窓辺の隣人、心の隣人

窓辺の隣人、心の隣人

『窓辺の隣人、心の隣人』 編・石崎梓


————————ここからが本編です。—————————

去年の正月、まりあから1通の年賀状が来た。

その年賀状には可愛い文字で書かれていたが俺はその文章の内容を鵜吞みにすることはできなかった。

まりあとの出会いは俺が憧れの1人暮らしを始めたころに遡る。

まりあは俺が住むマンションの隣人だった。


この話は、俺が人生で初めて付き合ったまりあとのお話です。

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第1章 おふくろとの別れ


3年前の春。超が付くほどの4流大学を卒業した俺は就職のために1人暮らしを始めた。

ずっと憧れていた1人暮らし。

物件選びのため不動産屋に行くのすらワクワクする。


何件かの不動産屋を廻り

やっと家賃と自分の希望に見合った部屋を見つけた。

間取りは1DKで居住空間は10帖。

まずまずの広さだ。

外観も内装も手入れを入れたばかりとかで小奇麗にできている。


部屋が決まったその週末には引越しで実家を出た。


苦労を掛けたおふくろとの別れ・・・。


中・高とグレた俺はおふくろにいつも心配を掛けていた。

中学で親父が他界。

それからはおふくろが女手一つで俺を育ててくれた。

そんなおふくろの苦労も知らずに、家の貧しさから俺はグレた。

学校や警察から呼び出しをくらうのは日常茶飯事。


その度におふくろは昼夜を問わず俺を迎えに来てくれた。

そして涙を浮かべながら、必死に頭を下げてくれた。


帰り道、おふくろと並んで歩く・・・。


そしておふくろはいつもこの台詞を言う。


「貧乏でごめんね・・・」

引越し業者が俺の荷物を積み込んでくれた。

俺も車に同乗させてもらうことにした。

玄関を出る時俺はおふくろに言った。


「じゃ行ってくるね!体に気をつけてね・・・」


おふくろは昔の様に目に涙をためて俺の手を握った。

そして「これを持って行きなさい」と言って茶封筒を握らせた。

おふくろに見送られて俺は車に乗り込んだ。


「今度この家に帰ってくるのはいつだろう?」自分の育った家を眺めてそう思った。


茶封筒の中身を見た。


そこには1枚のメモと10万円が入っていた。

貧しい母に苦しい捻出だったに違いない。

申し訳ない気持ちと有り難い気持ちが交錯する。


メモ書きを見た。そこには・・・。


「元気でいてくださいね。お野菜はちゃんと食べてくださいね。あなたはいつまでも

母さんの子供です。」と書いてあった。


引越し業者にバレずに、声を押し殺して泣くのは大変だった。

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第2章 まりあとの出会い


「二宮光輝」

俺は郵便受けと部屋のネームプレートに出来るだけ丁寧な字でそう書いた。


こういうことはキチンとしたい。

新しい暮らしを始めるにあたって、俺はそれを1番にすることに決めていた。


マンションの玄関に行って郵便受けにプレートを入れる。

そして部屋に戻ってプレートをはめる。


これでよし。新た人生の始まりだ!

引越し業者が運んでくれた荷物を丁寧に分ける。

これは今日1日で終わらないかもしれない・・・。


そう思いながらも地道に部屋作りに取り組む。

気が付くと夕方になっていた。

そうそう大事なことを忘れていた。


ご近所に挨拶をしなければ。


家を出る数日前。俺が引越しの荷造りをしているとおふくろが

「これをご近所さんにお渡ししてね」

と言って丁寧に包装された箱を2つ持ってきた。


中身はバスタオルと石鹸のセットだった。

俺は今どきご近所廻りなんてするかな?そう思いつつもそれを受け取った。

別にして損することでもないし、こういうことは「年の功」があるおふくろの

言う通りにしておこう。


荷物整理の手を止め両隣の部屋へ挨拶に向かう。

このフロアは4部屋。

俺の部屋は303号室。まずは301号室に行った。

2度ほどインターホンを押したが反応無し。


留守なのか・・・。


今度は隣の302号室へ。

インターホンを押してみる。しばらく待つ・・・ここも反応無し。

もう1度押して出て来なかったら日を改めよう


そう思った矢先。


インターホンのマイクから「ガチャ」っという音がした。

続けて「はい」という声。

若い女だなと分かる。

「あの、今日から隣に越してきた二宮と申します。引っ越しのご挨拶に参りました」


そうインターホンに向かって言うと、ガチャリとドアが開いた。


第一印象で年下だなと思った。


どうやら部屋でくつろいでいたらしく、化粧はしていなかった。


それでもどことなく整った顔をしているのがわかる。

「今日隣に越してきた二宮です。引越しのご挨拶に伺いました」

女性は慌てた様子で

「すみません。すぐに出ます」と答える。

別に慌てなくていいのにな・・・。

そんなことを思いながらドアの前で待っていた。


1分程度待つとドアがガチャリと開いた。

なぜか半開き・・・。チェーンから覗いているのに気づく。

女性はこちらの顔を伺いながら「はい」と言った。

そうか。女性はこれくらい用心しなきゃいけないよな。

物騒な世の中だもん。

「向かいに越してきた二宮です。引越しのご挨拶です。これどうぞ」

俺は母親が用意してくれた箱を出した。


女性は一旦ドアを閉めチェーンを解除してドアを開いた。

「わざわざありがとうございます」

この時女性の全身が初めて見えた。

ドキッとした。可愛かった・・・。正直言って好みのタイプだった。


小さくて少し丸い顔。大きな目。髪は黒くてショート。

身長は小柄だがトレーナーでも分かるほどの巨乳。年齢は20歳前後だと思う。

俺は少し緊張した。

「これつまらない物ですが・・・・」改めて箱を彼女に差し出した。

「どうもすみません」女性は箱を受け取ってニコッと笑った。


やっぱり可愛い。

女性は


「私は引越しのご挨拶しなかったな。でもちゃんとするべきですよね」

意外にも話掛けてきた。


不意を突かれた会話に少し戸惑いながら

「僕も母親が持たせたものだから・・・」

そういって「これからも宜しくお願いします」で締めくくった。


女性と話すことは出来るが、好みのタイプと話すのは少し緊張する。

彼女は「なにか分からないことがあったら、気軽に聞いて下さいね」

そんな優しい言葉を掛けてくれた。


俺は失礼しますと言って302号室のドアを閉めた。

名前を聞くのを忘れていた。

改めて302号の表札を見た。

しかし名前は無かった。女の1人暮らしがバレないための用心なのか?



304号は空室のはずだ。物件案内の時に不動産屋がそう言っていた。

挨拶の必要はない。

部屋に戻ってって少しウキウキした。

あんな可愛い子がお隣さんだなんて。

でもあんまり慣れ慣れしくするのはよしておこう。


変態と思われても住みにくくなる。

廊下で会った時に挨拶する程度がいいな。

俺は挨拶廻りのあと少し部屋を片付け近所のスーパーへ買い物に行った。

初めての1人暮らしだ。

これからは自分で食事も作らなければいけない。

夕飯のメニューはカレーにした。

今はこんなものしか作れない。


でも料理初心者の俺は妙にワクワクしていた。


「美味いカレーを作ってやる!!」

子供の頃から料理番組を見るのは好きだった。

料理の知識も多少なりともあると思っていた。


人参・玉ねぎ・じゃがいも・牛肉・牛脂(無料)・牛乳・マッシュルーム・二段熟カレー(辛口)

を買って帰る。


部屋にキーを差し込むのがなんとも良い。

自分の部屋なんだぁ。ここは。

俺も大人の男になったもんだ・・・。


しみじみとそう感じた。

初めての料理は散々だった。

まず玉ねぎの切り方が分からなかった。

真ん中で半分に切ったまでは良かった。

その半分を繊維に沿って切るのか?はたまた逆か?

適当に切ってみた。目が痛く涙が出た。


それでもカレーなんて適当にやれば出来るだろ!?

甘かった。水の分量を間違えたのか

妙にバシャバシャの水カレーになってしまった。


ご飯も水が多すぎた。

カレーと合わさるとなんとも締まらない味の食い物になった。

それを1人で背中を丸めて食った。

TVはまだ付いていない。


1人の静かな食事・・・。

お袋の笑顔を思い出した。

少し寂しい気分が襲ってきた。


その時インターホンが鳴った。

妙に大きな音なのでビクッとする。

「お客さんだ!でも誰だ??」

なぜか焦ってドアまで行った。


ちゃんとドアホンも付いているのに・・・。


無防備にドアを開けた。

そこに立っていたのはオタクの男だった。


こいつも20歳くらいか?

ちょいピザで髪は妙にベタとしている。

肌も油ぎっていた。

でかいメガネを掛けているのだが、それが少し曇っている。

背も低い160cmあるかないか??


「誰だ?コイツは?」心の中でそう思った瞬間。


「301号の油田ですが・・・」

そいつはボソリとそう言った。


「ああ・・・」


そういえば買い物に出かける時に留守だった

301号のドアポストにメモ書きを入れたっけ。

「303号室に引っ越してきた二宮です。

改めてご挨拶に伺います」


大体こんな内容だった。


俺は「ちょっと待ってて下さい」と言って一旦部屋に入り

おふくろが用意してくれた

バスタオルと石鹸のセットを取ってきた。

それを油田に渡し「よろしくお願いします」と言った。


油田は「はぁ・・・どうも」と言ってそれを受け取り

301号へと戻っていった。


若い奴が多いな。このフロアは。

そんなことを考えながらまた不味いカレーを頬張っていた。

しばらくすると

ピンポーンとまたインターホンが鳴った。


「誰だよ!また油田か?」

面倒くさいなぁと思いつつ今度はドアホンで応答した。


受話器から若い女の声がした。

「新田です。」

新田?誰だ?

「隣の新田です」


隣のあの可愛い子だ!心臓がバクバクする。

あの子は新田という名前なんだ!

俺は慌てた様子を悟られないように「少し待って下さい」と言って

受話器を置いた。


あの子が一体なんの用なんだ?

色々考えつつドアを開けた。

新田さんはニコリと笑いながら

「これカレーです。引越し初日で大変でしょ?温めて食べて下さい」

そう言ってカレーが入ったビニールケースを手渡してきた。


俺は驚いた。

こんなご近所付き合いが本当にあるんだ・・・。

田舎の方ではありそうな話だが

人間関係が希薄になったといわれる現代社会において

ましてやこんな若い子がそんな文化を継承しているとは。


新田さんは「あの・・・。ご飯ありますか?」と聞いてきた。


俺はこれ以上迷惑を掛けてはいけないと思い。

「あります。大丈夫です」と答えた。


新田さんは「容器はドアの前に置いておいて下さい」と言うと

部屋へ戻っていった。

俺は早速そのカレーを食べた。

新田さんのカレーは美味しかった。

俺のカレーとは比べ物にならなかった。

適度にトロみもあった。


食後、俺は近所のコンビニで飲み物の買出しに出た。

そこで運命の再会をした。

この再会が俺の1人暮らしライフを一変させる。

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第3章 油田という男


コンビニに入る。

チラッと雑誌コーナーの前を通るとなにやら見覚えのある姿が。

立ち読みしているその男は・・・。


油田だった。


マイナーなエロマンガ雑誌を立ち読みしている様子だ。

俺はためらった。挨拶すべきか?

気づかぬフリでやり過ごすか?


でも後で油田に気づかれ

無視したと思われのもウザったい。


俺は油田に近づくと「こんばんわ」と声を掛けた。

油田はこっちを向くとメガネの奥に

キョトンとした瞳を泳がせ。

「ああ・・・どうも。こんばんわ」とボソリ・・・。

俺は「それじゃ」と言ってその場を離れた。

数本の飲み物を購入しレジに向かう。

すると俺の後ろに油田が並んだ。


こうなると無視できなくなる。

空気読んでもう少ししてから並べよ!心の中でそう呟く。


俺は仕方なく話しかけた

「油田君はあそこのマンションいつから?」

確実に年下だろう。タメ語でOKだ。


「大学入った時からだから・・・。1年くらいです」

ということは今が2回生。

20歳前後はまんざらハズレでもなさそうだ。


「あそこに住むのになにか注意する点あるかな?」

話すことが無いので無理やり話題を作る。

「う~ん。そうですねぇ」

油田が答えようとした瞬間。

「次の方どうぞ!」レジのお姉さんに促された。

会話途中の中断。


これは会計が終わった後も油田を待つ流れなのか?

タイミングが悪いよ。


そう思いつつ会計をする。

油田はさっさと答えを言えばいいのに

律儀に俺の会計を待っている。


結局俺は油田を待つ事にした。


油田が会計を済ませると

どちらからともなく一緒に店を出て並んで歩いた。

マンションまで10分程度。

俺の頭は話題を探すのにグルグルと回転していた。

2人で歩きながら油田はボソッと

「あそこで注意する点は・・・ないですね」と言った。

ああ。そうなのね。もっと早く答えて欲しかったよ。


川沿いを歩く。

土手には桜が植えられていて、この時期は夜桜が綺麗だった。

俺は今後、幾度となく通るこの川沿いを歩きながら

この街に決めて良かったなぁ等と考えていた。


俺は隣を歩くオタクに話掛けた。

「ウチさぁ。まだテレビ付けて無いから暇なんだよねぇ」

俺はほんの世間話程度のフリだった。


しかしその瞬間油田のメガネの奥が一瞬キラリと光った。


「それじゃ・・・ウチに遊びに来ます?」

マジかよ!?そんな社交性あるの?このオタク。

「え・・・ああ。そうだね・・・」

ダメだ。不意を突かれすぎて上手い断り文句が出て来ない。


「マンガも結構ありますし、気に入ったのがあれば貸しますよ」

なおも油田はガンガン押してくる。


冷静な時なら「片付けが済んでないから」等の言い訳も思いついただろう。

しかしこの時の俺は

「じゃ・・・少しだけお邪魔しようかな?」と答えていた。


言った瞬間激しい後悔が押し寄せてきた。


「ゆっくりしていって下さいよぉ」


粘っこい口調でそういった油田は不気味な笑顔を浮かべていた。

俺と油田はマンションの入り口に到着した。

気が重い・・・。

2人でエレベーターを待ちながら考える。


なんでこんなことになったんだ?


どこにミスがあったんだ?


すると到着したエレベーターから女の子が降りてきた。


新田さんだ!


今は髪をゴムで束ねている。やっぱり可愛い。

両手にゴミ袋を持っていた。

そうか今日はゴミの日だ。


俺はカレーのお礼を言わねばと「さっきはどうも・・・」と言いかけた瞬間

意外な言葉を聞いた。


「やぁ!ゴミ出し?」

爽やかに新田さんに話掛けた人物。


油田だった。

俺はお礼の言葉を飲み込んだ。

このオタク・・・新田さんとやけに慣れ慣れしくないか?


「こんばんわー。ゴミ回収明日だよ。油田くんも今晩中に出したほうがいいよ」

新田さんも笑顔で返す。


えええーーーーーーっ!!!???


この2人はどうやら相当親しい様子だ。


普通ならお互い「こんばんわ」で終わりじゃないか?

しかも「油田くん」と読んでいる。

これは2人の新密度を如実に物語っていた。


俺と油田はエレベーターに乗り込んだ。

俺は新田さんに頭をペコリと下げる程度しか出来なかった。

隣のオタクは「ばいばーい」等とほざいていた。

新田さんも俺に頭を下げた後

油田に手を振って「またね」と言っている。

俺はエレベーターの壁にもたれ掛かり

オタクの後ろ姿を眺めながら

フリーズしていた。


エレベーターが3階に到着する。

すぐ前が油田の部屋だ。

油田がガチャガチャとカギを開ける。

この後この中でこの男と数分を共にするのか。


考えただけで気が滅入った。


油田の「どうぞ」という言葉に促され室内に入る。

俺は目を疑った。

こんな部屋が現実にあるのだ。


壁一面に張られたアニメポスター。

なにやらピンクの髪をした女が

短いセーラー服のスカートから太ももを出している。


またあるポスターは黄色い髪をツインテールに束ねた

女の子がピースをしている。


そんなポスターが壁一面に張られていた。


そうだ。油田は外見だけでなく

正真正銘のオタクだったのだ。

アニメといえばサザ〇さんくらいしか観ない俺には

1人として名前の分かるキャラクターはいない。


棚に目をやる。


例外になく美少女?のフィギアが所狭しと並んでいる。

本棚には同人誌?と思われる雑誌が丁寧に並んでいる。


借りたい本などこの中にあるワケが無い。


「その辺適当に座って下さい」

油田に促されてとりあえず腰を下ろした。

俺は小刻みに震えていたかもしれない。


中・高と散々ケンカをしてきた俺だが

この恐怖心はそれらとまた違ったものがあった。


なにをされるのだろう?

単純に湧いてくる恐怖心を拭い去ることが出来ない。


当の油田は、こんな部屋に住んでいるのに

俺に見られても恥ずかしい様子は全くないようだ。


その心理がまた新たな恐怖を生み出す。


「コーヒーでも入れてきますね」台所に消えていく油田。

コーヒーなど入れられた日には帰るに帰れない。


「あ・・・。どうぞお構いなく!」つい敬語になってしまう。

しかしそんな俺の言葉はお構いなしに

油田はカップを2つ持って出てきた。


「どうぞ」と言ってその1つを俺の前に置いた。

飲む気になれない。


何を盛られていても不思議はない。

話題が見つからない。

しかし油田はそんなこともお構いなしにコーヒーを啜っている。


そうだ!新田さんについて聞いてみよう。

なぜこのオタクが新田さんと親しげな関係なのか?

それはおおいに気になるところであった。


「そ・・・そうだ。油田くん。さっきすれ違った新田さん。

隣の部屋の。親しいの?」


油田は上目遣いに俺を見るとニヤリと不気味に笑い。


「ああ・・・。まりあちゃんですね。同じ学校なんですよ」


ま・・・まりあちゃん!!??

この小デブ。言うに事欠いて「まりあちゃん」だと!!


油田は続けて「そんなことより・・・」


そ・・・そんなことより・・・なんだ??


「こっち系は興味あります?」

そういって右手に持っていたのは

なにやら美少女?のアニメのDVDだった。


「いや。ごめん。全く無い」

俺は即座に答えた。

なにそれ?とでも言おうもんなら

どんな説明を受けるか容易に想像できる。


「二宮さんは・・・。そうでしょうね。フヒヒ」

フヒヒの意味がよく分からない。


そういうと油田は収納の奥をゴソゴソと探り

1つのダンボール箱を出してきた。


「これ貸しますよ。」そういってダンボール一杯に入った

「はじ〇の1歩」を俺に渡した。

「50巻くらいまでありますよ」

そんなことより新田さんの話は??

「返すのはいつでもいいんで」

そういって油田はニヤリと笑った。


これ以上ここにいても新田さんの話は聞けそうにない。

それならばサッサと本を借りて退散したほうが得策だ。


「ありがとう。それじゃ。お邪魔しました。」

俺はダンボールを抱えてそそくさと油田の部屋を後にした。


この日を境に俺と油田の距離が急速に接近していく。

しかし、この時の俺にそんなことを知る由も無かった。

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第4章 社会という厳しさ


その日から2~3日は新田さんにも油田にも会うことは無かった。

マンションにおいて隣近所の付き合いといえば

案外そんなものかもしれない。


生活パターンが違えば数ヶ月顔を合わせなくても不思議はない。

それだけに引越し初日。

油田の部屋まで行ったことが

非現実的なこととすら思えてきた。


その油田に本を返すのは憂鬱の種であった。


しかし油田のお陰でヒマ潰しが出来たのも事実であった。

借りた「はじ〇の一歩」は意外に楽しかった。

実は俺もボクシング経験者なのだ。

そうこうしているうちに入社の日を迎えた。

俺はこのために実家におふくろを残し

1人暮らしを始めたのだ。


その朝、俺はスーツを着てネクタイを締めた。

玄関を出るとき「おふくろ頑張ってくるね!」心の中でそう呟いた。


会社へは3駅。俺は少し早めに家を出た。

電車に揺られる。

俺はこれから毎日毎日通勤電車に乗って

年をとっていくのか・・・。

そう思うと無性に不安な気持ちになった。

おふくろの顔が浮かんでは消えた。


俺が就職したのは中堅の映像制作会社だった。

同期は7人いた。皆新卒入社だ。

最初の1時間は先輩による会社案内だった。


専門用語がバンバン出てくる。

同期の皆も全く理解出来ていない様子だ。

先輩は「そのうち分かる言葉だから今は考えなくていい」と言った。


簡単な会社案内が終わると新入社員はそれぞれの部署に配属された。

俺は制作1部という部署に配属された。

7人のうち俺と同じ制作系は4人いた。

あとの3人は技術系の部署だった。

俺は自分に割り当てられたデスクに腰を下ろした。

5分ほどデスクの引き出しなどを開けて時間を潰す。

しかし誰も何も声を掛けてこない。

なにをすればいいのだ?


妙に落ち着かない。不安な気持ちが襲ってくる。

みんなが俺の一挙手一投足を監視している気がする。

これが会社という場所なのか。


ふと同期に目をやる。

他の同期は先輩と話をしながら早くも仕事を始めている様子。

焦りが出てきた。


その時。


陰気臭いオッサンが「二宮くん・・・」と声を掛けてきた。

50過ぎの背の低い男。

スーツがクタクタで貧乏臭い印象だ。

しかし眼光は鋭い。

仕事が出来るといった感じの眼光ではない。

なんというか「人の気持ちを全て見透かしたような眼光」とでもいえばいいのか。

その男は赤松と名乗った。

俺の直属の上司になるという。

このオッサンの下で働かないといけないのか。

さらに気持ちは沈んだ。


赤松は俺を会議室に呼ぶと一冊のパンフレットを差し出してきた。

「このVPを創る。ロケは2週間後。ディレクターはフリーの志村という男だ。」

VPって何??

「詳しい話は志村から聞いてくれ。志村の指示通り動くように」

そういうと赤松は会議室から消えていった。


混乱した。

VPってなんだ?

フリーのディレクターってことはこの会社にいないのか?

志村という人物はどんな人間なのだ?

赤松に付いていけるか?

