足下に置いた。クロさん自身の分も取り出して、押入れを閉めた。
しばしの沈黙。
好きにしろと言われても、どう動くのがクロさんにとって都合が良いのかわからなくて相変わらず動けない。すると、クロさんが衣類を持ってお風呂場に向かった。お風呂場の前でクロさんは私の目も気にせず服を脱ぎ始めた。近くの衣類掛けに丁寧にハットやコートを掛けていく。静かに衣擦れの音だけが響いた。
肌が見え始めたあたりで、私はやっとまずいと思考が回りだし、背を向けた。
チラリと見えたクロさんの身体は、とても頑丈そうで鍛え上げられ、そして、古傷だらけだった。
ガラガラとドアの音が鳴って、すぐに水音が聞こえてきた。
ようやく私が振り向くと、覆面も掛けられていることに気付いた。
そう言えば、クロさんはどんな顔をしているのだろうか。
何だか色々な気持ちが悶々として、私はクロさんが用意してくれた服をとりあえず、意味もなく胸の前で広げた。
…大きい。
そりゃそうだ。私よりも背が高くて、胸の厚みだってすごかった。Tシャツに、ちょっと鼻を擦り付けてみる。
…何してるんだ私は。
気持ちはどこか、落ち着かない。
○
何だかじっと服を見ていると、ガラガラと音がした。慌てて背中を向ける。少しの音の後、歩く音とドスっという座る音が近くで聞こえた。
クロさん、ちゃんと自分の動いた時の音出せるんだ。
くるっと振り向くと、そこにはボサボサのそれなりに長い黒髪に、鋭い目つき、少し無精髭の生えた30歳前後の、ほりの深い顔つきの男性がいた。
イケメン、というよりは男前。
顔に大きな傷がいくつかあった。
後、紺色の甚平姿だった。
めちゃくちゃ意外。
少し緩んだ胸元から、しっかりとした体格と筋肉が見える。そして、胸も腕も足も、肌が見えるところには傷跡が無数にある。
痛々しいなとジロジロ見ていると、クロさんは伏目がちになりながら
「お前も入れ」
ガシガシと濡れた頭を掻いてクロさんは言った。
まだ何度かしか聞いていないけれど、確かにさっきまで聞いていたクロさんの声だ。
私は服を抱えて、あとドクターから貰ったパンツも抱えてお風呂場に向かった。
クロさんは、こちらに背を向けて座っている。
こちらを見ていないことはわかっているけれど、それでもドキドキしながら服を脱いで、包帯とかも取ってお風呂に入った。シャワーを浴びようとして、水を出す。私の傷は、どれも深いものではなかったようだ。痛みを与えるのが目的だから、少し切れたりとかしているものが多数。えぐれているところなどは無かったみたい。だけど、傷があまりにも多すぎるために血を流しすぎていたし、新しいものから数日経ってしまっているものまであって、とにかく清潔を保っていないと取り返しのつかないことになる可能性もあるという状態だったらしい。
身体に少しずつお湯をかける。傷に染みて、とても痛い。だけど、シャワーから出るお湯は、何だかとても弱く調整されていた。
○
お風呂を出ようとして、ガラガラと音を立てる。
「おい」
すると、クロさんが背を向けたまま声をかけてきて「傷に、ガーゼや包帯を巻き直す必要がある。部分だけ隠して、一旦来い」と言われた。
とりあえず、パンツを履いて、上は胸の部分だけタオルを巻いた。すごく恥ずかしいけれど、その状態でクロさんの少し後ろに座った。
「振り向くぞ」
「はい」
返事をすると、クロさんが振り向いた。手には既に多くの包帯やガーゼが用意されている箱を持っていた。そのまま、クロさんは黙って、丁寧に消毒などの手当てをしてくれた。消毒は、シャワーよりもさらに傷に染みて痛かった。けれど、クロさんの大きな手からは、優しくしようという気遣いが感じられて少し嬉しかった。
「後は自分でしろ」
背中や足、腕などを手当てしてもらい、デリケートな部分は自分でやった。クロさんのやり方を見ていたので、特に困ることはなかった。
手当てが終わると、クロさんは台所に向かい、塩焼き鳥の缶詰と水鯖の缶詰を二個ずつ、それと未開封の五百ミリペットボトルの水を二本持って、私の前とクロさんの前にそれぞれ一つずつ置いた。
「食え」
クロさんはそれだけ短く言うと、お箸で焼き鳥と鯖を食べ始めた。私もそれに倣う。
焼き鳥は温めもしないし、鯖はもぎゅもぎゅしていて喉に詰まりかけた。
不味くはないけれど、特別美味しくはない。
二人とも会話は一切しなかった。
食べ終わると、缶詰を台所のシンクに重ねて置いた。
「布団で寝ろ」
クロさんの言葉に、私は部屋の隅に置かれている布団一式に目を向けた。綺麗に畳まれて置いてある布団。予備はない。
誰かと一緒に、普通に過ごすことなんて考えてもいなかったんだろうと思う。だから、そういう客用の物が無い。
「クロさんは、どこで寝るのですか」
「雑魚寝だ」
「そんな、クロさんが布団を使ってください」
「さっさと身体を治せ」
クロさんは短くそう答えて、床にごろんと転がった。
私に拒否権は無い。クロさんに言い縋ってもきっと意見は変えないだろう。
私は「ありがとうございます」とだけ答えて布団を敷き、寝っ転がった。目を閉じると、余程疲れていたのかすぐに寝入ってしまった。
あの地獄から、抜け出せたんだろうという気持ちも大きかった。
○
夜明けはまもなくという頃、少女は寝入った。
寝入ったのを確認して、男は体を起こした。
少しの間、男は少女を見ていた。
突然地獄に叩き落とされた少女。男は、ある事件をきっかけに裏の世界という地獄へと自ら入り込んだ。
予期せぬ絶望を突然与えられたという境遇は同じだが、地獄への歩み方は別だ。
こんな少女が、強制的に地獄に叩き落とされたのは悲運としか言いようがない。
出来れば、元の生活か、もしくは少しでもマシな生活を送ってほしい。
男は、これからも地獄を歩き続ける。地獄を見る。時には、自分が地獄を作り出す。だから、ドクターの言っていた弟子のことなど絶対に認められなかった。
この少女を巻き込むのは嫌だった。
物思いに耽っていると、少女が荒い息をし始めた。
暑いのかと思ったが、それとは少し様子が違う。
無理もない。情報通りの標的の仕打ちを数日も受けたならば、抜け出せた今日くらいは夢に見るか。
男は冷たい水にタオルを浸し、強く絞って、冷えたタオルを少女の額に乗せてあげた。
そして頬に指を優しく当て、大丈夫だ、と小声で呟いた。
その言葉が届いたのか、少女の息は段々と落ち着き、やがて穏やかな寝息に戻った。
男は小さくため息を吐いた。
「まいったな」
男は暗い部屋の中で、少女の顔を哀しげに見つめていた。
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