過ぎ去りし日々に 2-ニーファの記憶-
気が
カーテンから覗く空は暗く、朝がまだ遠いことを示していた。
「エミリオ……?」
隣に彼はいない。
まだ独りで嘆いているのだろうか?
そう思えばまた胸が苦しくなった。1人にして欲しいとの頼みに関わらず、私は執務室へ足を向けた。
廊下を挟んだ先、執務室の扉は固く閉ざされている。私は分厚い扉をノックして、彼を呼んだ。
「エミリオ、まだ起きているの?」
けれど───扉をいくら叩こうが彼からの返事はない。鍵もない扉をそっと開いてみると、執務室の中には一切の灯りがなかった。
「エミリオ……?」
返事はない。壁のランタンを灯すが、部屋の中に彼の姿はなかった。
一階に降りても同じことだった。寝ているどころかエミリオの姿はどこにも見当たらない。
何とも言えない胸騒ぎがした。
家以外で彼が向かうとするならば時計塔だ。けれど、もはやあそこは新しく時計守を担う男の居場所へと変わり始めている。
最後に人形に触れる時間を取ろうとしているのだろうか?それとも、最後の鐘の調整?
分からないけれど、あの状態のエミリオを1人で目の届かないところへ置いておくのはとても怖かった。
私は寝巻きのまま夜のリンデンベルグを走った。静まり返り誰もいない道を、ただ時計塔に向けて。
「エミリオ、エミリオ……」
壊れた機械のように彼の名前を繰り返し呼ぶ。
走り続けているせいで喉が張り付いて、ほのかに血のような味がした。
夜の闇の中に
私は勝手知ったる通路の道を開き、螺旋になった道を駆け降りる。
人形が通る以外では、リモコンで操作できるホールの扉が開いていた。間違いなく、誰かが開けたのだ。
昼間は薄暗いと感じるはずの地下は、夜を走り抜けてきた私にとってはむしろ明るい。エミリオの姿はまだ見えなかったけれど、導かれるようにして私は最奥へと向かう。
人形たちの
「エミリオ!!」
やはり開いたままの鉄格子。
明らかな誰かの気配に私は迷わずそこに飛び込んだ。
「ぁ───」
それは私の声だったのか、私に気づいた彼の声だったのか、それとも。
男の目が私を捉えた瞬間、その瞳は助けを乞う色に染まり……刹那、両手で掴まれていた頭はまるで卵を握り潰すかのように容易に押しつぶされ、赤黒い液体と細かな破片が男の頭蓋から溢れた。
宙に浮いたままの足が、1度だけ激しく
新たな時計守になるはずだった男は、もう動かない。
「───あぁ、あなたがニーファですね」
熟れた果実に口を寄せるかの如く、握りつぶした男の頭に唇を寄せて、それは溢れて滴る
見知った顔。聞き慣れた声。
幸せそうに笑うその姿は、いつぞや見つめあったその時と寸分違わないはずなのに。
それでも……知らない。彼は、エミリオは、こんな風に死のにおいを
私はこんなヒト、知らない。
「きょう、ぞう……?」
「いいえ。"もう私がエミリオですよ"」
私の呟きに答えたそれは、力が抜けてへたり込む私には目もくれず血に塗れた肉片を口にするのをやめない。まるで親しくもない他人を相手にしているような口調に、私の瞳から知らずのうちに涙が流れていた。
ああ、理解してしまった。
受け入れ難いが、理解してしまった。
みるみるうちに男の死体は千切られ、
あれがエミリオであるはずがない。だって、小心者の彼がこんな血の海を前にして笑うことなんて絶対にないから。誰かを傷付けるようなヒトでは決してなかったから。
だからこそ、嫌でも理解したのだ。
私の
負の感情の強さに比例して力を持つという話が本当であるならば、エミリオはそれ程までに絶望したのか。それ程───世界を憎んだのだろうか。
「さて」
いつの間にか男の死体はすべて消えていた。
骨の一欠片も残らず、唯一ここにいたのだと証明できるものは床の血溜まりと食べ残された衣類くらいしかない。
エミリオの姿形に似たそれは手に付着した血を衣類の残骸で雑に拭き、ようやく私と向き合う。
「ショックで動くことも出来ませんでしたか?私の食事中であれば逃げられたかもしれないのに」
それの言うことは
しかし私の体力はここに来るまででほとんど尽きかけていたし、たとえ走って逃げられたとしても実際に逃げ切ることなんてできないだろう。それで助かるのであれば、鏡像が恐れられる必要なんてないのだから。つまりは、今の言葉もちょっとした戯れに過ぎないのだ。
それは一歩私の方へ足を踏み出し、座り込む私を無感動に見下ろす。
「残念でしたね。ですが、あなたにとっては幸運でもあるのでしょうか」
「幸運……?」
「ええ、私の中には既にあなたの"愛しい男"が収まっていますから」
肌が粟立つ。
