Mr.Faceless
音喜多子平
Prologue
ここはいわゆるところの高級住宅地と称され、国内規模でみてもかなりの知名度を誇る。家、というよりも邸宅と呼ぶ方が相応しい住宅が立ち並び、どの家々にも立派な門と手入れの行き届いた庭がある。
施行の質が高いのは何も建物だけではない。区画や道路、公園、街路樹に至るまでがきちんとした計画と計算に基づいて造られている事は容易に窺い知れる。住民が食料や生活雑貨を買い求める様な店舗でさえも少し趣向の凝った外装となっており、日本でありながらまるで西洋のような景観となっていた。
そんな真鈴町の中にあって一軒だけ異彩な雰囲気を放つ邸宅がある。
さながら江戸時代から残り続けているかのような、木造かつ瓦屋根の屋敷。日本風の邸宅という特徴だけならばそれまでだが、屋敷を含めた土地の広さはこの界隈でも随一だった。事情を知らない者であっても、その家が旧家もしくは地元での有力者が住まう家であることくらいは安易に予想ができよう。
屋敷の造りに勝るとも劣らない荘厳な門構えには更に厳威な文字で『神邊』と書かれた表札がかかっていた。
神邊家の敷地の中には、さも当然のように蔵が備え付けてある。そしてその蔵のすぐ隣には取って付けた様な掘っ立て小屋が建っていた。かつては蔵守りの仮住まい用の小屋であったが時代と共に番人が必要はなくったが、そのままにしてあるような有様だ。
けれども。冷和時代の今現在、誰も使っていないという訳ではない。
その小屋を何とか修繕しながら使用している男がいた。男はまるで昭和のオンボロアパートのような八畳一間の部屋の中で、卓袱台においたノート型パソコンで何かの仕事していた。パソコンの傍らには英語で書かれた書籍が複数詰まれており、どうやら文芸翻訳をしているらしい。
男は名前を
由緒ある神邊家の現当主なのだが、このような掘っ立て小屋に押し込まれるように生活していた。勿論それには訳がある。
部屋の中には微かにラジオの音声が響いていた。しかし耳を傍立てても聞こえるかどうかが分からない程に音が小さかった。これは夜中だから近所迷惑を気にしているという事ではない。そもそも掘っ立て小屋とはいえ、広い神邊家の敷地の中にあるのだから通常の音量であっても母屋にすら届かないだろう。
これは単純にあまりにも静かすぎると集中できず、反対に音があり過ぎると落ち着かないという裕也の性質の問題だった。
ところで、ラジオからは地域のニュースが流れていた。どうやら良男市で起こった何かの事件の報道のようだが時折、妖怪や物の怪、あやかしという単語が使われている。けれども裕也がそれを聞いて取り乱したり、耳を疑うような様子はまるでない。むしろ、いつも通りといった風に仕事に取り組んでいる。
そうしていると不意に備え付けのチャイムが無機質で電子的な音色を奏でる。
これは表の門が開いて、車に乗った妻と四人の子どもらが帰って来た時の合図だった。
だが時刻は午前五時。夫であり、父親でもある者の常識的な感覚であれば、どのような事情があるにせよこんな時間に返ってくる家族には叱咤叱責を考えるのが普通だろう。しかし裕也からはそのような事を考えている雰囲気は微塵も出ていない。むしろ安堵と楽易の表情をもって家族たちの帰りを迎えるために玄関へと急いだのだった。
母屋までは短距離走ができる程度のひらきがあって、裕也は勝手知ったる自分の家の庭とは言え闇夜に足を取られないように注意しつつ、それでも駆け足で渡り廊下を走って行った。
車は既に玄関前に到着しており、黒塗りの高級車から裕也の妻と子供らが降りてくるところだった。母屋にいた他の家人や、広大な屋敷にいたとしても何ら不思議はない数人の家政婦は玄関で出迎えの最中であり、ようやくたどり着いた裕也は少し首筋が汗ばんでいる。
しかし、趣はやはり普通の家族とは言えない。出迎える側も帰ってきた妻たちも服装が現代人のそれとは到底思えない。誰も彼もが修験者の衣装を黒く染めたような、特殊な和装に身を包んでいる。白いワイシャツと灰色掛ったテーパードパンツを履いている裕也の方が、この場においては時代錯誤をしているようにさえ思われる。
そして車を降りてきた家族たちは、その装束と揃えたかのような鋭い顔つきをしていた。それは女子供とは言え、戦場を知る一介の兵士のようだ。
「ただいま、裕也さん」
妻である、
「おかえり。みんな大丈夫? ケガはしていない」
「ええ。平気よ」
二人はどこにでもいる夫婦ようにお互いを慈しんだ。けれども、それとは対照的に他の家族も果ては家政婦たちも冷ややかな目つきで二人を見ている。特に二人の子供たち四人からは嫌悪と言って差しつかないほどの雰囲気が出ていた。
すると長女の神邊悠はわざと父親である裕也にぶつかって、跳ね除ける勢いで框に上がってきた。
「邪魔」
下の兄弟姉妹たちもそんな姉に倣うかのように、とても実の父親に向かっては言わないであろう言葉を一言二言ぶつけて家の中へ入っていく。
「どけよ、疲れてんだから」
「…うん。ごめんね」
それでも裕也は何も言い返さない。より正しく言えば言い返せないでいた。裕也は妻にも子供たちにも、とある一つの落ち目を感じていたからだ。そんな裕也の態度は余計に子供たちをイラつかせる。
操は妻として母として至極真っ当な叱声を飛ばす。しかし、これはいつものことなので子供たちの耳に入ってはすぐに反対から抜けていく。
「あなたたち、お父さんになんて口をきくの」
「はいはい、ごめんなさーい」
「待ちなさい」
「操さん、悠たちも疲れてるだろうから」
「それとこれとは話が違います」
引き留める裕也の腕を振りほどくと操は子供たちを追って家の奥へと入っていく。すると着替えや簡単な食事を用意するために、家政婦たちがそそくさと跡を追いかけるように消えていく。
玄関には裕也と義理の母が二人きりで残っていた。
義母の俶子は能面のように眉一つ動かさずに裕也に言い放つ。
「情けない。実の子にもあのような態度を取られて」
「すみません…」
「…まったくあの子も、あなたのような男の何が気に入ったのか」
そうして去っていく義母の背中に向かって、裕也はもう一度「すみません」と呟いた。誰もいなくなった玄関で裕也は石の如く固まって動けなくなっていた。十分、二十分と時間が経つと、やがて奥の部屋から子供たちの和気藹々とした声と食事の様子とが僅かに聞こえてきた。
もうどのくらい我が子と食卓を囲んでいないのだろうか。改めて数えるのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。
声を掛ければ操だけは自分に付き合ってくれることくらいは分かっている。けれども裕也は、自分のつまらない自尊心と孤独感を満たすためだけに妻の時間を奪うようなことは死んでもしたくなかった。そんな暇があれば少しでも英気を養い、一分でも一秒でも日常にいる時間を作ってもらいたい。
このままここに突っ立っているのと、自分の仕事部屋に戻るのと。一体どちらが淋しくなるのだろうか。
裕也は溜まっている翻訳を片付けないと、と自分に言い聞かせた。そして家族のいる部屋の傍を通らぬように、わざと遠回りして蔵の隣の掘っ立て小屋に戻っていたのだった。
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