62

 翌週の土曜日、午後三時過ぎ。

 午前中友人と予定のあったゆきはこの日は目雲と会う約束はしていなかったけれど前日、目雲からの電話で珍しく急に予定の変更をして会うことになった。

何かトラブルでもあっただろうかと、少しばかり暗かった声で心配していた。


 ゆきの予定が終わったら目雲に車で迎えに行くからと言われて街なかで待ち合わせをして、その後そのまま誘われて目雲の家に来ていた。


 ソファーの座面を背もたれに座るゆきは、その定位置になりつつある場所に導いた目雲が茶を準備すると言ってキッチン経つその背中に話しかける。


「今日はお仕事午前中だけだったんですね」


 今日の目雲は白いチノパンに紺の長袖シャツ姿で、今はその袖を巻くって作業している。


「いえ、家に居ました」


 特別な予定を入れていない週末は、概ねその週の始め辺りに予定の確認をすることも定例になっていて、月曜日の晩にゆきが聞いた時に、土曜日目雲は仕事だと言っていたと記憶していたので首を捻った。


「あれ、お仕事なのは明日でしたっけ?」

「明日も休みにしています」

「土日ともお休みなんて珍しいですね」


 仕事にゆとりが持てるようになった今でも目雲は大抵打ち合わせがあり週末はどちらか必ず仕事のことがほとんどだから、ゆきがそう言うと、マグカップを持ってきた目雲は珍しくゆきと目を合わせなかった。


「そうですね」


 そして、ゆきは自分のカップと目雲のカップに入っている物の色に違いを見て勘づいた。


「目雲さん、もしかして体調崩してますか?」

「……少し」

「どれくらいですか?」

「少し頭痛がしたくらいです。昨日の夜薬も飲んで今日の午前中も横になっていたので、今は大丈夫です」


 今度はしっかり目を見て言うので、確かに今の目雲の雰囲気からは普段と違う様子は伺えなかった。


「もうすぐ梅雨ですもんね。これくらいから体調不良の日が増えてくるんですよね? 去年宮前さんが教えてくれました」


 あの時は自分には何をどうすることもできない状態だったなと、全く違う立場にいられる今は近くで心配できるだけで不安が違う。


「今年は遅い方です。だるさや頭痛が多くなって、薬を飲む回数が増えたりします」


 平気そうに見えてもゆきにはそれが強がりなのかどうかは分からないので、確認せずにはいられない。


「今はお話したりするのは辛くないですか?」

「大丈夫です、走れと言われたら難しいかもしれませんが」

「そんな鬼じゃないですよ。それにそんな時は迎えに来てくれなくてもいいんですよ、ちゃんと目雲さんのお家に一人でも来られますから」


 元気な人にもそんなことは言わないと思いながら、ゆきは迎えに来させてしまったことを後悔する。


「早く会いたかったんです」


 茶化す雰囲気でもなく目雲がただまっすぐに伝えるから、ゆきは上手く説得を続けることができなくなる。


「……ありがとうございます」

「無理をすることはないので、もし体が辛いときは正直に話します」


 それにしては口を噤みたそうしていたと思う。


「さっき誤魔化そうとしてませんでしたか?」

「ゆきさんを誤魔化せるとは思っていません、ただ心配させたくなかったのでどう切り出そうか迷ったんです。それに昨日言わなかったのは、声を聴きたくて電話を掛けただけで、迎えに行けない自己分析もできてましたし、夜道をゆきさんを歩かせて呼び出すのも嫌だったからです。会いたい気持ちも我が儘だとは思いましたが、そこは強がっても意味がない気がしたので素直にお願いさせてもらいました」


 そこまで言われてゆきはもう何も問いつめることはなくなってしまった。


「切り返しが上手ですね、それくらい話せるなら心配いらないと安心できます」

「安心してください」


 どうやら本当にやせ我慢やはぐらかそうとしているわけではないと分かり、ゆきはこの後のことを考えることにした。


「じゃあ晩御飯はどうしましょうか」

「僕が作りますよ」


 いつも通りならばそうなるだろうと思っていたが、せっかくならしっかり休んでもらいたいゆきはそれには頷かなかった。


「こういう時は楽をしましょう。目雲さんが料理するのが好きなのは分かってますが、楽しいことは元気な時にしてこそより楽しめるものです。それにいつもと違うことをするのがいい気分転換になってストレスの緩和になるかもしれません」


 目雲の体調不良は心理的なことも発端の一つだと教えてもらっていたからこそ、そんな提案をする。


「気分転換ですか」

「あ、でも過剰なことをすると逆に負担になるので、ほんのちょっと違うことがいいですよ。だから今日はデリバリーでも頼みましょう。いつも食べないような料理とか面白いですよ。味の好みは外すかもしれませんけど、私はなんでも大体平気なので、王道なのと冒険するのと選びましょう」


 ゆきが作るというのも頭を過らないでもなかったが、自分の家ならまだしも目雲の家では結局目雲に物の場所を聞いたりしなければないので、それならばいっそ二人でのんびり過ごした方が目雲にはリラックスしやすいはずだと思ったのだ。


 それに目雲も嫌がりはしなかった。


「確かに楽しそうですね」

「でも流石にまだ夕飯には早いですね、目雲さんは横になってた方が楽ならそうしてください。私も適当に過ごしますよ」

「本読みますか?」

「今日はスマホで映画観ます」


 ゆきから初めて聞いた言葉に、目を瞬かせた。


「映画もお好きなんですか?」


 ゆきがこれまで映画を観に行こうと言ったことは一度もなかったので、目雲には至極意外だった。


「好きです。圧倒的に本を読む量の方が多いですけど、映像化するとどうなるのかとか、あとは仕事のためにも流行物は観ておきたいですし。字幕とか吹き替えものだと三回くらい観ないと気が済まなかったりするので、配信されてるといろいろ私には好都合だったりします」

