太陽のアイスバイン (extended version)

西野ゆう

第1話 死神の手

「金はいくらでも払う。頼むから殺してくれ」

 通常組織を通じて依頼される仕事。それを誰から聞いたというのか、目の前の骨ばった男は、私にすがりつくように懇願してきた。だが実際は彼の上半身は微動だにしない。すがりつくのは視線だけ。僅かに動く眼球と瞳孔が私を捉える。

「お金は」

 私は言い淀んだ。この目の前の男が組織に対してこれから私がすることを告げることはできないはずだ。

 組織で定められた金額。それを正直に話す必要はどこにもない。

「お金は、いくらでも払うと?」

 私が聞くと、男は三十度ほど上半身側を上げたベッドに横たわったまま、視線を自分のスマートフォンに向けた。

「あれを」

 男が何をしようとしているのか。私には分かっていた。その端末から金を振り込むつもりだ。

「報酬は現金でしか受け取っていません」

 私が言うと、男は声を荒げた。

「俺に現金が下せるはずがないだろう!」

 声帯を震わせる声よりも、硬化して締まりにくくなった声帯の間をすり抜ける風音の方が大きくなっている声で。

 怒りはもっともだ。しかし、私は男を怒らせるつもりなど毛頭ない。

「しかしですね、ネットでは振り込みができる限度額も限られているでしょう?」

「十万ユーロでは足りんのか」

 男は心底残念がって溢した。

「十万、振り込める?」

 私の使っている銀行では、限度額は日本円で百万円までだった。いや、確かに限度額は自分である程度設定できたはずだ。

 十万ユーロ。一千五百万円。

 私は彼の視線の先にあった端末を手に取り、画面を彼の顔に向けた。

「ありがとう。本当に、ありがとう」

 感謝されればされるほど、私の心は漆黒に染まる。

 私は彼に代わり、自分の口座に十万ユーロを振り込んだ。


「容体が急変いたしましたので、緊急で手術を行いました。事後にはなりますが、ご家族の方の同意確認の署名をこちらに」

 今年になって三度目の同じセリフ。それを口にしながら、黒いクリップボードに挟まれた一枚の紙を遺族に手渡す。

「長い間お世話になりました」

「いいえ。お力になれず申し訳ございません」

「父は、もう充分に生きましたし、苦しみましたから」

 充分に生き、充分に苦しんだ。それは亡くなった本人にしか語ることが許されない言葉だろうと思う。だが、確かに彼は苦しんでいたし、充分に生きたと話していた。だからこそ私は私の仕事をした。本来望んでいた仕事とは真逆の仕事を。

 医師になって八年。

 ただ祖父が日本でトップクラスの規模である医療法人の代表であり、ただ父親がその病院の外科部長であるという理由で「勉強のため」に渡ってきたベルリン。

 私にとって医師という仕事は確かに誇りではあるし、やりがいにも溢れている。驕り過ぎぬよう心のくさびを時折打ち付け直しながら、この道を進んできたはずだ。

「あの、シュミットさん」

「はい、なんでしょうか」

 遺族を呼び止めておきながら、次に紡ぐべき言葉は出てこない。顔もまともに見られない。シュミットさんの息子夫婦と、その後ろに隠れるように立つ少女の足元に向けて視線を落としたままで動かせない。信じてもいない神から罰を受けそうで怖くなる。

「いえ、何でもありません。お気を落とさずに気を付けてお帰り下さい」

 私の心のこもっていない言葉に、遺族は特に返事をするでもなく私の前から去った。

「申し訳ございませんでした。生きながらえたかもしれないのに、私が彼を殺しました。おそらくお金のために。私欲のために」

 心の中で謝罪する。何度も、何度も。


 死を選択する権利。

 尊厳そんげん死。

 安楽あんらく死。

 日本では医師の道を歩むうえで議論することさえタブーだ。誰もが目を逸らす。考えることをしない。思考することを避ける。

 医師による自殺ほう助。

 この国の考え方は日本より進んでいる。

 人々が真剣に議論している。だが、隣国スイスの様にはまだ正式に認められてはいない。

 その是非の入り混じった状況の中で、私と、その仲間たちの間ではビジネスとして自殺幇助を行っていた。

 私が所属している通称「死神の手」と呼ばれる組織は、病院の垣根を越えて十二人の医師で構成されている。所属といっても、互いに干渉はしない。ただルールを定め、「死」の価格を決定し、万が一このビジネスが明るみに出た時の処理を行うための組織。その組織を纏める者の存在は誰も知らない。呼び名さえない。