明確に告げられたエミリオの行方に、これ以上はないと思っていた衝撃が私の頭を殴る。
「あれも最期にはあなたの名前を呟いていましたね。……全く、
最後の言葉はモゴモゴと口の中で呟いたのだろう。あまりよく聞き取れなかった。
見上げる私の目の前で、人当たりのいい笑顔を貼り付けたそれがゆっくりと手を伸ばしてくる。
拭き残された血が、こびり付く手。私の頬を掠め、ほのかに鉄錆びたにおいが鼻腔をくすぐった。
「大丈夫、痛みを感じるのも一瞬にして差し上げます」
冷たく節くれた手が私の喉元にかけられたとき、私の口から思わず言葉が漏れた。
「待って」
と。
「……命乞いですか?私が聞くとお思いで?」
「いいえ。ただ、建設的な提案ができるのではないかと思って」
私の首には直ぐにでもこの命を奪える手がかけられたまま。
ヒトと交渉する際には必須の微笑みを浮かべた私に、それは怪訝な顔を返してきた。
───そんな表情すら、彼に似せているのね。
「あなたはエミリオの憎しみから生まれたんですよね?であれば、彼のこともまだまだ憎いはず……違いますか?」
「……」
答えはない。答えはないが鏡像は自分を生み出したヒトを、世界を憎んでいるはずだ。きっと目の前のそれが例外ということはないだろう。
平和で、伝えることすらなくなり始めた知識がこんなところで役に立つなんて。
「このまま町を破壊するつもりですか?それもまたひとつの手と言えるでしょう。ですが……もっと効果的に、エミリオにもこの町にも"同時に鬱憤をぶつけられるような手段"というのも、また一興ではありませんか?」
「───聞きましょう」
喉元の感触が消えた。
私は続ける。
「エミリオは人形と時計塔を愛していました。それは彼から生まれたあなたも知っていると思います。彼は他人にも人形たちを愛してほしいと願っていました。しかし───そんな人形が、ヒトを襲う兵器と成り果てたら町の人間はどんな目を彼らに向けるでしょう?」
「……続けてください」
「人形はヒトを襲い町を破壊する。ヒトはそれを阻止するために人形を破壊する。エミリオが愛したものは壊れ、互いに傷付け合い、どちらが残ろうが最後はあなたが刈り取ればいい」
「ほぉう」
感心した声を漏らし、それは顎に手を当てて少し考え込む仕草を見せた。
暫くの沈黙を破ったのは相手の方だった。
「私の持っている"エミリオ"の知識では、人形がヒトを襲うことがないように厳重な制御機能が施されているようですが」
「それは私も聞いたことがあります。ですがあなたが"エミリオ"なら───その機能を解除することもきっと出来るでしょう?」
それの眉がぴくりと跳ねたのが見える。煽り過ぎれば直ぐにでも私の命は無くなるだろうが、緊張感など
意外にも、相手もまだ私に手を出してくることはなかった。
「時間がかかるのであれば、その間あなたには住民を
「ひとつ聞きたいのですが」
一歩距離を詰められる。
手を伸ばせば直ぐにでも抱きしめられるような距離感。私が好きだった彼との距離感。
見た目は同じはずなのに、どうしても彼に感じたような幸福やときめきを感じることなど皆無だった。私の頭だけでなく体も、これは彼と違うのだと認識していると知る。
「あなたがそこまでするメリットは?何故、
「……そんなの、決まっているでしょう」
許せないのだ。
彼をここまで追い詰めたこの町も。
彼の支えになれなかった自分自身にも。
そしてほんの少しだけ───私を支えにしてくれなかった彼のことも。
「エミリオはもう居ないのです、彼を引きずっていても仕方がありません。それよりも彼を追い詰めた町へ報復する方が、今の私にはずっと大切なことです。人形に襲われたなんて、この町の存在自体が揺らぐ事件でしょう?」
ほんの少しの真実と、ほんの少しの嘘。
目を閉じて胸元を握りしめると、そこがチクリと痛んだ気がした。
仕方がなくなんてない、きっと私はずっと引きずったままいることだろう。でも、彼の死まで仕方のなかったことにするのだけは許せない。
再びの沈黙。
やがて、目の前のそれは口元を歪めて
「あは、ははは!報復ですか!気に入りました」
勢いよく顎を掴まれた。
鼻がくっつきそうなほど引き寄せられ、首の痛みに私は思わず苦悶の声を上げる。
「手伝ってくださるというのであれば、貴女にはきちんとこの町の滅びを約束しましょう」
「ぅ、ぐ……」
「では早速、あの男の残骸の処理を任せましたよ"秘書さん"?」
愛しい彼の姿を真似た知らない瞳。
そこに映る私はとても醜く歪んだ顔をしていた。
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