ep6 留守
バスケの勝負から二週間。梅雨入りして雨の日が続いてる。
学校が半日で終わった木曜日、放課後は志月の部屋で過ごす約束。
志月は先生と話してから下校するって言うから、私だけ先に帰ってきた。『先に入ってていいよ』って鍵を渡してくれたけど、いくら幼なじみで彼女だからってよその家に上がるのは気が引けて、玄関のドアの前で待っている。
スマホが震えてメッセージの受信を知らせる。
【乗ってる電車が事故で止まったから遅くなりそう】
【適当にテレビとか見てて】
〝ごめん〟のスタンプが添えられている。
返信しようとしたところで、身体がブルッと小さく震える。雨のせいか少し肌寒い。
仕方なく志月を待たずに家に上がらせてもらうことにした。
「おじゃましまーす……」
玄関のドアを開けて小さな声で言ったら足元に目をやって、架月の靴も無いことを確認する。
留守なことにどこかホッとする。
いつも来ている家だから、電気のスイッチもテレビのリモコンの場所もわかってるけど、誰もいない室内はどこか居心地が悪い。
そんな感じで十五分くらい経った頃、架月に渡す授業のノートがあったことを思い出した。志月はあれからもノートは渡していいって言ってくれてるから、少しのうしろめたさを感じながらも架月の分のノートをとり続けてる。
部屋の前にノートを置く、それだけのつもりだった。
だけど、架月の部屋のドアが少し開いていて……
『俺の部屋で遊ぼうよ』
『ヒナが読みたいって言ってたマンガ読みにくる?』
『花火、俺の部屋のベランダから見えるよ』
あの頃の架月の声がフラッシュバックみたいに聞こえてきた。
絶対にいけないことだってわかってる。
わかってるのに……
ドアをそっと押して、架月の部屋に足を踏み入れてしまった。
家具のレイアウトが変わらないから一見昔と変わっていないように見えた架月の部屋は、本棚からバスケ関連の本が無くなっていて昔よりも随分と殺風景な部屋になっていた。
ここにももう、私の知っている架月はいないんだ……って自分勝手な感傷に浸ってる時だった。
「ひとの部屋で何やってんだよ」
ドアの方から冷たい怒りに満ちた声が聞こえて、心臓が止まるんじゃないかと思うほどギクッと大きな音を立てた。
「あ、あ……か、え、えっと……」
唇が震えてしまって、うまく言葉が出てこない。
「のぞきの次は不法侵入かよ」
光の無い架月の目が、怖いぐらい冷たい。
必死になって首をぶんぶんと横に振る。
「ち、ちが……の、ノートっ」
持っていたノートを、震える手で握りしめて架月に見せる。
「この間俺が言ったこと忘れたのか?」
——『これ以上うぜえことするなら、次はマジでやめねーから』
部屋に入ってくる架月から逃れようと
「誘ってんの?」
架月が意地悪く笑う。
追い詰められて、ただ首を振って否定することしかできない。
そのままベッドの上に押し倒されて、架月が冷たい目のまま覆い被さる。
「やっ……架月! 冗談」
「そっちから誘ったんだからな」
架月の手が、シャツの裾から肌に触れる。
「ちょっと……」
抵抗しようとしても力が違いすぎて、屋上の時みたいに押し退けられない。
「架月、やめて!」
この前のは脅かしただけで、今は本気なんだってわかる。
架月は、やめてくれない。
「……」
全身の力が抜ける。
「……いいよ」
「すげー簡単にその気になるんだな」
架月が呆れたように言う。
「……こういうこと、したら……昔の架月に戻ってくれるんだったら、する」
怖くて架月の顔が見られなくて、目を両手で覆いながら言う。
「なんだよそれ」
涙が頬を伝う。これだって自分勝手な涙だってわかってる。
「自分から俺を切ったくせに、戻れって?」
架月の声が、怒りで震えてる。
「こんなノートなんてくだらないもの、何の罪滅ぼしにもなんねえんだよ」
「わかってる……」
そんなの、あの日からずっとわかってる。
「私が悪いってことくらい……ずっとわかってる。だけど」
声が震えて、涙が止まらない。
「怖かったの……あの頃の架月が」
「結局俺のせいかよ」
「違うよ…… 私が、私が逃げたの」
◆
両親が離婚した架月は、はじめのうちはそれまでと何も変わらないように見えた。
だけど、そんなのは表面上だけのことだった。
それまでは架月と志月が二人で受けていた一之瀬家の後継者としての教育が、全部架月にのしかかった。
『今日も家庭教師?』
中一の秋、学校帰りの私が架月の言葉に驚く。
『ちょっと日数増やされちゃってさ』
『大丈夫?』
『うん、志月がいなくなった分も俺がやんないと』
『そっかぁ……』
中一なんてまだまだ幼かったから、〝忙しくて大変そう〟くらいにしか思ってなかった。
『でも、ヒナと遊ぶ時間は作るから』
そんな架月の言葉も、はじめのうちはうれしいとしか思わなかった。
だけど、だんだんと……
『あれ? 架月、部活は?』
『サボった。ヒナうち来る?』
『う、うん』
架月は習い事や家庭教師をサボらない代わりに、部活をサボるようになっていった。
あの頃はこのマンションの部屋にお手伝いさんが来ていたけど、夜になると架月は一人暮らし同然だった。離婚前まではお母さんと志月がいたのに。
あの頃の架月がずっと重圧と孤独の中にいたんだって、今ならよくわかる。
『やっぱりもう部活辞めようかな』
中一の三学期には、架月はそんなことを言い出すようになっていた。
『なんで? バスケがんばってたのに……』
『だってヒナと一緒にいる方が楽しいもん』
家で二人きりになる時間が増えて、架月はハグしたりキスしたり、スキンシップもどんどん増えていった。
『でも私、架月がバスケしてるところ、大好きだよ』
それは本心でもあったけど、次第に架月を説得するための決まり文句みたいになっていった。
そういう話をしたときは、架月は決まって私を抱きしめた。
『会う時間が少なくなっても、ヒナはずっと俺といてよ』
『架月?』
『何があっても、絶対に俺を選んで』
架月がよく言ってた言葉『俺を選んで』。
彼氏として他の男の子より好きでいてっていう、単純な意味だと思ってた。
『俺を選ぶって、約束してくれる?』
『う、うん……』
『俺にはヒナさえいれば、それでいいから』
そんな架月が、中学生の私にはどんどん重たい存在になっていった。
『そういえば志月って元気にしてるの?』
『さあ? 元気なんじゃない?』
『会ってないの?』
架月は無表情でうなずく。
『あいつも色々忙しいみたいだし』
志月の話をするとなんとなく表情をくもらせるようになったのも、その頃からだった。
◆
その頃買ってもらったスマホは、親が決めたルールがセットだった。
普通は鬱陶しいと思いそうなそのルールに、私は少し安心していた。
『お母さんがね、あんまり長電話しちゃだめだって』
『じゃああと五分だけ』
毎晩のように長電話をしたがる架月を制止する言い訳に使えたから。
私だって、毎日学校で会ったって毎晩架月の声が聞きたかった。
だけど他の友だちと電話したい日だってあったし、家族と過ごす時間も必要だったし、見たいテレビだってあった。長い時間を架月一人のためだけに使うことが負担になってしまっていた。
今でも、あの頃のことを思い出すと後悔で胸が締めつけられる。
スマホの向こうで架月が過ごしている夜の冷たさを、あたたかい場所にいる私は全然想像できてなかったってわかるから。
中学二年に上がった頃、架月は部活に全く顔を出さなくなった。
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