後日、目雲がお礼を持ってきた時に珍しく愛美だけが部屋にいて、ゆきは直接受け取れなかった。

 エレベーターで乗り合わせることもなく、もちろんもう目雲が部屋の前で倒れていることもない。

 そもそもゆきは半分は家の中で仕事していて、定食屋のバイトも開店が十一時からなので早番で出勤しても一般の通勤時間とはずれている。帰宅時間も定まっていないし、きっと残業が多いだろう目雲と会うのは珍しいことだと何も不思議はなかった。


 数週間経った頃ふとその状況を振り返ったゆきは確かにほとんど会わないなと、愛美の言葉を実感していた。


 そしてまた一カ月が過ぎた。

 すっかり寒さも厳しくなり、世間はまもなくやってくるクリスマスに向けて飾り付けられていた。


 ゆきはそんな冬晴れの早朝、資料を求めて遠出をしなくてはならなくて、夜明けの遅いこの時期だから、まだ日も登らない暗いうちにしっかり防寒をした格好でエントランスを抜けた。


「篠崎さん!」

「っ!」


 マンション前の道に出ようとしたところで後ろから声を掛けられ、思い切り驚いて立ち止まった。

 歩道に出るだけだったはずなのに車にでも轢かれそうになってるのかと、ゆきが思わず周りを確認すると、後ろから小走りで目雲が来るのが見えた。


 マンション前のライトアップで暗さの影響はなかったが、高い身長と声の印象だけでなく、近くに来たことでその顔をはっきり確認出来てようやくゆきは肩の力が抜けた。


「目雲さん」

「すみません、驚かせて。大丈夫ですか?」


 心臓を押さえながらも、なんとかゆきは微笑んだ。


「大丈夫ですよ」


 久しぶりに見かけたのでつい声を掛けたというビジネスコートの目雲にゆきは首を捻る。


「お仕事ですか? お早いですね」


 出勤するにはやや早い印象を持ったゆきに目雲はわずかに苦笑する。


「まだなかなか忙しいままです」


 フレックスタイム制だと説明を受けても、それにしてもとゆきは小首を傾げる。


「いつもこれくらいの時間なんですか?」

「はい、その代わり少しでも早く帰れるようにしています」


 早朝出勤と残業とどちらが良いのかゆきには分からなかったが、目雲が改善を図っているというのが大事だと腕の前で両方の手で拳を握り心の中でエールを込めて労いを贈る。


「それは、お疲れ様です」


 すると目雲は微かに表情を緩め、会釈をした。

 微笑んだとも言えないような表情の変化だったが、初めて見るゆきは、これはモテるなと確信した。日頃無表情に近いが故に、その些細なことが十分に琴線に触れてしまう。その感動を恋愛ごとに結び付けるのは至極簡単なことだと、経験の乏しいゆきでも分析できた。

 だからきちんと安易に勘違いしないように、気を静めた。


 それを驚いた動悸を治めるためだとした目雲はゆきが顔を上げるのを待って、誘う。


「もし駅に行くなら一緒に行きませんか?」


 同じ方向に行くのに当然断る理由もないので、ゆきは笑顔で頷いた。


「はい」


 二人で並んで歩き出すと、目雲の方が話し始めた。


「最近お会いしませんでしたね」

「目雲さんが倒れるくらいしないと会えないリズムなんだと思ってました。だから会えなくて良かったのかもしれません、目雲さんが元気だってことですから」

「篠崎さんがいない間に倒れていた可能性もあります」


 まさかの言葉にゆきは驚いた。


「倒れてたんですか?!」

「いえ、何とか元気でした」


 そんな冗談を言うんだと、新たな一面を知ったゆきの感情は、目雲にそれくらい余裕が出てきてるのかもしれないと、驚きや怒りより安心の方が勝った。


「それなら本当に良かったです、でもまだそれくらい忙しいんですね」

「目途は立っています。休職してた同僚が年明けには復帰予定なんです。その休職と急な辞職が重なっていて忙しかったんです。もう少し先に新しい人材も入ると聞いてますから」

「良かったですね」


 ゆきは本当に胸が軽くなった。

 目雲の惨状を知っている身としては、何もできないが少しでも早く状況が改善するように願わずにはいられなかった。もう少し親しかったら転職を勧めると考えるほどには、その異常な忙しさが気になってはいたからだ。

 けれど実際の目雲は仕事の目途が立ったからなのか、どこか嬉しそうな雰囲気さえ感じさせている。もちろんそれが表情に現れてはいないのだけど、少しの声のトーンからゆきはなんとなくそう感じていた。

 目雲は意を決して宣言するように話題を変えた。


「それで、そろそろ部屋を掃除しようと思っています」

「それは、すっごく良いと思います」


 深めに頷いたゆきは手を叩いて賛成した。整っていないあの部屋が完全なる負のスパイラルを招いていることは、ただの隣人のゆきにだって一目瞭然だ。それがなくなるだけで、どれだけ心の負荷が減るだろうとゆきの方がワクワクしてしまった。

 そんなゆきを見ながら目雲も頷く。


「年末なので、掃除には丁度いいと」


 ゆきはさらにこくこくと頷き、目雲の前向きな姿勢に感動さえ覚えていた。


「そうですね、年越しはすっきりしている方が来年が良い予感がします」

「そうです、だから掃除をするので」


 そこで目雲の言葉は切れた。

 目雲の視線は道の先をみていて、ゆきも確認するがただ街灯が照らしているいつもの風景が広がっているだけで違和感はない。

 ゆきが歩きながら再び目雲を見上げると、何か言葉を探している雰囲気を感じて一つ提案が思い浮かんだ。

 あまりに辛そうな姿を見ていたので一刻も早く元気になって欲しいのに、何もできないと思っていたのが、効果がありそうなことが見つかった嬉しさのようなものがゆきに芽生えていたからだ。


