第5話 柴田軍、交戦す

 天正五年閏七月頃(西暦1577年8月頃)

 上杉謙信が二万もの軍勢を引き連れて春日山城より能登七尾城に向けて出陣した。


 天正五年八月八日(西暦1577年9月19日)

 その謙信出陣の連絡を受けた織田家家老、柴田勝家率いる四万もの軍勢にも動員が掛かった。主な陣容は滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤利治、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、長谷川秀一、徳山則秀、堀秀政、及び若狭国国人衆と記録される。 (信長公記より)

 その軍容に並んで能登孝恩寺の僧、宗顒そうぐうが居たという。



 北上する柴田軍は、宗顒と地元土民の案内にて北陸街道を通って加賀国南部の鹿沼郡に入る。そこでは街道が海側と山側との二手に分かれており、宗顒も地元民も案内は山側へと誘導するのだ。確か表街道は海側だったと思うのだが……。




「ところで宗顒僧都、どうして山側に進行する?」


 そう聞く柴田勝家に宗顒は頭巾を外すと後頭部を二度ほど掻く。季節はもう秋となってるが、残暑と先日の雨のせいか宗顒の手入れされた禿頭とくとうから汗雫が光る。


「ははっ、こちらの方が道が整備されてますゆえ。───海側もある程度は整備されてますが、いくつか道が狭隘な所があるため休息地には苦労しますし、兵糧の補給でも海岸線にはそんな大きな村落はございません。それよりやはり海風は身体を害するかと思いまして……余計な事でしたでございましょうか」


 大軍を率いての行軍にとって休息地は気を遣う。何せ狭いところで襲撃されればたちまち軍は混乱するだろうし、場合によっては同士討ちの原因にもなりかねない。街道が広いほうが敵に行動が筒抜けと思われがちだが、実際は敵の伏兵を恐れるのなら広い所を行進するほうが安心と言えるだろう。それに進軍するにも兵糧は必要となり、場合によっては村落でそれ相応の金銭を支払えば買うことも出来る。しかし小さな集落しかなければ買える量にも限度はあるのだが。



「そうか。───ひょっとして宗顒僧都は軍略の知識はお有りで?」


「いえいえ、幼き頃に少し齧った程度でございますよ」


 そう言って宗顒は懐から手拭いを取り出すと頭や顔の汗を乱暴に拭う。そして静かに口を開いたのだ。


「実は能登畠山家家老の長綱連、───実は私の父なんです」


「なっ!」


 勝家から見れば宗顒はいつも冷静に振舞っていると映っていた。織田信長からの、能登七尾城救援命令の書状を持ってきた宗顒はひたすらに平身低頭で願い出てたのをも覚えている。そして今も彼は、その実父が幼き当主と城内に逃げ込んだ民を守りつつ上杉謙信相手に奮戦してるのを想像すれば心配や不安、愚痴の一つでも溢したくなるだろう。しかしそんな事もせずだ冷静に淡々と道案内をしてる姿を見れば、その心の強さたるや目を見張るものがあったようだ。


「そ、それですと父上の御身、不安でございましょう?」


「いえ、私はもう既に世俗を棄てた身です。むしろご心配頂き恐悦至極です」


「そうですか。それほどの軍略の知識もあるのでしたら───もし還俗をお考えでしたら───」


「あともうしばらく進みますと粟津ですよ柴田殿。何せ養老二年(718年)に開かれた歴史ある温泉地なんですよ。良ければ皆様でひと汗流されるのは如何でしょうか?」


「え、あ、───すまぬ宗顒僧都、余計なお世話でしたな。では僧都のお言葉に甘えて……」


「敵襲! 敵襲だッ! 一向宗徒だー!」



 哨戒に出してた騎馬兵が大声を上げて街道を掛けてきた。勝家の周りの旗本たちにも緊張が走る。二陣目の哨戒兵が勝家の前で畏まると状況を報告した。


 小松村や本折村などの能美組や御幸塚村などの一向宗徒が粟津の口にて襲い掛かってきたという。しかし土民たちは地区からの寄せ集め集団だったようで、訓練を受けた坊官も指揮官も不在だったようである。そのため先陣を買って出てくれた前田利家や佐々成政らが一向宗徒とぶつかり合ったそうだ。


 他の哨戒兵たちが逐一報告に来る。

 どうやら戦闘は散発的に行われただけで、織田家の正規軍とぶつかるとすぐに彼らは算を乱して散っていくのだった。(粟津口の戦い)


 その後戦闘が一段落した本隊は休息に入る。兵たちには代わる代わる粟津の湯を堪能したという。中にはもう少し山奥まで足を延ばして山中や山代、片山津の温泉を愉しんだものもあると聞く。そう、加賀国南部はあちこちに温泉が湧き出る豊かな土地でもあったのだ。そうなれば軍紀にも関わると思った勝家は、家臣や与力らに兵たちが勝手な行動をしないように注意することとなったという。



 温泉地である粟津を抜けると平野部に差し掛かった。小高い丘より見下ろせば右側は霊峰白山を頂く山地となり、左側は日本海が広がり、正面はひたすらに田地であった。


 そして散発的だったとは言え、勝家らは粟津口で戦闘を吹っ掛けてきた小松村や本折村、安宅や富樫(※)などを焼き払った。(信長公記より)


 村落の焼き払いは粟津口の戦いにおける仕置きの一つだった。進軍する者らに乱暴狼藉を働けばそれ相応の罰が来て当然なのだ。その後柴田軍はかけはし川を渡り、後々の世になると北陸の関ケ原合戦と呼ばれる『浅井畷あさいなわての戦い』が行われた泥濘地や深田を抜け、寺井庄に入る。


 寺井庄で小休止を取った柴田軍はついに手取川を渡り、水島みぢしま(現在の白山市水島みずしま町)へ入るのだった。






※富樫

 きっと太田牛一は加賀へ出向いたことがないため、信長公記では安宅あたかの事を『阿多賀』と記載するなど誤字があったと想像できます。しかし、この『富樫』については小松市や金沢市、石川県にある図書館や歴史資料館などに足を運んで調べましたが、ついぞ見つけることは出来ませんでした。


 ひょっとしたら昭和10年に金沢市へ編入した『富樫村(現在の高尾や泉野周辺)』を指してるのかとも思いましたし、ウィ●ペディアでもそれをリンク先としてましたが、前出の小松村や本折村、安宅からはあまりにも場所が離れすぎてます。

(その三つの地名なら、小松駅から北鉄小松バスが日に数本だけ出してる『安宅神社行き』の路線上にはこれらに該当する村落があったようです)


 ですので『富樫とはどこだ?』ですが、無い知恵を絞っての想像と前置きを致しますが、歌舞伎演目の『勧進帳』にて安宅関を管理する富樫泰家の自宅ないし荘園があった場所が「富樫」なのではないでしょうか?


 ですが……歌舞伎演目の勧進帳も如意の渡しのエピソードを下敷きにしたフィクションでしょうし、安宅に関所があったという歴史的実在性は無いとも言われてます。(しかし『安宅関跡』が石川県史跡の登録を受けてますが)


 まるで『調べましたけど判りませんでした!』といったク●ブログ風になってしまいましたが、拙書を読んでもし疑問に思った方へ先んじての回答とさせていただきます。

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