過ぎ去りし日々に 3-ニーファの記憶-
男の死体は綺麗に無くなっていたので、私がやることといえば血痕と衣類の残骸の処理だった。
ボロボロになった服の端で丁寧に血の痕を拭い、仮眠室の暖炉へと運ぶ。血みどろになった自分の服と鏡像の服も同じ場所に脱ぎ捨て、代わりに本物のエミリオが用意していた予備を棚から引っ張り出して着用した。
恥じらいなんて、もはや感じるような精神状況でもなかった。
集めた衣類に躊躇いなく火を放つ。
ここはダクトも常時稼働して空気の循環は保たれている。ものの数十分もあれば、上手く燃え尽きてくれるだろう。
昨日から運び込まれ始めたという、男の荷物を漁って靴を取り出す。元々履いていた靴は同じく血みどろだったので、今は暖炉の中で火に包まれている。この場所に別の人間の荷物が当たり前のように置かれていることは不満だったが、今となっては都合良くもあった。
「それをどうするんですか?」
「港へ持って行きます。今の時間でしたらまだ人もいないでしょうし、人目のつかない所に置いてくるつもりです」
「───ああ、身投げなんかに見せかけるつもりですか。ですが、そう簡単に信じてもらえますかね」
「あなたがエミリオの記憶をどこまで持っているかは知りませんが、私はこれでも町に多大な貢献をした町長の秘書ですよ」
信頼というステータスであれば、この町で私以上にそれを得ている人物はそういない。
予測通り十数分で跡形もなく燃えてしまった服を確認して、私は港へ向かう。鏡像は先にエミリオの家に向かわせ大人しくしているように頼んだ。奴がたとえ私から命じられることを不満に思っても、提案に乗った時点でそうそう
少なくとも、今すぐには。
まだ夜明けの兆しすら見せない空は暗い。波止場に靴を置くだけで、誰もが同じ予想をしてしまう程に波も高かった。
「そういえば、彼から名前を聞くのも忘れていたかしら」
もう本人から名前を聞くことはできない。
誰からか聞くことはあるかもしれないが……既にこの世にもおらず、これから関わることのない人間の名前を覚える気も起こらない。
「さようなら。名前も知らない技師さん」
私の呟きは波の音に
翌朝、停泊船の確認という名目で港へ訪れて、さも今見つけたと言わんばかりに靴の存在を周りに伝えて回った。
朝からリンデンベルグは騒然とした。それはそうだろう、次の時計守として期待されていた人物が身投げしたとしか思えない状況なのだから。
自警団が探し回ったが遺体は上がらず、時計塔の中にだって姿はない。血痕の拭き残しがあったらと思えば少しヒヤヒヤしたけれど、そもそも遺体の一欠片も残っていない状況では彼らもお手上げだったらしい。拍子抜けするほどあっさりと身投げしたのだと結論づけられた。
"重圧に耐えきれない"と雑な遺書を残したのも一因だったかもしれない。筆跡まで細かく調べられればまたややこしい事になっただろうけど、平和に浸っている
「制御用エーテルの回路は見つけられましたが、やはり自己修復プログラムが作動しますね。そもそもあれがヒトを傷付けるつもりで無かったのなら、回路の破壊にも解除にも入念な予防策を立てていると思った方が良いのか……」
「難しいのですか?」
「煩い。いま集中しているのです、あれが作った物を私がどうにか出来ないワケがない」
執務室の机で書面を睨みながらブツブツ呟いていたそれは、私の言葉に端的に返すとすぐにまた自分の世界に入っていった。
案外、鏡像といってもヒトと同じような行動をとるものなのか、とぼんやり考える。昔に一度黒いモヤ姿の化け物は見たことがある。その姿が記憶に色濃い私には、目の前の姿を簡単にイコールで結ぶことができなかった。
ヒトを模してヒトに紛れ込むことは知っていたけれど、エミリオの姿だからそう思うのかしら?
"エミリオ"を演じている間のそれは驚くほどに無害だった。
夜な夜な住人を食べ歩く……なんてこともなく、リンデンベルグは平和なままだ。ごくたまに身寄りのない放浪者を食べることはあったみたいだけれど、相手が相手なので大した問題にならなかった。
結局、時計守の任も"エミリオ"の元に戻ってきた。そう、たとえ技師の1人が居なくなろうがエミリオの中身が変わろうが、この町は変わらない。それをまざまざと見せつけられ私は得も言われぬ虚無感に苛まれた。
12時の鐘の音が泣いているように聞こえるのも、きっと私だけなのだ。
「喜んでください、天啓がありました」
何も進展なく数年が経とうとしたある日、それは嬉々とした表情でそう言った。
よくもまあ、数年ももったものだ。正直、一年過ぎて手段が見つからない時点で、いつ鏡像が実力行使に出るのではと思っていた。
人形に町を破壊させるという手段は思ったより困難だったようだ。
提案したの自体は私だけれど、鏡像はその手段を諦めるつもりはないらしい。人形を使うことに固執する姿は、
「天啓とは……鏡像も、神を信じたりするんですね」
「まさか。ですが、降って湧いた啓示には違いありません。これからどんどんこの町は進んでいくでしょうね、破滅に向かって」
それは心底嬉しそうに笑う。そのキラキラした笑顔がエミリオの笑う顔と同じ様相をしていて、私は思わず目を逸らした。
「わざわざ報告してくださるということは、何か私に任せる仕事があるんですよね?」
「おや、話が早くて助かります」
それは笑いながら私を鉄格子へ
「ひっ……」
「あはは、あんまり寄りすぎると喰われますよ」
鉄格子の奥から、無数の目が一斉に私を見ていた。飢えて獲物を狙う粘っこい目付き───部屋の暗闇の中には、溢れんばかりのモヤ型の鏡像が蠢いていた。中には、私が見たこともないヒトの大人ほどのサイズのものまで居る。
「ど、どうしてこんなに鏡像が?それより、いつの間にこんな大きさのが通れる鏡なんて持ち込んで……」
「あったじゃないですか元から」
それが鉄格子の部屋のさらに奥を指差した。
ひしめき合う鏡像の隙間からは、中の景色は
「貴女がエミリオのために持ち帰ってきた、大きな鏡がありましたよね?」
「あれは、あれは鉱石よ!?純粋な鏡以外では鏡像は現れないはずでしょう!?」
「確かにあれは
言われて、はたと気づいた。確かにその通りだったのだ。エミリオが鏡像に成り代わられた衝撃が強過ぎて失念していたが───この鏡像は、どこから来たのだろう?