「お手伝いしましょうか?」

「え」


 すでに部屋の状態を知っているゆきなら気兼ねなく頼めるのではないかと、時間がなさそうな目雲を少しでも休ませるための提案だったが目雲の戸惑った様子に、ゆきも戸惑った。


「あの、目雲さんのプライベートに深入りしようとか思ってるわけではないです、無駄口のも叩かず掃除だけしたらすぐ帰ります!」


 目雲が柄にもなさそうに視線をさ迷わせて狼狽えているのだが、ただ表情は変わらないので、ゆきには真意が掴みづらい。

 目雲はさっきよりさらにあからさまに言葉を探し出す。


「あ、いえ、その」

「まだ忙しいとおしゃっていたので、少しでも人手があった方がいいかと思ったんですけど」


 出過ぎた申し出だったかと反省し始めたゆきだったが、目雲は急にはっきりと肯定した。


「はい、人手。はい。必要です」


 逆に気を使わせたかと思わないでもなかったが、ゆきはそれでも働きで返そうと心に誓う。


「お手伝いさせていただきます」

「ありがとうございます」


 もう駅に着きそうだったので、ゆきは素早く話を詰め始める。


「いつがいいですか?」

「そうですね、えっと。次の日曜日の午後」

「次の日曜日ですね」


 駅前の広場に着き、ゆきがスマホを取り出し予定を記録しようとすると、目雲が止めた。


「あ、いえ。その次の土曜日の午後はどうですか?」

「土日は外に行く仕事は入れないようにしてるので、大丈夫ですよ」

「外にということは翻訳の仕事はあるんですか?」


 改めてスマホに入力しながら、心配いらないと説明する。


「予定がなければやりますけど、なるべく平日にするようにしてるんです。そうしないと曜日感覚とか、生活リズムとか滅茶苦茶になってしまって」

「生活リズムは大切です」


 強く同意する目雲にゆきは思わず微笑む。


「目雲さんが言うと説得力が違いますね。ついやっちゃってるんで気を付けます」


 スマホをポケットに戻したゆきに目雲が尋ねる。


「今日はどちらまで行かれるんですか?」


 ゆきが目的の地域を告げると、目雲が顎に片手を当てる。


「逆方向ですね」

「そうなんですね」


 駅にはまだ暗い早朝でも人の姿がそれなりにあったが、さすがに混雑やラッシュと言った感じではない。

 ゆきはこれならのんびり乗れそうだと考えていると、目雲がカバンを下ろすのが目に入った。


「あの、今更かもしれませんが、名刺をお渡しします」


 職場をゆきが知らないことを思い至った目雲が提案するとゆきも同意した。


「それなら私も」


 街灯がまだ煌々と点く中で二人は名刺交換をした。


「ゆき、さん」


 名刺を眺めていた目雲が思わずと言った感じで呟いた。


「はい」

「すいません。目に飛び込んできてしまって」


 ゆきが分かっていますと笑う。


「ひらがななんで、間違いなく呼んでもらえて気に入ってます」

「可愛い、お名前ですね」


 目雲は自分でも驚くほど素直にそんなことを口にしていた。

 子供の頃からよく言われることだったのでゆきも素直にはにかんだ。


「ありがとうございます、二月生まれなのでゆきなんだそうです」

「二月、雪の季節ですね」


 ゆきも目雲の名刺に目を落とし、感心した。


「目雲さんは一級建築士なんですね、これってすごく難しい資格だって聞いたことありますよ」

「勉強すれば取れますよ。勉強は苦じゃない方なので」


 それで勉強できないこともストレスの一因なのかなとゆきにも分かった。

 ゆきも本を読むことだけはいくらでもできるが、勉強となるとまた話が違うので純粋に感心してしまう。


「すごいですね。尊敬します」


 目雲はゆきの名刺を眺めながら謙遜した。


「いえ、大したことはありません。あの、この住所はレンタスオフィスか何かなんですか?」


 隣に住んでいるからこそすぐに気が付いたのだろうとゆきは頷く。


「そんな感じです、フリーランス用のところで、念のため」


 住所を載せないこともできたのだが、若さや企業に就職してからの独立ではないので信用度の低さを幾分カバーするためと、必要書類や資料を受け取る住所を自宅にしたくなかったこともありバーチャルオフィスを契約している。


「その方がいいです。何があるか分かりませんから」

「そうですよね、やっぱり」


 ゆきも激しく支持したところでふと時間の事を思い出した。


「あ、お時間大丈夫ですか。すいません、話し込んでしまって」

「引き留めたのは僕の方なので。それに自分の仕事をしたいためだけの早朝出勤なので、数本見送っても遅刻にはならないですから」

「良かった」

「ゆきさんこそ大丈夫ですか?」


 篠崎よりよっぽど言いやすいことを自覚しているゆきは名前で呼ばれたことは気にもならなかった。


「私も伺う連絡だけで、時間の指定はしていなので来た電車に乗って行こうくらいのスケジュールなんです」

「それなら良かったです」

「あ、この連絡先仕事用なので、私的な連絡先もお教えしても迷惑じゃないですか?」

「もちろんです」


 二人ともスマホを出して素早く連絡先の交換を終える。

 ゆきはわざと茶化すように伝える。


「何か困ったことがあったら連絡してください」

「ゆきさんも何かあったらいつでも。あ、つい名前で」


 目雲が気が付いたことに笑ってしまう。さっきも呼んでますよとは言わずにどうぞと言う。


「呼びやすい方で。では、お仕事頑張ってください」

「ゆきさんも、お気をつけて」

「はい!」


 二人は改札で別れた。




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