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それから目雲がコーンスープを飲み干すのを待って、ゆきはカップを洗うと申し出た。もちろん目雲は遠慮する。
「明日やるので、そのままで」
「ちょっとでもゆっくりしてください。些細なことでも積み重ねです。マグカップが一個、シンクにあるだけで、きっと目雲さんはストレスじゃないですか? 今洗ってしまっておけば明日少しいい朝かもしれませんよ」
「そこまで甘えるわけには」
今までいろんなことを頼ってきたのはやはり普段の目雲じゃなかったからだと、ゆきは再確認した。
今更マグカップ一つ洗うことを遠慮する必要はない。それが気になるような理性が普段の目雲が持ち合わせているものだと、それが予想通りだとゆきは一人納得した。
「これは甘えじゃないです。ご褒美です。それこそほんの些細なものですけど」
ゆきは目雲がどんな反応をしているのか確認する前にささっと洗って拭いてしまうと、食器棚に戻した。
「ほらあっという間でした」
キッチンから戻り近くに立って笑うゆきに、目雲はその無駄に両手を広げているのを見て、僅かに目を見開いた。
そのあと数回瞬きをしてから、思い出したかのようにお礼を言う。
「ありがとうございます」
気にしないで下さい、とゆきは目雲の足元にしゃがむ。
「どうです? 眠れそうですか?」
「たぶん」
心もとない返事は希望的観測を含んでいるとゆきは優しい笑みを浮かべる。
「ベッド行きますか?」
「もう自分で行けます」
「念のため見送ってもいいですか?」
ゆきを不安にさせている自覚があるのだろう目雲は素直に頷いた。
「はい」
立ち上がろうとする目雲の膝にかかった毛布をゆきが持つと目雲はそれを受取ろうとしたが、ゆきは渡さず笑みだけ向けて寝室に向かう。それくらいの手助けをゆきが厭わないことも、目雲が固辞する気力ないことも、二人は理解し合いそのまま何も言わなかった。
先に入ったゆきは枕元の明かりだけ点けた。ゆっくりとしか移動できない目雲は追いつくと促されるまま横になり、ゆきはその上に毛布を掛ける。
「もう悪い夢みないといいんですけど」
ゆきが言えば、目雲はゆきを見上げながら静かに少しこくりと頭を動かした。
「頭痛もなくなったので、もう大丈夫だと思います」
なんとなく大丈夫には見えない目雲をそのままにして帰るのが忍びなく、ゆきは一応提案してみる。
「眠るまでいましょうか? いない方が良ければ帰りますけど、もう遠慮なくどっちでも選んでください」
「もう」
たぶん咄嗟に断ろうとしたんだろうとゆきは思うが、目雲は言葉を止めた。少し考えて目雲は言いなおした。
「また深夜にチャイムを鳴らすのは恐いので、少しだけいてもらってもいいですか」
まさか目雲の方が恐怖を抱いているとは思わなかったゆきは頬が緩むのを何とか堪えながら、きっと冗談で言ってるんじゃないだろうと考えながら頷いた。
「もちろんです」
ゆきはにこりと頷いたのは良いけれど、自分の居場所に迷う。
「どうしましょう? ベッドの横が良いですか? それともリビングにいましょうか?」
目雲は僅かだけ考えて、力ない声を出した。
「できればここに」
ゆきも柔らかい声に密かに悪夢への不安が少しでも減るよう願うを込める。
「じゃあここにいますね、明かり消しますか?」
「このままで」
「はい」
ゆきはベッド脇、目雲の太もも辺りの床に腰を落ち着けるとちょこんと座ったまま、じっとしていた。
すぐに目を閉じた目雲だったが、少しするとゆっくり目を開きゆきの方を見る。
「あの」
「あ、やっぱり邪魔でした?」
「いえ、何もないので苦痛じゃないかと」
眠たそうとも違う沈んだ声だったが、目雲の優しさが滲んでいた。
「大丈夫ですよ。ぼーっとするのは得意です」
「スマホとか」