答えられず混乱する私を見下ろして、それはにっこりと
「仕事ですよ秘書さん。これから制御用エーテルが底を尽きるまで、あの鉱石からは鏡像が湧き出るでしょう。大きなものや余剰に現れ過ぎたものは私が適度に間引くようにしますが、ずっとここにいるわけでもないので……運悪く町に逃げ出した雑魚の処理は任せましたよ」
「処理って、私は戦いは全く……」
「こいつら程度、大体はダクトのファンで死にますよ。それに自警団がいるでしょう?人間でも倒せる程度のものしか漏らしませんから、処理はできるはずです。貴女は彼らの統制に尽力してください」
統制とはどういうことだろう?
次々にもたらされる話に、考えるのは得意だったはずの私の頭も追いつけないでいる。
鏡像は笑みを浮かべた顔を一転、とても面倒臭そうな表情になり小さく舌打ちをした。
「今回は察しが悪いですね、情報統制しろと言っているのですよ。鏡像が何度も現れるとあっては、我々が連絡せずとも別の町経由で守護者へ連絡が行くかもしれない」
「あ───」
ようやくそれの言いたいことがわかった。
「
「それが無難でしょうね。口上は"町の観光を守るため"なんて如何でしょう?」
「出来ないことも、ないとは思いますけれど」
思い出すのは技師の死をあっさりと自死と判断した町の人間たち。与えられた情報だけで深く考えることもしない彼らは、
それこそ
それだけエミリオが町に貢献してきたことは大きいのだから。
「私はそのうちに人形の最終調整のために自宅へ篭り、業務にも行かないつもりです。魔術回路へ攻撃性も加えねばなりませんし、町の人間が
「何と言って姿を見せないつもりですか?」
「そこは貴女の考える部分です。任せましたよ?」
確かに、エミリオを演じるにあたってカバーをすると言ったのは私。この話を持ちかけた以上、私が文句を言える立場であろうはずがない。
それはもう一度作り物の笑みを浮かべると、私の肩を叩いてホールの入り口へ向かって踵を返した。
そして鏡像の言った通りその数日後から、町で黒いモヤの目撃情報が囁かれるようになった。
数年に1回湧くことがあるのだから、最初は騒ぎが大きくなることもなく収束した。遭遇したのはパトロール中の自警団だったから、被害が出ることもなかった。
2、3回同様のことがあっても「まだそんなこともあるかもしれない」と、不安になりつつも流せるヒトの方が多かった。
しかし、それ以降の出現となると話は変わってくる。私は騒ぎが大きくなる前に先手を打って、鏡像と相談した通りに話を進めた。
「しかしニーファさん……やはり早めに守護者様に確認していただいたほうが良いのでは?」
「ですから、もう暫く様子を見てみましょう。守護者様に連絡を取らねばならないほどに深刻だと周りに知れる方が、混乱を招きかねません。今だけのことかもしれませんでしょう?」
「本当に大丈夫でしょうか……?こんなこと初めてで」
「私もそうです。けれど幸い、自警団で対処できるようなものしか未だ出現していません。数年鏡像が出たこともない平和な町で、鏡像が増え始めたと周知されればリンデンベルグの経済はどうなると思いますか?」
「……」
「町長も今まさに色々考えて下さっています。私たちは経済の破綻で路頭に迷うヒトを作りたくありません。自警団のパトロールを増やせるよう調整しますから……、だからあまり他のヒトの前でも言わないで下さいね。みんなの不安を煽るべきではないでしょう?」
ときに個人で、ときに数人で。私の元に相談に訪れる人間は、皆一様に同じ懸念を口にしていた。私は一貫して町の経済と町民の生活を第一としていると言い続けた。
実害などあってないようなもの。
鏡像の脅威は忘れられて既に遠く、不安はあれど未だ犠牲者も出ていない。お互いがお互いに口を
エミリオに化けている鏡像が姿を見せないのも、仔細をぼやかせば人々は勝手に想像を広げてくれる。外部への
長期間続けば瓦解してしまうような沈黙の期間。
だけど人形の制御さえどうにかしてしまえば、もう後のことなんて考えなくてもいい。鏡像は日に日に喜びを顔に浮かべているから、終わりはきっと近いのだ。
あと少し、きっと、もう少し。
そんな折に"彼ら"がやって来た。
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