アラサーOLの異世界就職記
灰猫さんきち
序章 異世界転移は突然に
第1話 強制的なお引越し
ユーリの目の前には、得体のしれないガラクタの山があった。
学校の体育館ほどもある広い倉庫の中に、スライムの核を乾燥させたものだとか、森トカゲの尻尾だとか、月下草の葉っぱなどが雑然と積み上がっている。
暑苦しい気温とじめじめの湿気が室内にこもって、ガラクタたち――否、大事な商品である素材の数々――から立ち上る臭いと混ざると、それはもうひどい有り様だ。
「これを全部、在庫確認かぁ……」
思わずユーリの目が遠くなった。
蒸し風呂のような中で、一つにまとめてお団子にした髪のうなじが既に汗をかきはじめている。
でも、諦めるわけにはいかない。これがユーリの仕事である。
生きていくためには仕事が必要。それがどんな場所で、どんな内容でもだ。
よし、と一つうなずいて、ユーリは手に力を込めた。
まずは手近な場所から、少しずつでも確実に進めていこう。そう決意しながら、作業を始めた。
普通のOLだったユーリが、どうしてこんな目に遭っているのか。
それは今から数ヶ月前の事件がきっかけだった――
ユーリこと山岡
大学を卒業して就職したのは、地元の小さな食品メーカー。上司や同僚たちとトラブルもなく、経理と営業事務の二足のわらじで仕事を回してきた。
五年目ともなれば仕事は慣れたもの。
何の問題もなく、代わり映えなく、刺激もなく……ユーリは平坦な日常を送っていた。
退屈だと思う日はあった。けれど平和な今を変えるほどの気概はなかった。
このままただ年を取っていくのかと、漠然とした不安はあった。それでもまだ二十代だからと、問題を先送りにしていた。
「頼りにしているよ、山岡さん」
職場の人々のそんな言葉を支えに、ユーリは毎日を過ごしていた。
仕事で役に立っている自負はある。それが誇らしかった。
もっと違う仕事に挑戦したい気持ちはあった。転職サイトを見てキャリアアップを夢見たこともある。
転職は実現しなかった。変わらない今を変える必要がないように思えて。
けれど三十歳が近くなれば、友人たちは次々と結婚していく。子供が生まれて幸せそうにしている。
既婚者であれば、独身の頃のように気軽に集まって遊ぶ機会は減る。ユーリは無意識のうちに、少しずつの孤独を深めていた。
変わっていく周囲と、変わらない自分。
焦る気持ちはあった。だから、三十歳になる年に婚活を始めようと先延ばしの決意をしたところだった。
ある晩冬の夜のことである。
残業を終えたユーリは、歩き慣れた道を通って家に帰ろうとしていた。
(そろそろ月末が近いから、ちょっと忙しくなるね。頑張ろう)
そんなことを考えながら、冬の夜気の中を歩いていく。
考え事をしていても、ここは毎日歩く道。迷うはずもない。
時刻は夜九時を回ったばかり。
早くもなく遅くもない時間だが、住宅街は意外な静けさに包まれていた。
空の月は細い三日月。道端に灯る街灯がいつもよりも頼りない光を放っている。
ふと、向こう側から人影が近づいてくる。冬のコートを着ていても分かる、華奢で小柄なシルエット。
高校生に見える少女が、マフラーに顔を埋めるようにして歩いていた。
スマホにつながるイヤホンからは、英語のリスニングらしき音が流れている。
(頑張ってるなあ)
ユーリは素直に感心した。彼女にとって受験勉強はもう十年も前のこと。
年下の少女が勉強に励んでいる姿は、微笑ましかった。
女子高生と歩み寄り、すれ違う。通り過ぎた彼女は、英会話の旋律と一緒に遠ざかっていく……はずだった。
「――え、何これ!」
ユーリの背後で少女が声を上げる。強い光が明滅して、アスファルトの道路を照らしている。
とっさに振り向いたユーリの視界で、少女がもがいている。足元の光がうねって彼女を飲み込もうとしていた。
地面が模様のように波打って光っている。それはまるで見慣れない文字の羅列であり、見知らぬ生き物がうごめいているようでもあった。
「た、助けて……」
女子高生と目が合った。
「もちろんよ! さあ、手をつかんで!」
ユーリは迷いなくバッグを放りだして、伸ばされた手をしっかりとつかむ。つかんで、引っ張る。
年下の少女に助けを求められて、ためらうユーリではなかった。異常事態の驚きは、目の前の少女を助けようと集中したことで、心から追い出された。
ところが少女は動かない。よく見れば、光り輝く地面に足が沈みかけている。足首まで光に絡め取られている。
少女の目に涙が浮かんで、表情が歪む。
「こうなったら!」
ユーリは一度手を離して、少女に体当たりをした。その勢いで女子高生の足は地面から抜けた。
たたらを踏んだ女子高生は光る地面の外に出て、しりもちをつく。
(良かった。私も逃げなきゃ)
ところが今度はユーリの足が動かなかった。先ほどの女子高生よりも深く、膝下まで光に呑まれている。
「お姉さん! 早くこっちに!」
女子高生が手を伸ばしてくれる。けれどユーリはその手を取れなかった。
光はあっという間にユーリを絡め取って、腰まで胸まで肩まで飲み込んでしまう。
(あ。これ、やばいかも)
そう思ったときには既に声は出なかった。口元まで沈み込んでいた。
光る地面はユーリを全て腹の中に収めた後、唐突に元に戻った。
地面はただのアスファルト。光の残滓すらなく、波打っていた形跡もない。
ただ一つの痕跡は、放り出されたユーリのバッグ。それから呆然としている女子高生。
頭上では三日月が、見守るようにあざ笑うように細い光を投げかけていた――
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