「部屋ですし、スマホの光はたぶんに刺激になって良くないですよ」
「じゃあ何か本でも、面白い物はあまり多くないですが」
何もせずじっとされてるのも確かに気になるだろうとゆきもそこは遠慮しなかった。
「それならお言葉に甘えて」
寝室を出てダイニング脇の壁に設えられていた大きな本棚にさっと目を通す。仕事関係だと思われる専門書がほとんどの中に、小説と思われる本のスペースがあった。お気に入りの作家が何人かいるようで作家別に本がそれぞれいくつか並んでいた。
ゆきはその中から一番の端の一冊を手に取る。
ストールも持って寝室に戻ると目雲は横になったまままだ起きていた。
「何か興味がありそうなものありましたか」
どうやらすぐには眠れないようだと感じたゆきは、話しやすいようにさっきよりは少し顔に近い辺りの床に腰を下ろした。
「建築関係の本がたくさんありました」
「建築士なので」
「そうなんですね、あ、でも持ってきたのこれです」
見やすいようにゆきは目雲の方に本を掲げる。目雲はそれを確認すると、ゆきに視線を戻した。
「面白かったですよ」
「お好きなんですか、この作家さん」
ゆきはまだ本は開かず膝に置いたハードカバーの表紙を撫でる。
「この方は仕事の依頼主だったんです、それで知り合いになって。新刊を出されると送ってくれるんです」
「良いご関係なんですね」
「他の小説も作者と知り合いだったり、関係者からもらったものです」
思わずゆきは笑ってしまった。
「ご自分では買われないんですね」
「そうですね、つい。実際も買わないんですが」
「あまりお好きではないですか?」
本棚の本の量から言えば、読むことがというより小説などの所謂文芸書は興味がないのだろうとゆきは思った。
しかし目雲はほんの少し首を横に動かした。
「好き嫌いというよりは、読んでいる時間がないんだと思います」
「お仕事が忙しくて?」
「仕事に勉強にです。最近は勉強もできてませんが」
勉強できていないことを反省しているのか、その時間が取れないほど忙殺されていることが嫌なのか、いずれにしろ気になっていることだけはゆきのも分かった。
「大変なお仕事なんですね」
「読めば面白いので、もっと時間があれば読むと思います」
娯楽のためにこれ以上ない時間を捻出しようかとする目雲の言葉にゆきもきちんと忠告する。
「無理は駄目ですよ」
はい、と目雲は素直に頷いた。
目雲は気分も回復してきたようで、さらに話を続けた。
「篠崎さんは本読むのはお好きですか?」
ゆきは飛び切りの笑顔を見せた。
「好きです、それにそれが半分仕事です」
「仕事?」
「翻訳をしてるんです。定食屋さんでもアルバイトしてるんですけど」
漸く普段の思考回路が戻ってきた目雲は、そのゆきの言葉で夢追い人なのかと、ルームシェアをしていると言っていたことも合わせて金銭的に困窮しているのかと考えた。
「バイトは生活のためですか?」
ゆきは目雲が案じたであろうことが想像できて、それほどではないと口の端に微笑みをのせて訳を説明する。
「なんとか翻訳だけで生活はして行けるんですけど、お小遣いと翻訳のためもあって」
「定食屋のバイトが翻訳の役に立つことがあるんですか?」
「今は主に文芸翻訳しているんです、他にも論文とか専門書とかもあるんですけど。人の話す言葉だったり、言い回しとか、方言とか、実際聞いてると自然と吸収できるんです」
「それが翻訳に生きてくるんですね」
目雲があまりに真面目に納得したので、ゆきは妙に恥ずかしくなり少し茶化したくなってしまう。
「少し格好をつけてみました」
「格好良いですよ」
目雲には効果はなかったようで、また真面目な顔で言われてしまい、自分なんかよりよっぽどな目の前の相手にゆきも真面目な顔する。
「目雲さんも格好いいですよ」