 その見えない存在が、私に恐怖を与えた。もしも今回のことが知れればどうなるのか。

 もしも今回のことが知られればどうなるのか。

組織を介さずに、私欲のために勝手な仕事をしたと知られればどうなるのか。

「いっそ死神の鎌で私の首をねてよ」

 病床にあったシュミットさんと私の願いとでは、言葉を同じくしても別の種類のものだ。動機が違う。

 彼は生きた褒美としての「安らかな死」を求め、私は罰としての「苦役を強いられぬ死」を求めている。私はあまりに身勝手だと自嘲し、両手で自分の頬を挟むように打ち付けた。

 その頬の痛みは、私が地獄の道に落ちた日を思い出させる。


 私が「死神の手」に加わったのはひとりの男が原因だったが、それはもしかしたらあの目に見えない存在に用意されていた道だったのかもしれないと、今にしてみれば思えて仕方がない。

「ココロは日本人だったね」

「ええ。トビアスは日本には行ったことあるの?」

 ベッドの中でひと通りのコトを済ませた後に互いを知るなど、古い人間なら「順序が逆だ」と言いそうだし、若い人間なら「食っちゃった後に聞いたんだけど」と自慢しそうだ。私はそのどちらでもない。

「ある。沢山抱いたよ。ココロのようによがる女をね」

 嘘だとわかる嘘を吐いて、オトコという生き物は何が楽しいのだろうか。

「でも、君ほど口が上手な女はいなかったね」

 ベッドに座り、トビアスによって留め具だけ外され肩にぶら下がったままだったブラを、再び着衣として働かせていると、トビアスが私の頭を掴んでせがんだ。

「嘘よ。私はそんなに上手じゃない」

 上手じゃない。そして、好きでもない。ただでさえ好きではないのに、なぜ散々突かれて自分の体液で濡れたモノをくわえなくてはならないのか。

 私はつい、ひと仕事終えて萎んだ彼のソレを軽く噛んでしまった。

「くそっ!」

 さっきは甘えるように私の頭を掴んでいたトビアスの手が、硬い凶器となって私の頬を打った。

「カネタカの娘だからって調子に乗りやがって!」

 殺される。私はそう思った。

 そう思った時の人間の行動にはそれほど多くの種類はない。

 逃げるか、詫びるか。或いは私の様に相手を殺すか。

 せめてその場で殺していれば、正当防衛も認められたであろう。しかし私は、一旦その場を偽の謝罪の言葉と、彼が望む口の使い方で逃れた後に、医師としての知識を使いトビアスを殺した。

 私は自分で気付いていた。執刀医として忙殺されていたこの頃には、もう手遅れになるほど壊れていたと。多くの死と向かい合ってそうなったのか、女であることを突きつけられることに疲れたのか、それは分からない。

 私はゆっくりとトビアスの命が剥がされていくのを見ていた。そして、完全に彼がただの動かぬ組織の塊となったのを見届けて部屋を去った。

 その数時間後、勤務時間を過ぎても連絡がない彼の部屋を訪れた上司により、思っていたよりも早く彼は病院に運ばれた。

 この時に私は一度終わりを覚悟した。

 だが、彼が運び込まれた病院の検案書により、警察は病死と判断した。

 ありえない。私はそう思った。彼の遺体の発見が死後七十二時間も経っていれば、急性心不全と判断するしかなかっただろう。しかし、半日も経たずに検視を行えば、必ず血中から私が投与した物質が検出されるはずだ。

