七つの夜に甘やかされて、堕とされました

玉響なつめ

第1話

 鳴海なるみ莉子りこは疲れていた。

 それはもう疲れていた。


 希望職に就職して一人前として扱われ、充実した日々を送っていると言えばそうだ。

 だが激務が続けば人間は疲弊する。

 疲弊すれば凡ミスだって犯すものでそうすると今度は精神的にも疲弊する。


 要するに、負のスパイラルの完成だった。

 そこに嵌まってしまったのだ。


「んぇ……?」


 疲れていた。

 だから、莉子は怪しげな占い師に教えられたおまじないなんて試してみただけだ。

 渡された石に、理想の相手・・・・・を思い浮かべ何をしてほしいのか願うだけ――ただそれだけの、まるで小学生がやるようなおまじないをしただけだった。


 そしてそれは叶ってしまった。

 夢の中で現れたのは、浅黒い肌を持つ美丈夫だった。

 不思議な色合いの虹彩は、青と緑が入り交じったような色合いでその眼光は鋭い。

 そのうえ長身の莉子よりもさらに背の高い、そして彼女を軽々と抱き上げるほどの筋骨隆々な逞しさがあった。

 そして何より彼女をその膝の上に抱き上げて、たくさん撫でてくれて、甘やかしてくれる。まさしく彼女がおまじない・・・・・で願ったとおりの相手だったのだ!


 不思議なことに二人ともバスローブのような服を着ていて、まるでホテルのような一室にいた。

 莉子が五人いたって問題なさそうなほど大きなベッドの上で、はだけたその逞しい胸に寄りかかるようにしていると彼女はまるで子供に戻ったような気持ちになって素直に泣くことができた。

 彼の胸はしっかりとしていていくら彼女が寄りかかろうともびくともしなかったし、筋肉だから固いのかと思えばほどよい柔らかさと、そして高めの体温が心地よい。

 それが余計に彼女の涙を誘った。母の腕に抱かれるような安心感と、異性に抱きしめられるという女の喜び、両方が一挙に押し寄せたようなものだ。


 いきなり鳴いてしまった莉子に初めこそ戸惑う様子を見せた男だったが、それでも彼女のとりとめもない泣き言を一つ一つゆっくりと急かすこともなく聞き出し、そして抱きしめてくれたのだ。

 低い声で「そうか、辛かったな」「偉いぞ」「君は頑張っているんだな」「ああ、俺はここにいる」そう囁きながら、その逞しい胸に抱き留めて頭をなで続けてくれたのだ。

 

 莉子が望んでいた、渇望していた癒やしそのものだった。

 なんと素敵な夢だろう!

