第57話

 塹壕よりマシ、どころじゃなかった。用意してもらったのはたぶんこのホテルでいちばん良い部屋だ。広々とした主寝室にベッドが2つ、副寝室に1つ。テーブルのあるリビングっぽいスペースとトイレ、お風呂付き。ユーリアがちょっとびっくりした反応をしていたので、相当贅沢な部屋だと思う。警戒した様子のボーイが運んできてくれた「軽食」も温かいパンにチーズと薄くスライスしたハム、ポットに入った野菜中心のスープ。デザート代わりなのか干し葡萄が盛られていて、さらにコーヒーが付く。テーブルを手早くセットするとボーイはさっと出ていった。侵略軍で客という相手では扱いにくいだろうな。

 久し振りのきちんとしたお皿に並んだ食事だ。スープにダシ?フォンって言うんだっけ?がきいていてちゃんと味がする。すごい。パンに乗せたバターがじんわり溶けるのも嬉しい。チーズがなんかよく分からん塊じゃなくてチーズ味だ。ハムも肉の味がする。ユーリアとスザナも無言でもくもく食べている。野戦補給廠では自分達で調理もできたからまだ良かったが、イーペルに着任してからはほぼ配給される食事だけだったから仕方あるまい。なんかこう、戦争なんてするもんじゃないとしみじみ実感する。

 コーヒーをちびちび飲みながら干し葡萄をつまんでいたら、一気に眠気が襲ってきた。日本にいた時の生活習慣が顔を出した感じだろうか。カフェインとかガン無視で水みたいにコーヒー飲んでたからな…。遅い夕食後にスマホ眺めながらコーヒーとお菓子というデブまっしぐらの生活。今となってはむしろ現実感が無い。1枚膜を挟んだ向こう側の出来事みたいに思える。

「先にお風呂入っちゃうね。2人も今日はゆっくり休んで」

「ありがとうございます」

「はい」

 バスルームには写真でしか見たことのない足付きのバスタブとシャワーがあった。塊から切り分けたみたいな石鹸が隅に置いてある。シャワーの配管に沿って2つバルブがあるので、これがたぶん水とお湯かな。この時代でも各部屋に給湯ってあるんだ。大佐の館は…どうだったっけ?使用人の皆様が良い感じにセッティングしてくれてたから気にしてなかった。

 触るとあからさまに熱いバルブをひねると熱湯がチョロチョロ出てきた。もう片方をひねると消火栓かという勢いで水が噴き出す。わちゃわちゃ開けたり閉めたりをしているうちに、なんとか体に掛けても大丈夫そうな温度になった。久し振りにシャワーを頭から浴びる。水の勢いと温度が安定しないが、まあ火傷するほどではない。石鹸は泡立ちは悪いがほんのり良い香りがした。こうして体を洗うのもけっこう久し振りだな…。イーペルでもお湯浴びは毎日していたけど、石鹸は洗濯用のしか無かったしシャンプーなんてあるわけがない。正直臭いは気になっていた。塹壕全体に独特な臭気が立ちこめていたからあれだけど、そのまま街にお出かけする気にはなれない状況だった。

 久し振りに全身スッキリしてバスルームを出ると、気の利く2人がオイルを用意してくれていた。当然戦場で支給されたものではなく、大佐のお土産の一つだ。バラの香りも華やかなそれを、石鹸でキシキシになった髪の毛に擦り込んでいく。ドライヤーが無いので後は自然乾燥だ。昔の人はせいぜい月1回くらいしか頭を洗わないと聞いてうわぁってなってたけど、こうしてやってみると毎日は無理だと分かる。スザナが私の髪をタオルで拭きがてら遊んでいるうちに、ユーリアが次にお風呂に行った。椅子に座ってされるがままにしていると、どんどん眠くなってくる。なんだかんだで相当緊張していたらしい。恐れていた市街地での戦闘は無かった。市民、子供に銃を向けなければいけないようなこともなく、平和に、というのも変だがここまで来れた。

 スザナの手の動きに合わせて、優しく頭が左右に揺れる。オイルのバラの香りと石鹸のハーブの香りが入り混じる中、私の意識はどんどん曖昧に溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る