63
「私が出ましょうか?」
何でもないようにいつものように申し出るので、目雲は似合わないぽかんとした表情をした。
「ゆきさんがですか?」
ゆきは選択肢の一つとして提示しただけで、どうしても出たいわけでもなければ言いたいことがあるわけでもない。
ただスマホの画面を見た時に一瞬で曇るその表情があまりにせつなくて、胸のうちだけでそのほの暗い感情を抱えて欲しくなかったから、逃げる道くらいのつもりだった。
「目雲さん自身が何で掛けてきたのか気になりませんか? 体調が良い時に話をするのが一番だとは思いますが、今下り坂の入り口ですよね? 夏まで放置できればいいですけど、何度か掛かってきたり、ご兄弟から話が来たり、そもそもどんな内容か気になると、心が陰ったようになる気がします。それだと元気になるのにさらに時間が掛かるようになります。私に話せない内容であることも大いにありますので、様子見くらいの感じですけど」
ゆきの声で目雲は少し冷静になれた。
兄弟からも掛かってこないということは身内の不幸ではないと分かる。そうなればいつものことだと考え直すのはすぐだ。それだって嬉しくはないが、激しく落ち込む必要はないと気持ちを持ち直せる。
「内容は母を許してやってほしいと言ってくるのに違いありません。今までも何度もありましたから」
スマホをラグの上に置いて一先ず無視することにした目雲は、箸を持ち食事を再開させる。
ゆきもそれに倣いながら、敢えて話を続ける。
「お正月から何度か掛かって来てたんですか?」
「いえ、あれからはないですが」
その間にスマホは動かなくなるが、颯天の時の様に何度も掛けてくるようなことはなかった。
「半年の沈黙を破ってきたんですね。ご兄弟からは?」
ゆきが聞けば目雲は表情を変えることはなく答える。
「あの後のことは少し聞きましたが、適当に解散して終わったと。それからもあの二人はたまに電話をかけてきますが、現状報告程度で、今まで通りです」
ただ視線がゆきに向くことがないことでやはり普段とは違うと分かってしまう。
その自覚があるのかどうかはゆきには知り得なかったが、落ち着きを装ってるのならばそれでも良いからゆきは今は放置するべきではないと、相手が目雲だからこそゆきも普段になく探っていく。
「わざわざ半年放っておいてたのには訳がありそうですか?」
「それは、分かりません。母が今更変わることはないと思いますので、ほとぼりが冷めるのを待っていたということくらいしか」
「目雲さんのほとぼりはそんな簡単に冷めるものではないとご両親なら分かっていそうですけど」
「分かっているとは思いますが……ゆきさん?」
ゆきは怒らせることも、怒られることも覚悟の上だったが、目雲の瞳がいつも通りなことに自覚がなく微笑んでしまっていたせいで、目雲が首を傾げる。
「いえ、この前にみたいに怒ったりしないのは、私に関係が及ばないところだからとは分かっているんですが、落ち着いて話ができているのでなんだかほっとして」
「別に逆鱗ではないですよ」
目雲の方が安心させるように口角を少し上げるので、ゆきは簡単な解決策を言ってみることにした。
「お母様に私が何か言われなければ、目雲さんも何も思わないということでしょうか?」
「……そうですね」
「では、私は二度とご両親には会わないようにしましょうか?」
いつもデートの内容を提案するようで、ゆきに深刻さもなければ、こんな事も出来ますよと選んでも選ばなくても良いと分かる軽やかな口調だっただった。
だから目雲は一瞬ではその内容を理解できなかった。
「え?」
「目雲さんだけなら少しは交流できるというのなら、それでいい気がします」
ゆきは今の目雲が穏やかに暮らせることが何より大切だと思っているわけではない。できるだけそうであることを願うが、何よりも大切なのは目雲が納得することで、波風が立とうとも目雲がそれで良いと心から思えるなら、きっとそれは負荷にはならないと思っている。
納得できない、理解しがたい。それが目雲には一番のストレスなのではないか。
いくら考えてもわからないことが一つでも減るならば、ゆきには何も難しくない。
「ゆきさんはそれでいいんですか?」
困惑を滲ませる目雲にゆきはいつも通り笑顔だ。
「目雲さんを苦しめてまでとは思いません」
きっぱりはっきり目雲を見つめた。
「ゆきさん」
どこか痛ましそうな表情を目雲が浮かべたので、ゆきはこれは最初に選ぶべき案ではないのだなと感じ取る。
「でも、それだと私との交際そのものを反対される可能性もあるかもしれませんね。酷い女と付き合ってるって、別れるように助言されるとそれはそれで負担ですか?」
「ゆきさんを貶めるようなことを言うならそれこそ絶縁です」