 あのおまじないの効果だろうかと莉子が翌日もそれを試したことは言うまでもない。


 そしてそのおまじない・・・・・は彼女に再びその男と出会わせてくれたのだ。


「レグルスさん……」


「リコ、いい子だ。今日も俺に甘えてくれるか?」


 二日目の夜は、名乗りあった。

 初日にたくさん泣いてしまったことを詫びれば「愛らしかった」「また抱きしめてはいけないか?」と切なげに言われ再びその胸に抱き留めてもらった。

 嗅ぎ慣れないスパイシーな香りは彼によく似合っていた。


「そうか、今日も大変だったな」


「でも先輩が助けてくれてね、お礼に飲み物を買ったら今度はお菓子をもらっちゃって……」


「良い先達がいてくれると心強いからな。だが普段からリコが努力を重ねているからこそ可愛がってもらえるんだろう」


「そうかな……」


「ああ、そうだとも」


 三日目の夜は、抱き合ったまま他愛ない話をした。

 レグルスと名乗った男は莉子よりも五つ年上で、体を使う仕事に就いているということ。

 そしてその仕事での責任者の一人で、こうして夢で莉子に会えて甘えてもらえるのがとても癒やしになっていると笑ってくれた。


 莉子は莉子で仕事をしていること、まだ新米で先輩たちに迷惑をかけてばかりでそれが辛いこと。

 恋人にはもっと可愛い恋人がほしいと捨てられてしまって、未練がましい気持ちが捨てられなかったこと。


「もっと甘えてほしい。こんなにも人に甘えられることが嬉しいと思ったことは生まれてから一度もなかった」


「ふふ、レグルスさんってばいつも大げさだよね!」


 四日目の夜は同じ寝台で寝転がった。

 特に色気のあることをしているわけでもないが、やはりバスローブのような服を身にまとい抱きしめられていると日中の仕事で嫌な思いをしたことも忘れられた。

 レグルスは本当に莉子を甘やかすことが楽しいらしい。

 こんなおかしな状況であるにも関わらずそれを受け入れているのは夢だからに違いない。


 それにしては生々しいけれども。

 人肌も、弾力あるこの逞しい胸の感触も、節くれ立った大きな手も。

 だが包み込まれるこの安心感を前には、どうでもいいと莉子は思ってレグルスの腕の中にいるこの時間を堪能した。


「リコ、今日で五日目だ」


「……そう、です、ね……?」


 そして五日目の夜。

 何故だか今日は様子が違った。


 いつものようにホテルのような室内に、バスローブのような服を着た二人。

 変わらない光景だ。

 レグルスはいつものように穏やかで、彼女のことを優しく抱き上げ髪を梳いてくれるが何かが違うと彼女の頭の中で警鐘が鳴らされた。


(そうだ、触れ方が……なんだか、違う気がする)


 これまでは子供にするように、親しい友人にするように。

 大胆に、だけど決して踏み込みすぎないような触れ方だった。


 だが今夜は違う。

 髪に触れる中で耳に、首筋に触れるその指は偶然なんかじゃないと莉子もすぐに察したし、それが男女の営みを連想させるものであることも理解した。


「俺は名を名乗る以外、自分についてあまり語ることを許されていないんだ」


「……?」


「この逢瀬には回数制限がある。だから、どうか選んでほしい。残された期間はあと二日」


「あと二日!?」


 唐突に告げられた終わりまでのカウントダウンに、莉子はぎょっとする。

 思わず手をついた彼の胸板の感触に口元が緩みそうになったが、すぐに気を引き締める。


「そう、あと二日……」


「選ぶって何? なんで日数が……これは夢でしょう? レグルスは……レグルスは、私が思い描いた人じゃないの……?」


「どうだろう。それで終わるかもしれないし、終わらないかもしれない。ただ言えるのは、俺はリコ、きみに希うだけだ」


「私に……?」


「そうだ。今日はとりあえず、抱きしめさせてくれ。いつもより、少しだけ強く……」


 ぎゅうっと抱きしめられるその力は確かにいつもよりも強いような気がして、莉子はどきりとした。

 触れる素肌はなめらかで、分厚い胸板は弾力があって心地良い。

 莉子はそれまで逞しい男性に憧れはあったものの、これまでできた恋人たちはそういったタイプではなかったため妄想が強く出ているのだと思ったが本当にそうだろうかとようやくここに至って疑問を抱いた。


 いつもならば、これらの夢のおかげで莉子は気持ちよく仕事に行くことができていたはずだ。

 だが日中もずっとあの胸板……ではなく、レグルスの言葉が気になって仕方ない。


 あの占い師がいたところにも足を運んだ。

 近くの店舗や、地元の人らしい人間、最寄りの派出所にまで足を伸ばしたが結果は何も得られなかった。


(はあ……どうかしてる)


 莉子は自分の家に戻り、あの石を見る。

 夢の通りならば、あと二日はこの石におまじない・・・・・をすることでレグルスに会えるということだ。


 だがあと二日しか会えないという意味でもあるのだろう。


(どうする? ただの夢、でしょ……?)


 おまじないは、連日じゃないと意味がないって占い師は言っていた。

 でも、あと二日しか会えない。

 そしてもしあの夢が、夢じゃなかったら?


 得体の知れないものに手を出してしまったような気がして手の中に収まるその石を見つめる莉子は、一度サイドテーブルに石を置く。

 おまじないをせずにベッドに寝転がり電気を消し、布団を被ってみる。


 だが、すぐに石を手に取っていた。


(そうよ、まだあと二日あるんだもの……)


 気もそぞろだったせいで今日は何度もミスをして叱責を喰らってしまった。

 それはもう自業自得としか言い様がないのだが、やはり叱られて悲しい。

 あの胸に抱かれて甘やかされたい。思う存分縋り付いて、逞しい腕に包まれたいしあの胸筋に胸を埋めたい。


 願望を自覚にすればするほど変態のようだと自分でも思うが、莉子はあの大きな体躯に甘やかされることに慣れてしまったのだ。

 それまで異性に恋人のように甘やかされる経験があまりにも少なかったことも相俟って、レグルスと過ごすあの夢の時間に依存し始めていると自覚するほどに。


(あと、二日あるから……今日と明日、思いっきり甘やかせてもらえば)


