【完結】アラサーOLの異世界就職記

灰猫さんきち

序章 異世界転移は突然に

第1話 プロローグ ~強制的なお引越し~


 ユーリの目の前には、得体のしれないガラクタの山があった。

 学校の体育館ほどもある広い倉庫の中に、スライムの核を乾燥させたものだとか、森トカゲの尻尾だとか、月下草の葉っぱなどが雑然と積み上がっている。

 暑苦しい気温とじめじめの湿気が室内にこもって、ガラクタたち――否、大事な商品である素材の数々――から立ち上る臭いと混ざると、それはもうひどい有り様だ。


「これを全部、在庫確認かぁ……」


 思わずユーリの目が遠くなった。

 蒸し風呂のような中で、一つにまとめてお団子にした髪のうなじが既に汗をかきはじめている。

 でも、諦めるわけにはいかない。これが彼女の仕事である。

 生きていくためには仕事が必要。それがどんな場所で、どんな内容でもだ。


 よし、と一つうなずいて、ユーリは手に力を込めた。

 まずは手近な場所から、少しずつでも確実に進めていこう。そう決意しながら、作業を始めた。


 普通のOLだったユーリが、どうしてこんな目に遭っているのか。

 それは今から数ヶ月前の事件がきっかけだった――。







 ユーリこと山岡悠理ゆうりは今年で二十七歳。大学を出て五年目になるOLである。

 就職したのは、地元の小さな食品メーカー。職場の人とのトラブルもなく、経理と営業事務の二足のわらじで仕事を回してきた。

 五年目ともなれば仕事は慣れたもの。

 何の問題もなく、代わり映えなく……ユーリは平坦な日々を送っていた。


「頼りにしているよ、山岡さん」


 ユーリは仕事熱心で、周囲からの信頼が厚い。人の役に立つのを誇りとしていた。

 だから彼女は、今の環境に満足していた。


 いつまでも「今」は続かない。

 それでも明日は今日と同じ日。その思いから抜け出せないまま、ユーリは暮らしている。







 ある晩冬の夜のことである。

 残業を終えたユーリは、歩き慣れた道を通って家に帰ろうとしていた。


(そろそろ月末が近いから、ちょっと忙しくなるね。頑張ろう)


 そんなことを考えながら、冬の夜気の中を歩いていく。

 考え事をしていても、ここは毎日歩く道。迷うはずもない。

 時刻は夜九時を回ったばかり。

 早くもなく遅くもない時間だが、住宅街は意外な静けさに包まれていた。


 ふと、向こう側から人影が近づいてくる。冬のコートを着ていても分かる、華奢で小柄なシルエット。

 高校生に見える少女が、マフラーに顔を埋めるようにして歩いていた。

 スマホのイヤホンから漏れる、英語のリスニングの音。イヤホンの耳元にはふわふわの白い毛玉が揺れていた。若い女子に人気の小犬のマスコットだ。


(頑張ってるなあ)


 ユーリは素直に感心した。彼女にとって受験勉強はもう十年も前のこと。

 年下の子が勉強に励んでいる姿は、微笑ましかった。

 女子高生と歩み寄り、すれ違う。通り過ぎた彼女は、英会話の旋律と一緒に遠ざかっていく……はずだった。


 突然、強い光が辺りを覆った。

 街灯とも月光とも違う不思議な光が、明滅している。

 とっさに振り向いたユーリの視界で、少女がもがいている。地面の光が波打って、彼女を飲み込もうとしていた。

 光はくるくると回り、魔法陣のような複雑な模様を描いている。


「た、助けて……」


 女子高生と目が合った。片方が外れたイヤホン、白い毛玉が震えている。


「もちろんよ! さあ、手につかまって!」


 ユーリは迷いなくバッグを放りだして、伸ばされた手をしっかりとつかむ。つかんで、引っ張る。

 年下の子に助けを求められて、ためらうユーリではなかった。異常事態の驚きは、目の前の少女を助けようと集中したことで、心から追い出された。

 ところが少女は動かない。見れば、光の地面に足が沈みかけている。足首まで絡め取られている。

 少女の目に涙が浮かんだ。恐怖に表情が歪む。


「こうなったら!」


 ユーリは一度手を離して、少女に体当たりをした。その勢いで女子高生の足は地面から抜けた。

 少女は光る地面の外に出て、しりもちをつく。


(良かった。私も逃げなきゃ)


 ところが今度はユーリの足が動かなかった。先ほどの少女よりも深く、膝下まで光に呑まれている。


「お姉さん! 早くこっちに!」


 少女が必死の形相で手を伸ばしてくる。けれどユーリはその手を取れなかった。

 光はユーリを絡め取って、腰まで胸まで肩まで飲み込んでしまう。


(あ。これ、やばいかも)


 そう思ったとき、既に声は出なかった。口元まで沈み込んでいた。

 光る地面はユーリを全て腹の中に収めた後、唐突に元に戻った。

 地面はただのアスファルト。光の残滓すらなく、波打っていた形跡もない。

 ただ一つの痕跡は、放り出されたユーリのバッグ。それから呆然としている女子高生。


 消えた者と残された者。こうして彼女らの運命は分かたれた――。







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