不安が波のように押し寄せる。


俺は自分の席に戻って赤松に貰ったパンフレットを見た。

そこには怪しげな機械を

太ももにあてがっている女性の写真があった。


ドライヤーの先端部分に丸い金属が付いているような機械だ。

美容器具らしい。

その金属を当てた部分はなんとスリムになるというのだ。

かなり怪しいぞ。

昼休憩の時間がきたので赤松の許可を貰い昼食に出た。

妙に開放された気分だ。

会社の1階で同期の女の子に出会った。

渡辺とかいう子だったと思う。


渡辺はなにやらオロオロしていた。

「どうしたの?」

俺が話掛けると渡辺はこっちを振り向いた。

目には涙を溜めている。

「昼ごはんを食べるところを・・・」

俺は昼食に渡辺を誘った。

彼女は短大を出た20歳だった。


彼女は女の子でありながら技術系の部署に配属された。

カメラや三脚。その他の荷物を担いで動くのは

男でも大変な部署だ。


俺は昼食を食べながら渡辺に聞いた。

「さっき泣きそうな顔をしてたよな?」


渡辺は不安気な表情を浮かべてこう話した。

「配属のあと先輩に機材の説明を受けたんだけど

全くなにがなんだか理解できなかった。

技術部は電気系統のことも理解しなきゃいけないし・・・。

やっていけるか不安で・・・」

みんな不安は同じなんだな。

俺の制作部も理解出来ない言葉は飛び交うが

技術部よりマシだろう。


ラーペ

フォーペ

NP1

トライ

プロミスト

ハツハツ


こんな意味不明な言葉を平気で使うのが技術部だ。

またこれらの言葉を理解しなければ技術部の資格はない。

初日に・・・矢継ぎ早にこんな専門用語を聞かされた

渡辺の不安は計り知れない。


しかしこの渡辺は数年後立派なカメラマンになる。

まだまだ男性社会が色濃くのこるこの業界で

男性には絶対的に劣る体力面をカバーし

渡辺はカメラマンになったのだ。

素晴らしい努力家といえる。


俺と渡辺は昼食をしまし会社に戻った。

渡辺の部署は1階だ。

エレベーターに乗り込む俺に不安げな表情を見せた渡辺。

俺も不安なんだよ。

心の中でそう呟いた。

昼食後、赤松に連れられ例の会議室へ。

そこには30歳前後の小太りの男がいた。

「志村です。君が二宮くん?」

気さくに話しかけてくる志村に好感を持った。


「僕も2年前はこの会社にいたんだ。

今回は僕のADについてくれるんだね。よろしく」

俺はホッとした。この人となら・・・この人なら

付いていけそうだ。


しかし世の中はそんな甘いものでは無かった。

赤松が「志村あとはヨロシク!」と言って会議室を出て行った。

さて、なにをお手伝いすればいいのだろう?

俺は志村に

「すみませんVPってなんでしょうか?」と尋ねた。


その瞬間、志村の顔色が変わった。


「VPぃぃぃ??そんなことも分からんのか君は?」


さっきまでの気さくな志村はどこにもいなかった。

何か汚いものでも見るような目つきで俺を見下ろし。

「ビデオパッケージ」とだけ言った。


そのビデオパッケージも意味不明だ。


俺は正直ビビった。


世の新入社員は皆こんな感じなのか?

だって新入社員だ。

全ての言葉が理解できるわけがない。

それとも俺が勉強不足なのか?


俺は急に志村に話掛けにくくなった。

それでも勇気を振り絞って声を掛ける。

「あの・・・志村さん。僕は何をすれば・・・」

完全にビビっていた。

どんな言葉が飛んでくるのか?

それが恐怖になっていた。


学生時代なら一瞬でボコボコにしていたような

小デブが社会で怖いのだ。


「これ。今回の台本。読んで」

ドサッと置かれたのはA4のコピー用紙をクリップで束ねたものだった。

これが台本というものか。


俺はそれに目を通した。

日本語なので理解は出来るが

本当の意味での、業界的な意味での理解はモチロン出来ない。


俺は一通り目を通してから

「読みました」と志村に声を掛けた。


「そう。それじゃ明日までに香盤表よろしく」と志村は言った。


香盤表・・・なにそれ??


志村は席を立つと

「んじゃ俺帰るから。お疲れ~」と言葉を残し

部屋を出ようとした。

「ちょ・・・待って下さい」

俺は志村を引き止めた。

ここは曖昧に出来ない。

言葉の意味すら分からないものなんて

引き受けられるわけがない。


志村はまたあの視線を投げかけてきた。

そう。汚いものを見るようなあの目。

「香盤表ってなんですか?」


やれやれといった様子で志村は答えた。

「撮影の順番だよ。それをスタッフが見て

次はこれを撮影すのか。って確認する表だよ」

それだけ言い残して志村は部屋を出た。

フリーなのでいつ帰っても誰も文句を言わない。


志村の声が聞こえる。

「赤松さん。それじゃ~また~」

おいおい。マジかよ。

マジで帰ったのかよ?


俺は途方に暮れた。

実はいま考えても志村のこの行動は暴挙であった

香盤表というものは1つの撮影において

かなり重要なものである。


40人程度の全てのスタッフがそれを元に動く。

この香盤表が適当に作られたものだと

撮影終了時間が大幅にズレ込んでくる。


すると外部スタッフの費用や

スタジオ費用が大幅にUPしてしまうのだ。


かといってタイトにスケジュールを組んでも

あまりに無茶な香盤表だとスタッフに反感を買う。

ひどい場合には技術スタッフに殴られかねない。


香盤表を作成する作業は撮影を熟知し

なおかつ技術的に必要な時間まで理解しないと

到底作れるものではないのだ。

「志村を殴って会社を辞めてやろうか」

入社5時間程度で本気でそう考えた。

志村が帰っていなければ実行していたかもしれない。

あまりにも無茶苦茶だ。


それでも分からないなりに取り組んでみる。

しかしヒントの1つも無い状態では全く何もできない。

仕方無い。赤松に聞こう。

しかし赤松がいるべきデスクにその姿は無かった。


俺は焦った。あんな陰気臭いオッサンでも最後の拠り所なのだ。

ホワイトボードで確認する。


「赤松 A代理店打ち合わせ→直帰」


終わった・・・。

入社初日で完全な絶望感に襲われた。


俺はフラフラと社内を彷徨った。

どうすればいいのか全く分からない。

その時1人の男が声を掛けてきた。

「お前新入社員だろ?どうした?顔色が悪いぞ」

田畑さんである。

志村の1つ後輩にあたるこの人は

社内でも有名な変わり者だ。


タバコとコーヒーを愛しひたすら仕事をしている。

1度会社が停電になった時も

皆パニック状態の中で彼だけは

我関せずといった感じで台本を書き続けていた。

とにかく会社の人間と距離を置き

理想の演出のみを探求する人であった。


この当時、釣り番組をメインに担当していた彼は

のちに天才演出家として社内のエースディレクターとなる。

いま考えてみても、この時田畑さんが

俺に声を掛けてきたのは全くの気まぐれだったのだろう。


俺は目に涙を溜めていたかもしれない。

数時間前の渡辺の状態だ。


俺はとにかく嬉しかった。


荒野にポツンと1人置き去りにされた様な

状態でどうすることも出来ない俺。


そんな俺に声を掛けてくれた人物がいる。

例えそれが誰であれ救われた気持ちになった。


「お願いします。香盤表の書き方を教えて下さい。お願いします」

この時田畑さんがどんな人物ななんて知らない。


いまにして思えば天才演出家に香盤表の書き方を聞くなんて

恐れ多い行為であった。


しかし・・・しかし。俺はこの人を逃すとどんな状況になって

しまうのか想像すら出来なかった。


田畑さんは「香盤表?」と言って目を丸くした。

田畑さんは「ちょっと待ってろ」と言って自分のデスクに向かった。

そして一冊の台本を手に戻ってきた。

「その1番後ろのページが香盤表だ。参考にすればいい」


神様に見えた。

一筋の光明が見えた瞬間であった。


俺は「ありがとうございます。ありがとうございます。」と何度も

頭を下げた。


田畑さんは「じゃ」と言って自分のデスクに戻りかけた

そして「P(プロデューサー)は誰?」と聞いてきた。

俺は「赤松さんです」と答えた。

「D(ディレクター)は?」

「志村さんです。」


田畑さんは少し考える様な表情をして「・・・そうか」と言い残し去っていった。

それから俺は必死になって香盤表を作った。


この撮影時間はどれくらい掛かるのだ?

分からない。


休憩時間は入れたほうがいいのか?

分からない。


食事はやっぱり60分確保するべきなのか?

分からない。


全て分からないが田畑さんに貰った香盤表のお陰で

書き方は分かる。いまはそれでいい。


無茶苦茶な段取りでも知るかっ!

任せたほうが悪いのだ。

そう思いながら作業に没頭した。


しかし1日で全ての撮影を終える香盤表はなかなか出来ない。


時間はみるみる流れていった。

19時。20時。21時。まだまだ終わらない。

入社初日になにやってんだ?俺は。

時々そんな思いが去来してくる。

その度におふくろの顔が浮かんでくる。


おふくろは俺がこんな思いをしてるなんて

きっと知らないんだろうな。

知ったら悲しむかな?


切なさと戦いながらもやっと香盤表は完成した。

今にすればなかり滅茶苦茶な時間の割り振りだったと思う。


しかしその時の俺は空中を見上げながら「やっと帰れる・・・」

そう思うのが精一杯であった。

———————————————————

第5章 まりあのカレー屋さん


入社初日はなんとか切り抜け自宅に帰った。

1人暮らしをしていて良かった。


もし実家通いで初日からこんな時間に帰ってきたら

おふくろが心配してしまう。


俺は飯も食わず風呂にだけ入って寝た。

布団の中で思った。テレビ・映像業界の厳しさは

噂どおりだったと。


2日目の出社。この日からは私服だ。

これはこの業界で数少ない良い部分であろう。


来社した志村にさっそく香盤表を見せた。

「この撮影がこんな短時間でできると思ってんの?

こんな無茶苦茶な香盤で撮影できるわけないじゃん。

やり直し」


あっさりと俺の作った香盤表は付き返された。

「志村いつか殺す!」

そう思いながらまた香盤表を作る。

志村を殺してやりたい!それしか仕事の原動力は無かった。


実際志村をボコる姿を想像してニヤニヤ笑うという

不気味な行動もあったと思う。

とにかく2日目は丸1日香盤表を作った。

志村の許可が下りない事には終わらないこの作業。


勉強ならば自分がやらなければ

テストの点数が悪いだけだ。

いつかは終わる。


しかし社会は上司がOKを出すまで終われない。

いや終わらない。


その日の18時とうとう香盤表は完成した。

10回以上作り直してやっと志村を納得させたのである。


もちろん「俺の最初の試練に良く耐えたな!これから二宮は

俺の立派なパートナーだ!」なんて言葉はない。


志村は「次これパソコンで清書してくれ」と言って台本を渡してきた。

この小ブタはワードを使えない。

台本は全て手書きなのだ。いい加減にしろや!


しかし俺はそれをやるしかないのだ。

嫌なら辞めるか、自らがディレクターになるしかない。

そんな毎日が続く中、ある日ポツンと暇な日が出来た。

赤松も志村もいない。

今日は早く帰れるチャンスだ。


俺は定時になるとササッと会社を飛び出した。

18時に会社の外にいる自分。

こんな早い時間に自由を手に入れた自分。


俺は酔いしれた。

そして電車に飛び乗った。


地元の駅に着くと空腹感に見舞われた。

そういえば入社以来まともに晩飯を食べていない。


俺は帰り道にある某有名カレーチェーンに入った。


メニューを見る。納豆フライドチキンカレーに決めた。

少しグロだと思うかもしれないが

俺はこれが大好きだ。


お決まりですか?女性店員が声を掛けてきた。

俺はメニューから顔を上げた瞬間「あっ・・・」と声を漏らした。


まりあだった。


まりあも驚いた表情で「あ・・・。二宮さん」と言った。

まりあはニコッと笑うと「お仕事帰りですか?」と聞いてきた。

俺は焦りながらも「はい・・・そうです」と答えるのがやっとであった。

それにしても。


カレー屋の制服も見事に似合う。


やっぱり可愛い。


俺は注文を済ますと油田のことを思い出した。

そういえばアイツにマンガ返してなかったな。


まりあが納豆・フライドチキンカレーを持って来た。

「ごゆっくりどうぞ」と微笑み掛けてくれた。

それで胸が一杯になった。


500gは多すぎた。


俺がカレーを食べていると「お疲れ様でしたー」という声が

カウンターから聞こえてきた。


なに?まりあの上がり時間なのか?

厨房の奥に消えていくまりあ。


俺は少しがっかりしつつもカレーを食べた。


すると突然前の席に人が座る気配を感じた。

カレーから顔を上げるとそこにはまりあがいた。

目をパチパチさせる俺を見てまりあは言った。

「いまバイト上がったんです。食事終わるまで待ってるんで

一緒に帰りませんか?」


俺は最初言葉の意味が理解出来なかった。


誰と誰が一緒に帰るって??


俺とまりあか!!??


「うん。すぐ終わるから」そう言って俺は必死にカレーをかっ込んだ。


まりあは笑いながら「ゆっくりでいいですよ。本当に」と言ってくれた。

笑顔が本当に可愛い。

しかし会話が必要だ。

俺は油田から仕入れた情報を元に話掛けた。


「大学生なんだよね。ここはバイト?」

当たり前のことを聞く。

「そうなんですよ。週3日か4日入ってるんです。カレーが好きなんです」


バカみたいな理由だ。しかしバイト選びなんてそんなもんか。


「そういえば俺の引越し初日はカレーありがとう。美味しかったです」


容器はまりあの玄関に置いておいたがお礼はちゃんと言えていなかった。

「油田くんとは友達?」これも気になる。

もしかして彼氏ってことは無いよな?


「そうなんですよ。

彼とは授業が一緒で

そのうち同じマンションって気づいたんですよ。

それからは学校で会っても話する仲になりました。」


なるほど。特別親しい間柄ではなさそうだ。

まりあちゃんと呼ぶ程の仲でもない気がした。


後に分かったことだが油田は

少し知り合いになった

女の子に慣れ慣れしくすることで

自分を大きく見せる癖があった。

俺はカレーを食べ終えるとまりあと一緒に店をでた。

並んで歩く。

マンションまで10分程度の距離。


ついこの前、油田と並んで歩いた時とは大違いだ。


幸せだった。


しかしあっという間にマンションに到着してしまった。


「それじゃまた!」と言って各々自分の部屋へ入る。


俺は幸せの余韻に浸っていた。

これからもっと仲良くなれるかも・・・。


しかし俺の幸せは長く続かなかった。

鞄の中でマナーモードに設定していた携帯。


その携帯に24回もの着信があったこと。

その着信の主が志村であったこと。


この時の俺は自分の置かれた状況に

まだ気づいていなかった。

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第6章 地獄


俺は部屋に帰った後ご機嫌でシャワーを浴びた。

シャワーから出ると冷蔵庫から缶ビールを出して

一気に飲み干した。


うまい!


TVのスイッチを入れた2本目の缶ビールを開ける。


俺は先ほどのまりあとの出来事を回想していた。

表情が勝手にほころんでくる。

頭の中はまりあの笑顔で一杯だった。


何気なく鞄の中の携帯を取り出す。充電しなければ。


携帯がピカピカ光っていた。着信か?

携帯を開いた俺は目を疑った。


「着信24件」


誰だ?24件もの着信なんて。

履歴を見る。一気に背筋が凍りついた。


志村 志村 志村 志村 志村・・・・・


全てが志村からの着信だった。


ドクン・・・。心臓の高鳴りが分かった。

酔いは一気に吹っ飛んでいた。

まりあの笑顔も消えていた。

まさか・・・仕事でなにかあったのか?


俺は震える手で志村に電話した。

怖かった。

これから聞かされる事実は一体どの様なものなのだ?


想像すらつかない。


着信音がなる。1回・・・2回・・・。


ガチャ。


ドキッ・・・。繋がった・・・。


いきなり志村の怒鳴り声が飛び込んできた。

「貴様!いまどこだ!?」


俺は驚いた。志村がまさかこんな声を出すとは。

今まで散々なことを言われたが、それは嫌味を含んだ

ねちっこい言い方だった。


その志村が怒鳴っている。

余程の事体ということは容易に想像できる。

「すみません。自宅ですが・・・」

もう既に謝っている俺がいた。


「お前台本はどうしたっ!!俺がお前に清書を頼んだ台本だ!」


「それでしたら清書の後に志村さんにFAXしていますが・・・」


「バカヤロー!そんな事じゃねーよ。今日代理店に持って行く日だろが!

清書したデータをよ!」


俺は目の前が真っ暗になった。

そうだ・・・。今日は清書した台本をROMに焼いて代理店に提出する日だった。

完全に忘れていた。


「テメーのお陰でフリーの俺に電話がジャンジャン入ってんだよ。

いくらお前に電話しても繋がんねーし。

代理店誤魔化しきれないんだよ!」


もはや志村の怒鳴り声よりも、数段上の恐怖が俺に襲いかかっていた。

時計を見る。22時・・・30分・・・。血の気が引いた。


俺はとにかく志村に言った「すみません。今すぐ代理店に行きます。切ります」


俺は部屋を飛び出した。

手が震えていてキーがドアに入らない。


カギはもういい。とにかく急がなくては!

俺は駅まで全力で走った。汗がダラダラ流れる。

しかし関係ない。


駅に着く。

この時既に23時前。電車はまだ十分にある。

しかし・・・しかし・・・。


ここで俺の失態がどんなものか説明しておこう。

通常1本のVP(企業の説明や、商品の紹介ビデオと思ってもらってよい)は


スポンサー→広告代理店→制作会社の流れで発注される。


我々制作会社の人間はスポンサーに会うことは滅多にない。

せいぜい撮影日か完成試写で顔を会わす程度だ。


スポンサーフォローは全て広告代理店の業務だ。

そしてスポンサーの意向を俺たち制作会社に伝えるのが

広告代理店の仕事だ。


つまり。俺たち制作会社は代理店から仕事を貰っている。

それは今までの実績や信用で仕事が貰えるのだ。

そして今日・・・。


俺は18時に代理店へ台本を持って行く約束をしていた。

代理店は19時にスポンサーへ台本を持っていく。


・・・と言っていた気がする。


それを思い出した俺は更なる恐怖に襲われた。


ドクン・・・。また心臓が高鳴った。


それは正に言葉で表現仕切れるものではない。

今までに味わったことの無い恐怖としか言いようがない。


今日の19時に一体どんなことが起きていたのであろう。

スポンサーはもちろん怒り狂っただろう。

中小クラスの企業にとって新製品のVPは正に社運を掛けている。


社長クラスが打ち合わせに来ていたかも知れない。

少なくとも幹部クラスは確実に全員集合だ。

そこに代理店の人間が行って

「すみません。台本が入手できていません」と言うのか・・・。

代理店の苦痛を想像すると死にたくなる。


そして・・・。

やがてその代理店の苦痛は怒りに変わり

制作会社に向けられる。


この仕事が飛ぶことすらあるかもしれない。

万一それを免れたとしても、その代理店からウチに仕事が来ることは

二度とないだろう。

もはや俺のような新人が想像できる範囲の事態ではない。

いま乗っている電車から飛び降りて死にたい。


早く着いてくれよ!頼むから!


電車のスピードが異常にもどかしい。

たった3つの駅がこれほど遠いと感じたことは無い。


駅に到着した俺は改札へダッシュした。

自動改札へ定期を入れる時間ももったいない。


俺は駅員の窓口を駆け抜けた。

仮に駅員が何か言ってきても止まる気は無い。


俺は会社に飛び込んだ。

もう誰もいなかった。


俺は壁の電気を乱暴に付けると自分のデスクへ走っていった。

引き出しを引っかき回して目的のCD-DOMを持って

会社を飛び出した。

時計を見る23時30分前。

常識的に考えてもう無理だ。

絶対確実に無理だ。


万一代理店の人間がいたら、怒り狂っているはずだ。

どうやって謝ればいいのだ?


肺が痛い。

電車を降りてからずっと走りっぱなしだ。


ウチの会社から代理店までは走って5分の場所だ。


代理店の入っているビルに到着した。


上を見上げる。

代理店の入っているはずのフロアの電気は消えている。

玄関のドアを開けようとしたが開かない。

ビル全体がロックされていた。

俺は財布をあさった。

確か代理店の人間に貰った名刺があるはず。


見つけた。俺は急いで代理店に電話を掛けた。


真っ暗なフロアを見上げながら・・・。


何度も何度も掛け直したが、とうとう電話は繋がらなかった。


筆舌にし難い感情が全身を襲う。

俺はその場に跪いた。

目には涙が浮かんだ。


明日が見えなかった。

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第7章 運命の歯車


俺は真っ暗なオフィスで自分の席に座っていた。

全て終わったな・・・。


恐らくクビであろう。


俺は今回の失敗の損害を考えた。

万一この仕事が飛でしまった場合


会社の損害は甚大なものである。

今までの人件費に加え

もしかすると代理店に損害賠償を支払わなければならないかも。


志村の台本もゴミになり

赤松も会社の信用を失うだろう。

技術スタッフにしてもそうだ。

撮影をする上での

今までの準備や打ち合わせは全て無駄なる。


ライティングに関しては外注スタッフだ。

スケジュールを押さえてしまった以上

ギャラは発生する。


後はスタジオのキャンセル費。衣装代。

そうそうメイクさんもギャラは発生するな。


あの代理店は二度とあの美容器具の会社から仕事を取れないかも。

代理店の人だって自社で激しい吊るし上げを食らうに違いない。


絶望だ。


「死んでしまおうかな?」自然とそんな言葉が出てしまう。

俺は呆然と空中を見ながら思った。


「おふくろの声が・・・聞きたいな」


気が付くと俺は携帯で実家に電話をしていた。

こんな時間だもんな。

おふくろ寝ているよね?


しかし意外にも電話は2コールほどですぐに繋がった。


「はい。二宮です」


2週間ぶりに聞くおふくろの声は妙に優しく

そして懐かしくさえ思えた。


「俺・・・だけど・・・」

震える声を絞り出してやっとそう切り出した。

「光輝かい?どうしたんだい?こんな夜中に」

おふくろは明らかに動揺していた。


そりゃそうであろう。こんな時間に暗い声をした

息子から電話があれば誰だって動揺する。


「もしもし?もしもし?」

おふくろの声を聞いて泣きそうになる。

鼻の付け根の辺りがツンとして痛い。


「おふくろ・・・ごめんね・・・」

やっと出た言葉がそれだった。


バカでアホな息子でごめんね。


一生懸命育ててくれたのに

単純作業も出来ない息子になっちゃってごめんね。


人様に迷惑を掛ける息子になってごめんね。


自慢の息子になれなくてごめんね。


俺はとうとう泣き声になってしまった。

おふくろは言った

「どうしたんだい?話してくれなきゃわからないよ」


俺は泣きながら母親に伝えた。

入社たった2週間程度で

会社に多大な損害を与えてしまったことを。


俺の話を全て聞き終えたおふくろは

ゆっくりと言った。


「そんなことかい?だったら会社を辞めて

また母さんと2人で暮らせばいいじゃないか。

母さんの家に戻ってくればいいじゃないか」


俺は小学校の時以来、口にしていなかった言葉を言った。


「おかあちゃん・・・・」



俺はふと中学生の時の出来事を思い出していた。

親父が亡くなったばかりで

家計が急に切迫された状態になった。


必死でパートに出ていたおふくろの苦労も知らず

俺は夜遊びを覚えた。


そして迎えた俺の誕生日。

ケーキを買う余裕なんてなかったのかもしれない。

深夜帰宅するといかにも不味そうなケーキがテーブルに置いてあった。


おふくろの手作りだった。


おふくろはケーキなど作ったことは無かったのであろう。

クリームはグチャグチャで

上に乗っていた苺は不揃いに並んでいた。


それでもおふくろは言った。

優しそうな笑顔で


「光輝お誕生日おめでとう。ケーキ食べな」

当時の俺は想像を絶するバカだった。

「こんな不味そうなケーキ食えるか!」

そう言ってケーキを壁に投げつけた。


俺も当時ガキだった。

親父がいた時はちゃんとしたケーキが食えたのに。

なんでこんなケーキになったんだよ!


