第20話


 退院の日、私は仕事だった。

 もう外へ出ただろうか、とか、そんなことばかりが頭に浮かんで、仕事に集中できない。

 こんなんじゃダメだ、と、朝買っておいたクッキーを口に放り込む。こんな時に、なんでこれを選んだんだろう。自分が選んだクッキーのせいで、気分は転換されるどころか、タッくんの方へと飛んでいく。

 ブゥ、とスマホが震えて、私はさも仕事をしていますという顔で、その震えの理由を知ろうとする。

 カレンさんからのメッセージと写真を受信したと通知がある。

 業務中だが、こっそりと内容を確認することにした。これをずぅっと放ってほく方が、業務に支障が出る。今だ。今、見なければ。

「はぁ……」

 吐息が漏れて、隣の席から「どうかした?」と、案ずる声を頂戴した。

「あぁ、いや。なんか、うまくいって安心しました」

「あぁ、そう?」

 あぁ、そう。

 歩道の花壇に咲く綺麗な花を添え物に、眩しい笑顔を咲かせたタッくんを見ることができて、安心したんだ。

 心がスッキリしてからは、いつも以上にサクサクと作業を進めることができた。隣の席から「安心してからのギアチェンジ感がすごいね」と、驚きの声を頂戴して、私はえへへ、と照れ笑う。

 次に会うのは、ユウくんと二人で遊ぶと思っていた、謎の計画が行われる日。ユウくんもカレンさんも、その内容を知っているようだけれど、何故だか私には教えてくれない、不思議な不思議な、退院祝いの日。


 その日は、びっくりするほど空が青かった。

 雲は、青い海の上で、ぷかぷかと波に揺られながら昼寝をするボートみたいに、一塊だけそこにいた。

「たっこやっき! たっこやっき!」

 タッくんが、はしゃいでる。

 たこ焼きを焼く準備をしているカレンさんは、忙しそうだけれど、楽しそうで、嬉しそう。瞳は二色に煌めいて見える。母として、子どもの退院を祝う煌めきと、たこ焼きが食べ放題っていう煌めき。

 クーラーボックスは、氷水のプールと化している。その中を、お茶にオレンジジュース、コーラ――もちろんレモネードも泳いでいた。

 汚れたりしないようにと少しだけ離れた場所に置いてある椅子替わりの踏み台には、私が持ってきた缶と、私がタッくんにプレゼントした缶が、口を開けて仲良く並んでいる。少しだけ遠くから、私たちのことを見てる。

『買って来たぞー』

 ユウくんがすっと、声がした駐車場のほうへと走り出した。

『ありがとうございます。すみません、買ってくるの忘れちゃって』

『いやいや、気にしないで。パッと行ってパッと買うだけ。なんてことないさ。ユウくん。何度も言われたら迷惑かもしれないけれど、言わせて。タツキのために、こんな素敵な計画をありがとう。タツキ、すごく喜んでたんだ。昨日の夜なんてね、「寝れない」って言って、ずっとそわそわしていて。気付いたらソファーで寝てたよ』

 聞き耳を立てるのは、きっとよくないことだと思う。だけど、どうにも気になって、だんだんと近づいてくる話声を、私の耳は拾い続けた。

 カン、と短い音が鳴って、それが誰が鳴らしたものかと考え始めるまでずっと。

「サキねぇ、カンカン触って……ないよね?」

「え、タッくん……じゃないか。そこからじゃ、手が届かないもんね」

「ゴムみたいに伸びたら届くけどね。オレの腕、まだ伸びないからな~」

「一生伸びませ~ん」

「ったく、母ちゃんは夢がない!」

 空を見た。雲はほとんど動いていない。上空同様、地上にも、強い風は吹いていない。誰だろう。缶から音を、出したのは。

「それじゃあ、焼きまーす!」

「やったー! 待ってました!」

「はーい。じゃあ、お父さん。おねがい」

 カレンさんが、たこ焼きを焼く作業を丸投げした。タッくんはなんだかツッコミをいれたそうな顔をしながら、「もーっ」って言って、笑った。

「鉄板ものはお任せあれ」

 タッくんのお父さんが、腕まくりをして、鉄板に油を塗り始めた。ジュウゥっと、生地を注ぎ入れる前からもう、美味しそうな音と匂いがしてる。

「じゃあ、俺らはこっち、始めますか」

 と、言われましても、私には何を始めようとしているのかさっぱりわからない。ユウくんのことを見てみる。マシュマロの袋と串を手に、ニヤリと笑っている。

「やったー!」

 タッくんは、何を始めようとしているのか、わかっているみたいだ。ユウくんからマシュマロの袋を奪い取ると、勢いよく封を開けた。マシュマロがひとつ、逃げるように飛び出して、コロコロ転がる。たこ焼きに夢中だったはずのカレンさんが飛んできて、落ちたマシュマロを拾って、くるんで捨てた。

「食べる気だったでしょ!」

「そんなわけないだろ? まったく。信用無いんだなぁ、オレ」

 ユウくんが、微笑みながら、タッくんの頭をわしゃわしゃと撫でる。こんな光景、最近見た。あの時も、心がポッとあたたかくなったような気がしたけれど、今のほうがずっと気分がいい。きっと、今は、天井がないからだ。世界がうんと、広いからだ。

 気を取り直して、マシュマロを串にさしていく。小さなバーナーに火をつけて、串刺しのマシュマロをジュワリとあぶった。

「うひょひょ~!」

 タッくんのテンションが、焼きマシュマロで戻ってきた。

「ほーら、アイちゃん。マシュマロだよー!」

 クマのぬいぐるみの口元に、焼きたてのマシュマロをそっと近づける。

 それをつけたら汚れてしまうと、タッくんはわかってる。だから、実際につけたりなんかしない。けれど、カン、と短い音が鳴った。カレンさんの視線がタッくんと缶へ向く。さっきのように注意されるとでも思ったのだろう。タッくんは、ビクッと身体を震わせた。

「つ、つけて、ないよ?」

 きょとん、とした顔。その視線の先には、甘くととろけた、カレンさんの目。

「いらっしゃい。一緒に楽しんでいってね」

「母ちゃん?」

「んー? ほらほら。そろそろ焼けるみたいだよ? マシュマロはまた後にして、たこ焼き食べよ」



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