 それですっぱり諦めて、今度は理想の胸筋を持つ人を恋人にすればいい。

 考えていることはなかなか身勝手なものだが、莉子はもう早く甘やかされたくて仕方がなく、それ以上考えることを止めて石をぎゅっと握りしめた。


「来たか、リコ」


「……レグルスさん」


「会いたかった。今夜も……来てくれて嬉しい」


 差し出された手は力強く、莉子はその手に引かれるまま抱きすくめられてほうっと安堵の息を吐いていた。

 そうだ、この力強く温かさを欲していたのだと自覚する。

 これがあと一日しかないだなんて!


「どうして、日数に決まりがあるの……」


「リコ、それは俺との逢瀬を惜しんでくれるのか?」


「それはそうよ。でも……でも、よく考えたらおかしいわ。夢なのに。なんで毎回レグルスさんと会うの? どうして……」


「ああ、リコ。あまり深く考えないでくれ。俺とこれからもこうして会いたいか、会わずに元の生活に戻るか……それだけだ」


「元の、生活……?」


 仕事に追われ、家に帰れば一人きり。

 恋人関係になる相手はいつだって莉子の面倒見の良さを当てにした男ばかりだった。

 本当の彼女はいつだって、グズグズに甘やかされたいだけの女の子だったのに。

 周りの期待に応えなくてはとそればかり思って、しっかり者を演じてしまったからなので自業自得だったけれども。


 莉子は同年代の女性の中では、背が高いことも影響していたのかもしれない。

 頼りになると言われれば悪い気はしなかったから。


 けれどこうして甘やかされることに慣れてしまったものがなくなるという現実を改めて突きつけられ、莉子はぎゅっと胸元で手を握りしめた。


(おかしい、おかしい、私はどうしてこんなに動揺してるの? たった六日間、こうして夢を見ている僅かな時間を一緒に過ごしているだけの相手でしょ?)


 けれど、現実世界で出会えるはずがないと思ってしまうほど理想的な男性。

 理性はおかしいと訴えるのにそれを手放してしまったら次などないかもしれない、そういった恐怖が莉子に押し寄せる。


「……今日はもう、こうして抱き合っていよう。大丈夫だ」


「レグルスさん」


「俺もリコを抱きしめていると、とても気持ちが良い」


「……」


 ぐっと後頭部を押され、莉子はレグルスの胸に顔を埋める形になる。

 やや息が苦しくなるほどの胸に思わずうっとりとして目を閉じると、なんだか全てのことがどうでも良く感じてしまった。


「リコ。大丈夫だ――俺と君は、ぴったりなんだから」


「……?」


「今はただ、俺に甘やかさせてくれ」


 低く、優しい声が莉子の名前を呼ぶ。

 離れがたいと思ってしまうのは何故だろうと思うが、それも頭を優しく撫でられるとその考えも霧散してしまう。


 良くないとどこかで思うのに、このまま全てを委ねてしまいたいとも思う。

 莉子はどうにも抗えず、ただ彼の胸に身を預けるのだった。



 そして七日目。

 莉子は迷わずサイドテーブルに置いていた石を握りしめていた。

 もう何もかもが嫌だった。


 仕事に行けば嫌味な上司に絡まれて、頼りになる先輩も手一杯で、なんとか仕事をこなせたと思ったところに莉子とは関係ないクレームが飛び込みその処理をようやく終えたところで今度はそれについて何故か叱責を受けた。

 誤解だとわかってもらうまで怒鳴り散らされたことは謝罪を受けても気が晴れるわけもなく、それでも大人なのだから呑み込むべきだと我慢して帰路につけばわざとぶつかるという例の迷惑な相手に遭遇し、吹っ飛ばされて壁にぶつかってしまった。