理解はしようとするものの

家庭の経済的変化は感情が受け付けなかったのである。


おふくろは床に散らかったケーキを片付けながら

涙声で言った。


「貧乏でごめんね・・・」

電話口でおふくろの声が聞こえる。


「光輝はなにがあっても母さんの息子だよ」


俺は涙を必死で堪えた。

そして言った。


「ごめん。ごめん。本当はそんなに大したミスじゃないんだ

ちょっと弱気になっただけ。だから心配いらないよ」


そして電話を切った。

これ以上おふくろの声を聞いていたら

また泣いてしまうよ。

それから俺は朝まで自分のデスクでボーッと過ごした。

朝8時。

次々と社員が出社してくる。

この業界で8時に出社してくる人間は大概がロケだ。

事態を知らない人は気軽に俺に声を掛けてくる。


「おお。二宮!早いじゃん。おはよう!」

そして準備を終えると次々にロケへ出動して行った。


誰の顔もロケに対する意気込みが伺え

俺は置いてけぼりをくらったような

惨めさを感じた。


そんな時、女の声が聞こえた。

「二宮くん。早いね~。」

渡辺だった。


通常は制作部のフロアに上がってくることは無い

彼女だったが何かしら用事でもあったのだろう。

「二宮くんもロケ?」事情を知らない渡辺の声は明るい。

「いや・・・」正直答えるのも面倒だった。


「ちょっとミスってさ。泊まり明け」

渡辺が不安気な表情で俺の顔を見る。


「ミスって・・・。どんなミス」

「取り返しのつかないミス」


更に深く追求してこようとする渡辺から

「もう行かないと怒られるよ」と言って俺はトイレへと逃げた。


9時にもなるとそろそろ社内に活気が出てくる。

皆はまだ俺のミスを知らない様子だ。


いや。知っていてあえて無視していているのか?

余計な事まで考えてしまう。


そんな時、フロアの入り口から赤松が見えた。

眉間にシワを寄せ妙に早足で自分のデスクに向かう。


俺は席を立って赤松の元へ駆け寄った。

「赤松さんすみません。俺・・・俺・・・・」

赤松はそんな俺の言葉を遮るように

「志村に聞いた」とだけ言って電話の受話器を上げた。

電話の相手は例の代理店だった。

「この度は誠に・・・。はいはい。すぐに伺います」

俺は赤松の横に立ち胸が締め付けられる思いだった。


しかし俺には何も出来ない。

無力な新入社員なのだ。

電話を切った赤松は俺に

「ROM。原稿の入ったROM」と言った。


俺は自分の席に走っていきCD-ROMを取ってきた。

それを赤松に渡した。

「お前は会社で待っていろ」そういうと赤松はまた早足に

会社を出て行く。


俺と赤松のやり取りに気づいた社員が

事態に気づき始めた様子だ。


「何かあったのか?」


耳を澄ませばそんな声が聞こえてきそうだった。

俺はまた自分のデスクに戻って赤松の帰りを待った。

針のむしろとはこういう状態なのだろう。

事態に気づき始めた社員の視線が痛い。


1時間ほどして赤松が帰ってきた。

どうなったんだ?代理店はどんな反応を見せたのだ?


「赤松さん・・・」近づく俺を無視して

赤松は数人のプロデューサーを集め、会議室に入っていった。

当然俺が入って行ける空気ではなかった。

30分ほどでプロデューサー連中が

会議室から出てきた。


俺は赤松の元に駆け寄った。

「どうだったんですか?代理店は怒っていますか?」


赤松はあからさまに不機嫌な表情で

「まだ分からん」とだけ言った。


そして「二宮。お前は自宅に帰れ。連絡が来るまで出社せんでいい」

俺は腰が崩れるような感覚に襲われた。


撮影まであと3日。今から他のADを立てるのか?

俺は完全にこの仕事から外されたのだ。


入社して初仕事での大失態。

呆然とするしかなかった。

赤松に必要書類を渡して俺はトボトボと会社を出た。

その瞬間だった。

ちょうど来社した志村に出くわした。


いま1番会いたくない人物だった。

しかし謝らないわけにはいかない。


「すいませんでした。志村さん」


精一杯の言葉がそれだった。

しかし志村は例の目線。


そうあの汚いものを見るような目で

俺を一瞥して社内へと消えていった。


呆れてものも言えないのか?

それとも話する価値すらないと思われたのだろうか?


どっちにしろ俺はショックだった。


自宅のある駅まで電車に揺られる。

なぜこんな時間に家に帰るってるんだろ?俺。


消えてしまいたいな・・・。


志村のあの目を思い出す度にそう思った。

マンションの近くで油田に会った。

「あれ?どうしたんですか?こんな時間に」

油田は午前中に帰ってきた俺を不思議に思ったのであろう。


「いや。ちょっとね」

コイツに事情を説明したところで何にもならない。

「そうそう。マンガありがとうね。今度返しにいくよ」


油田は少し心配気な表情で

「それはいつでもいいですけど。顔色悪いですよ」


エレベーターで3階のフロアへ到着した。

その時ちょうど302号のドアが開いて

まりあが出てきた。


会いたく無い時に限ってやたらと人に会うもんだ。

そうか。2人共大学へいくのか。


「おはようございます。あれ顔色悪いですよ?」

まりあも俺の顔を覗き込んできた。


余程血の気の失せた表情をしていたのだろう。

「うん。ちょっとね。風邪気味みたいだから早退」

そういって無理に笑顔を作った。


さすがにまりあに対してだけは

情けない姿を見せれなかった。


「え・・・。大変じゃないですか?」

心配してくれるまりあ。


しかし今は1人なって寝たいんだ。

「大丈夫だから。マジで」


そういって俺は自分の部屋へと消えた。

とにかく眠ろう。

眠ってなにもかも忘れたいんだ・・・。

俺はその日夕方まで眠った。

しかし熟睡は出来なかった。


今現在、会社で起こっているであろう騒ぎを想像すると

夢にまで出てくる。


携帯を見てホッとする。

どこからも着信は無かった。


風呂に入ることも食事をすることも全てが面倒だった。

ただ布団の中で目を瞑っていた。


夜の8時ごろだった。

ピンポーンとやたらと大音量のインターホンが鳴った。


俺は布団のビクッとなった。

頭の中には「もしや会社の人間!?」それが真っ先に浮かんだ。

もはや鬱病状態だった。

恐る恐るインターホンの受話器を取った。

「はい・・・」

すると意外な人物の声だった。


「どうも油田です」

なぜ油田が?


しかし会社関係ではないことに安堵した。

ドアを開けると油田はダンボール箱を抱えていた。


中には「YAWAR〇」がびっしりと詰まっている。


「今日学校でまりあちゃんに聞いたんですけど

二宮さん風邪だって。

だから暇持て余しているかなって。

これ良かったら読んで下さい。」


俺は油田の心遣いが嬉しかった。


ご近所付き合いっていいな。

心底そう思った。


「ありがとうね。油田くん。助かるわ」

笑顔でそう言って俺は「YAWAR〇」を受け取った。

ついでに読破した「はじ〇の一歩」を油田に返した。

「もし具合が悪くなったらいつでも言って下さい」

そういって油田は自室へと帰っていった。


俺は思った。


油田はオタクの趣味が合わないけどいい奴だな。


俺はまた布団に潜り込んで「YAWAR〇」を読み始めた。

昔に読んだマンガであった。妙に懐かしい。


普段は乱暴だが、心の奥底で柔を愛するおじいちゃんは

俺の心を和ませてくれた。


そしてマンガに夢中になることで俺は仕事のことを

忘れようとしていた。

次の日俺は昼過ぎに目を覚ました。


すぐさま携帯を確認してホッとする。

どこからも着信は無かった。


携帯はマナーモードにしておいた。

今の俺の状況では着信音でも心臓が止まりかねない。


俺はふと親友の顔を思い出した。


俺には親友と呼べる友達が1人だけいる。

小学生の時からの幼馴染だ。


こいつだけはいつも俺のことを親身になって

考えてくれた。


俺がグレた時も色メガネで見ることは無く

普通に接してくれた。


俺は親友に電話をした。

久しぶりに声が聞きたくなったのだ。

「やほー!元気?」

受話器越しから聞こえてくる声。

相変わらずだな。

俺が電話したっていうのに。


「おー。元気だよー。そっちは相変わらず?」


「相変わらずさ。フリーターしながら全国を旅してます。」


こいつは高校卒業後フリーターとなり

暇を見つけては日本全国を旅している。


人生気ままが1番。これが奴の口癖だ。

「どうだい?リーマン生活は?」

俺はその辺りを適当に濁した。


「平日の昼に電話してくるなんて映像業界も案外ヒマですね~」

「バーカ。代休だよ。代休」

「代休ならおふくろさんの所帰ってやれっての!」

「まぁその内ね」


俺達は他愛の無い話で盛り上がった。

嬉しかった。心が和んだ。


こんな親友を持てて幸せだと感じた。


「あ・・・俺そろそろバイト行くわ。」


「そか。また電話するよ。バイト頑張れよ!悟」


俺達は再会を約束して電話を切った。

俺はカップラーメンの簡単な食事を済ませて

また布団に潜り込んだ。


油田に借りたYAWAR〇の続きを読む。


夕方5時。ピンポーンとインターホンが鳴った。

またもやビクッとする。

少し音量を下げれないものか?

今度調べてみよう。


「こんばんわ。具合どうですか?」

声の主は油田だった。


「ちょっと待ってね。玄関開けるよ」

油田は心配そうに俺の顔を見る。


「少し顔色良くなりましたね」

「おかげさまで」


「それでですね・・・。もし良かったら今夜

まりあちゃんの部屋ですき焼きパーティーしませんか?」


えええええ!!!マジかよ!!??デブ!!!???

「え・・・。なんで?」

俺はドキドキしながら聞いてみた。


「今日も学校でまりあちゃんと会ったんですけど

二宮さん風邪だし、すき焼きでも食べて元気になってもらおうって」


「ありがとう。行くわ。マジでありがとう」

俺は油田に握手しそうな勢いだった。


「それじゃ6時30分。まりあちゃんの部屋で」

そういって油田は部屋のドアを閉めかけた。


そして・・・。ニヤリと笑ってこう言った。

「僕も初めてなんですよ。彼女の部屋は」


万一部屋で変態行為に及んだら

殴ってやろうと思った。


鏡を見てみる。ヒゲも伸び放題。

髪もボサボサだ。

これではダメだ。


俺は急いで風呂に入った。

小綺麗に身支度を整えていざ302号室へ。

6時30分丁度だった。


まりあの部屋のインターホンを押す。

なぜかドキドキする。


すぐに「はーい」というまりあの声が聞こえた。

「えと。二宮です」

「ちょっと待って下さいね~」


すぐにガチャリとドアが開いた。

髪の毛を束ね

なんと・・・なんとエプロン姿のまりあが登場した。

可愛すぎるとはこのことであろう。


「ようこそ!中へご案内します」

少しふざけた態度もまた可愛い。


玄関を入るといかにも女の子といった感じの

小物が並べられている。

俺の部屋とは大違いだ。

それになんかいい香りがする。

女の子の部屋の香りだ。


俺はその幸せの香りを肺一杯に吸い込んでいた。


リビングに入った瞬間。

急に部屋の臭いが変わった。


鼻とツンと刺激する酸っぱい臭いとでもいおうか・・・。


「やぁ。どうもどうも」

油田が右手を上げていた。


貴様・・・。約束は6時30分だろうが!


しかしこの刺激臭は以前どこかで・・・・。


そうだ!油田の部屋だ。

油田は異常に足が臭かったことを

思い出した!

「油田くんに横にどうぞ!」

まりあが促してくれる。

とりあえず腰を下ろす。


しかし・・・。なぜか妙に腹立たしいシチュエーションだ。

これだと俺が「油田・まりあカップル」の部屋に

お呼ばれされた状況ではないか。


このオタクめ!もうビールまで飲んでやがる。


まりあは俺にも缶ビールを持ってきてくれた。

「材料もう少しで切り終わるんで、それでも飲んでいて下さいね」

そして笑顔。


いちいち可愛い。


隣に目をやる。油田が「まぁまぁ。おひとつ」と言いながら

俺のグラスにビールを注いでいる。


そして「かんぱ~い」と言ってグラスを高々と掲げた。


待て。まりあがまだいないだろ!バカ!

勝手に始めてんじゃねーよ。


はぁ。コイツさえいなければ・・・。

まりあがすき焼きの材料をテーブルに並べて宴は開始した。


俺はまりあにビールを注いであげた。

「私はまだ19なので。少しで」

意外とマジメなんですね。


俺なんて13歳から飲んでいた。

乾杯の後はまりあがすき焼きを始めた。

油田は鍋奉行なのか


「まりあちゃん。野菜はまだだよ」等と

どうでもいいことをほざいている。


俺は久しぶりのすき焼きに少しワクワクしていた。

ウチは貧しかったので、たまのすき焼きも豚肉だったのである。


牛肉のすき焼きは美味かった。

お酒も進む。なんだかんだといいつつ

まりあも結構酒は強そうだった。


酔いが進むにつれてまりあが饒舌になってきた。

「私初めて油田くん見たとき、オタクかな?って思ったー。あはは」

まりあも言いにくいことを平気で言う。


しかし外れてはいない。油田は正真正銘のオタクである。

「それは酷いですよ。まりあちゃん」

酷くねーだろ!

あの部屋がオタクの部屋でなくて一体なんなんだよ?


俺はまりあに「新田さんは誕生日いつなの?」と聞いた。


まりあは酒で頬を赤くしながら

「まりあでいいですよ。二宮さん年上なんだし」

確かにそう言った。


オタクのメガネがキラリと光ったのを見逃さなかった。

あの光は嫉妬の光だ。


チャンス!既成事実を作ってしまえ。

「そうなの。まりあは誕生日いつなの?」

「8月です。15日。終戦記念日です」


悔しそうなオタク。奥歯を噛み締めているのが分かる。

ザマーミロってんだ。

「二宮さんの部屋って私の所と間取り同じなんですか?」

まりあが聞いてきた。


「俺も光輝でいいよ!」すかざすアピール。

「それじゃ。光輝くんの部屋は間取り同じなの?」


よし!タメ語にまで変形したぞ。


光輝くん>油田くん


立場は逆転したぜ。どうだ油田!?

ビールを飲み干す油田。

逆転のチャンスを伺っている様子だ。


俺は畳み込みに入った。

「今度部屋見にくる?」

まりあは

「えー。いいんですか?明日バイト休みなんで、明日でいいですか?」


よし!9割方勝利したぜ。

しかし油田もこのまま引き下がる相手ではなかった。


「僕も伺いましょう。二宮さんの所」


ナニ!!意外としぶといではないか。

「桃鉄持っていきますよ。3人で遊びましょう」


そういって油田は不適な笑みを

俺に投げかけてきたのだ。

時計を見る。もう23時か。

女の子の部屋だしそろそろ退散しなければ。

俺は油田に言った。

「そろそろ帰ろうか?」

「そうですね・・・。今日のところは」

油田もこのままでは戦況不利と読んだのだろう。

仕切り直しをする構えである。


俺と油田はまりあにお礼を言って部屋を出ようとした。

「ところで光輝くん。風邪の具合どう?」

まりあが聞いてきた。


ドキッっとした。

なぜなら仮病だからだ。

「うん。なんか大丈夫そう」


「それならいいけど・・・。明日仕事だよね?お邪魔していいの?」

2回目のドキッ。

「うん。この際ゆっくりしろって。上司が言ってくれたんだ」

「そうか。それじゃ安心だね。」


油田が口を挟む

「いいんですよ。いいんですよ。二宮さんはお偉いさんなんでぇ」

黙れ!オタク!つまらん親父ギャグを言うな。

まりあは玄関まで見送ってくれた。

「それじゃ光輝くん。明日7時にお邪魔するね」

もう朝の7時でもいいですよ。


「それじゃ二宮さん。僕は6時にお邪魔しますね」

え・・・?なんで・・・?


そんな感じで各々が自室へと戻って行った。

本当に楽しい夜だった。


だが俺は自分の立場を決して忘れてはいない。

俺はケアレスミスで会社に多大な迷惑をかけた。

それはどうやっても逃げられない社会的責任であった。


次の日も俺は昼過ぎに目覚めた。

やっぱり熟睡は出来ていない。

目を瞑ると赤松の顔や、志村の冷めた目線がどうやっても浮かんでくる。


俺はコンビニ出掛けた。

今夜はまりあと油田が遊びに来る。

飲み物を購入する。

食事は色々考えた結果ピザを注文することにした。


とてもじゃないが俺の料理はご馳走できない。

6時15分油田が来た。

コイツ。俺の招待(してないけど)は遅れやがって。

油田は

「やぁ。どうも。どうも。」といいながら

大事そうにPS2と桃鉄を抱え上がり込んできた。


俺のTVにPS2をセットしたところでビールを出してやった。

しばし油田と雑談。


7時丁度にまりあがやってきた。

今日もやっぱり可愛い。

「おじゃましまーす」


やっぱり女の子はちゃんと挨拶が出来るね。うんうん。

「こんばんわ油田くん」

「やぁ。どうも。どうも。」

油田の挨拶はいつも同じだ。


「へぇー。ウチとは左右対称の作りなんだ。なるほどー」

そういってまりあは室内を見物する。


「ウチとは全く同じ作りなので、自分の部屋にいるような感じがしますなぁ」

と油田。

作りは一緒でも中身は全然違うだろが!


「綺麗に片付いているね」まりあにそう言われた。

片付いているというより、物が少ないだけであるが。

早速ピザを注文して皆で食べた。

実はすごく楽しかった。

俺はおふくろと2人の食事だったので


学生と3人との食事はなんだか新鮮な感じがした。

食事の後は皆で油田の桃鉄をやった。


ジャンケンの結果、油田とまりあが同じコントローラーになった。

俺は油田の手汗が心配であった。

そんな俺の思いもお構いなしに

まりあはゲームに熱中していた。


そんな横顔を見ていると

まりあはまだまだ子供なのだなと感じてしまう。


この時、俺の気持ちは既に固まっていた。


俺はまりあを好きになってしまったんだ。


俺はまりあとずっと一緒にいたい。

ずっと大切にしたいんだ。胸が熱くなってくる。


「まりあちゃんの握ったコントローラー。少し生温かいですね」

油田だった。

—————————————————————————

第8章 会社復帰


結局その日の桃鉄は明け方までとなった。

徹桃というやつだ。


それ以降油田はヒマがあれば俺の部屋へ遊びに来る仲となった。

しかし俺が油田の部屋へ行くことはあまり無かった。

理由は臭いからである。


しかしなんだかんだ言っても油田もイイ奴には変わりない。

マンガも沢山貸してくれた。


それとは裏腹に俺には大きな不安があった。


そうだ。あれから1週間。会社からの連絡が一切来ていないのだ。

あれ程恐れていた会社からの電話なのに

来ないなら来ないで不安になる。


もしや俺の知らないところでクビになっているのかも?

本気でそんなことを考えていた。


しかしあの事件から10日後。

とうとう会社から連絡が来たのである。


赤松からでは無く総務部からの電話であった。


事件が会社レベルにまで発展していることを認識させる。

総務部からの電話を切った俺は複雑な心境だった。

会社へ行ける安堵感。

そして会社で向けられるであろう厳しい視線。


それが丁度半分の割合で心を支配した。


おふくろに電話しなきゃ。


そう思い携帯を持った瞬間、着信が鳴った。

知らない番号。


誰だ・・・?


実はこの着信の人物が

のちに空室である304号室の住人となる。

その人物は同期入社で技術部所属の渡辺だった。

「もしもし?」

「あ!もしもし二宮くん?渡辺です」

渡辺か。会社で俺の番号を調べたのだろう。


「どうしたの?渡辺」

「うん。明日から出社するんだよね」

「さっき総務から電話があったよ」

「良かったね。またがんばろうね」


俺は嬉しかった。

そんなことのためにわざわざ電話をくれたんだ。

同期って本当にいいよな。


俺はどうしても聞きたいことがあった。

「例のVP・・・。どうなったか渡辺知ってる?」

「噂だけど無事進行してるみたいだよ。私は技術だからよく分からないけど」


なにより嬉しい情報であった。

少なくとも会社に金銭的損害を与えた可能性は低いと思われる。

俺は渡辺にお礼を言って電話を切った。

そしておふくろにも電話をしておいた。


10日間の謹慎は伝えず

とりあえずは元気で仕事も順調だよ。

それだけ伝えた。


おふくろは少し不安そうだったが

それでも喜んでくれた。


明日からまた仕事だ。

今度はミスは許されない。


もし今度・・・こんなミスをしたら。

潔く会社を辞めよう!

俺に映像業界は向いていなかったというわけだ。


その日はシャワーを浴びて早く寝た。

まりあや油田と過ごした日々が

非日常であったような気がした。


俺は社会に戻っていくんだ!

次の日電車に揺られながらもやっぱり怖かった。

どんな顔をして出社すればいいのか?


いま思い出しても新入社員の日々は

業務以外のことに心が支配されていたように思う。


会社に着く。深呼吸をしてから入った。

早めの出勤なのでまだ人はまばらだ。


それでも数人の社員がいたので挨拶をする。

みんなは何事も無かったように

挨拶を返してくれた。


制作に配属された同期は

「良かったね。戻ってこれて」

と俺の復帰を喜んでくれた。


俺のいない10日間

彼らも必死に生き抜いてきたに違いない。


そんな俺に1人の男が声を掛けてきた。

「おう。二宮。今日からか?」


意外な人物だった。

孤高の天才であり、社内のはぐれ者である田畑さんだった。


「すみませんでした。今回はご迷惑を・・・」

なぜか必死に田畑さんに謝罪をしている。


「俺は別に迷惑なんか掛けられてねぇ」

独特の低い声で言う田畑さん。


さらに

「二宮。お前がこの会社にずっといたいのなら・・・」


ゴクリ・・・。いたいのなら??


