つい先週のこと

雪森十三夜

序章 春よ恋

春よ恋


「あゝ、羨ましいったらない。」


強い意思おもいを押し出すように発した妹の声に、姉は思わず目を丸くした。


「なあに、そんな声を出して。」

「だって、そうだわ。お姉さまばかり、もう中学生だなんて。」


真面目な顔で何を言い出すかと思えば、口から出てきた理由に、姉は思わず噴き出した。


「笑いごとじゃなくてよ。」

「ごめんなさい。でも、仕方がないじゃないの、これ許りは。貴女だって、嫌でも再来年には中学生だわ。」


 姉も、もう少し気の利いた慰め方は出来ないかと思い返してみたものの、何の躊躇ためらいもなく出て来た妹の我がままの可愛さには、思わず母のような窘めの言葉が出て了った。


「嫌でもって、お姉さまは、中学に進学することが嫌なの?」

「嫌ではないわ。」

「そうよね。お姉さまがお好きで選んだ学校なのでしょう?」

「そうよ。」

「あゝ、羨ましいったらないわ。」


 堂々巡りである。


「どうしてそんなに羨ましいの?」

「だって。中学生って大人だわ。」

「大人?」

「そうよ。小学生なんか子どもよ。」

「そうね。」

「特に男の子なんか、上を見ても寒気がするばかり。」

「そんなことを口に出していうものではなくてよ。」


 まだ十歳になったばかりだというのに、この娘は、離れた歳の兄達の存在が大きいのか、どうにも早生の気が拭えない。

 確かに、小学校も高学年になれば、精神的な発達の違いが大きくなってくる。授業で耳にした心身の発達の難しいことはよくわからないが、二つ年上のこの姉にしても、その経験から、大人に足を踏み込む準備の始まった者と、まだそうではない者の違いがあることを身をもって痛感していた。

 成長が早いからといって、必ずしも良いことばかりではない、ということも知っていた。異性を意識し始めるということ、自と他を区別し、比較するようになるということ、等々。そしてそれらが良き方向許りではなく、悪しき結果に転がり落ちて仕舞うことも知っていた。

 姉が中学校を「選んだ」ということは、それを物語っていた。成るく、そういう「悪しき」ことが繰り返されない道を選びたかった。


「そうよ。姉さまは、中学生になったら恋をなさるんでしょう?」

「は?」

「中学生の先輩方というのは、小学生の餓鬼とは違って、それは大人ですもの。きっと素敵な殿方も居られることよ。」

「殿方って、貴女。中学生になったからといって、その人が急に何か変わるわけではないわよ。」

「いいええ、変わるのよ。だって兄様方は、変わりましたもの。」

「はあ、まあ。」


 既に兄達は大学に進学している。下の兄が中学校に入った時といえば、妹がまだ小学校にも上がらない時分のことだ。大方、忙しくて帰宅時間が遅くなり、宿題で妹と遊んで呉れる時間も少なくなったことでも指しているのだろう。


「姉さまはお綺麗だから、それは素敵な彼氏がお出来になるんだわ。」

「それは有難う。」

「あゝ、羨ましいったらないこと。」

「中学生になったら、宿題も多くなるし、勉強のお時間も長くなるし、良いこと許りではないのよ。」

「斯んなことは当たり前だわ。だって、大人になるのですもの。」

「そう、そうね。」


 どういう英才教育を受けたら、此処ここまで模範的な小学生に成れるのだろうかと姉は思う。二年前の自分は、およそ彼氏だの恋だの、憧れでも思うことすらなかった。

 其れよりも十歳にして、自分の人生をどのように変えていくのか、というもっと大きな問題に直面して仕舞ったことで、其れどころではなかったということもあった。

 そう思うと、妹のこうしたある種「夢を見る」ような、わば「乙女心」に根ざした発言が羨ましくも、嬉しくもあった。


「彼氏がお出来になったら、屹度きっと紹介して下さいね。」

「そうね、その時は必ずね。」


 女子一人に対して男子四人。それが姉がこれから通う中学校の性比構成だった。

 曰く、しつけに厳しい。曰く、理非曲直に厳しい。曰く、修養に厳しい。「厳しい」の枚挙にいとまがない。

 似たような中学校が幾つかある中で、最も「厳しい」と言われ、「女子なら他にした方が良い」とさえ言われるその学校を姉が選んだことには、相応かつ厳然たる理由があった。彼女には「其処でなければならない」と思うに至る経験が、目の前の妹がこれから過ごす二年間の間にあった。


「この制服も姉様にはとってもお似合い。」

「有難う。」

「私も姉様と同じ学校に行きたいな。」

「あら、兄さま達と同じところに行くのではなかったの?」

「そう思っていたのだけれど、おでえさんが駄目だって。」

「今から、もう?」

「ええ。女には駄目ですって。いきなり非道ひどいでしょう?小学校は附属なのに。」


 姉と違い、妹は兄達が卒業した小学校に既に受験して入学している。特に問題がなければそのまま中学校に進学できる。


「どうせ他の学校を受験しなければならないのなら、私、姉様と同じ学校にしようかしら。」

「伯父様は、何て仰ったの?」

「知らないわ。兎に角、お前は他にしなさい。って頭ごなしに。おたあさんも何も返してれないし。私、姉様の叔父様も叔母様もそれは羨ましいことよ。」

「そんなこと、言うものじゃなくてよ。」


 姉の諫言に「べえ」と舌を出している妹は、もう心が移ったかのように、吊るされている姉の制服を眺めながらザッハトルテにフォークを入れている。


 階下から、迎えの車が来たと母の声がした。二人して応諾の声を返して立ち上がった。

 妹は、これも早生の一つであるかのように、もう姉の瞳を正面から眺められるほどの上背になっていた。


「姉様の瞳、何時見てもお綺麗だわ。」

「有難う。貴女の肌も素敵よ。」


 常に、従妹いもうと従姉あね翠玉エメラルドの如き瞳に心酔し、従姉あね従妹いもうとの羽二重餅の如き肌理きめ細かな肌に目を奪われた。そして、二人の父の血脈に縁る濡れ羽色の黒髪が夫々の母に縁る宝を一層、際立たせていた。


 二人は、ころころとした笑い声と共に軽やかな音を立てて階下に降り、従妹は伯母と共に迎えの車に乗り込むと隣町の我が家へと帰って行った。


「貴女、明日の準備は済んだの?」

「ええ、済みました。」

「それはそれは厳しいのだから。最初の一日目から、失敗しないのよ。」

「大丈夫。わかっているわ。」


 そう、大丈夫だ。

 姉は今一度心で呟いた。


 この瞳を授けてくれた母が、生涯の絆となる父と出会った学校。生涯の友となる級友達と出会った学校。

 此までの轍を踏まず、此からの道を自分で拓いていけるというのなら、如何なる厳しさが待ち受けていようとも、それを乗り越えない理由はないと信じていた。

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