「どう翻訳されてるか気になるんですね」


 ゆきのそういう部分は大分わかるようになってきた目雲だ。


「気になります、字幕と吹き替えでも違うし、ある程度聞き取りもできるんですけど配信だと英語の字幕でも観たりとかして、いろいろ。あと映画館に行くことも好きですよ」

「今度行きましょうか」

「映画観ます?」


 ゆきとしても、これまでいろいろと目雲にデートの提案をしてきたが、映画だけは敢えて外していた。趣味がないと言う目雲の好みが分からないので、二時間じっと座らせるのは退屈が過ぎるかもしれないことと、これまたゆきが雑食過ぎるので、平日外出ついでに一人でふらりと映画館に寄ってその時観られるものを観るという日常が当たり前なので、無理してもらうものでもなかったからだ。


 目雲もこれまでゆきが言い出さなかったのは、自分が興味がなさそうだからなのだと理解した。


「隼二郎が誘ってくるのでたまに」


 ゆきは笑みが深くなってしまう。


「それはあまり好きではないって言ってることになりませんか?」

「嫌いでもないですよ、読書と一緒で時間がないんです」


 その時間があるなら他のことをしたいというのはやはり興味が薄いのだと分かる。そうゆきは思いはしたが、それでも観に行くならどんなものなのか興味があった。


「ちなみにどんなジャンルですか?」

「隼二郎はホラーが好きですね、ゆきさんはホラーも大丈夫ですか?」

「私はなんでも大丈夫ですよ、凄まじい血みどろでも平気で観ますから。本と一緒でどんものでも楽しめます」

「そういえば、ここでも建築史の本を読んでましたね」


 言われてハッとしたゆきは目雲に頭を下げた。


「……すみません。お仕事のものには手を触れないようにしてたんですけど、つい欲望に負けてしまいました」

「怒ってないですから、何を手に取ってもらっても大丈夫ですよ。ただ珍しいなと思って、どうしてなのか気になっていたので。仕事のものだと思って気を使ってくれてたんですね」

「しかも読みながらお酒飲んでましたよね。普段自分の本以外であんなことしませんから、ちょっともうあの時は本当にどうかしてたんです、酔ってたからどうかしてるんですけど、それ以上にどうかしてました、本当にすみません」


 借りた本を読むときは汚すようなことがないように、注意を払うのは当然なことであったが、さらにゆきは酒を飲むときはもう何度も読んだお気に入りの本に浸るのが好きだった。お気に入りも日に日に増えるからそれを選ぶのも楽しみの一つになっている。

 だからこそ、あの時本を好きに呼んでいいと言われても、違うことをすれば良かったのに、気になっていたのに他で見かけない本だったからつい手に取ってしまっていた。


「いえ、こちらこそ、なんだか蒸し返すようなことになってしまって、そんなに気にしてませんから」

「もう二度としませんから」


 罪を犯したかのように謝るゆきに目雲の方が心苦しくなってしまう。


「大丈夫ですよ、僕の本ですから、何が起こっても大丈夫なので気にしないでこれからも読んでください」

「気を付けます」


 ひたすら反省するゆきに目雲は話題を変えた。


「映画観ましょうか、僕のタブレット使ってください。一緒に観ましょう。丁度いいので、僕もなにかサブスク契約しますから、何がいいですか?」


 お互いテレビのない暮らしをしているので、ゆきは家のパソコンで観ることがほとんどだがスマホにもアプリを入れている。目雲に至ってはそもそもエンタメに興味が薄いのでノートパソコンもタブレットも持っているが何一つ関連のものはなかった。


 まずはどの動画配信サービスにするかから二人で検討を始めた。

 そのまま目雲が契約をすませ、最新の話題作を二人で観る。

 ゆきは完全に集中していたが、目雲は内容を追いながらもゆきの様子を伺ったり、サイズのあるテレビを買って観るのもいいなと違うことも考えていた。

 映画を一本しっかりと見終わるとちょうど夕飯に良い時間だったので、言っていた通り知らない店からのデリバリーを頼み、感想を言い合う。


 そんな風に過ごして目雲はゆきと出会えたことも、我が儘を承知で家に呼んだことも、心の底から良かったと思う。体の重たさや頭痛を感じても薬を飲んで横になっていれば以前のような重苦しい気持ちになることがなくなっているのも、それでもそんな時一人でいるとネガティブな思考に引っ張られていくところを、ゆきはそんなこと知らないはずなのに、次々面白そうなことを提案して落ち込む隙を与えない。


 ただそんな時にいつも目雲を暗闇に引きずり込むようなことは起こる。

 なんとか立ち直りそうになるといつもそうだったように、目雲のスマホが着信を知らせた。

 その画面を確認した目雲の表情があからさまに歪むのでゆきも首を傾げる。

 そんなゆきを見て、理由を言葉にする。


「ストレスの原因の一部です」

「誰からですか?」

「父です」


 今回は父親か、と目雲は思う。

 ここ何年もそうだった。

 彼女からの呼び出し、祖父の訃報、親戚からのいらない口出し、同僚の無断退社。

 そこからもたらされる事柄は、現状を打開どころか足踏みもさせてもらえず、後退するだけ。

 頑張り続け、救いの手を取り、立て直し、医療の力も借りて、それでも目雲は暗闇から逃げ切ることはできなかった。


 ああまただ、また来た。

 次はなんだろうか。

 どうして放っておいてくれないのだろうか。

 漸く幸せの糸口を捕まえたのに。

 沈む思考と心。


 けれど、たった一つ。

 たった一つ違うことがあった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る