「会社のためとか考えるな。俺らは技術を身につければ

フリーにもなれる。会社に身を捧げて自分を潰すんじゃねーぞ」


それだけ言って田畑さんは自分のデスクに帰っていった。

そして孤高の天才は台本制作に取り掛かった。

9時30分会社が活気づいてきた。

そんな時、赤松が出社してきた。


俺は赤松に駆け寄った。

この瞬間が昨日から1番恐れていた時間だ。


「すみませんでした。赤松さん。僕のせいで・・・」

赤松は俺のほうに顔を向けずに

「ああ・・・・」とだけ言い残し

自分のデスクに座った。


赤松には完全に見捨てられた様子だ。

トボトボと自分の席に戻る。


仕事がない。何一つとしてやることがない。

苦痛だった。


そこにスーツ姿の男が現れた。

総務部の男であった。

「赤松さん。二宮さん。総務部へ来て下さい」


な・・・なんだ。

総務部に到着するとスーツ姿の役員連中が座っていた。


「二宮くん。よく来たね」

役員の1人が優しい声を掛けてくれた。


俺と赤松は役員連中の前に並んで立った。

「さてと・・・」

役員が切り出す。


「今回の件で代理店側から大幅に制作費を削られたのはご存知の通り」

ご・・・ご存知ありません。


「そこで会社としては一応の処分を赤松さんと二宮くんに下します」

処分・・・!!


「赤松さんは6ヶ月の減給。二宮くんは2ヶ月の減給」

意外だった。

俺より赤松の方が処分が重い。

これがサラリーマン社会なのか。


赤松が口を開く

「ちょっと待って下さいよ。上司だからと言って

お使い程度のことまで管理しきれませんよ」


確かにそうだ。

俺は下を向いて唇を噛むしかない。

しかし赤松の意見が通ることは無かった。

総務部を出た俺と赤松。


やはりもう一度謝るべきだろう。

「すみませんでした。赤松さん」

しかし無視された。


制作部のフロアに戻るとご丁寧に

俺と赤松の処分を記した紙が貼られていた。


気が滅入る。働いて給料を貰うのはこんなにも

苦痛の連続なのか。


それから俺は自分のデスクでただ座っているしかなかった。

仕事が無い。


電話はジャンジャン鳴り。みんな忙しそうに働く。

取り残された気分だった。


昼前のことだった。

プロデューサーの1人である南さんが声を掛けてきた。

この南という人物。

社内でも有名なアホだった。

50歳前で独身。


空気が読めない上に

今だに簡単な書類も書けない人間である。


入社2日目には「南さんはバカだから相手しないほうがいいよ」と

先輩に教えられたほどだ。


しかし・・・しかし。

根はいいオッサンなのだ。

空気が読めない分いつも明るい。


それが反感を買ってしまうのだろうが・・・。

どの会社にも1人はいそうな人物だ。


「二宮は俺が預かることになったよ。よろしくね」

その日の午後に俺のデスクは

南の横になっていた。

しかし俺は救われた気分だった。

南は俺の問いになんでも教えてくれる。

間違いも多く含んでいるのでその辺りは注意が必要だが。


「まぁ。前の件は忘れてがんばれ」

南は俺を励ましてくれた。

まさに性格は赤松と対極であろう。


さて南の持っている仕事が

今後俺の担当する仕事になる。


それはパブリシティという仕事だ。

俺たちは通常略して「パブ」と呼ぶ。

簡単に説明すると簡易CMのようなものだ。


普段TVで見ているCMは、通常フィルムで撮影されているものが

ほとんどである。


制作費も1千万円~1億円なんてザラだ。

有名タレントを起用し、たった15秒に制作期間は1ヶ月程度要する。


しかしパブリシティCMは1本15万程度の制作費で

8本~15本程度を1日で撮影し編集する。


つまりはTV局がスポンサー確保のため

粗品程度に流してやる1回こっきりのサービスCMと思えば良い。

「担当はフリーの川田だから。もうすぐ来るよ。顔合わせしよう」

フリーという言葉にドキッとした。

どうしても志村の顔が思い浮かぶ。


なぜ俺は社内ディレクターに縁がないのだ。

今度のディレクターは果たしてどんな人物なのだろうか?


15時制作フロアにドデカイ声が響いた。

「どーーーも!!おーーー南さん!来たよ!」

川田さんだった。

その姿を見てビックリした。


40台前半と思われるが

髪は金髪でサングラス。

スーツはビシッと来ているが中はTシャツである。

一瞬で凶器に変化しそうな

ジュラルミンのアタッシュケースを持っていた。


しかしこの出会いが

師匠との最初の出会いになったのだ。

川田さんはいかにも業界人という感じだ。


俺と川田さんは早速2人で次の撮影の打ち合わせをした。

俺は最初この人が怖かった。

何を考えているか分からない。


ヘタなことを聞くと志村の二の舞にならないとも限らない。

「川田さん。この撮影の段取りどうしましょうか・・・?」

恐る恐る聞く俺。


川田さんは眉間にシワを寄せ「う~ん」と唸っている。

そして・・・。


「適当でいいんじゃね?」


へ・・・?


「あの適当だと香盤表が・・・その適当になってしまうかと・・・」


「香盤なんて適当でいいんじゃね?」

川田さんは言った。

「二宮は将来何者になりたいんだ?」


出会った直後の他社の人間を

すぐに呼び捨てにしているところが川田さんらしい。


俺は気合を見せるために大きな声で

「はい!将来はディレクターになりたいです」と答えた。


「うるさいから普通の声でいいよ。

あのな二宮。俺らはクリエイターだ。

香盤みたいなもん

いくら上手く作ってもディレクターになれんぞ」


衝撃だった。

この人はなんて破天荒なんだ。

志村には何度もやり直しをくらった香盤表を・・・・。


「それよりなぁ。二宮」

サングラスの奥の目が怖い。

この人も昔、絶対ヤンキーだったはずだ。


「お前仕事何時まで?」

「僕は6時が一応の定時ですが」

「ふーん。」

川田さんが席を立つ。


川田さんは南さんに近づいてこう言った

「南さん。いまから二宮と撮影のスタジオ確認してきます」


南さんは適当に「はいよ!」と答える。


「行くぞ二宮」

スタスタと会社を出る川田さん。

俺は慌てて後を追った。


そうか!演出家はスタジオの確認をするのだな。

そうだよな。

そこにある照明機材や

スタジオの広さを確認することで

可能な演出を考えるんだな。


勉強になったぜ!


しかし30分後。

俺達はなぜか焼き鳥やにいた。

生ビールが前に置かれる。


「まぁ飲めよ。かんぱーい」

川田さんがグラスを傾けてくる。


俺は驚きながらも川田さんに聞いた。

「ちょ。川田さん。スタジオは見なくていいんですか?」


川田さんはビールをグイグイ飲むと

泡まみれの口で

「なんで見るの?見てもなんも変わらないじゃん」と答えた。


既に2杯目のお代わりを店員に注文している。

「いや。でも香盤表も出来てないし・・・。」


「あのよ。二宮」

2杯目のビールに口をつけた川田さんが言った。

「お前なんのために香盤書くの?」


「それは当然撮影を円滑にするため・・・というか。」


それを聞いた川田さんは「あははは」と大きな声で笑う。

「お前みたいなペーペーの書いた香盤で撮影が円滑に進まねーよ」


俺は少しムッとした。

俺だって志村の嫌味に耐え

なんとか様になる香盤表を書いたのだ。

「まぁ気を悪くするな」

川田さんは言う。

そして「ビール飲めよ。ぬるくなるぜ」


俺はグイグイとビールを飲んだ。

うまい。酒好きの俺だ。

ビールは確かにうまい。


しかし・・・だ。


志村みたいなタイプも困るが

川田さんみたいなタイプも困ったものだ。


この人に付いて行ったら

俺の将来はどうなるのだ?


「あのな。二宮よ」

川田さんは少し真剣な口調になった。


「お前がどんなに素晴らしい香盤を書いても

俺は自分が納得しなきゃ終わらない」

俺は川田さんの横顔を見た。


「そのためにお前の会社がスタジオ代を多く支払っても

俺の知ったことじゃない」


そ・・・そうなのか?


「ただ。逆の言い方をすれば・・・」


「香盤をオーバーして撮影が長引けば

それは俺の責任だ。お前の責任じゃない」

この瞬間俺の気持ちは決まった。


この人に付いて行こうと。

それで俺が一人前のディレクターに成れなかった場合は

俺の責任だ。


才能が無かったのかもしれない。

だたそれだけだ。


そんなことはどうでもいい。


入社して今まで出会った人物で

「俺の責任だ」と言ってくれた人はいたか?


赤松、志村、会社の役員連中。

口には出さないが、俺に全ての責任を負わせた。


しかし。この人は・・・川田さんは。

フリーの身でありながら全く関係のない人間である

俺の責任まで負ってくれるというのだ。


「それによ・・・」川田さんは言った。

「パブみたいなクソみたいな仕事、お前サッサとディレクターになって

俺から奪っていけよ」


泣きそうになった。

この人物が俺に初めて「ディレクターになれ」と言った人だ。

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第9章 304号室


俺は川田さんの専属AD状態になった。

身を粉にして働いた。


余計な事は考えるな!

俺は川田さんのしたい演出の

手助けをするのが仕事だ。


社内の視線など気にするな!

いまの俺には働くことしか出来ないのだ。


そんな感じで1ヶ月が過ぎた。

川田さんもまぁまぁ俺を信用してくれている様子だ。


川田さんの仕事は良く言えば大らか。

悪く言えば適当だった。


この時期になると携帯に電話が入ってきて

「ごめ~ん。二宮。俺酔っぱだから原稿書いてて」等と

とても南さんには報告出来ないような仕事を頼んでくる。


マジっすか!?とよく心の中で呟いたものだ。

俺は自分なりに原稿を書いた。

隣のデスクの南さんの目を盗んで。


それをパソコンで南さんに送信する。

返事が来る。


「お前文章下手ね(笑)やっぱ俺が書くから待ってろ」


随時がそんな調子だった。

川田さんは俺によく言った。


「本は読めよ。二宮。文章をパクれるまでに読み込めよ」

それから俺は本を買い漁った。

台本の練習もした。


川田さんがちゃんと台本を書いている時でも

自分なりの台本を書いて川田さんに見てもらった。


川田さんも添削をして返してくれた。

通常業務に加え、ディレクターになるための修行。


俺の帰宅は早くて24時になった。

泊り込みもしばしばだ。


そんな生活が続けば

当然まりあや油田とは疎遠になる。

業界用語に「消え物」という言葉がある。


これは撮影で使った商品をスポンサーに返さず

スタッフが持って帰ってもよい物を指す。


食品が圧倒的に多い。

家庭用品やレアポスターも案外ある。


例えばキムタクのFMVのポスターがあったとしよう。

こんな物も消え物だ。


通常は家電量販店などしか手に入れることは出来ない。

商業用のPOPなどにしてもそうだ。


よくネットオークションでレアポスターが出品されているが

俺は業界人が消え物を流していると考えている。


ある日インスタントカレーの消え物が出た。

「川田さん。カレー持って帰りますか?」


川田さんは

「いらね。俺ボンカレーしか食わね。貧乏人のお前にやる」と言ってくれた。


カレーといえば。

やっぱりまりあだ。

俺は消え物のカレーをどっさりと袋に詰め込んで帰宅した。


20時。

バイトが無ければまりあが家にいてもおかしくない時間だ。

とりあえず301号のインターホンを押した。


油田もインタントカレーの類は好きそうだ。

2~3個あげよう。


しかし油田は留守の様子だ。

仕方ないよね。

全部まりあにあげよう。


俺は302号のインターホンを押した。

しばらく応答がない。


「留守かな?」諦めかけた時だった。

「はい?」まりあの声が聞こえた。


「俺です。光輝です。カレーのおすそ分けなんですが・・・」


「あ・・・。光輝くん。ちょっと待ってね」

そういえば2週間ほどまりあに会っていなかった。


まりあの顔が見られる。俺は少しドキドキしながら

ドアが開くのを待った。

ガチャっとドアが開く・・・。


「これ撮影の余り物なんだけど、もし良かったらまり・・・」


!!!!!?????


「やぁやぁ。どうもどうも」


目の前には油田が立っていた。

「お久です。二宮さん」


「・・・・・・・・・(アングリ)」


後ろからまりあが登場した。

「光輝くん久しぶり~。元気だった?」


「・・・・・・・・・・・」

「上がって上がって」


「今カレー作ったところなんだ♪」


カレー・・・ですか?

気づくと俺はまりあの部屋のリビングにいた。

となりにはオタクがいた・・・。


なにがどうなっているんだ??


「まぁ。おひとつどうぞ」

呆然とする俺にビールを注いでくるデブ。


なぁ?デブよ・・・。お前が恋の勝者なのか?


まりあがカレーを2つ持ってリビングにやってきた。

「召し上がれ!」


召し上がれと言う言葉を初めて生で聞いた。

まりあは確かに可愛い。

そして目の前のカレーも美味そうだ。実に・・・。


「実にうまいですよ。まりあちゃんのカレーは」


うるせーデブ。お前は俺の持って帰ってきた

消え物のカレーでも食ってろや!

まりあはリビングで自分のカレーを入れている。


「君ねー。油田くんさぁ」

俺は隣で汗をかきながら

カレーを頬張るオタクに話掛けた。


「なんですか?」

その上目遣いをやめろ!


「なんでさぁーいるかなぁ?君がここに?

なぜ君がここでカレーを食ってんのかなぁ?」


油田はフフフ・・・。と不気味に笑うと

「有〇倶楽部ですよ。有〇倶楽部」と意味不明の言葉を並べた。


「なによ?ユウ〇ンクラブって?」


「嫌だなぁー。二宮さん知らないんですか?巨匠一条〇かりのマンガですよ。」


後になって分かったが最近ドラマ化された

「有〇倶楽部」という少女漫画のことらしい。


「そのユウ〇ンクラブがなぜカレーなのよ?」


油田はまたしてもフフフ・・・と笑いながら

「お礼ですよ。有〇倶楽部を貸してあげたお礼です」

イカンだろ!まりあよ。


有〇倶楽部のお礼かなにか知らないが

こんな足の臭いオタクを

1人の部屋に呼び込むなんて

あまりにも無防備すぎるだろ!


心の中でそう呟いていると、張本人のまりあが俺の横に座った。


「いただきま~す」等と言ってのん気にカレーを食べようとしている。


俺が仕事にかまけている間に

事態がここまで深刻になっているとは・・・。


これは注意せねばイカンな。


年長者として・・・。

社会人として・・・。


そして恋のライバル(油田なのが情けない)を蹴落とすために!!


「あのねー君たちさぁ・・・」


「そうそう!光輝くん何時に帰ったの?」


へ・・・?


「何度も呼びに行ったんだよ。光輝くんの部屋に」


え・・・。そうなの?


隣のデブはそ知らぬ顔をしてカレーを食っている。


「うんうん。光輝くんもカレー好きそうじゃん。でも丁度タイミング良かったね♪」


今日のところは注意はやめておいてやるか。



ある日俺が出社すると同期の渡辺が近づいてきた。


一応渡辺の説明も必要かもしれない。

技術部の渡辺はカメラマン志望である。


ほとんど毎日ロケに出ているので

制作部の俺と顔を会わす機会は少ない。


この業界全般にいえることだが化粧をしない。


特に技術部の渡辺は化粧が落ちてしまうし

先輩から嫌味を言われるのであろうか?

化粧をした姿を見たことがない。


いつもGパンにTシャツ。

そしてノーメイクだ。

入社初日には俺に涙を見せた渡辺。


きっと気が弱い子なんだろうな?

そんな想像をしていたが、とんでもない!


人一倍気が強く。

業界向きである。


今にして思えばあの涙は悔し涙だったのかもしれない。

事実あれ以降は渡辺が泣いている姿を見ていない。

顔は美人である。


女らしい素振りは全くみせないが


まりあが可愛いタイプ。大塚愛とすれば

渡辺はキツイ系の美人。柴崎コウといったところだ。


その渡辺が声を掛けてきた。

「今日はロケ?」

「ないよ。お前は?」


「私もないよ。かなり久しぶりにね」

「ふーん。技術ってロケない時なにしてるの?」

「機材の点検とか勉強」


そんな他愛の無い会話の最中に渡辺が言った。


「今日は何時終わり?」

「決まってないけど8時くらいかな」

「そんじゃ飲みに行こうよ。相談あるんだ」

「いいよ。んじゃ帰り技術部に寄るわ」


こうして渡辺と飲みに行くことになった。

会社の帰り近くの居酒屋に入った。

ちなみに俺は渡辺に対して女を感じない。

これは人それぞれの好みの問題だろう。


「相談ってなによ?」

「二宮くんの部屋って会社に近いよね」


会社まで3駅。間取りや家賃をザックリと伝える。


「なにお前?引っ越すの?」

「うん。考えてるんだ。私いま実家だしね。通勤に1時間掛かるし」


この業界は朝が早い事が多い。

ロケだと6時に会社発という場合もある。


確かに1時間も掛かれば

前日に会社に泊まることもあるだろう。

始発では間に合わない場合もあるのだ。


「やっぱお風呂には入りたいじゃん。女だしね」

渡辺の言うことはもっともだ。


「それでさぁ。今度の休み二宮くんの家行っていい?」

「なんで?」

「家賃と間取りの相場知っておきたいんだ」


それは別にいいが。

そんな物が見たいのか?

その夜は適当に

仕事の愚痴で盛り上がり解散した。


次の休みは意外に早く一致した。

日曜であった。

俺はともかく渡辺が日曜に休める機会はそうそうない。


その日、俺は自宅近くの駅まで渡辺を迎えに行った。

降りてきた女はまるで別人だった。


化粧をしている。

しかもスカートなんか穿いていた。

俺は大げさではなく別人だと思った。


「二宮くんごめんね」

そう声を掛けられるまで全く気づかなかった。


余談だが、渡辺が家に来ることを川田さんに話した時。

「あの綺麗なねーちゃんか?ちゃんとカケ(ヤルという業界用語)よ!」

とアドバイス?をくれた。


俺は「間違ってもありませんよ~。だって女感じませんもん。アイツに」等と

笑っていたが・・・。


今日の渡辺は女の子にしか見えない。

「そ・・・そんじゃ行こうか?」

あれ・・・?俺おかしい・・・。


なんか渡辺相手に緊張してない?

「うん」といって俺に並んで歩く渡辺。


あまり近づかないでくれ。

お前相手にドキドキしたくないの。


「二宮くん。お昼食べた?」

「え・・・まだ」


「そんじゃーさぁ・・・」

「あそこで食べない?あのカレー屋さん」


先を見ると・・・。そこはまりあのカレー屋さんだった。

「え・・・あそこ?」

「うん。私カレー食べたい」

「そうなの・・・?そうね」


なぜ緊張するんだ!?俺!

俺は同期とカレーを食うだけだ。


たとえまりあがいたとしても

やましい事など一つもない。


しかもまりあは彼女でもなんでもない。

それにバイト出てるかどうか分からないじゃん。


俺と渡辺はカレー屋のドアをくぐった。

「いらっしゃいませー」

テーブルを拭いている女の子が言った。


顔を見るまでも無い。


声が既にまりあなのである。


渡辺と入店した俺を見て

まりあはしばしキョトンとしていた。

「・・・いらっしゃいませ」


もしかして驚いてる?驚いてる?


「ああ。この子同じマンションの子。新田さん」


苗字で紹介をした。

でもそれが普通だと思う。


「こんにちは」

渡辺は業界人らしくキビキビした挨拶をする。


「どうも・・・」まりあもキョトンとした顔で返事をする。


「で・・・。これがの同・・・」

渡辺を紹介しようとした瞬間。


「ここに座ろう!」と渡辺に引っ張られた。

まりあも厨房に消えて行く。

渡辺を紹介するタイミングを失った。

「注文は何になさいますか?」

無機質な声を出すまりあ。


なんかムスッとしてない?


渡辺は「うずら玉子カレー」を注文した。

悪くない。確かにそれも悪くはない。


しかし俺は「納豆、フライドチキンカレー」を注文した。

やっぱこれだよね。


「少々お待ち下さい」


厨房に消えるまりあ。

やっぱりムスッとしてるよ。


しばらくするとまりあがカレーを2皿持ってきた。

俺たちのテーブルに置くと「ごゆっくりどうぞ」と言ってまた厨房へ。


間違いない!まりあは不機嫌だ!

カレーを食おうとする俺。


????


納豆が入ってないじゃん。

俺はまりあを呼んだ。

「あの。納豆が入ってません・・・」


まりあはカレー皿をサッと手に取ると

奥の厨房へ消えた。


カレーに納豆を乗せて戻ってくると

「どうもすみませんでした」と言って厨房へと戻る。


怖い。怖いよ。まりあ


さすがに俺もウブがるつもりは無い。

これは嫉妬なのか?ヤキモチでは?等と考えなくもない。


という事はだ・・・。


まりあは俺のことが好きなのか・・・?


「なにこれ~。グロい~。食べ物じゃないよね」

渡辺が俺のカレーを見て大笑いしていた。

だとすれば・・・。


だとすればだ・・・。


この目の前の女。


同期渡辺をどうにかせねば!!


そんな俺の思いも露知らず。

渡辺は「ちょっと食べていい?納豆カレー」と

はしゃいでいる。


食ってもいいから。

いかにもカップルみたいなマネはやめてくれ!


「やっぱ不味いね~」

うんうん。そうか。そうか。そうですか。


俺はまりあに告るタイミングなどを考えていた。


まさかとは思うが油田の動きにも

万全の注意が必要だ。


俺と渡辺はカレーを完食すると席を立った。

会計もまりあだった。

「1750円です」


財布を出す俺・・・。しかし

「今日は奢るね」といって渡辺が先に2000円を出した。


だからそういうマネをやめろと言っとるんだ!

「ちょ・・・渡辺それはマズいって!!」

しどろもどろする俺。


「いいから♪いいから♪」

お前が良くても俺が・・・。


「250円のお返しです」

まりあもお釣り用意してるし!


俺と渡辺は店を出た。

まぁ多少の誤解を生んでしまったが間違いない!


あれはヤキモチだ!いや・・・そのはず・・・だ。


俺と渡辺はマンションに到着した。

まずは外観を眺める渡辺。


「へぇー。綺麗だねー」と感心してくれた。

この物件は俺の入居前に外観塗装を施していた。

物件の説明をしていると


マンションから陰気臭い男が出てきた。


油田だ!!

ニヤニヤとしながら近づくオタク男。

「やぁやぁ。二宮さん。お盛んですなぁー」

その話方をやめい!


渡辺が不気味がるだろ。


「俺の会社の同期で渡辺」


とりあえず油田にも紹介する。


「こんにちは」

元気に挨拶をする渡辺。


しかし俺の後ろに

隠れ気味になったのは気づいていますよ?


「ほほぉー」メガネを軽く持ち上げて

品定めするように渡辺をジロジロと見る油田。


まるで質屋のオッサンみたいだ。


ニヤリと笑うと。「では・・・」と言ってどこかに消えて行った。


「あの人は?」渡辺が聞いてきた。

「住人・・・」とだけ答えた。

エレベーターで3階フロアに到着した。


手前から油田の301号。

まりあの302号。

そして俺の303号。


しみじみと思った。

最初引っ越してきた時は不安一杯だった。


1人で残してきたおふくろも心配だった。


でも2ヶ月程度経った今・・・。

俺ちゃんと1人暮らしが出来てるよ。


おふくろも安心してくれるよね?


