第104話 彼女
黒髪の女性はどこか茫洋とした瞳で、視線をさまよわせた。その瞳の色はやはり黒曜。
定まらない両目が、ふと、ユーリを見て止まる。じっと見定めるように見つめてくる。
ふわりと彼女の体が浮いた。黒髪がなびく。
アウレリウスが警戒度を高めた。ユーリを背後にかばって立つ。
黒髪の女は気にした様子もなく宙を滑って、無音のままに着地した。否、着地ではない。わずかに浮いたままでいる。
「お姉さん」
彼女が口を開いた。ひび割れた老婆のような声だった。
「あのときの、お姉さん。間違いない。やっと、やっと会えた……!」
女がユーリに手を伸ばす。
ユーリは驚くよりも不思議に思った。お姉さんと呼んでいるが、黒髪の女はユーリと同じくらいの年頃か、むしろ少し上に見える。それに『あのとき』とはどういうことだろうか。
「何者だ。それ以上近づくな」
アウレリウスが唸るような声を出す。
女は彼に冷たい目を向けた。冷たいというよりも、何の興味もない石ころを見るような目。
「邪魔をしないで。たとえグラシアス家の者でも、余計な手出しをするのなら、容赦はしない」
「何……!?」
女から放たれた黒い魔力が物理的な圧力となって、ユーリ以外の全員にのしかかる。
アウレリウスが膝をついた。消耗しきったユリウスも立ち上がれないでいる。ロビンとヴィーは地面に倒れてしまった。
「待って、やめて!」
思わずユーリは声を上げた。
「話をしましょう。あなたは誰で、何をしようとしているのか。全てはそれからよ!」
ユーリの言葉を聞いた女は、ふと笑った。
「やっぱり優しいね、お姉さん。わたしのことは……分からないか。あなたにとっては一瞬で、しかも夜だったものね。じゃあ、これならどうかな」
彼女の姿がぶれる。背格好が少しだけ変わる。しわがれた声が高く澄んだものに変化する。
三十歳程度に見えた彼女は、十代後半の少女の姿に変わっていた。
ユーリは目を見開く。彼女は確かに見覚えがあった。
ユーリの脳裏にいくつもの場面が浮かんでは消える。
細い三日月の夜、住宅地の道。
すれ違った女子高生。白いふわふわの――小犬のマスコットのイヤリング。
突然現れた魔法陣から、彼女を助け出したこと。
ユーリが身代わりの形で、ユピテル帝国にやってきたこと――。
「あなたは、まさか。あの冬の日の、この世界に呼ばれた夜の……!」
「思い出してくれて、よかった。うん、そう。わたしはあのときの女子高生、
そう言って少女は――アイリは微笑んだ。
アイリは少し待ってねと言って、何やら作業を始めた。
腐り落ちた魔王竜の体に視線を向けると、黒い血と肉は流れる方向を変えて、深い穴へと注がれるように落ちていった。魔王竜が這い出てきた穴である。
「魔力が少し足りないけれど、まあ、ギリギリ何とかなるかな」
そんなことを言っている。
彼女が穴を覗き込めば、断崖のような側面に細い螺旋階段が現れた。階段は長くて、途中から暗がりに飲まれて行く先が見えない。
「さあ、行こっか」
アイリはユーリの手を取る。ユーリはぎくりとした。アイリの手があまりにも冷たくて、生きている人間のものとは思えなかったので。
「ま、待て……!」
未だ魔力の重圧を受けながら、アウレリウスが呻いた。
「ユーリをどこに連れて行く気だ」
「穴の底」
アイリはあっさりとした口調で言う。
「危険はないよ。わたしがお姉さんを危険な目にあわせるわけがない。あなたたちの役目は終わったから、もう帰って」
「どういうことだ!」
「もう、うるさいなあ。あまり時間がないの。わたしだって、あなたたちを殺したりはしたくない」
そう言いながらも、アイリの瞳に殺気が宿った。
ユーリが慌てて言う。
「ねえアイリ、そんなことを言うのはやめて。ちゃんとついていくから、どういうことか説明してほしいの。できればアウレリウスにも聞かせてやって。彼は私の……大事な人だから」
アイリはユーリとアウレリウスを交互に見た。少し迷った様子だったが、やがてうなずく。
「お姉さんに頼まれたら、嫌とは言えないよ。分かった。じゃあそこの金髪、ついてきて」
「待って、ユリウスたちは今は戦えないの。魔物が襲ってきたら危ないわ」
ユーリが必死に言ったので、アイリは困ったように軽く首を振った。
「ううーん、仕方ないなあ。それじゃあ全員、ついてきていいよ」
その言葉と同時に全員の重圧が解かれた。ユリウスは自力で、ロビンとヴィーは助け合って身を起こす。
「さっきも言ったけど、時間に余裕がないの。階段を下りながら話すね」
穴の縁までやってきて、アイリはやっと手を離した。
幅の狭い螺旋階段を迷いなく下りていく。
実力差を考えれば、ついていく以外の選択肢はない。逃げようとしたところで無駄だろう。
最初にユーリが、次にアウレリウスが続いた。さらにユリウス、ロビンとヴィーが階段に足をかける。
深い深い穴の底へと向かって、彼らは歩き始めた。
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