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少ししてドリンクバーから琥珀色のコップを持って帰ってきたゆきは席に着くと、ストローを差してひと口飲んでのどを潤してから目雲に笑いかけた。
「目雲さん、私今から少し脱線した話をしますね」
ゆきは溌剌と宣言したが目雲の視線は動かなかった。
「はい」
「私、小説家にはなれないんです」
本当に唐突な話し出しに、目雲もおもわずゆきの顔を見つめ、予想外過ぎたのか不思議そうに呟く。
「すごく飛躍しましたね」
はい、とゆきはにこりと笑った。
「子供の頃から本ばかり読んでいたので、自分でも書いてみたらと言われたことが何度かあるのですが、そのたびに絶対にできないって思ってたんです。想像力がないんです。何もないところから、誰も知らない話を作り出すなんてどうすればいいのか全く分かりません」
「想像力がないことはないと思います」
相手を思いやることのできるゆきが想像力がないなど絶対思えない目雲が落ち込みは一旦置いておいて、やたらとはっきりした声で否定したので、笑ってしまったゆきはそのまま訂正した。
「じゃあ創作力がない」
「潔いですね」
さすがの目雲もゆきの創作能力まで知り得なかったので否定できなかった。
「もし私が何か建物に関係する仕事に就きたいと思ったら、目雲さんの仕事は選べません。目雲さんは作り出す人だからです」
「僕が描く設計図も先人たちの知識をもとに作っている物ですよ」
顔を見て話すいつもの目雲に少し戻ってきた様子にゆきはさらに表情が緩む。
「そこに独自性があるから選ばれるんですよ」
「ゆきさんもそうじゃないですか?」
ゆきは笑顔で首を振る。
「私の場合は素晴らしい作品があるからできる仕事です。それに建築士にはなれなくても、志せば建築に関する仕事も何かできるものがあるかもしれません」
それには目雲も頷いた。
「そうですね、何事も多くの人が関わって成り立っていることは違いありません」
「つまり私には絶望的にできないことありますが、できることもあるという話です」
ゆきの話の着地点を見た目雲は戸惑いながら確認した。
「ゆきさんなら話しても大丈夫と言うことですか?」
ゆきは首を横に振って、それを見た目雲は首を傾げる。
目雲はてっきり過去を話そうとしない自分をゆきが説得しようとしているのかと思ったからだ。
何が起こって何を自分が恐れているのか、目雲は現状ゆきに上手く説明できる自信がなく言葉にすることができなかった。
不甲斐ないと目雲が思う中、ゆきはストローを口に含み再度喉を潤してから、本題に入った。
「ここまでは序章です。私がいくら否定しても受け入れないその姿勢に至る理由を求めないのは、興味がなくて聞かないわけではなくて、目雲さんに気を使ってということでもなくて、私にはそれが分からないから考えないという前置きです」
目雲には正しく飲み込むことができなった。
「分からない?」
ゆきが深く頷いた。
「私には創作力がないので、今理解していることだけで何があったか考えることはそもそもしません。だからあまり深く考えることもないんです。もし今もその方を想っているとなると流石にいろいろ思案しますが、それは目雲さんの考えを想像するわけではなく私の行動を検討するという意味になります」
目雲はぐっとゆきの瞳を正面から見つめた。
「今も尚、想っているということは決してありません」
宮前からも言われていたが目雲の口からきちんと否定されて、ゆきはほっとした。
心にもう二度と会うことが叶わない想う人がいるのでと言われたら、ゆきはそれを許せるほど達観した感情は今は持ち合わせていないと言わざるを得ない。好きな気持ちで自分を誤魔化すことはできないと伝えないといけない事態にならなくて安堵する。
それならと改めて気持ちを込めてゆきの素直な思いを目雲に訴える。
「ここからが主題です。想像しない私には大丈夫とも言えません。どんな内容でも話してもらえたから嬉しいと言えないのは、聞いたら聞かない方が良かったって思うかもしれないからです。だから、目雲さんが判断してくれていいです。話したくなったら話して欲しいですし、私の事を思って言わないでいてくれてもいいし、聞かせても大丈夫だなって思ってからでもいいし、言いたくないから言わないでもいいんです。聞かせてもらえないことで不安になったり不満に思ったりすることはありませんから、目雲さんも言わないことを気にしないで下さい」