それはもちろん油田の存在やまりあの存在が大きい。

いなくても暮らせるが

楽しく暮らしているのはあの2人のお陰だ。


俺はドアにキーを差し込んで

「どうぞ!」と言って渡辺を招き入れた。

「うわー。綺麗にしてるじゃん」

渡辺の第一声だった。


まりあにも言われたが

物が無いだけである。


TVとPC本棚が1つ。

あとはテーブルと座椅子。


大きい物ってそれくらいしかない。


「リビングも広いねー」

そうでしょ?そうでしょ?

それが自慢なんですよ!


渡辺は部屋をグルっと見渡すと

「これ見てよ」と言ってVHSを出した。


ビデオデッキはあるがなんのビデオだ?

それは渡辺がカメラの練習をしたビデオだった。


技術部の部屋が映し出される。


部屋を何回もパン(カメラを横に振ること)している。

そしてペットボトルにズームすると

何回もティルト(カメラを上下に振ること)をしていた。


「どう?」と聞いてくる渡辺。


どうもこうもこんな映像に評価はつけ難い。

しかも俺は制作だから

カメラワークまでは分からない分野である。


「うまいんじゃない?」適当な返事をしておいた。


それでも渡辺は


「ここが難しいんだよ」

「やっぱズームに滑らかさがないよね」等と

呟いている。


こいつ本当にカメラが好きなんだな。

俺の部屋にビデオまで持ってきてさ。

本気でカメラマンになりたいんだな。


俺は渡辺の姿を見て

とてつもないひたむきさを感じた。


そして自分も頑張ろうと決意した。

しかし30分もストーリーの無い映像は拷問だった。

渡辺は1人で盛り上がっていた。


やっと砂嵐が出た。


終わった・・・。


しかし次の瞬間、渡辺の口から

信じられない言葉を聞いた。


「ねぇ。もう1回見ていい?」


家で見ろやっ!仕事熱心もほどほどにせいよっ!


と言えるはずもなく


「いいよ・・・」と言ってしまう俺。

こんな時の断り文句ってあるのか?


2度目の鑑賞が終わった時に渡辺が聞いてきた。

「ここ家賃はいくら?」


答える俺。


「それじゃ私も304号室に引越しするね♪」


え・・・・・??

俺は内心焦りまくった。

コイツなぜ304号が空室だと・・・。ハッとした!


そうだこの前一緒に飲んだ時。


「俺の隣の部屋開いてるよ。304号。渡辺そこ住めよー」


タラリ・・・。


酔った勢いでそんなことを言った・・・ような気がする。


「間取りはここと同じなのかなぁ??」

もう住む気になっているし!!


しかし今はあの時と状況が違う。


今はシラフである。


しかもしかも・・・。

今日まりあは俺にヤキモチを焼いた(ハズ)なんだよー!


隣にその原因である女が引っ越してきて

恋が成就するハズが無い!


「ちょっと待て。渡辺!」

どうにかして阻止せねば。


「304号なんて数字が悪い。4の付く部屋なんか住むもんじゃない」

「私そういうの気にしないから!大丈夫!」


「そうだ。さっき下で会ったデブのオタク。あいつ301号に住んでんだ。

不気味だっただろ?」


「二宮くんの友達でしょ?平気だよ」

俺は渡辺が引越しを諦める理由を必死で考えた。

この言葉しかない!俺は必殺技を繰り出した。


「会社の連中にバレたらどうするんだよ?

同期とはいえ、いくらなんでも

男と女が隣に住んだら怪しむよ?世間は?」


「そのことなんだけどさぁ・・・・。内緒にしててね♪会社には」

ここでニコッと笑顔。


コイツ可愛い・・・。


いや。そんな場合じゃない。


「なんでよ?なんで会社に内緒なのよ?」


渡辺は悪びれる様子もなく

「安くなった交通費の分を家賃に回すからだよ」


な・・・なんと!

「だから実家住まいにしておいて、交通費多めに貰うの」


策士現る!

俺と渡辺は部屋を出た。


304号の前で渡辺ははしゃいでいる。

「あー。憧れの1人暮らし♪」


確かに俺も同じこと思ったよな。

ここに越して来た日・・・。


渡辺の気持ち分かるわー。等と考えていた。


この時俺は純粋に

「部屋が押さえられてなければいいね」と思っていた。


しかし10秒後早くも考えは変わった。


チーン。エレベータが到着した音だ。

俺はドキリとした・・・。


ドキン・・・ドキン・・・。


油か?まりあか?


扉が開く・・・。


そこからはコンビニ袋を重そうに抱えたまりあが出てきた。

まりあはまだ俺たちに気づいていない。


もうすぐ・・・もうすぐ・・・。


その可愛い瞳が俺たち2人をロックオンしてしまうのね。


ロックオン完了!


空気の流れが止まった。


立ち尽くすまりあ。フリーズする俺。

はしゃいでいる渡辺。


第一声を発したのは渡辺だった。

「あ!カレー屋さんだ。こんにちわ」

悪気は無いとはいえ「カレー屋」とか言って逆撫でするな!


「どうも」とだけ言って

自分の部屋へスタスタと移動するまりあ。


でもコンビニ袋が邪魔でキーがなかなか取り出せない様子。


「袋俺が持ってるよ。まり・・・・新田さん・・・」

まりあとは呼べない。

渡辺は仕事の同期だ。


隣人に恋愛をしているというプライベートは知られたくない。


「けっこうですっ!!!」


そう言うとまりあはガチャガチャとキーを取り出して

部屋へと消えて行った。

俺は駅へ渡辺を送りながら考えた。


あれはまずいよな?

普通同期の女を部屋に入れるかな?

ヤッたと思われたかな?


渡辺の意向で方向を変更し不動産屋へ向かった。

俺にあの部屋を紹介してくれた不動産屋だ。


304号よ。どうか埋まっていてくれ!

俺の思いも届かず304号は見事に空き部屋だった。


喜ぶ渡辺。


「この物件はおすすめですよ!」

煽る不動産屋。


死んだ目の俺。


渡辺は大喜びで帰って行った。

俺は駅からの帰り道をトボトボと歩いた。


付き合っているなら言い訳も出来る。

今からまりあの部屋へ行って言い訳するのもアリだ。


しかし今はそんな関係でもない。


俺はマンションに到着した。


自分の部屋のドアの郵便受けに白い紙が挟まっていた。


???


その紙を開くとこう書かれていた。


「なんでまりあじゃなくて【新田さん】なんですかっ!?」

———————————————————

第10章 初ディレクション


当時の俺は仕事に夢中だった。

もう二度とミスはしたくない。


そして川田さんの演出を盗みたい。


これしか頭に無かった。


実際川田さんは演出においても大雑把であった。

手を抜くべきところは抜きまくる。


しかし重要なポイントは他のスタッフが疲れていようが

なんだろうが必ず押さえる。


そしてそのポイントは必ず必要な部分なのだ。


俺は川田さんのフォローに必死になった。

この人は突然とんでもないことを言い出す。


「二宮~。その辺の民家からチャリパクってきて~。なんか急にチャリ使った

演出がしたくなった」


え・・・。台本に無いじゃん!そんなの。

とは思わない。

ディレクターが必要だと思えば必要なのだ。


そして俺の仕事は「チャリの入手」になるのだ。


そんなある日俺は南さんに呼び出された。

南さんは言った

「二宮ってディレクターやりたい?」


え・・・?


「今度川田ちゃんが別の仕事入っちゃってさぁ。

お前ディレクターやる?」


そ・・・そんな簡単なものなのか!?


「やらないなら別の人間探すけど」


返事なら決まってるだろがっ!


「やります!一生懸命やりますのでやらせて下さい」


こうして俺の初ディレクションは決まったのである。

なんともいい加減なものだ。


ロケは3日後。俺はこの仕事に全てを掛ける。

尺(O.A時間)が60秒のパブリシティである。


某ピアノ会社の展示場に赴き

そこの支配人がオススメする

数台のピアノをアピールするのもだ。

俺は川田さんに電話をした。


「川田さん。俺・・・俺とうとう・・・初ディレクターです!」

川田さんはあまり関心が無いのか

「そか。おめっとさん」と言うだけだ。


しかしこの興奮は止まらない。

「俺・・・川田さんのお陰で・・・初めて。初めて」

「いや・・・ムサ苦しいって・・・」


「ありがとうございます川田さん!」

「え・・・。俺なんもしないけど。ああ良かったな」


それから俺は今回の作品のあらましを川田さんに説明した。

「なんか注意点ありますか?」

「へ・・・?なんもないよ。そんなクソみたいな仕事・・・」


「お願いします。なんかお願いします」

川田さんはう~んと唸って一言

「カメラマンには60秒以上カメラ回してもらえ。んじゃなんとかなるわ」


俺は「ありがとうございます!ありがとうございます!」と言って電話を切った。

アホである。

ロケ日まで3日。

俺は毎日23時まで台本を書いた。

何度も何度も書き直した。


ちなみに今の俺なら30分で書ける台本である。

当時はウブだったのだ。


そして技術クルーは会社でも怖いと評判の大宮さん。

そして音声は偶然にも渡辺だった。


渡辺はロケ車の中で「初ディレクター頑張ろうね!」と言ってくれた。


展示場に到着する。

支配人に挨拶だ。これも制作の仕事。

「ディレクターの二宮です」


少し恥ずかしい。

でも嘘は言っていない。


支配人がオススメのピアノを教えてくれた。

どれも年代物であろうか。

その重厚さはひしひしと伝わってきた。


大宮さんが無言で撮影に入る。

こうなると渡辺も必死だ。


少しでも助手の動きが遅いと怒鳴る。

それが大宮さんなのだ。

撮影が熱を帯びてくる・・・。

大宮さんは年代物のピアノを相手に格闘している様に見える。


渡辺も必死だ。

大宮さんが次に何を求めてくるか?

それを頭の中で考え

大宮さんの一挙手一投足を見逃さないよう神経を集中している。


俺だって同じだ。

たとえカメラマンが怖い大宮さんだって

自分の演出をしたい!後悔だけはしたくない。


自分なりの言葉で欲しいカットを必死に大宮さんに伝える。

緊迫した状態で撮影が進む。


その時・・・。


入り口の方でで陽気な声が聞こえた。

振り向くと川田さんがいた!


「撮影のスタッフですー」と受付の人に説明している。

なんで?なんで川田さんがここに?

だってこの人は別の撮影があるじゃん。


だから俺にお鉢が廻ってきたんだろ?


川田さんが言った。

「俺の撮影が早く終わって暇だったから来ちゃった」

「川田さん・・・・」

俺は泣きそうになった。


本当は不安で一杯だったんだ。


川田さんのようなベテランなら

クソみたいな仕事かもしれないけど

俺はすごく不安だったんだ。


「二宮に仕事盗られたなぁ。明日から生活苦しいべ」

照れ隠しをしているのだ。


川田さんはフリーだ。

正規の仕事でない以上はここまでの交通費だって自腹だ。


そして・・・

俺がこのままディレクターになってしまえば仕事を1つ失う。

それでも俺を心配して駆けつけてくれたのだ。


俺は必死になって頑張った。

川田さんに見てもらうために。


一度は廃人になった俺を蘇生させてくれた

川田さんに報いるために。

撮影中川田さんは黙って俺を見ていた。

いちいち口出しをしないのも

いかにも川田さんらしい。


川田さんは以前に言っていた。


「撮影はな。ディレクターが主役なんだぜ。カメラマンじゃない

ディレクターが主役の舞台なんだよ」


技術系の人間が聞いたら「ちょっと待て」と言いそうな言葉であるが

川田さんは俺の舞台をただ見守ってくれた。


俺の舞台に土足で踏み込むマネはしなかったのである。


撮影終了。全てを出し切った。

カメラマンに臆することなく

欲しいカットは全て注文した。


やったぞ!俺はやったぞ!


俺はしばしこの感動を噛み締めていた。

川田さんが俺に近づいてきた。


「お祝いしなきゃな。キャバ行っとく?」

俺はその日の夜、川田さんとキャバでお祝いをし

ほろ酔い気分で帰宅した。


マンションのゴミ置き場に人影が。


ドキッ・・・。まりあだ!。


「ども・・・こんばんわ。ゴミ捨て?そうだ明日ゴミの日だよね。

俺もゴミ出ししなきゃ」

意味不明な言葉しか出て来ない。


まりあはそんな俺に冷めた視線を向けて。


一言「そうだね。」


重いぞ。空気重いぞ・・・。


それもそのはずである。

例の紙切れの一件以来まりあとは会っていなかった。


なんとなく会い辛かったのだ。

仕事も忙しかったし・・・。


なにより


「なぜ新田なんですかっ!?」

の上手い返事が思いつかなかったのだ。

2人でエレベーターを待つ。

タイミング的に別々の方がおかしい。


無言・・・。


何か話さないといけない。

この重い空気にも耐えられないし

なにより仲直りしたい。


でも俺が謝るのもなんか変だ。


「そ・・・そうだ。今日俺さぁ。初めてディレクターしたんだ」

こんな話題しか思い浮かばない。


驚いた顔で俺を見るまりあ。

「たった60秒なんだけどさぁ。撮影で緊張しちゃってさ・・・」


まりあの反応が変わった。

「え。すごじゃん!ディレクターなんて!放送はいつなの??」


今でもこういった反応は苦手です。

ディレクターなんてただの映像オタクにしか過ぎません。

俺からすれば知らない人に物を売りつける

営業さんのほうが宇宙人です。


「え・・・と。一週間後の19時54分」

パブリシティとはこういう変な時間に放送されているのだ。


「すごい!すごい!」

自分のことのようにはしゃぐまりあ。

やっぱり可愛すぎるな。お前

「その日だとバイトないから、私の部屋で一緒に放送観ようよ!」


マ・・・マジっすか!?


もう怒ってないのですか?


何があっても行きますよ!


「いいの?お邪魔しちゃって」

顔がニヤけてくるのが自分でも分かる。

頑張れ俺の顔面。


「うんうん。もちろんだよ。みんなで観ようよ!」


うん。うん。観よう!観よう!みんなで。


へ・・・?みんな??


「油田くんも誘っておくからさ♪」


油田・・・ですか。その子いらない子・・・。


「60秒だとすぐ終わるから録画して何度も見ようね!」

「う・・・うん。そうだね」


なんにしても仲直りのキッカケにはなりそうだ。

公私ともにいいことづくめで怖い。


別れ際に言ってみた。

「おやすみ。まりあ」


「おやすみなさい。光輝くん」


あの笑顔が帰ってきた!

最高に可愛いあの笑顔が。

俺は自分の部屋に入ると

「よっしゃーー!!」とガッツポーズをした。


次の日から俺は編集作業に入った。


いくら撮影が無事済んでもここで気を抜けば元も子もない。


まずはオフライン編集。

簡単にいうと撮影した映像を大体の順番に並べて

簡易編集機でザックリと60秒前後にまとめる。


またの名を仮編集という。


今なら2時間もあれば余裕で終わるこの作業を

俺は丸2日を掛けてこなした。


自分が納得いくまで何度も何度もやり直した。


これが俺のデビュー作になるのだ。

いい加減な出来では

今度いつディレクションをさせてもらえるか分からない。


そしてこれはお茶の間に流れるのだ。

不特定多数の人間が目にする

誰も注目なんかしないかもしれない。

でもその時間そのチャンネルをつけている人間は数万人いる。

(視聴率は1%で数万単位になる。地方により違うが)

誰かは真剣に観てくれるかもしれない。


そしてなによりまりあが観てくれる。

まりあには俺が全力で作ったものを観て欲しい。


俺はオフライン編集に没頭した。


そして次の日オンライン編集(本編集)に臨んだ。

これは自社では出来ない。

ポストプロダクション(編集屋)で行う。

撮影が成功してもオンラインでダメになることもある。

逆もまたしかり。


つまりこの作業で作品の良し悪しは決まるのだ。


ポスプロにはプロの編集マンがいる。

自分のしたい演出を必死で言葉にして伝える。


たかが60秒のパブでなにを必死に・・・。

編集マンはそう思ったかもしれない。


しかし関係ない。最後の最後で後悔してたまるか!

無事に画が繋がった。

ここに別撮りしていたナレーションを被せる。


これで全体像は完成だ。


最後の最後。MA作業で作品は完成する。

MAとはBGMやSE(効果音)そしてナレーションを入れる作業である。


今回ナレーションは編集で入れたのでOK

SEはプロに任せた。


そして選曲マンが今回の作品に合いそうなBGMを5~6曲

用意してくれた。


その中から俺が1曲を選ぶ。


ディレクターの醍醐味ともいえる瞬間だ。


BGMは作品全体の雰囲気を作る大切なものだ。


慎重に選になる。


俺の選んだ曲を映像とMIXする。


これでとうとう俺のデビュー作が完成したのだ。


「プレビューしますね」MAマンが言う。


緊張の一瞬だ。


完成作品が目の前の画面に映し出された。

60秒の時間があっという間に過ぎていく。


MAマンが訊ねてくる「どうでしょうか?」


俺は万感の思いを込めてこう言った。


「OKです」

編集からMAまで付き添ってくれた

南さんが拍手をしてくれた。


「初ディレクターお疲れ!いい作品になったな」


俺は南さんにペコリを頭を下げ

「トイレ行ってきます」と言って部屋をでた。


俺はトイレで1人泣いた・・・。


仕事というのは本当に辛い。逃げ出したい時もある。


しかし・・・


ほんの一瞬

ほんの一瞬だけ

仕事をやっていて良かったと思う瞬間が訪れる。


だから社会人は頑張れるのかもしれない。


おふくろ・・・。

俺ちゃんと自分で一つの仕事完成させたよ!


南さん・・・。

俺にチャンスをくれて(人がいなかっただけだが)ありがとうございます。


川田さん・・・。

あなたに出会えたことに感謝します。

余談だが俺はマスゴミと言って

TVマンが叩かれる度に悲しくなる。


特に報道が多いと思うが

東京(なんだかんだ言っても業界の頂点はここ)で

ゴールデンの報道番組をやっている人間は一握りだ。


俺から言わせれば天才だ。精神もタフだ。


その人たちもこの日の俺のような

経験を何百回としてあの場にいる。


しかし過剰演出も悪いが「マスゴミ」の一言で片付けられると

少し切なくなってくる。


給料の高い安いはあっても

TVマンの最後行き着くところは

みんな「視聴者を楽しませたい!」なのだ。




ポスプロの帰り

TV局にテープを納品して

本当の意味でこの仕事が完了した。


あとはしっかり流して下さいよ!


変なことまで祈ってしまう。


ご機嫌で会社に戻ると

志村の姿を見つけた。


あの事件以来、社内で何度も志村に会ったが

俺が挨拶をしても目も合わせてもらえなかった。


俺は志村に近づいた。


やっぱり怖い。

でも俺はどうしても志村に言いたいことがあった。

「志村さん。少しお時間ありませんか?」


志村はびっくりした表情を浮かべている。


まさか俺から挨拶以外の言葉を聞くとは

思ってもいなかったのだろう。


「なによ?」

表情は一瞬で冷めたものに変わった。


「今日僕が作ったパブが完成しました。

たった60秒のものですが、もしよろしければ

1度プレビュー(試写)して貰えませんか?」


俺はポスプロから貰った社内試写用の

VHSを差し出した。


「パブ?君が作ったの?」


「はい」


志村が失笑した。


「なんで俺がそんなつまらないもの観るの?

60秒のパブなんて演出した内に入らないからさ」


「・・・・・・」


「んじゃ俺忙しいから」

そう言い残し志村は俺の前から消えて行った。

俺は自分の席に座った。


いいのだ。これで。


俺が志村にプレビューをお願いしたのは

自分の中でのけじめに過ぎない。


「俺は潰れなかったですよ!」

それを分かって欲しかっただけだ。


あの事件以降、志村を恨んだことは1度もない。


志村だって必死なのだ。

なにより俺のミスで迷惑を掛けた事実は変わらない。


いいのだ。これで。


俺はその後テープが擦り切れそうになるまで

自分の作品を観た。

何度も巻き戻して観た。


そしてその夜は自宅に戻ってからおふくろに電話をした。

「はい。二宮です」

おふくろの声だ。

なぜかやっぱり安心する。


「俺だよ。おふくろ」


「どうしたんだい?仕事でなにかあったかい?」


例の事件以降、俺が連絡をすると

心配そうな声になるおふくろ。ごめんね。


「ううん。今日俺ね。ディレクターの仕事をしたよ」


「でれくたーかい?」


「うんうん。60秒のね。簡単なCMみたいなものだけどさ」


「そうかいそうかい。光輝はずっとでれくたーになりたかったんだろ?」


「うん。まだなってはいないけどね。とりあえず1本だけだよ」


おふくろが涙声になった。

「良かったね。天国のお父さんにも報告しなきゃね。

光輝が立派なでれくたーになったってさぁ」


「あはは。全然立派じゃないけどね」


俺は放送日時を伝えて電話を切った。

おふくろはビデオ録画すると言ってはりきっていた。


ビデオなんて操作できないだろ?おふくろ・・・。

「はい。二宮です」

おふくろの声だ。

なぜかやっぱり安心する。


「俺だよ。おふくろ」


「どうしたんだい?仕事でなにかあったかい?」


例の事件以降、俺が連絡をすると

心配そうな声になるおふくろ。ごめんね。


「ううん。今日俺ね。ディレクターの仕事をしたよ」


「でれくたーかい?」


「うんうん。60秒のね。簡単なCMみたいなものだけどさ」


「そうかいそうかい。光輝はずっとでれくたーになりたかったんだろ?」


「うん。まだなってはいないけどね。とりあえず1本だけだよ」


おふくろが涙声になった。

「良かったね。天国のお父さんにも報告しなきゃね。

光輝が立派なでれくたーになったってさぁ」


「あはは。全然立派じゃないけどね」


俺は放送日時を伝えて電話を切った。

おふくろはビデオ録画すると言ってはりきっていた。


ビデオなんて操作できないだろ?おふくろ・・・。

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第11章 渡辺のお引越し


今日はまりあの部屋で放送を観る日だ。


この日ばかりは南さんも

「早く帰って自宅のTVで観ろ。全然印象が違うぞ。

それも勉強だ!」と言って定時退社を認めてくれた。


俺は駅に着くとコンビニに入った。


ジュースや適当なお菓子を買い込んだ。


まりあにばかり負担を掛けちゃいけないね。


俺は一旦自室に入り着替えて302号に行った。


インターホンを鳴らす。

この瞬間はいつもドキドキした。


今日はどんな可愛いまりあが出てくるのだろうか?


俺と確認するとドアはすぐに開いた。


「いらっしゃーい」そう言って出てきた

まりあはワンピース姿だった。


その可愛いさ・・・いい加減にしろよ!

「お酒買ってあるよ。放送のあと乾杯だね」

そう言いながら俺を招き入れるまりあ。


おいおい。こりゃ新婚カップルじゃねーかよ!