瞼が重くなり始めた様子の目雲はそのせいもあって声が弱くなる。
「情けないところしか見せてないですが」
ゆきはそれを笑みで否定する。
「情けないとは思わないですよ。体調崩すことは誰にでもあります。一生元気なだけの人もいませんから、弱った時はしっかり休むだけで、それは情けないことじゃないです。たまたま今回は私が助けた形になっただけで、私もまた目雲さんかもしれないし、違う人かもしれないですけど、助けてもらうことがありますよ」
だから気にしないで下さいとゆきが微笑めば目雲も今度は少し落ち着いた顔をした。
「ありがとうございます」
少しとろんとした目をしだした目雲にそろそろゆきは会話を切り上げることにした。
「おしゃべりさせちゃってすみません。眠ってくださいね、ここで本読んでいるので」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
部屋には静寂が訪れて、ゆきがページを捲る音だけがかすかに、一定のリズムで聞こえていた。
そのうち、目雲の規則正しい寝息が聞こえてくる。それに気が付いたゆきはそっと本を閉じ、枕元の明かりを消す。
けれど、すぐには帰らず暗闇に目が慣れて、うっすら見える目雲の様子をしばらく眺めて、穏やかに起きる気配もないことを確認してから、リビングに戻り本を戻してエアコンを切り、電気を消して部屋を出た。
翌日ゆきは少し眠い目を擦りながらバイトに行き、その後、出版社に寄ってから、夜帰ってきた。
エントランスを抜けるとエレベーターの前で目雲の姿を見つけたので声を掛ける。
「こんばんは、コンビニ帰りですか?」
振り返った目雲は予想外の出会いだったようで手に持った袋とゆきを交互に見ると、慌てて挨拶を返した。
「こんばんは、コンビニです。今、お帰りだったんですね。仕事ですか?」
「はい、目雲さんはゆっくり休めましたか? まさかお仕事に行ったり?」
目雲の服装はゆきが初めて見るカジュアルなスタイルで、仕事に行ってるようにはみえなかったが、忙しいと言っている人間の加減は想像を超えるかもしれないとゆきはあの状態で出勤していたらと不安になった。
けれど目雲がきちんと否定した。
「いえ、さすがに休みました。そもそも昨日も顔色が悪くて帰されたので」
「そうだったんですね」
ほっと息と吐いた時、ちょうどエレベーターが来て、二人で乗り込む。
「眠れましたか?」
他に誰もいないのでゆきは会話を続けた。
「実は夕方近くまで寝てしまってました」
「それはよく眠れましたね、逆に寝すぎてしんどくなってないか心配ですけど」
過眠も症状の一つだなと感じながら、あまりに長時間寝るとそれはそれで体が怠くなったりするだろうと思って聞けば、目雲の体は本当に休息を必要としていたようで、昨日より遥かに色の良い顔でゆきを見下ろして言葉もはっきりしている。
「久しぶりに体も頭もすっきりしている感じがしてます」
「それはなによりです」
ゆきも見上げてにこりと頷いた。
「篠崎さんは大丈夫でしたか?」
「元気ですから、大丈夫ですよ」
エレベーターが止まり、二人で降りる。
「また改めてお礼させてもらいます」
「そんなに気にしないでくださいね、目雲さんが元気になってくれるのが一番です」
「すみません、ありがとうございます」
「今日もよく眠れるといいですね」
「もうチャイムを押すことはないと思いますので、篠崎さんも安心してゆっくり眠ってください」
余程気にしているのだとゆきは笑ってしまいそうになって、謎にありがとうございますと返事をしてしまった。
部屋の前に着き、ゆきはぺこりと挨拶をした。
「じゃあおやすみなさい」
「おやすみなさい」
その偶然から二人のタイミングは合わなくなった。
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