 周囲の人が案じてくれたから良いものの、犯人は逃げおおせるし恥ずかしいしで泣きそうになった莉子だがそれだけでは終わらなかった。


 最寄り駅に着いてこれで一息つけると思ったところで呼び止められて、振り向けばそこには元彼の姿。

 しかも傍らには可愛らしい新しい彼女の姿まであるではないか。


「挙げ句に『縋ってくるな』ですって! そんなことしたことないのに……!」


「それは酷いな」


「何よ、私より初任給低いから貸してくれとかご飯奢ってとか、一緒に住んだら光熱費浮くし結婚の予行にもなるよねとか言ってたのは全部全部そっちじゃない……!!」


「……聞けば聞くほど努力家のリコには相応しくない男だった。それだけだ」


「う、うう~……」


 さめざめと泣く莉子を抱き寄せ、裸の胸が濡れるのも気にとめずレグルスは彼女の頭頂部にキスを落とす。

 それは男女のそれというよりは純粋な慰めのもので、その優しさがより一層傷ついている莉子の心には響くようだった。


「リコ、可愛いリコ。俺と共に来ないか。俺ならばリコを悲しませるような真似などしない。職務の問題もあるから必ずとは約束できないが、共にあれる日はこうして抱き合っていたいし甘やかしてあげたいと思う。俺の膝の上は嫌いか?」


「きらいじゃ、ない、です……」


「俺に甘やかされるのは?」


「すごく、すき」


「ああ、可愛らしい。リコ、なあお願いだ。たかが七日の付き合いだなどと言ってくれるな、これほどまでに俺たちは互いを必要としているじゃないか」


「ひつよう……」


 グスグスと鼻を鳴らしながら、莉子はレグルスの言葉を繰り返した。

 必要、必要としてくれるのか。

 会社にも恋人にもお前なんかいなくてもいいというような扱いをされた、そんな莉子のことをレグルスのように素敵な人物が求めてくれるのか。


 彼が何者かなどまるでわからないし、これがただ甘い言葉を囁いているだけの可能性だって大いにある。

 ましてや、これは莉子が見ている夢の世界にしか過ぎない。


(ああ、もう、なんか……全部どうでもいいや)


 疲れていたのだ。とにかく。

 この人が甘やかしてくれて、この胸に抱かれていれば怖いものなどなくて。

 触れてくるかさついた指先も、耳をくすぐる低い声も、一時の夢を見るならば最上のものであることは間違いない。


「愛してくれる? 私だけ……」


「ああ、勿論だとも」


「頑張れなくても、いいの?」


「君はずっと頑張っていた。少しくらい休んだっていいだろう? また頑張りたくなったら俺がいくらでも手を貸そう」


 優しい声が、降ってくる軽やかなキスが、莉子の心を溶かしていく。

 ああ、甘やかされている。幸せだ。そう思わずにいられない。


「捨てない?」


「捨てるものか。君が俺を拾うんだ」


「私が……?」


「そうだ。莉子だけが俺を救ってくれるんだ。……どうする?」


 彼女の手を取って、頬に当てるレグルスをぼんやりと莉子は見上げた。

 見下ろされているのに圧迫感などない。

 逃がさないと言わんばかりに抱きしめてくる腕の筋肉と厚い胸板に挟まれて、少しだけ苦しかったが……それも求められているのだと思うと、気分が高まるのを感じた。


「いいよ、レグルスさんが私を捨てないなら。甘やかしてくれるなら」


「……ああ女神よ! 聞いたな! ようやく手に入れた、俺の片割れだ!」


「えっ」


 許しを得たと言わんばかりのレグルスが、歓喜の咆哮を上げる。

 そして降ってきた初めての口づけに驚いた莉子が最後に目にしたのは、レグルス越しに見上げた天井が光り輝き始め自分たちを呑み込むその瞬間であった。


 彼女は知らない。

 これは一つの異世界召喚。

 異性が極端に少なくなってしまったとある・・・世界で人々の声に応えた女神が与えた試練。


 七つの夜に、男は妻問いをするのだ。

 ただし権力や腕力にものを言わせるなど言語道断、その身一つで挑まねばならない。

 愛を請うて勝ち得たものだけが、その娘を異世界に連れ帰れるのだ。


 一方的に誘拐するように召喚するなど許さない、女神の思し召しである。


 そして莉子はまだ知らないが、レグルスのいる世界は剣と魔法の世界であり、彼はとある王国の軍団長として勇猛果敢、冷酷な男として名を馳せているのだが――それは、これからの物語であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七つの夜に甘やかされて、堕とされました 玉響なつめ @tamayuranatsume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