「それは、僕を信用してくれているということですか?」
ゆきは敢えて頷く仕草はせず、テーブルに肘を付いてやや前のめりになる。
「そうですね。目雲さんが稀代の大噓つきだったとしても、だったら最後まで騙し通してくれると思います。それくらいの信頼です。というのは半分冗談ですけど、目雲さんのことはどうしてだかあまり疑う気にならないんですよね。それこそ初めて会った時からそうだった気がします」
言いながらゆきはその自分でも不可思議な感情を知り、顎に左手をやった。
「初めてということは挨拶した時からになりますよ」
「そうです」
それについては思い返せばはっきり言える程、自信があった。
「泥酔時に何もしなかったからではなくて?」
愛美に言われたことを気にしていたわけではない目雲だったが、つい口に出ていた。
ゆきは意外とそこは真面目に答えた。
「命が危険そうだったから手を貸しただけであって、少しでも怪しい人は躊躇わずに警察に連絡してますよ。そこに私は躊躇ないです」
ゆきにはなかなか容赦がない部分があると自覚がある。
佐藤姉弟の父が警察の人間だというのもあるが、自分の安全を守るためなのに躊躇っていたらどんな最悪な事態が起こるか分からないと知っているからだ。
だからこそ見た目に影響されないように常にいろんなアンテナは張っているつもりだ。
普通そうなどという世間の曖昧な物差しではなく、会話や目線の合わせ方や自分で感じる雰囲気などを意外に大事にしている。それでも人を理解するというのはどんなに親しくなっていても難しいとも分かっていた。
目雲はきっぱりとしたゆきの言葉に、自分に対する信頼の出所が気になった。
「直感的なものですか?」
ゆきは当時を思い出すために少し斜め上を見たが、にっこり笑った。
「分かりません。いい人そうで良かったとは思いましたが、まさかこんなにお話する人になるとは思ってなかったので。たぶん最初に挨拶したそれからの日々がお隣さんとして私が安心して生活できていたからなのかもしれません」
マンション内でたまたま出会った時にきちんと挨拶し合えただけのことだが、ゆきにはそれだけのことがとても安心材料になっていた。
目雲は僅かに頷いてから、少し考える仕草をした。
「もしゆきさんの負担になる様だと僕が考えるのならば一生言わなくてもいいと?」
ゆきはどこまでも明るかった。
「もちろんです。私はその話の詳細は知らないですが、目雲さんが心に抱えているものがあるということは知っているので、気遣うことはできます。だから今日の事も私の気持ちに嘘はついていませんし、仲直りしてもらおうと私が無理やり介入しようとも思いません。目雲さんが言いたくないならいつも通り過ごすだけです」
「いつも通り……」
「深刻な雰囲気を醸し出す目雲さんを無視して食べたいと思ったポテトも食べますし、面白くなってドリングバーであれこれ飲んでみたりしています」
ゆきはグラスを持ち上げて、また少し飲んだ。
「それは気を使ってなのでは?」
ゆきが気を紛らわせようとしてくれているのだと思っていた目雲だったが、車内にいた時とは違い落ち着いてリラックスしているような雰囲気は感じ取れていた。
「気を使うなら、私の分はブレンドコーヒーにしますし、目雲さんはお水です。私も大人ですから、ちゃんとするなら当たり障りない物を持ってきますよ」
「確かに、ゆきさんならそうかも知れません」
常識的ということならゆきはまさにそうだと目雲も分かっている、だから努めて明るく振舞ってくれているのだろうとさっきまでは思っていたが、こんなときに無理をするようなことはないのがゆきだとも目雲も思えた。
「目雲さんとだから、楽しんでるんです。ちなみにこれはトロピカルアイスティーと書いてありました」
ゆきが持ち上げたグラスを目雲が見つめる。
「トロピカル……」
「そうトロピカル。香りが南国な感じです、あくまでも一般的な印象で、本当に南国がこんな香りがするかどうかはちょっと分かりません」
ゆきは楽しそうにストローに口を付ける。
そんなゆきを眺めながら目雲が一つの懸念を口にする。