 そして私が思っていた通り、その検案書を作成した医師は見抜いていた。その上で私の腕を買われた。強引に。

「兼高こころ。君が殺人者になったと知ったら、ご家族は悲しむだろうね。それだけで済めばいいが、世間は怖い。法以上にね」

 突然流暢に話された日本語に、私の身体は一瞬で鳥肌に覆われた。間接的な脅迫を受けたことにそれほど驚きはしなかったが、相手の素性は気になった。だが、それを訊いてはならないと私の心は叫んでいる。

「うむ、察しがいい人間は好きだね。節約できた時間で酒が飲める」

 私はこの時勘違いしていた。自惚れていたのかも知れない。「日本人の女を抱いた」というだけでステータスになる場所だ。相手は私以上に察し良く、私の瞳の奥で動いた女の揺らぎを見抜き苦笑している。

「君は医者だろう? それも我々にとって『良い仕事』をしてくれる医者だ」

「良い仕事、ですか?」

 私の目の前にいる男と私との接点はトビアスの件だけのはず。つまり「良い仕事」とは「殺人」のことに違いない。

「私は誰も殺したくありません」

 そういうと、男はまた笑った。さっきの笑いよりも苦味は減っている。

「君の想像は半分、いや、四分の一は正解と言ったところか。いや、解釈によっては完全な不正解だな」

「どういうことでしょう?」

 私はもう思考することに疲れていた。不毛だからだ。どう予測しても、心の準備をしても、この男の要求を飲むしかない。

「我々はね、患者とその家族の権利を守りたいと思っているのだよ。死を選ぶ権利をね」

「自殺幇助?」

「分かりやすく言えばそうなる」

「でもドイツではまだ」

 言ってから自分で馬鹿な発言だったと苦笑した。だからこそ犯罪者、殺人者である私なのだ。

 もしもあの時私が悪魔の誘惑に負けず、罪を認めていれば、私の手はここまで血に染まってはいなかっただろう。もっと単純な人生の終わりを迎えていたはずだ。それでもなぜか私はそのまま生きることを選んだ。地獄の道を歩き続けることになっても。

「そう難しく考える必要はない。死を選ぶ権利を行使する者の手助けをするだけだよ。当然報酬は払う」

 もちろん平時の私であれば、そんな甘い考えで人の命を操る何者かに自分が成ることなどなかった。

 確かにいくつかの国ではそういった権利も人権のひとつとして認められている。このドイツでも死を選ぶ権利が認められそうな気配もある。

 確定バイアス。私の行動を見てそういう言葉を使う者も多いだろう。自分自身でもそう自覚しているのだから間違いないはずだ。

 自分の行動を正当化しようとしているということは、自分の行動が間違えていると自覚しているのと同意だ。

 それでも私に選択肢はなかった。

「そうです、よね。患者家族も望んでいれば特に」

 生命維持装置に繋げられ、医療費だけを飲み込んでいく回復の見込みがない家族。器を満たしていた愛情が空になりかけたとき、最後の愛情を死への導きに消費する。

 涙が流れるうちに家族を亡くした方が幸せだろう。「やっと死んでくてた」なんていう言葉は聞きたくない。

「では、今この時から、君も『死神の手』の一員だ」

「死神の手、ですか。なんだか」

「嫌な名前かね? 正直我々もそう思っているが、変更は許されそうにないのでね」

 私は目の前の男が、その「死神の手」のリーダーか何かだと思っていたが、どうやら違うらしい。彼もただの一員なのだ。


 私を「死神の手」に引き入れた男とはあれ以来一度も会っていない。だが、今もあのトビアスが運ばれた病院で仕事をしているに違いなかった。

 今私を縛り付けているのは、ふたつ。

 ひとつ目は「死神の手」という組織の上に立つ者の存在。

 ふたつ目は、患者が死の選択をすることが許され、医師による自殺幇助が認められた時、私の罪が消えてしまうという私の中に棲み続ける恐怖。

 私は罪人だ。身勝手な罪人だ。

 罪が赦される恐怖と、赦される前に罰せられる恐怖に怯えている。

 同時に、その全てが赦されたとき、私が私ではなくなる気がしていた。それこそ、本物の「死神の手」そのものになってしまう気が。

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