聖アントワーヌの誘惑(1946)
電車は行く。定刻通りに運行し一分でも遅れれば謝罪がある、そんなきっちりした世界に、血管のように張り巡って人々を運んでいる。
線路に白い、それも怒れる馬が代わりに侵入してきたとき、鉄の車両がやってくると思っていた日本人たちは恐れおののいた。
その白い馬は場違いでこそあったが、驚くことに、何も壊しはしなかった。踏まれた線路はへこみもきしみもしない。あの鉄の車両は繰り返しやってくるとき、少なくとも音はある。それは視界を圧倒しながら、どこか白昼夢じみていた。
人々はお互いの反応を伺って、すぐにそれが自分にだけ見えている幻覚などではないと察した。カメラに映るのかを確かめる人々も、関節のねじれた蹄がホームに、上がろうとし始めると、さすがに押し合い、時には前の人を踏み越えながら、「やばい」を口から吐いて一目散である。
世界が終わるはじまりというものは、そんなものだった。
改札を乗り越えた運の良い人が見たものがある。それは足が棒のように長い象で、身の丈は鉄橋ほどもあった。かろうじて象と分かった理由は、あの特徴的な鼻や耳をぶら下げていたおかげだ。
白い象、黒い象、それぞれは背に金のモニュメントを乗せて、電信柱ほどの四つ足で街を練り歩く。
それらは地面を平らにならしたりはしなかったが、もはや今日以降のこの世界が、少なくとも日本が、さらに限定するなら東京が、もう昨日とは違うことを人々の頭に刻み付けるに十分だった。
スカイツリーに勤めるAは見た。不完全燃焼の黒い煙のような暗雲が空に立ち込め、小さなシャボン玉ほどの雨粒が落ちてくるところだ。しかしそれは地上に落ちるかわりに四本の足を生やし、建物の屋根を踏んで歩いていく。
テレビ、ラジオの電波に乗った、黒子のような衣装に身を包んだ男が言った。
「神を讃えよ」
そして腕ほどの大きさの十字架をかかげる。
「いっさいの娯楽を禁じよ。さすれば万物、自然のたまものたる動物たちも、お前を許すだろう」
それは聖書を迷路のように曲解し、ある解釈に行きついた集団によるテロだった。信仰をうながし審判の日に国民を救うために悪魔たちと契約し、自らの魂を犠牲にしてでも大勢を救う善に酔ったのだ。
しかし彼らにも誤算はあった。それは騒動が起きて数日のこと、他国が示し合わせて日本にミサイルを打ったことだ。悪魔に幻覚を見せられている哀れな国民を瓦礫に潰し、日本を巨大な滑走路にするためだった。彼らはあとで日本の領土を分けていただく腹積もりである。
数発なら迎撃できるものでも、こう大量に打ち込まれては防ぎようがない。かくして日本は、大勢のテロ集団ごと平らになった。
あのAは、幸運といおうか、不運といおうか、とにかく生き残った。体を打ちつけ、転がされるたびに服は破れ、裸一貫である。彼は最悪の状況に十字架を掲げ、もはやぼうぼうになったくせ毛のヒゲが、風通しのよさでなびく。
そして黒子の男の仲間も、幾人かは命があることをまだ許されていた。悪魔との契約は彼らの命と共に生きているから、誰も幻惑から逃れられない。そして彼らもまた、十字架を掲げ、大多数が消失したこの場所で、声の限りに叫び続けている。
「審判の日がやってきたのだ!」
その声は誰に向けられているのか、おそらく本人たちですら知るところではない。
おしまい。
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