リビングに入ると


「いやぁ。どうもどうも」


手を上げている油田がいた。

貴様はいつも俺より先にいるんだな?おい!!


「まぁまぁ座って下さいな」

テメーの部屋じゃねーだろが!!


時間は19時30分。放送まで30分弱だ。

3人でしばしの雑談。


実は俺はこの時かなり緊張していた。

本当に放送されるのか?

俺なんかが作った作品が・・・?


19時50分。放送まで4分。

ここでまりあがビデオをセットした。

口数が減ってくる一同。

放送まで


3分・・・・。


2分・・・・。


1分・・・・。


俺「・・・・・・・・・(ドキドキ)」


ま「なんか緊張するね♪」


油「待ち遠しいですなぁ」


そういって油田がテーブルに肘を付いた瞬間。


ザーーーーーー。


TV画面が砂嵐になった。


へ・・・?何これ放送事故??


「えっ!!」俺とまりあは同時に声を上げた。

「あっ!!」と1人別の声を上げる油田。


画面の右上は21CHを表示している。

そんな局あるの?

「すすす・・・すみません。肘が・・・リモコンに当たったみたいで・・・」


油田ぁぁぁーーー。貴様という男は!!!


相当テンパッっているのか

リモコンを適当に押しまくる油田。


「ちょ・・・。油田。頼む!!頼むから早く戻してくれ!!」


「えっーと。何チャンネルでしたっけ?えっーと・・・」


「60秒しかないんだ。油田。急いでくれ!頼むから!」


TV画面が見覚えのある映像を捉えた。


「そこ!油田!!そこで止めて!」


俺の体感では冒頭20秒以上は進んでいた。

テープが擦り切れる程みた映像だ。


すぐに分かる。

あっという間に俺のデビュー作はTV画面から消え去った・・・。

そこは既にカレーのCMに支配されていた。


シーーーーーーン。


室内が静まりかえる。


「そ・・・そうだ。ビデオ!ビデオ撮ってたんだ。やっぱ便利だよね。ビデオ」

まりあが慌てて停止から巻き戻しのスイッチを押す。


まりあの気遣いが痛々しかった。


そこに映し出された映像は

俺が100回くらい観た映像だった。


そこにLiveの興奮は無かった。


またカレーのCMが流れる。


シーーーーーーーーーーーーン。


またしても室内は静まりかえった。

しかし俺が一生懸命に作ったデビュー作は

無事お茶の間に放送さたようだ。


心の奥底から込み上げる感動を

全身で受け止めていた。


右の拳は握りしめていたに違いない。


「すごいね・・・。ほんと」

まりあがポツリとそう言った。


「私の目の前にいる光輝くんの頭の中で考えたことが

映像という形になって、こうしてTVに映し出されているんだ・・・」


聖母マリア様降臨!

君はなんという才女なんだ。


そしてなんて可愛いことを言うのだ。


若い人は感受性が豊かだね。やっぱり。うんうん


俺はチラリともう1人の若者を見た・・・。


「短すぎて何がなんだかよく分かりませんでしたなぁ」


そう言いながら俺のグラスにコポコポと

ビールを注いでいる。


貴様は・・・・。


なにはともあれ俺たちは乾杯をした。

ビールが進む。


まりあは何度も何度も巻き戻して

俺のデビュー作を観てくれた。


その度に「すごいねー」と言ってくれた。

仲直りは完璧に成功したみたいだ。


この2人といるとやっぱり楽しい。


年齢も大差無く、俺も浪人や留年があれば

2人と同じまだ大学生だった。


会話をしていても同じ感覚で笑える。


こんなに楽しい時間を

マンションの住人と共有できる奇跡に感謝していた。


飲み始めて1時間程度。

場はすっかり盛り上がった。


今なら言える!このタイミングしかない!


「あのさぁ。ちょっと2人に報告があるんだけどさぁ」


「なになに?」

まりあも酒が入ってテンションが高い。


「2人もこの前ここで会った女の子。

あれ会社の同期の渡辺っていうんだけどさ・・・」


まりあと油田が動きを止めて俺を見つめる。


「なんかアイツ304号に引っ越してくるみたい。あはは」


シーーーーーーーーーン。


再び室内に沈黙が訪れた。

「ななな・・・なんですと!」

最初に反応したのはデブだった。


「渡辺さんというと、あの綺麗な顔立ちで

少しすました感じの美人ですね?」


「そ・・・そうだね。それが渡辺だね」


「いつ引越してくるのですか?」


「うーん。近々。おそらく数週間以内には」


「やりますなぁ。二宮さんも。いやー。実に羨ましいですなぁ。二宮さんも」


ちょっと・・・。黙っててくんない?デブ。


俺はまりあの顔の顔を見た。

ビールの入ったグラスを握り締めて

フリーズしている。


下を向いていて表情が分からない。


怖い・・・・。


ひとりではしゃぐオタクの声を遮ったのはまりあだった。


「さぁ。そろそろお風呂入ろーっと。明日学校早いしね。

男子の皆さんは出て行ってくださーい!」


え・・・まだ21時だけど・・・。


「はいこれビデオ。あげる。家で見て下さいね」

俺はまりあにデビュー作のVHSを渡された。


「二宮さん家で飲み直ししましょうか?フヒヒ」

俺は気づくと楽園からオタク部屋へと移動していた。

「オーライ!オーライです!!」

次の日曜日。

マンションの駐車場で大声を張り上げている俺がいた。


TシャツにGパン。

頭にはタオルをガテン巻きしている。


「ストーーーーップ!!」

赤帽の車に指示を出す。


なぜ俺は引越し等の行事になったら張り切ってしまうのだろう・・・。


この日は渡辺が304号に入居する日であった。


渡辺はわざわざ俺の休みを狙って引越してきた。

人手を確保するためだ。


通常の引越し業者ではなく赤帽を頼むあたりは

いかに引越し費用を安く抑えるかという

渡辺の魂胆が見え隠れする。

「ごめんね。二宮くん。せっかくの休みに」

いやいや。それを狙っていたんでしょ?あなた。


「別にいいよ。暇だし」

今日の渡辺はいつもの渡辺だった。


ノーメイクにTシャツGパン。

引越しだから当たり前なのだが

お陰でドキドキすることは無さそうだ。


なんといってもここは

まりあのテリトリーである。

迂闊な行動はとれない。


俺は赤帽のオッサンと洋服ダンスやTV等の大物を運ぶ。

渡辺は鞄に詰め込んだ衣類などを細々と運んでいた。


30分程度引越しが進行したところで

302号からまりあ出てきた。


俺は焦らない。

今日は同じフロアでの引越しだ。

この後どうせ油にも会うであろう。


「こんにちわ。これからヨロシクお願いします」

渡辺がまりあに挨拶をする。


さて・・・どんな反応を返すのか?

「こちらこそヨロシクお願いします。

分からないことがあったら

何でも聞いて下さいね♪」


まりあもニコニコと挨拶を返した。


いける!今日はご機嫌な様子だ。

便乗して俺も話掛ける


「まり・・・。新・・・。新田ちゃんは今からバイト??」

一瞬ためらってしまった。


「まりあ」と呼ぼうとして渡辺の存在が

「新田さん」と呼ぼうとしてまりあの存在が頭の中で交錯した。


脳内で一瞬にして出した折衷案が「新田ちゃん」だったのだ。


それにしても新田ちゃんってなんなんだよっ!!


新田ちゃんは俺をキッと睨むと無言で

エレベータの中へと姿を消した。


このままでは本当にマズいな。

渡辺には話しておくべきだ。

駐車場で次の荷物を運ぶ準備をしていると後方から

「やぁやぁ。ご精がでますなぁ」

という声が聞こえてきた。


目の前には俺と全く同じ格好をした

デブが立っていた。油田だ。


「僕も微力ながらお手伝いしましょう」

本当に微力そうだな。


渡辺が挨拶をする

「これからヨロシクお願いします。・・・えっと」

「301号の油田」俺が紹介する。


「すみません引越しのお手伝いまで・・・油田さん」

渡辺が恐縮する。


デブはいや~っと頭を掻いて

「靖男って呼んで下さい。年も近いことですし」


テメーーー!!気持ちワリーんだよっ!!!


部屋に荷物を入れる作業は意外と早く終わった。

1人暮らしの引越しだけに大した量の荷物では無い。


赤帽が帰った後、俺と油田は304号の整理を手伝った。


15時頃片付けのメドがたったところで

「後は1人で出来るから平気だよ」

渡辺のその言葉で一旦解散となった。


「今日はお寿司を出前するから、二宮くんと油田さんも来てね」

手伝いのお礼というわけだ。


ちなみに渡辺が「靖男」ではなく

「油田さん」と呼んだところに注目したい。


「そうそう。302号の・・・。新田さん?彼女も呼びたいんだけど」

渡辺としては同じフロアで同年代のまりあと

仲良くなっておきたいのであろう。


「いいですねぇ。それはグッドアイディアです」


油田は女2人に囲まれて寿司など食った経験はないのであろう。

そのシチュエーションを想像して興奮している様子だ。


ちなみに俺もそんな経験は無い(寿司以外ならギリギリある)

19時に304号に集合するという事で一旦解散した。


果たしてまりあはいつ帰ってくるのだろう?

カレー屋のバイトは割と早い時間に終わるはずだ。

19時までには戻ると思う。


部屋でゴロゴロと時間を潰す。


やっぱり言っておくべきだな。


俺は決心して304号に行った。

そしてインターホンを押す。


「はい?」

当たり前だが渡辺の声だ。

なぜか新鮮な気がした。


「二宮だけど。ちょっといいかな?」

ドアがガチャっと開いて渡辺が顔を出した。


「どうしたの?」

不思議そうな顔をする渡辺。


「廊下でいいや。話があるんだ」

俺は部屋を整理中の渡辺を気遣った。


「あのさ。302号の新田さん。新田まりあさんなんだけど」

「うんうん。」


「俺さぁ。彼女のこと・・・好きなんだよね」

渡辺は驚いた顔で俺を見つめた。

「そうなんだぁ。でもどうして突然私に??」

そう聞かれると上手く答えられない。


「いや。後々になってどうせバレるじゃん。だから今言ってみた」


この話は俺と渡辺が同期の枠を超えてしまう話だった。

完全にプライベートの領域だ。


俺はなんとなく嫌だったのだ。

会社とプライベートは分けたいタイプだったのだ。


「いいじゃんいいじゃん。彼女可愛いし」

渡辺は笑いながらそう言った。


「応援してあげるよ。今日お寿司に来てくれるといいね」


「うん・・・」


「それじゃ19時だよ!」そう言って渡辺が部屋に戻りかける。


「ちょっと待って渡辺!」


「ん?」


「俺・・・。新田さんのこと・・・まりあって呼んでる」


「うん。それが?」

それ以上は特に無いです。

渡辺の前でまりあと呼ぶために、一応言っておいただけだ。


「なんにもない。それだけ」


渡辺は笑顔を見せて304号へ戻った。

よし!これでまりあの誤解を解けばOKだ。


ボーッと空を見ながら

俺はマンションの廊下でまりあの帰りを待った。


30分ほどしてマンションの下にまりあの姿を見つけた。

もうすぐエレベータで上がってくるな。


しばらくするとチーンというエレベーターの到着音がした。


まりあが廊下にいる俺に気づく。

少し驚いた様子だ。

「お疲れ。まりあ」


まりあは「どうも」とだけ言って部屋のキーを取り出そうとした。


「ちょっと待って!」

俺はまりあを呼び止めた。

「今夜7時からなんだけど、304号でお寿司を食べるんだ。

渡辺がまりあもどうぞ!って言ってるから一緒に行こうよ」


まりあは少し考える素振りを見せたが


「私はいい・・・」と言った。


「なんで?お寿司だよ?お寿司」


その瞬間まりあが右手に持っていた

某カレーチェーンのビニール袋を

俺の目の前に差し出した。


「私はバイト先で貰ったカレーを食べるのでいいですっ!!」


なんだそりゃ?


「お寿司なんか食べたくありませんっ!!」


この言葉にはさすがにカチンときた。

まりあは好きな女だけど、渡辺だって大事な同期だ。


渡辺の好意に対して、今のまりあの態度はあまりにも失礼だ。


「んじゃカレーばっかり食ってたらいいじゃん!」

とうとう言ってしまった。


「言われなくてもカレーばっかり食べますっ!!私はカレーが大好物なんですっ!!」

そう言って俺を一睨みすると、まりあは302号へ入って行った。


渡辺より気が強い!俺もムカついて自室に帰った。

とはいうものの・・・。

俺は後悔し始めていた。


やっぱりアレはちょっと言い過ぎた気が

しないでもない。


それに、もしあれがヤキモチだとしたら・・・。

その分、まりあは俺を好いてくれているという事になる。


みんなが304号で楽しくお寿司を食べている時に

1人でカレーを食べるまりあを想像した。


・・・切ない。


俺は時計を見た。18時45分。まだ間に合う。

謝りに行こう。


その時ピンポーンとドアホンが鳴った。

誰だ?

どうせ油田か渡辺であろう。


俺はドアホンに出ずそのまま玄関を開けた。


そこにはまりあが立っていた。

シュンとして下を向いている。


「どうしたの?まりあ」


まりあは

「ごめんなさい・・・」と呟いた。


俺は意外な言葉を聞いて少しオロオロとした。

「いや。俺もごめん。なんか・・・。ごめんね」

するとまりあが恥ずかしそうに言った。


「まだ間に合うかな?・・・お寿司」


まりあは渡辺の部屋へ行くと言っているのだ。


「大丈夫!大丈夫!用意してあるよ」


渡辺のことだ。

お寿司は4人前用意しているに決まっている。


あいつは女だが男前なヤツなのだ。

(引越し費用はケチッたが)


俺とまりあはそのまま部屋を出た。

少し早いが304号に行こう。


「渡辺彩」しっかりとネームプレートをはめていた。

こういうのは性格なんだろうな。


まりあは用心のためかネームプレートを付けていない。

油田は苗字だけ。


俺は渡辺と同じでフルネームだ。

こういうことは、しっかりしないと

なんだか落ち着かないタチである。


インターホンを押す。

「はーい」

「俺。二宮です」


すぐにドアが開いた。

まりあに気づく渡辺。

「新田さんも来てくれたんだ。良かったー。お寿司8人前も買っちゃったから」


8人前ですか!!??


「どうぞ。上がって」

渡辺に促されてリビングへと入る。


・・・・・・・・・・・。


「やぁやぁ。どうもどうも」

聞きなれたデブの声。


貴様いい加減にしろよっ!!

まりあの部屋ならまだしも、渡辺の部屋くらい時間通りに来い!!

しかもビール飲んでねーか??テメー!!


「さぁ。新田さんはここに座って!二宮くんはこっちね!」

そう言いながら渡辺はさり気なく席を指定した。


まりあと油田を近づけず、なおかつ俺とまりあが隣になる席だ。

なるほど渡辺が言った「応援するね」はこういう意味なのか。


渡辺は近所の回転寿司屋で購入したであろう、8人前の寿司を広げた。


そして(なぜか)油田が乾杯のとって宴が始まった。


寿司・カレー・すき焼き・・・。ここに越してきてから

みんなで食べたものだ。うん。悪くない。


油田・まりあ・渡辺。

3階フロアも気が付けば全員同世代で

くつろげるメンバーが集まっていた。


引越して来た日は

まさかこんな生活になるなんて、想像もしていなかった。


このままみんなで

ずっと楽しく暮らせればいいな・・・。

俺はそんなことを願っていた。


しかしそんな俺の願いはアッサリと崩れさる。


親友の手によって・・・。


しかしそれはまだ後のお話。

場が盛り上がってくる。


酒がまわってきた油田は饒舌になってきた。

「ところで彩さんは・・・」


あ・・・彩さんだぁ!!??


「おっとこりゃ失礼!」

と言って自分の後頭部をピシャリッと叩くデブ。


「いいですよ!彩で」

渡辺がすかさずそう言った。


「そうですかぁ。それでは今後は彩さんで」

不気味にニヤリと笑うオタク。


計算だ・・・。

計算に違いない・・・。


この流れは渡辺の返答まで予測した

油田の緻密な計算による流れなのだ。


きっとまりあの時もそうだったに違いない!


コイツは侮れない・・・。

この分野では完全に俺の敗北だ。


「彩さんはなぜカメラマンを目指したのですか?」


コイツ・・・。俺にはそんなこと、聞いたことも無いくせに!!


渡辺は律儀に答える


「子供の時にね。風の谷のナウ〇カを観て感動したの。

それから映画に興味を持って・・・。

それでいつの間にかカメラマン志望」


そう言って照れくさそうに笑った。


へぇー。渡辺はアニメがきっかけなのか。

人それぞれなんだな。

「ナウ〇カですかぁ」

油田が語り出した。


「あれは実に名作ですなぁ。冒頭のシーンでですなぁ。

実はちびま〇子ちゃんのTARAK〇が声優出演しているのです」


更に講釈は続く。


「実は秘話がありましてね。巨神兵のシーンです。

あれはエヴァンゲリオンの庵野秀明が原画を描いたのですよ」

と自慢気に語ったあと


コップに残ったビールをグイッと飲み干し一言。


「どうです?」


一同。シーーーーーーーーン。



渡辺は油田のグラスにビールを注ぎながら

「へ・・へぇー。そうなんだ。勉強になるねぇ・・・。二宮くん」


別に。


油田はヤレヤレというゼスチャーを見せ

「困ったものですなぁ。映像業界の人がこんな事も知らないなんて」


ほっとけっ!!

その時、携帯の着信音がした。

渡辺の携帯だった。


「あ・・・私だ!会社からだ!」

そう言って急いでキッチンに消える渡辺。


いま逃げたよね?君。


それにしても携帯か・・・。

俺はこの時まりあの番号はおろか

メールアドレスも知らない。


これは由々しき事態といえよう。


しかし今はチャンスだ!


「そうだ。携帯といえば俺まりあの携帯番号知らないや」


軽くジャブを入れてみる。

油田戦法の変形といえよう。


「そうだね。私も光輝くんの番号知らないや。赤外線送るね!」


あっさりOK!!

油田戦法使えるっ!!


まりあがピンクの携帯を差し出してきた。


チクショーー!!携帯まで可愛いなぁ!!チクショーー!!


俺もグリーンの携帯を差し出す。


もうすぐ君の携帯のデータが、僕の携帯に侵入してくるんだね・・・。


その瞬間、俺の左側からグレーの不気味な携帯が飛び出してきた。


ん???


何ちゃっかりまりあのデータ傍受しようとしてんだっ!!デブッ!!!


「次は光輝くんが送ってきてね♪」


か・・・川田さん。俺とうとうここまで来ましたよっ!!

とりあえず心の中で川田さんに報告をしておいた。

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第12章 終戦まりあ記念日


季節は真夏に突入していた。とにかく暑い。

しかしこの頃の俺は仕事も熱かった!


初ディレクションを無事に成功させた俺は

その後も1本、2本と南さんから仕事を貰えた。

例のパブであるが全て全力で取り組んだ。


自分のディレクター業務に加え

川田さんAD業務ももちろん俺の仕事だ。


ディレクター業務にかまけてAD業務を疎かにしては

本末転倒だ。これも全力で取り組む。


更に俺にはもう一つ仕事が増えた。

野球中継のFD(フロアディレクター)である。


中継部門が弱点である、我が社の制作部が

本格的に中継業務へ幅を広げていこうという時期だった。


その急先鋒として俺が指名された。

ディレクターは自社でもフリーでもない

V局のディレクターだ。


局D(TV局のディレクターをこう呼ぶ)は

今までのディレクターとはワケが違う。

いわば放送業界の頂点。親玉だ。


局Dが俺に失格の烙印を押せば、それはすなわち

我が社の制作部は中継業務が出来ないことを意味する。

俺のプレッシャーは頂点にまで達していた。


野球中継のFDは

弁当の手配にはじまり。

チーム広報への挨拶。

スタッフIDの配布。

スタメンの入手。

実況・解説の出迎え。

試合中はスコアの記入(予算のある仕事ではスコアラーが付く)

CMの入りや明け時間のカンペ出し。


などなど多岐に渡る。


今までは台本に沿って撮影していたが

中継は当然のごとし

その場その瞬間に作品が出来上がっていく。


生中継ならばその瞬間にTV電波に乗っている。


台本も進行台本とその名を変えるのだ。


一瞬のミスも許されない。それが中継業務なのだ。

中継の仕事ではよく渡辺と一緒になった。

彼女はまだCA(カメラアシスタント)である。


セッティングでは重い機材を運んで走りまわり。


本番中はカメラのコードをさばく。


そして撤収の時は、再び重い機材を担ぎ

汗まみれになって動きまわった。


地味だが体力的にはかなりハードな仕事だ。

よく怒鳴られていた。


しかし渡辺の目はいつも先を見据えていた。


カメラマンになりたい!


その思いは俺にまでヒシヒシと伝わってきた。


俺も負けてはいられなかった。

渡辺は同期であり、隣人であり、そしてライバルであった。


俺は死に物狂いで中継の仕事を覚え

ある程度局Dの信頼を得ることができた。


仕事が充実していた。

しかしその代償として休みは無かった。


15連勤なんてザラだった。


家に帰るのが週に1日という時もあった。

しかしそれは渡辺だって同じことだ。


この時の俺たちはとにかく仕事に全力だった。

そんなある日。

俺は平日に代休をとることができた。


何もしたくない。

とにかくクーラーの効いた部屋でゴロゴロとしていたい。


というわけで俺はその日

油田と2人、部屋でマンガを読んでいた。


しかしコイツもヒマな奴だぜ。

少しはまりあを見習ってバイトでもしろよっ!


プピィィ~~。


コイツ!!人の部屋で屁までこきやがった!!

どんだけくつろいでいるんだよ。


「そうそう。ところで二宮さん」

油田がケツを掻きながら話しかけてきた。


「もうすぐまりあちゃんの誕生日では?」


俺はガバッと飛び起きた。


そうだ・・・。8月15日。

その日は終戦まりあ記念日だった!


「お祝いでもしますかぁ。みんなで集まって」

油田が面倒くさそうにそう言った。

やるっ!やるに決まってんだろがっ!!


俺はカレンダーを見た。8月10日。

時間はたっぷりある。


「でもさ。まりあも友達とお祝いするかもよ?」

それは十分に考えられられる。

仮に友達と会わなくても帰省する可能性がある。


「ああ。それは大丈夫ですよ。」


なに?


「昨日彼女と会った時、お盆もバイトが入っているって嘆いていたので」


俺は早速、油田と誕生日パーティーの計画を立てた。

会場は俺の部屋。


飲み物の購入も俺。


ケーキの購入は油田。


チキンの購入は渡辺(仕事のメドが立てば)


そして当日の予定は・・・。


まりあのバイトは早くて16時、遅くても19時には終わる。


15時頃に俺からまりあへメール。

内容「今日バイトは何時までですか?