今度は目雲の方がはっきりと言い切ったが、ゆきには目雲が今までその道を選べなかったからこそ今があると汲み取れる。
「でも目雲さんこそ本当にそれでいいですか?」
「それは」
目雲が躊躇いを見せることが想定内なのは、ゆきを完全に両親から離さなかったことからも分かっていた。
「本当にはあんまり良くないですよね。だからお正月私を連れて行ったんですよね」
「母が何も言わないと言うからです」
「変わらないと分かっていても変わってほしいと思っているんですよね」
俯く目雲の中にこれまで何度も廻ってきた感情があり、それがストレスの元凶で、そしてそれらから解放される方法は見つけ出せないとまた深くに落ちていきそうになっていた。
けれど、それを見て取っていたはずのゆきはにこりと笑った。
「目雲さん、私は目雲さんがどうにか仲良くできないかと模索してるなら、あのお母様なら大丈夫だと思うんです」
明るい声に目雲は顔を上げる。
「ゆきさん……」
迷子の様に不安げな表情を見てもゆきは動じなかった。
ゆきは大丈夫だと思う根拠を述べる。
「一度しか会っていないので絶対の確信を持って言えないんですが、巷で言われる毒親に類する人ではないと私は今のところ感じてます。だから目雲さんにも距離を置くことを推奨しなくてもいいかなと思ってます。親子だから必ず仲良しというのは悲しいけれど幻想な部分もありますから、会わない方が幸せな暮らしが送れることもありますけど、ああやってお正月にご家族が集まっている雰囲気ならそこまでではないかなというのが、今のところの私の印象です」
あくまでも今のところと繰り返すことが目雲にとっての将来の逃げ道になるとお互い分かっていた、試行錯誤したのち諦める道もきちんと残しておくことが立ち向かう勇気になる。
「ゆきさんは、僕が完全に母を諦めるまで付き合うと言ってくれてるんですか?」
ゆきは肯定も否定もしなかった。
「目雲さんがお母様を諦める結末になるか、はたまた不可能と思われたお母様が変わるか、それとも全く違う継続する物語になるかは、今後次第ですけど、確かなのは私は目雲さん側に付いているということです」
目雲はいつの間にか伏せて床に置いたスマホに手を置いていた。それを持ち上げ手の中の画面が暗いままのスマホをじっと見つめる。
「掛けます」
「辛くないですか?」
間接的に話を聞く方法は他にもある。それこそ兄弟のどちらかに聞いてもらえば良いのだから、今すぐ直接でなくてもと、ゆきがそこで背中を押すことはしなかったが、目雲の決意の方が強かった。
「ゆきさんが言った通り、どうして掛けてきたのか気になりますから、話くらいは聞いてみます」
その場で電話をした結果、目雲は父の泰三と会って話すことになった。
「少し横になっても良いですか?」
要件は想像通りで、目雲の父もこれまで電話では埒が明かないと分かっていて、会ってゆっくり話したいという。だから数日後に会う約束だけした。
ただそれだけの数分の電話で目雲の消耗は激しかった。
横で成り行きを見守っていたゆきは柔らかく頷く。
「もちろんです」
「すみません、父親に電話掛けたくらいで」
ベッドで横なる目雲に、ゆきがそっと布団を掛ける。
「説得したのは私ですから、謝るのは私の方ではないですか?」
「いえ、決めたのは僕ですから。だからこそ、情けないです」
無理やり深呼吸を繰り返す目雲を、ベッドの脇に座り込んで見つめるゆきは少しくらい何かできないかと考える。
「目雲さん、手を貸してもらっても良いですか?」
「はい」
力ない返事と共に布団の隙間から伸ばされた手をゆきは両手で包んだ。
「ゆきさん?」
「私、目雲さんに手を繋いでもらった日は良いことがあったなって思うんです」
思いもよらない告白に、その繋がれた体温と共に心に熱が灯る。
「そうだったんですか?」
「その瞬間ももちろん嬉しいですけど、夜寝る前とか良いことあったなって思い出すんです。だからというのは厚かましいですけど、少しお裾分け出来たらなと」
お裾分け、と言うから、目雲はこうするだけでもうゆきは喜んでくれているのだと分かる。
そっと優しく包まれる自分の左手をじっと見つめ、少し力を籠める。そうすると乗せているゆきの手がまた優しく撫でてくれる。
この手は離れていかないのだと、目雲は思うことができた。
さっきゆきはずっと味方だと教えてくれた、その通りだと、こんな風に感じることができるんだと、今までの胸の苦しみとは全く違う熱さを感じて、視界が滲む。
ゆきが握るその手に額を寄せる。
目雲はたとえ闇に追われ飲まれても、一人で抗わなくて良くなったのだと、とても大きなことを知った。
「すごく、良い日です」
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