「他から聞く可能性もあります」
詳しい説明もないその一言に、ゆきはグラスを持ったまま、また晴れ晴れしく笑う。
「宮前さんはきっと目雲さんが嫌がることはしませんよ。宮前さんから聞いた時は私が知ることが目雲さんのためになることなんだと思います。その他から耳に入ったら、それはお話の一つとして聞いておきます。話を蓄積させるのは得意ですから」
目雲は手を組み片手を顎の下に当てる。
そして少し考えてから頷いた。
「本を一冊読んだように考えるということですね。それならゆきさんは得意分野に違いないです」
漸く少し納得でき始めた目雲は体のこわばりが取れていくような感覚があった。
思い返せばゆきは全く普段と変わらないということに思い当たり、そして説明された思考もゆきならばそう考えるのも得心がいく。これまでの付き合いでゆきの人となりを少しは分かっていると思える自分にも気が付くことができ、目の前でにこやかにいる存在が自分が怯える対象ではないと霧が晴れたように思い出した。
ゆきが話題を変えると言ってから手を付けていなかったポテトにまた手を伸ばした。
「目雲さんが話すことと他の人が話すことは全く別の話です、主観って大事ですからね」
「つまり僕は信用されていると今は自信を持つだけいい。ゆきさんは今の状態だけをそのまま受け止めるだけということですか」
ゆきは目雲の言葉でぱっちりと目を見開いた。
「それです! やっぱり目雲さんは凄いですね。私が言いたかったのはそれです。どうにも話すのが得意ではないので、長々とすみません」
苦手なことでもなんとか分かってもらおうとゆきも頑張ってくれていたのだと、目雲の冷え切っていた心はほぐされる。
「いえ、詳細に言われて理解できましたし、ゆきさんがどう思っているのを知るのはとても重要なことです。母のことも裏の思惑を読んだりしていないので本当に傷ついてはいないってことですね」
「お母様の言葉は、その、聞いたままというか、言葉のままを想像しただけです。私自身を責める言葉ではなかったというのが私の認識なので、本当に心配しないで下さい」
「分かりました」
「はい」
「それと、過去のことは今は、まだ話せません」
「はい」
「それはゆきさんを信用してないわけじゃないです」
「はい」
笑顔で頷くだけのゆきに、だから目雲は説明したくなる。
何も聞かないというゆきに、肝心なことは言えないという自分なのに、今が幸せだからなんだということだけは分かってもらいたかった。
冷めたカップのお茶を飲み干して、感じる独特の酸味に体が活気づく。
そしてしっかりとゆきの顔を意識して見つめる。
「ちょっとまだ自分でも考えたくないんだと思います。ゆきさんといるとふわふわした気持ちになるんです」
「ふわふわ、ですか?」
一般的にフワフワしていると言うのは、地に足が付いていなくて浮かれている気分だというのがゆきの認識だ。
目雲は頷き、続ける。
「出会ったときからそうです、ずっと少しふわふわして居心地がいいんです」
ゆきはどう受け止めるべきか迷った。
一時的にならば、自分に対して浮かれてくれているのは嬉しいことだが、ずっととなるとそれは目雲が正常な状態でいられないというマイナスな効果が発生していると思ってします。
「良い状態なのでしょうか」
困ったように不安そうに聞けば、目雲は少し口角を上げる。
「僕としてはとても良いことです。だからそのふわふわが過去の事を考えると消えてしまう気がしているので、言わないでいたいと思ってしまう」
目雲の言うふわふわをゆきが正確に知ることはきっと叶わないと分かって上で、目雲が心地いいというならゆきに反対する理由は何一つない。
「目雲さんが大事にしているふわふわはこれからも大事にしましょう、大賛成です」
子供の言い訳でも聞き入れられないだろうことを、ゆきはそれどころか面白そうに受け入れるので、目雲は泣きそうになる。
「ありがとうございます」
いつもの雰囲気に戻った目雲は次は自分が飲み物を持ってくると言って席を立ち、ゆきにオススメと書いてあったと不思議なミックスしたジュースを持ってきたり、フードも追加したり、二人で久しぶりのファミレスを堪能してから家路に就いた。
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