第86話 バター増産


 それからしばらくは、何事もなく日々が過ぎていった。

 ユーリの現在の仕事は、倉庫のシステム管理と魔物出現地図の監督。カレーと石けん作りの責任者である。

 それぞれの仕事で手伝ってくれる人々が成長してきたので、ユーリはその分時間を取れるようになった。


「遠心分離機を作りましょう」


 と、彼女は言った。

 場所は冒険者ギルドの敷地、カレーと石けん作りの小屋の前である。


「ユーリ姐さんが、またなにか始めるのか」


 ファルトが興味深そうに話を聞いている。シロも足元でユーリを見上げていた。


「遠心分離機はバターを作るための道具よ。カレーの油はやっぱりバターが一番合うもの」


「レッドボアの脂は臭いもんな」


「そうそう。もっと簡単にバターが作れるようになれば、カレー作りに役立つから」


 ユピテル帝国では、バターは軟膏の一種で薬扱いである。

 伝統的な作り方は、革袋にヤギの乳を入れて木に吊るし、ひたすら棒で叩くというもの。牛乳ではなくヤギなのは、この国ではミルク用の家畜としてヤギが普及しているからだ。

 揺れる革袋が遠心分離機のような役割を果たして、乳からバターが分離される。

 棒で叩くやり方は時間と労力がとてもかかるので、バターはそこそこの高級品だった。


 簡易的な遠心分離機として、ユーリはサラダスピナーを想定している。

 サラダスピナーは本来、洗った野菜の表面についた水滴を飛ばすための道具だ。

 容器の中にザルをセットして、そのザルをぐるぐる回すことで水滴を飛ばす。遠心力を利用している。


 遠心分離機は日本の高性能なものはお値段がかなりする。

 こんな話がある。ユーリの高校時代の友人で理系大学に進んだ人がいて、研究費が足りなくて遠心分離機が買えなかった。彼は苦肉の策で安価なサラダスピナーを買った。

 結果、遠心分離機としてきちんと使えたが、領収書に「サラダスピナー」と書いてあったため経費申請が通らなかったというオチがつく。サラダスピナーはただの料理グッズなので、ゼミの研究と関連性が疑われたのだった。


「ミルクを入れるのだから、中の入れ物はザルでなくていいわね。金属の入れ物の中でぐるぐる回せば、木に吊るして叩くよりずっと効率がいいはず」


 日本のサラダスピナーは電動のものもあったが、ユピテル帝国では当然手回しになる。

 金物師を訪ねて概要を話せば、おおむね伝わった。

 何度かの試作を経て、ユピテル帝国初のサラダスピナー・改め・遠心分離機の完成である。


 木に吊るした袋を棒で叩くのは、それなりの力が要る。男性奴隷の仕事だ。

 けれどサラダスピナーに取り付けられたハンドルを回すだけなら、子供でもできる。

 ヤギミルク自体はそんなに高価なものではない。バターを取り出した後の低脂肪乳も、飲用やヨーグルト作りなどで使える。

 こうしてバター作りもカレー食堂の日課に加わった。


「やったね。これでカレーがおいしく作れる。冬になったらホワイトシチューもいいわ」


 遠心分離機の中に出来上がったバターを見て、ユーリがにっこりと笑う。子供たちも興味津々だ。


「それ、おいしい料理?」


「そうよ! あとはじゃがバターとか、お菓子もいいわね」


 ユーリの頭の中で、バターを使ったレシピがあれこれと浮かんでいった。







 ユーリが時間を見てドリファ軍団に行ってみると、日本刀作りは難航していた。


「やはり、通り一遍の知識だけでは無理でしょうか?」


 ユーリがしょんぼりして言うと、アウレリウスは首を振る。


「いや、それなりに進展はしている。今はまだ玉鋼ではなく、通常の鉄を使って試作を繰り返しているところだ。ただ、鍛冶と魔道具の技術を高度なレベルで組み合わせる必要があるため、慎重になっている」


「そうでしたか」


「ああ。玉鋼を調べたところ、魔の森の魔力がかなりの濃度で含まれていた。砂鉄が地炎獣の体内で凝縮された結果だろう。この貴重な素材を無駄にするわけにはいかぬ。失敗は許されない」


 そんなセリフを言いながらも、アウレリウスはどこか楽しそうだ。忙しい中で仕事が一つ増えたけれど、かえって息抜きになっているのかもしれなかった。


「ユリウスが鍛冶場につきっきりでいる。今ではどちらが鍛冶師か分からぬほどだ」


「そこまでですか。ちょっと意外です。今回のことは特別でも、彼は一つのことに入れ込むタイプではないと思っていました」


 ユーリが首をかしげると、アウレリウスは微苦笑した。


「そうでもないぞ。剣術にしてもそうだが、かなり突き詰める性格だ。負けず嫌いでもある。まあ、この件に関しては奴の……私を含めたグラシアス家とドリファ軍団全体の悲願に直結する。入れ込むのは当然だろう」


 アウレリウスの紫の目に一瞬だけ、憎悪の光が揺れて消えた。

 魔王竜の討伐。八年前に突然現れて以来、その魔物は気配が途絶えている。もともと魔物はどうやって生まれるのか、寿命の長さや普段の暮らしぶりなどといった事柄はほとんど分かっていない。

 緊張の表情を浮かべたユーリに、アウレリウスは淡く微笑んで見せる。


「何、今すぐどうこうという話ではない。魔の森の調査は難しく、あまり進んでいないのもあるが……」


「冒険者ギルドの魔物マップも、浅い場所を中心にしていますから」


「そちらも、なにか気づいたことがあったら教えてくれ」


「はい」


 それから彼らはまた新しい製作物などや事業について話し合って、充実した時間を過ごした。

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