   至急メール下さい。」


   ↓


バイト終わりのまりあがメールを返信。

「○時に終わります」


   ↓


俺返信「至急の用事があります。帰り家に来て下さい」


   ↓


まりあ来る。


   ↓


クラッカー。

 

   ↓


おめでとう!!


   ↓


まりあ感激!!


ざっとこんな感じであった。

次の日の朝、俺が部屋を出ると

前方に渡辺の姿が見えた。


「おーい。ナベ。ちょっと待ってくれー」

「あっ!おはよう二宮くん」


俺と渡辺は一緒にエレベーターへ乗り込んだ。


「渡辺は15日ロケ?」

「うん。でも上がり早いよ」

よしよし。


「その日まりあの誕生日なんだ。俺の部屋でパーティーしようよ」

「へぇー。まりあちゃん終戦記念日が誕生日なんだ」


そうなのだ。

実はこの頃まりあと渡辺は

「まりあちゃん」「彩さん」と呼び合う仲になっていた。


お互いの部屋を行き来し

休みが合えば買い物も一緒に行っているらしい。


俺は渡辺に分担を伝えた。


君はチキンを頼んだよ。


「ところでさぁ。チャンスじゃん」

渡辺がニコニコと俺の顔を覗き込む。


「な・・・。なにがよ??」

言いたいことは大体想像がつく。


「プレゼント買っちゃいなよ。まりあちゃんに」


き・・・君は何を言っとるんだね。

俺だけがそんなマネしたら明らかにおかしいじゃん。

「いいこと教えてあげようか?」

更にニコニコする渡辺。


い・・・いいこと??


「まりあちゃんね。aquagirl好きだよ」


「な・・・何?アクアガールって」


「女の子のセレクトショップだよ。

この前、買い物した時aquagirl行ったもん。一緒に」


さすがにこの手の情報は女の方が目ざとい。


「そこでまりあちゃん。ブルーのワンピース欲しそうに見ていたよ」


ゴクリ・・・。確かにチャンス。


「それで?それ買わなかったんだよね?」


「うん。結局ね。だからチャンスでしょ?」

「それは・・・確かにチャンスだ」


結局その日の会社終わり、俺と渡辺はaquagirlに行く約束をした。


男1人では入り辛い店らしく

渡辺も付き添ってくれるそうだ。


というか渡辺がいないと

お目当てのワンピースが分からない。

昼休みに金を下ろした。

資金は潤沢に越したことは無い。


初ボーナスは有り難かった。


俺は仕事を定時に終えると

1階の技術部に行った。


そこで渡辺はカメラの練習をしていた。


「渡辺ー。帰るべさ」


「はーい。カメラ片付けるからちょっと待っててね」


俺と渡辺は技術部の先輩に「お疲れ様でしたー」と挨拶をし会社を出た。


後で知ったことだが

当時、社内では俺と渡辺が付き合っているという

噂が流れていたそうだ。


付き合ってはいない。

ただ隣には住んでいる。


それがバレるほうが怖かった。

俺と渡辺は繁華街に出てaqu〇girlに行った。

なるほど。これは確かに男1人では入りにくい。


「残ってるといいねー。ワンピース」

そう言いながら渡辺はズンズン店内に入って行く。


ちょ・・・。待ってよ。1人にしないで!


店員の綺麗なお姉さんが

「いらっしゃいませ」と声を掛けてくる。


なんか落ち着かないよ。ここ。


「あー!あったあった!二宮くん。このワンピースだよ」


渡辺が手に取った淡いブルーのワンピースは

清楚で上品な感じがして

まりあに実に良く似合いそうであった。


「へー。いいじゃん。」

と言って手に取る俺。


何気なく値札を見てみると・・・。


\43,000と書かれてあった。


女の子の服は高い!


あらかじめ予想はしていたが、こんなに高いとは。

男ものに比べて生地も薄くて少ないのに・・・。

しかし俺は腹をくくった!


まりあがこのワンピースを欲しいのなら

俺はこのワンピースを買いたいのだ!


それが男の甲斐性(多分)である。


ふと店内を見渡すと渡辺がブラウスを見ていた。


近づいて行く。


「ねぇ。二宮くん。これ可愛いね」

うん。確かに可愛いと思う。

渡辺にもよく似合いそうだ。


中継現場で見る渡辺とは別人だな。

いつもは鬼気迫る勢いで、汗まみれに仕事をしてるくせに・・・。


ブラウスを見てはしゃぐ渡辺は少し可愛く見えた。

やっぱ20歳(21歳かも)の女の子じゃん。

「買ったろうか?それ」

なぜだか分からないが、自然とそんな言葉が出た。


驚いた表情で俺を見る渡辺

「いいよ。彼氏でもないんだし・・・」


「でも欲しそうじゃん。それ」


渡辺は少し悩んだ表情で

「やっぱいい。悪いし」

そう言ってハンガーを元の場所に引っ掛けた。


確かに出費は痛い。

しかし今日は手持ちも多少ある。


なにより俺は、渡辺に今日のお礼がしたかった。

「別に悪くないよ。ボーナス残ってるし・・・」


渡辺は首を振って

「ううん。まりあちゃんに悪いじゃん」

そういってニコッと笑った。


そして・・・。

「まぁ。気にすんなっ!」

と言って俺の腕を引っ張ってレジに向かった。

終戦まりあ記念日の当日、俺はお盆休みを取った。

ちょうど仕事も無かったし好都合だった。


昨日廊下でバイト帰りのまりあに会った。


「お疲れ。まりあ。明日は終戦記念日だね」

わざと意地悪な言い方をしてみた。


「終戦日記念日に生まれた子です。私。あはっ」

軽く自分の誕生日をアピールしてくるあたり

天性の可愛さは才能であると確認させられる。


分かってまんがな。分かってまんがな。


明日は盛大にお祝いしてあげまんがな。


「それでは・・・。フヒヒ・・・。」

油田チックな俺がいた。


俺はハサミで色紙(いろがみ)を短冊に切った。

これであのベタな「繋がったリング」を作ろうとしていた。


社会人にもなって、本気でこんな物が

喜ばれると思っていた自分。


今では恥ずかしい。


油田と渡辺は16時に来る予定だ。

まりあが16時上がりでも間に合うように。


もし19時上がりの場合は

あいつらにもリングの飾りつけを手伝わそう。

リングが2m位になったところで15時になった。


まりあにメールを入れなければ。


「まりあって今日バイト上がり何時なの?」

まずはシンプルなメールで攻める。


ここで「いかにもっ!」といったメールは

ネタバレの恐れがあり、命取りだ。


これで早くて1時間後には返信が着ますね。フヒヒ・・・。


しかし5分後には俺の携帯が光った。


ん??油田か??


メールを確認する。あれ?まりあだ・・・。


「きょぅゎぢっかにぃるよヾ(@^▽^@)ノ」


え・・・?


なんで?


なんで実家にいるのよ?


意味が分からない。

だって今日バイトだよね?

今バイト中だよね?


何かの間違いだ。

きっとそうに違いない!


落ち着け俺。

深呼吸だ。

スーハー。スーハー。

「今日ってバイトだよね?お盆はバイトだよね?」

焦りの色は微塵も感じられない。

我ながらパーフェクトな文章が完成した。


送信!


すぐに


返信!


「ぅん♪でもきょぅ1にちゎぉ休み(@^▽^@)ゞどしたの??( ̄~ ̄;)」


なななな・・・・なんですとぉぉぉぉぉ!!!!


そうか!俺はここで全てを悟った。


油田は確かこう言った。


「お盆もバイトが入っている」と・・・。


油田のお盆は「8月15日」を指していたが


まりあは「8月15日前後」

いうなれば、世間一般のお盆休み期間を指していたのだ。

俺は焦った。

正確にいうと焦りまくった。

どんな返事をしようか?


こっちが勝手に盛り上がってる内容を

匂わせてはいけない。


まりあも責任も感じるだろう。

この際、悪いのは油田1人でいい。


それにこの浮かれ具合を、見透かされるのは恥ずかしすぎる!!


「別になんにもないよ(。 ̄_ ̄。)ノ

ただ、まりあの誕生日ケーキを用意してたからさ(≧∇≦)ノ

帰ってきたら食べようぜ(V^-°)」


よしこれで完璧だ。

生まれて25回目くらいに使った、顔文字のお陰でうまく誤魔化せた。


送信!


2分後


返信!

「ぇーー。。。ごめんなさぃ。。(+_ q ))グスン」


俺は「\(^◇^)OK!」

とだけ返しておいた。


それにしてもだ・・・。


もうすぐ油田がケーキを

渡辺がチキンを買ってやってくる。


今から携帯で止めても手遅れかもしれないな。


みんなで終戦記念日に、チキンを食うのも悪くないな・・・。

俺はふと床に転がる色紙のリングを見た。


なぜか笑いが込み上げてくる。


フフフ・・・。


まりにあげる予定だった、ワンピースが入った袋を右手に持つ。


あは・・・あはは・・・。


笑えてくるぜ!俺のバカチクショーが!!


HAHAHA!


左手にはまりあを驚かすために仕入れたクラッカーを持つ。


HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!


あははは・・・あは・・・。


フフフ・・・・。


ぅぅ。。。ぅぅっぅぅ。。。


あれ?なぜだろう・・・?


笑っているはずの俺の目から一筋の汗が流れた・・・。

16時丁度インターホンが鳴った。

渡辺だった。


「ごめん。開いてるから勝手に入ってきて・・・」


「お邪魔しまーす」と言って渡辺がリビングに入ってきた。


「先輩に用事があるってウソついちゃった。いいよね。あはは」


「あー。二宮くん。リング作ってるー。幼稚だねー」


「チキン冷めちゃうかな?まりあちゃん何時に帰るって?」


「そうそう。ちゃんとワンピース渡さなきゃだよ。がんばってね」


俺はただリビングにボー然と立ち尽くしていた。


「どうしたの?二宮くん?」


「聞いてくれ。渡辺・・・。実は・・・。」


「いけませんねぇ。いけませんねぇ。これじゃケーキが入りませんよっ!!」

キッチンを見ると俺の家の冷蔵庫を漁っているオタクがいた。


油田テメーーーー!!!インターホンくらい押せんのかっ!!!


それは100歩譲っても

人ん家の冷蔵庫勝手にいじってんじゃねーーぞ!!


「ふぅ・・・。なんとかケーキが収まりましたなぁ。

二宮さん。この麺つゆが邪魔でしたよ?」


この2人を今からシラケさす報告をするのか?俺は!!辛いぜ!!

「2人共ちょっと聞いてくれっ!!」

俺の声に2人が固まった。

そして俺の顔をゆっくりと見る。


「今日まりあは来ないっ!!!」


・・・・・・・・・・・・・・・。


オタクと渡辺の表情が固まった。


「まりあはお盆にバイトがあるとは言ってない。

正確にはお盆の【間】にバイトがあると言ったんだ。

したがって・・・。今日は実家に帰った!」


シーーーーーーーーーーン。


もはや恒例となった重い空気だ。

しかし今日はGの効き方がいつもよりきつい。


「そそそ・・・それじゃなんですか?僕に責任があるとでも??」

油田が汗を掻きながら焦っている。


「油田に責任はない!90%しかないっ!」


「俺が俺が悔しいのは、まりあが来ないことじゃないんだ・・・。

俺は自分が残念な気持ちを悟られないように・・・」


油田と渡辺が俺を見つめる。


「顔文字(。 ̄_ ̄。)ノ←こんなのや。(≧∇≦)ノ←こんなのや。(V^-°)←こんなのや。


\(^◇^)←とどめにこんなの。を送った自分が情けないんだ!!」


俺の話を聞き終えると渡辺がそっと近づいてきた。


「元気だして。二宮くん。そんな時もあるよ」

俺たち3人はテーブルを囲んでチキンを広げた。

俺の横にはワンピースが入った袋が置かれている。


まりあ。俺やっぱりこれ・・・今日渡したかったよ。


渡辺はそんな俺を気遣ってか

「私もね。プレゼント買ったんだ。明日渡そっかなぁ」

と遠まわしに慰めてくれる。


「ちなみに何を買ったのですか?彩さんは」

油田が興味津々の様子で尋ねる。


「んとね。スリッパ。可愛いやつなんだよ」

そか。渡辺は俺のプレゼントが引き立つように

わざわざ地味目な物を用意してくれたのかも?


「スリッパですかぁ。それはナイスチョイスですねぇ」

油田がガザガザと自分の鞄を探り始めた。


「いやぁ。実はですね。僕もまりあちゃんに

プレゼントをご用意しているのですがぁ・・・」


少し自慢気な油田。

きっと俺たちに見せたくて仕方ないのだ。


「なになに?」

渡辺はのってあげる。

実は俺も少し興味がある・・・。


「いやぁ。本当に大したものではありませんが・・・。アリ伝説DXです」


シーーーーーーーーーーーン。


「袋を空けてお見せ出来ないのが残念です・・・。」


別に見たくない。

「そうだ!チキン食べようか!

二宮くんには1番食べやすいモモの部分あげる」

そう言って渡辺はチキンを紙に巻いて俺に持たせてくれた。


渡辺は俺と一緒にaquagirlに行ってくれた。

そしてあのワンピースは

俺の給料ではちょっと手の出しにくい物だと分かっている。


だから渡辺は分かってくれているのだ。

俺が今日という日に賭けていた事を・・・。


よし!俺も明るく飲もう!

油田と渡辺に悪いもん。


しかし一旦落ちてしまった空気を上げるのは

なぜこんなにも困難なのであろう?


がんばってはみるものの

まるでお通夜のように、盛り上がる気配が無かった。

Happy Birthday  まりあちゃーん♪


・・・


Happy Birthday  まりあちゃーん♪


・・・・


Happy birthday, dear まりあちゃーーーん♪


・・・・・・


Happy birthday to you♪


・・・・・・・・・


渡辺が勢いよくローソクの炎を吹き消す。



シーーーーーーーーーン。


なにこれ?一体?


「さぁさぁ。切り分けましょう!」

油田がケーキ入刀をする。


元々こんなバカな提案をしたのは油田である。


油田と渡辺は明日は忙しいらしい。


そこで主役を差し置いて、少し気は引けるが

まりあの分は残しておいて

ケーキを食べようという提案だ。


それは分かる。仕方ないとも思う。


しかし・・・。

「せめて歌いましょう!我々の歌はきっとまりあちゃんにも届くハズです。」

油田のこの提案。


届かねーーーーーーっよ!!!


そしてまりあと同じ女という安易な発想で

火消し人は渡辺となった。


彼女は最後まで抵抗していた。


板チョコに書かれている

「Happy Birthdayまりあちゃん」の文字が少し物悲しい。

「さてとっ!」

ケーキを食べ終わった渡辺が切り出す。


「明日は早朝ロケなんで帰るね!」

そう言って渡辺が立ち上がった。


「さてさて・・・」

アリ伝説DXを大事そうに抱え


「僕も明日は、仲間との寄り合いがあるのでこれで!」

油田も立ち上がった。


玄関まで2人を見送る。

まだ19時だ。

しかし主役がいなければ、盛り上がるハズもない。


「私明日はちょっと遅いけど

まりあちゃんにプレゼント、一緒に渡しに行こうか?」

渡辺がそう言ってくれた。


「そうだね・・・。」


「僕もお供しましょう!」

油田はなぜか親指を立て「グッ!」のポーズをした。

2人を見送って部屋に戻る。


祭りの後の静けさが少し切ない。

(正確には葬式だったが)


俺はしばらく1人でボーッとTVを観た。


「さてさて。片付けでもしますか・・・。」


俺は壁に貼られた「繋がったリング」を外す。


「せっかく作ったんだし」と言って、渡辺が付けてくれたのだが

男1人の部屋で、いつまでもこんな物をブラ下げていたら

ただのバカである。


ワンピースの入った袋を見てみる・・・。

隣に油田の靴下があった!


アイツは飲むと、どこででも靴下を脱ぐ癖があった。

つまみ上げる。


くっせぇ~~。


ワンピースに臭いが付いたらたらどうしてくれんだよっ!!

俺は油田の靴下を遠くに投げ捨てた。


テーブルを見た。

まりあの分として、切り分けられたケーキがあった。


油田から死守したチョコレートの板。

そこには「Happy Birthday まりあちゃん」の文字。


「明日じゃもう・・・。Happy Birthdayじゃないね」

俺はポツリとつぶやいた。

その時インターホンが鳴った。


油田のヤローだな。

靴下を取りにきたか!?


俺は油田の靴下をつまんで玄関のドアを開けた。


一瞬目を疑った。



そこにはまりあが立っていた。


なんで??どうしてここに??


俺はまりあに気づかれないように

そっと油田の靴下を後方のリビングに投げた。


「・・・・・・・」

俺は状況が理解できないため、声が出ない。


「こんばんわ・・・。」

まりあがそう言った。


「こ・・こんばんは。あれ?まりあどうしたの??実家にいたんじゃ・・・??」


まりあは下を向きながら

「ケーキ買ってくれたんだよね?だから帰ってきちゃった。」

マジですか?

油田さん。あなたの黒魔術ですか?

俺たちの歌声は、本当にまりあに届いたみたいです。


「そ・・・そうか。部屋上がりなよ。ケーキ食べなよ」


俺はまりあを部屋に招き入れた。


リビングに入ると、まりあが床に転がったリングに気づく。


「これ・・・。」

そういってまりあはリングを持ち上げた。


なんだか恥ずかしくなってくる。


「こんなものまで用意してくれてたんだ・・・。」


「そ・・・そうね。油田が作ったんだ。喜ぶわけないじゃんよね?こんなの」


まりあは首を横に振って

「ううん。すごく嬉しい。」

本当は僕が作ったんです・・・。2時間くらい掛けて・・・。


「ケーキ食べなよ。いま飲み物取ってくるからさ」

そう言って俺はまりあを座らせた。


「ごめんね。なんか俺たちで最初に食べちゃって」


まりあは「ううん」と言って首を横に振った。


飲み物を出してあげてケーキをお皿に入れてあげる。

「いただきます」

といってまりあはケーキを食べ始めた。


「うまい?」

俺の質問に


「うん。私ね。チョコのケーキ好きなんだぁ。」


チョコレートケーキ。

油田さんナイスチョイスですよっ!

(本当は油田が食べたかっただけだと思う)

まりあがケーキを食べている間はしばし雑談。


そうだよ。これだよ。これがいいんだよ。

俺は喜びに浸っていた。


誕生日に俺の部屋でケーキを食べるまりあ。

な・・なんか俺たち。

付き合っているみたいじゃね!?


俺はそっと、自分の後方にあった袋をたぐり寄せた。


わ・・・渡すぞ。

まりあが欲しがっていたワンピース。

渡辺とaquagirlで買った43,000円のワンピースを!!


「まりあ。えっとこれ。誕生日のプレゼントです」

なぜか心臓がバクバクする。


「喜んでくれるといいけどさ・・・」

そういって俺は紙袋をそっとまりあに差し出した。


驚いた表情のまりあ。

俺の顔をじっと見つめる。

「ありがとう・・。」

そう言ってまりあは紙袋を受け取った。


「中開けてみてよ。」

俺はまりあの喜ぶ顔が早く見たいんだ。


「うん」

そう言って丁寧に袋を開けたまりあ。


「aquagirlの・・・ワンピース・・・」

まりあはワンピースを見つめながら、ポツリとそう呟いた。


「うん。渡辺に聞いてさぁ。まりあがそれ欲しがっていたって」

照れ隠しでそう言ってみた。


その瞬間まりあがポロポロと涙を流し出した。


そしてワンピースをギュッと胸に抱きしめる。

「ありがとう・・・。

今までもらったお誕生日プレゼントの中で・・・。1番嬉しいです。」

そんなまりあを見ていると

俺は胸がドキドキと高鳴るのを感じていた。


おい・・・。今のまりあ可愛いよ!

いつも可愛いけど・・・。

なんかむちゃくちゃ可愛いよ!


てか、愛しいよ。やっぱまりあが好きだよ。

俺・・・。


止まらない。

もう気持ちが止まらないよ。


「まりあ・・・」

口が開いてそこから言葉が出ていた。

止まらないよ。もう・・・。


「俺はまりあが好きです。ずっと好きでした。」


言ってしまった。

とうとう言ってしまった。


俺はまりあの反応を待った。

胸の高まりは頂点に達していた。

緊張しすぎて頭がクラクラする。


しかしまりあは、俺の言葉に対して反応しない。

ワンピースを胸に抱きしめたまま泣いている。

長い・・・。

おそらく5秒か?10秒か?

その時間がとてつもなく長い。


これは告らないほうが良かったか?

それとも聞こえていなかったのか?

はたまたタイミングを間違えたのか?


様々な思いが俺の頭の中で交錯する。


その時・・・。


「私も・・・。」


まりあがポツリとそう言った。


「私も光輝くんのことが好きでした・・・。」


はっきりとそう聞こえた。

嬉しい・・・。まりあも俺を・・・。やったよ。


「俺・・・俺ずっとまりあと・・・」

ヤバイ!なにをしようとしてるの?俺


気が付くとまりあを抱きしめていた。


うそっ!?俺こんなこと出来る男だったの!?


「まりあといたい。ずっと・・・一緒に。」


そう言ってまりあをギュッと強く抱きしめた。


まりあは俺の胸の中で泣き続けている。

そして一言。


「はい・・・。」


その時!!


バーーーン!とリビングのドアが開く音がした。


ビクッ!として俺とまりあがドアの方向を見る。


「どうもどうも。靴下を忘れてしま・・・・」


俺たち2人を見た油田がフリーズをしている。


だからインターホンを鳴らせと・・・。

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第13章 はじめての彼女


次の日、俺は油田の部屋にいた。


油田はメガネのレンズに、ハーっと息を吹きかけ

服の袖でメガネをフキフキ切り出した。


「しかし。まぁ。なんですなぁ」


俺は油田の前で正座をしていた。


「共同生活における秩序を乱しましたなぁ。二宮さんとまりあちゃんは」


え・・・。ちょっと。

俺たちは確かに仲はいいけど、各々が独立した部屋に住み

家賃も各自で払っていますが・・・。


しかし俺はその言葉を飲み込こんだ。

そして「すんませんでした・・・」と言った。


昨日・・・。


俺はとうとうまりあに告白し成功した。

まさに天にも昇る気分とはあのことだ。


俺は愛しいまりあをギュッと抱きしめ

まりあも無言でそれに応えてくれた・・・。


「幸せの絶頂」そこへ向け、俺とまりは階段を一段ずつ上り始めた。

いや。始めていた。


そこへもっての油田の登場。

ヤツは何かを嗅ぎ付けてきたのかもしれない。

ジッと抱き合う俺たち2人を見下ろす油田。


目が怖い・・・。


「あ・・・油田。靴下・・・。そこ・・・」

俺はそう言って、油田の靴下を指さした。


油田は抱き合う、俺たち2人の横を通り

お目当ての靴下を握りしめると、静かにリビングを出て行った。


「あ・・・明日。寄り合い楽しんで・・・こいよ」

俺の言葉が彼に届いたかは、定かでは無かった。


これはとても隠しきれるものでは無い。


俺は次の日、油田の部屋へ説明に訪れた。


まりあも付いて来ると言ったが、それは断った。

油田の前にカップルで登場すれば、ピザに油を注ぐようなものである。


そして今・・・。


俺は油田に説教されていた。


油田はフーっと深く息をつくと

「まぁ。良いでしょう。今回の件は僕の胸の中に収めるということで」


油田による判決が下された。


「それに僕は・・・」


なんだ?


「彩さんのほうが好みなので・・・フフフ」


・・・・・・・・・・・・・・。

「まりあちゃんは胸が大きすぎて

エロいきらいがありますしね。

ややもするとあの胸は少し下品ですなぁ」


テメー・・・。ぶっ飛ばされたいのかっ!!??


「そこへいくと彩さんの胸は小ぶりだが品がある」


乳しか見てねーのかよ!お前は!!


「まぁ今回は、まんまとお2人のキューピット役を演じましたが・・・」


キューピット・・・?

お前が俺に何をしてくれた?


油田はメガネを持ち上げこう言った。

「今度は僕と彩さんの、応援団長をお願いしますよ。二宮さん?」


お断りします。


俺は油田の部屋を後にし、302号の前に立った。


俺には分からなかった。


彼氏ってなにをするんだ?


どんな態度で接すればいいのだ?


いまの時間は23時30分。


彼氏はこの時間に、部屋を訪ねてもいいのだろうか?


そしてどんな態度をとれば彼氏「風」なのだろうか?


ドアを開けたまりあに対し

「おお。俺だよ。彼氏の俺だよ!」


こう言えばいいのか?自分が純朴すぎて分からない。

以前ならもっと気楽に訪ねることが出来たのに・・・。


俺は廊下の壁にもたれながら、夜空を見上げていた。


俺には今まで彼女がいた経験がない。

中・高とグレて最高のDQNだったが俺だが

そっちの方面はからきしだった。


もちろん女の子には興味があった。

決してウホッではない。


でも照れ屋だったのだ。

中学時代、隣町の中学生とケンカをした。

仲間と鼻血を流しながらの帰り道。


その時仲間が言った。

「俺らもそろそろ彼女が欲しいよな」


俺はクールに言った。

「バカかテメーは?男同士の方が楽しいよ。女なんてつまんねーよ」


しかし内心は

「ウァァァーーーン!彼女欲しいよぉぉぉ!!なんで鼻殴られて血ぃ出してんだぉぉぉ」

であった。


こんな俺でも高校へ行けば、バラ色の学園生活が待っている!

そう思っていた。

しかし中学時代より、さらにDQNとして進化を果たした俺に

近寄ってくる女など皆無であった。


そんな時ある事件が起きた。

これは俺の今までの人生で、1番大きな出来事であった。


実をいうとそれも今回、話すつもりであった。

しかしこの事件を話すと、とうとう終わりが見えないので

やめる事にした。


とにかく俺の人格は、その事件を境にして180度変わった。

人の気持ちを1番に考えたいと思うようになった。


しかしその代償も大きかった。

人の気持ちを考えすぎて、自分が傷つくことも多かった。

すっかりチキンハートな俺になっていた。


髪は黒くなり、サラサラのセンター分けヘアになった。

DQNの仲間とも離れ、ひたすら勉強をした。

来る日も・・・。来る日も・・・。


そしておふくろの肩を揉んであげた。

これまでの何年も、苦労を掛けた分を・・・。


この時に俺は勉強のしすぎで、メガネを掛けるようになった。

その甲斐もあってか、なんとか4流大学に現役で滑り込んだ。


しかし不気味なメガネ男に、近づいてくる女はここでも皆無だった。

しかも元がDQNなのだ。

メガネの奥の潜む眼光は簡単には消えてくれない。


今はメガネをコンタクトに変え

世間の話題にも、ある程度ついていけるが

当時の俺はDQNからある日突然ガリベンになったのだ。


みんなが大事なものを養っている期間を、俺は無駄にした。


そう考えると、俺の青春時代は非常に暗かったといた。

自分の信じる、オタク道を邁進する油田は少し羨ましい。


遅い時間だし302号を訪ねるのはやめておいた。

渡辺には明日、会社で会えたらその時報告しよう。

次の日、15時ごろ技術部に行くと

機材を片付けている渡辺がいた。


たった今、ロケから帰ってきた様子だ。


「お疲れナベ。なんのロケだったの?」


世間話をしたあと、俺は渡辺を誘って会社近くの喫茶店へ行った。


こういうことが新人の俺でも出来るのは

この業界の特権ともいえる。


ホワイトボードに「二宮 資料探し。本屋」と書いておけばOKである。


俺は渡辺に話した。


一昨日渡辺たちが帰ったあと、まりあが家に来たこと


そしてプレゼントを渡して・・・。告白したこと。


まりあが俺の気持ちに応えてくれたこと。


それを油田に見られてしまったこと。


昨日の夜、油田に許可(なんで?)を貰ったこと。


しかし俺が応援団長に任命されたことは伏せておいた。


渡辺はニコニコとしながら俺の話を聞いてくれた。

そして一言

「良かったね。二宮くん」と言ってくれた。

結局、良いデートプランは思い浮かばなかった。

渡辺も「遊園地とかでいいじゃん」とアドバイスをくれたのだが・・・。


少し幼稚なまりあにはそれもいいかな?と思ったが

昔「マイホームみらの」というマンガで「初デートで遊園地と映画はご法度」と

いっていたのを思い出す。


う~~~~む。


俺はこの日の帰り、まりあがバイトをしているカレー屋に行った。

この時間なら、まりあがバイトをしている可能性が高かった。


「いらっしゃいませ」と声を掛けてきたのはやっぱりまりあだった。


俺はどんな声を掛ければいいのか迷った。

「やあ!」「お疲れ!」「オッス!」等が候補に挙げられた。


しかしどれが彼氏「風」か分からず

つい「どうもどうも」と油田「風」の挨拶をしてしまった。


席に着くとまりあが注文を聞きに来てくれた。


「お疲れさま。お仕事いま終わったの?」

なぜ女の子って今まで通り、普通に話せるのだろう?

「う・・うん。ロケ無かったし・・・」

俺はついゴニョゴニョと話してしまう。


「納豆フライドチキンカレーでいいですか?」


「はい。それでいいです。400gにして下さい・・・」


「少々お待ち下さい」そう言ってニッコリ笑うと

まりあはカウンターの奥へと消えて行った。


俺は水をゴクゴクと飲みながら。

「真性の喪男だよな・・・('A`) 」

そう思っていた。


やがてまりあが、納豆フライドチキンカレーを持ってきてくれた。

「いただきます」と言ってカレーを食べようとすると


「もうすぐ上がりだから、一緒に帰ろうね♪」と声を掛けてきた。


「は・・・はい」

えーーーーーいっ!!俺はどこまで純朴なのだっ!!

自分に腹が立つ。


まりあのバイトが終わると帰り道、2人で並んで歩いた。


こんな幸せが俺に訪れるとは・・・。


まりあの話に相槌を打ちながら、2人でゆっくりと川沿いを歩く。

俺の大好きな川だ。

春には桜並木になり、いまの夏の季節には子供たちが水遊びをする。

まりあが「ちょっと下に降りようか?」と言ってきた。

この川は土手に階段が付いていて、川辺に行けるようになっている。


俺とまりあは川辺に並んで座った。

この時間は川のせせらぎだけが聞こえてくる。


まりあが俺の肩に頭をもたげてきた。

そしてそっと手を握ってくる・・・。


本当に俺たち付き合っているんだ!

この時初めてそれを実感した。


よ・・・よし。デートに誘うぞ。

デートプランは何も決まっていない。

しかしこうなれば出たとこ勝負だ!!


「ま・・・まりあ」


まりあは川の方を見ながら

「なに・・・?」と呟いく。


喉が渇く。しかし言った。

「今度・・・。デート行っとく?」


俺のバッキャロー!!

これじゃ川田さんの「キャバ行っとく?」のパクりではないか!!

まりあがこっちを向いて、甘えた声を出した

「どこに行こうか・・・?」


「いや。実はまだ考えてないんだよね。まりあはどこがいい?」


まりあは「そうだなぁー」としばらく考え

「ここがいい」と言った。


「え?ここ?」


まりあはコクンと頷くと

「そう。ここ。ここにお弁当を持ってきて食べたいな。」


まりあがそう言うのであれば

「OK!分かった。んじゃ初デートはここでピクニックをしよう!」


俺とまりあの初デートは、自宅から僅か5分の川辺に決まった。

なんとなく俺とまりあらしいと思った。


そして2人で手を繋いで帰った。

デートの約束をした日から、俺は仕事が忙しくなった。

お盆にのんびりした分の反動が少なからず返ってくる。


結局、まりあとの初デートが実現したのは

それから3週間後の土曜日だった。


既にカレンダーは9月に突入していた。


その日の朝、俺はまりあの部屋を訪れた。


「まだお弁当できてないんだ。少しリビングで待ってて!」

そういって俺をリビングに招き入れる。


俺はボーっとキッチンで、おにぎりを握るまりあを見ていた。


・・・・。


・・・・・・・・。


チクショーーーー!!俺の彼女可愛いーーーーーーーーーーっっ!!!!


叫んでやろうかと思った。この時は本気で。


まりあは手の平でコロコロと器用にご飯を回転させ

三角形のおにぎりを完成させていく。

「手。熱くないの?」

俺は小学生みたいな質問をした。


「熱いよぉー。でも少しお水をつけてね。素早く握るの。そうすれば大丈夫!

あんまりお水を付けすぎると、おいしくなくなるんだぁ。」


俺はへーっと関心した。


男の一人っ子で育った俺は、まりあに色々教えてもらった。


ある時2人で歩いていると、ふと秋の香りがした。

「なんか秋の香りがするね」と言うと。


「うん。これはキンモクセイの香りだね」と教えてくれた。

その度に「女の子ってすごいなぁ」と関心したものだ。


まりあが「今から巨大おにぎりに挑戦します」と言った。

どうも俺用らしい。

まりあはご飯をペタペタと重ねソフトボール位の球体を作った。


俺そんなに食えないよ・・・。


それに具を数種類詰め込み、にぎりに入る。

さすがに三角にするのは無理な様子だ。

最後はその球体の全面に海苔を貼り付け


「完成~~~!!」と笑っていた。

とても嬉しそうだった。

おにぎりをバスケットに詰め込み

俺とまりあは手を繋いで、近所の川辺に歩いて行った。


到着すると2~3人の小学生の男子が、網で川魚を追いかけていた。

和む風景である。


2人でそれをしばらく眺めていた。

まりあは近くの小さな花を摘んで、器用に指輪を作っている。

たいしたものだと思う。


俺とまりあはバスケットからおにぎりを取り出して食べた。

すごく美味しかった。

こういう場所で食べるというのもあるかもしれないが

ここは素直にまりあの腕を褒めておこう。


俺用の巨大おにぎりも完食した。

せっかくまりあが作ってくれたのだ。

残すわけにはいかない。


お弁当の後も、俺とまりあは子供たちを見ていた。

キャッキャッと騒ぎながら、網で魚を追いかけている様子は

とても楽しそうである。


まりあも「楽しそうだね」と笑顔だ。

待てよ・・・。そういえば・・・。


以前、俺は油田がセミ採りに行く姿を見かけたことがある。

この時、大学生にもなってセミ採りなんてバカだと思った。


「まりあ。ちょっと待っててね。」

そういうと俺はマンションに走って行った。


301号のインターホンを連打する。

やっと油田が応答した。


「なんですかぁ。もう・・・」と言いながら寝癖だらけ

の油田が出てきた。


どうやら寝ていた様子である。


「ごめん。油田。お前ムシ網持っていたよね?悪いけど貸してくんない?」


「それならありますが・・・」

そう言って油田がムシ網を持ってきてくれた。


俺はそれを借りると、またまりあが待っている川辺に走っていった。


「お待たせ。油田に網借りてきたから、俺たちも魚を捕まえよう!」

まりあは喜んでこの提案に乗ってきた。


2人で網を川に入れて小魚を追う。

なかなか難しいではないか・・・。

俺は意地になって危険なエリアにまで侵入していった。

ライバルの小学生もここまでは来れまい。


これが大人の力だよ。

フヒヒ・・・。サーセンねぇwwwwww


俺は夢中になっていた。

まりあはそんな俺を見ながら

草花を摘んで、今度は王冠を作っていた。


「待っててくれ!まりあ。俺は君のために、絶対小魚を捕まえてみせるからね!!」

そう心の中で誓った瞬間!


ちょっっ!!!!!!!!!!!


それは一瞬だった!!


俺は藻の付いた岩に足を滑らせた。


このままだと川に転んでいくのが分かる。


全ての景色がスローモションになった。


川辺にいるまりあの「あっ!」という表情が少し悲しい。


俺はこの後予想される、悲惨な結末を想像していた。

ズブ濡れになった俺の顔を、まりあが丁寧にハンカチで拭いてくれた。

かなり情けなかった。


「ごめんね・・・まりあ」

俺はそう言った。

本当は君に小魚を採ってあげたかっただけなんだ・・・。


まりあは気にする様子もなく

「あはは」と笑いながら髪も拭いてくれた。


「呆れてないよね?」俺は心の中でそう聞いていた。


これが俺とまりあの初デートになった。

2回目のデートは遊園地だった。

俺が平日に休みを取れた日に行った。


遊園地はガラガラだった。

それでも俺とまりあは楽しかった。


俺は不覚にもジェットコースターに酔ってしまい

トイレで吐いてしまった。


「光輝くん。大丈夫??」

そんな俺に、まりあはジュースを買って飲ませてくれた。


情けない・・・。


1回目といい2回目といい

デートでは必ずみっとも無い姿を見せてしまう俺・・・。


その日、俺たち2人が気に入ったアトラクションは

「-40℃の世界」だった。


ハッキリいって、ただひたすら

寒いだけのアトラクションである。

その中を歩くだけだ。


特に驚く演出はなにも用意されていない。

中には味噌が置かれてあった。

その味噌が-40℃の世界ではカチカチに凍っていた。


なぜそこに置くものとして、味噌が選ばれたのか?

運営者側の意図は数年経った今も分からない。


2分程度歩くと外に出る。


俺とまりあは大爆笑した。


「本当に寒いだけだったな」

「うん。お味噌置いてあったね~。」


それでまた大爆笑。

結局このアトラクションには4回も入った。


俺とまりあは占いの館にも入った。

2人の相性の占ってもらった。


占い師によると、俺たちの相性は決して悪くない。

結婚するならば、早期がいいと言う。

しかし貯金はしっかりとするようにアドバイスされた。


この占い師の予言が当りか?それとも外れか?

それは意外にも早く分かるのだが・・・。


この日、俺たちは初めてキスをした。

遊園地から帰った後、場所は俺の部屋だった。

流れはごく自然に生まれた。


まりあの肩を抱く。

手がブルブルと震えた。

必死に震えを押さえようとしたが、それは止められなかった。


状況を理解したのか、まりあがスッと目を瞑った。

まりあも小刻みに震えていた・・・。


唇をそっと重ね合わせた・・・。


それ以上のことは何も無かった。


俺は自他共に認める、チキンハーターなのである。

でも俺は幸せだった。


今にして思えば、この時が公私ともに絶頂期だった。

しかし俺はこの後、ズルズルと転落していく。


公私ともに・・・。

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第14章 渡辺の大失敗


季節はすっかり秋になっていた。


その日は久しぶりに川田さんと居酒屋で飲んでいた。


この当時の俺は、川田さんのディレクター業務の50%を奪っている状態だった。


会社とプロデューサーは、当然外部に流れる経費を抑えたい。

そのためには月給制の内部ディレクターを使いたい。


しかし内部ディレクターは、プロデューサー同士で奪いあいになる。

経費削減は、プロデューサーの大命題であるからだ。


しかもこの当時、うちの会社は慢性的なディレクター不足であった。


そんな状況から、運良くではあるが

デビュー作を創った、俺にも序々にディレクターの仕事が増えてくる。

もちろんパブのような簡単な仕事である。

当然、制作部の同期だって死に物狂いで頑張っている。

ただ彼らがデビューしていないのは、担当番組がパブのような簡単なものではなく

長尺物(放送時間が長い番組)だからである。


そうなると最初の1本はなかなか創らせてもらえない。


俺がディレクター業務を出来たのは運である。

実力では全くない。


余談だが、いくら簡単な作品とはいえ

入社半年でディレクター業務が出来るのか?

そう思う人もいるだろう。


答えはYESでありNOである。

ディレクターはライセンス職業では無い。

ここからディレクターになったという線引きはない。


ADでも演出をすれば、その現場ではディレクターだ。

その逆もまたしかり。


結局はどれだけディレクションの数が多いか?その割合にしか過ぎない。


部長昇進や課長昇進のように

「君は今日からディレクターです」と

言われてなるものではないのだ。


簡単な仕事でもなんでも、1本やってしまえばディレクターを名乗ることは出来る。

(そんなヤツは実際にいないが)


早い話がみんな全て「自称ディレクター」の世界である。


あの堤幸彦だって、食うに困ってADをやれば、その現場ではADだ。

(実際にそんなことは、まず有り得ないが)

そして当時の俺は、以前にも増して大忙しであった。

パブのディレクター。川田さんのAD。中継の仕事。

その他、人手不足の番組の手伝い等々・・・。


そんな状況であったので、川田さんと顔を会わす機会も減っていく。

この日は本当に久しぶりに、川田さんと飲んだのである。


まずは乾杯。川田さんはピッチが早い!

俺も必死に付いていく。

この人は俺が同じ量の酒を飲まないとスネてしまうのだ。


俺は彼女が出来たことを、川田さんに報告した。


「マジかよ。仕事忙しいくせにお前もスケベだね~。」

ニヤニヤしている。


そして当然のごとく

「写メ見せんか!コラッ」と言われた。


この業界において、縦の関係は絶対である。

俺に断る権利は無いのだ。


素直に写メを見せる俺。


川田さんは驚いた表情で

「マジか!?お前がこの可愛いねーちゃんとかっ!!」

かなり動揺しているな・・・。

たくさん下ネタ関係の質問をされた...

実に素直な後輩といえよう。


散々下ネタで盛り上がったところで

ふと川田さんが真顔になった。

「ところでよぉ。二宮・・・。」

「はい」


「俺は今度、フリー集めて会社興すんだわ」

「へぇー。そうなんですか?」


よくある話だ。


1人でやるより、お互いが仕事を持ち寄れば

その分仕事の幅は広がる。

人数が多ければ、大きな仕事も請けやすい。


ただフリーはプライドが高く、気分屋も多い。

それを1つにまとめるのは大変なことだ。


川田さんにしては、珍しくためらいながらこう言った。

「それで・・・。お前、俺の会社に来ないか?」


「えっ・・・・!!」

俺は絶句した。


まさか自分にそんな誘いが来るとは、夢にも思っていなかった。


「お前を引き抜いたとなると、俺もお前の会社の仕事はもうできねぇ。

それでもお前・・・。来ないか?俺んとこ」

正直嬉しかった。

めちゃめちゃに嬉しかった。


自分の利益を削ってでも

こんな新人の俺を、欲しいと言ってくれたのだ。

俺を拾ったところで、数年は戦力にならない。


それを承知で、川田さんは俺を誘ってくれたのだ。

そんな気持ちに応えたい。

なんていっても川田さんは、俺を蘇生させてくれた恩人だ。


そして師匠だ・・・。


しかし・・・。


俺はまだまだ、あの会社で勉強したいことが山ほどあった。


それに・・・。

川田さんに付いていくには勇気がいる。

ある程度の安定した会社を離れるのだ。


川田さんには失礼だが

川田さんの会社が成功する見込みは、今のところ全くわからない。


そして・・・。

おふくろだ。

俺の就職が決まった時、あれだけ喜んでくれたおふくろ・・・。

おふくろのことを考えても、今は会社を辞める時期ではない。

俺は居酒屋の床に正座をすると、深々と頭を下げた。

「すいません。川田さん!今の会社に残らせて下さい!」


縦の関係が絶対であるこの業界において

先輩であり、師匠である川田さんの誘いを断るのだ。


これ位は当然の礼儀である。


川田さんは焦ったように

「お前なにやってんだよ。分かったよ。はよ立て。

みんな見てんだろ。恥ずかしいじゃねーか」と言って

俺を引っ張り起こしてくれた。


そして川田さんは忠告してくれた。

「お前は大事な時なんだ。今の会社で全力でがんばれよ!

んで、こんな時期に落とし穴があるんだ。それに気を付けろ。」


この川田さんの忠告は、後に的中する。


そしてこの時

川田さんの誘いを断ったのは、結果的に失敗であった・・・。

仕事というものが、俺の中で大きく変化している時期であった。


俺も渡辺も、そして他の同期も

もはやミスを起こしても、新人では許されない時期にきていた。


そんな中で、渡辺が大失敗を起こしてしまう。


その日、俺がポスプロから帰ると制作部の同期が近づいてきた。


「渡辺がなんかすごいミスをしたようだよ」と教えてくれた。


まずは彼氏に報告といったところか。

彼氏ではなく、ただの隣人なのだが・・・。


「ミスってどんなミス?」

俺は驚いて聞いてみた。

あの冷静沈着な渡辺が、そんなに大きなミスをするとは考えにくい。


「よく分からないけどラッシュ(撮影済みテープ)をダメにしちゃったみたい」

この同期も、事情は詳しく分からない様子だ。


俺はすぐに技術部にいった。


あの同期の言ったことが本当なら、大変な事態である。

この業界において、ラッシュは命ほど大切なものである。


まだ詳しい事情は分からないが

もしこの話が本当であれば

間違いなく取り返しがつかないミスだ。

しかし技術部の部屋に、渡辺の姿は無かった。

俺はそこにいた、技術部の同期を捕まえて話を聞いた。


「渡辺がラッシュをダメにしたって本当なの?」


そいつは事情を詳しく知っていた。

「うん。海水につけちゃったらしい・・・」


話のあらましはこうである。


その日渡辺は、ディレクター孤高の天才田畑さんと、

カメラマンは、恐怖の大宮さんというメンバーでロケに出ていた。


俺ならばそんなメンバーでのロケは、丁重にお断りしたいところである。


某大物タレントを使ったロケであった。

タレントが絡むシーンを全て撮り終わり

タレントをバラした(先に帰すこと)後、インサートカット(情景や差し画)を撮影していた。


場所は海辺の防波堤で、日の入りのシーンだったという。

大宮さんが「ニューテープを出せ」と渡辺に指示。


渡辺が慌ててリュックから、ニューテープを出そうとした瞬間。

リュックの中の荷物がバラバラと海の中へ落ちた。


その中にラッシュが混じっていたそうだ。


海水から拾い上げたテープを引っ張り出し

布で拭いたそうだが、そのテープから映像が映し出されることは無かった。

渡辺はすぐにテープの発売元に電話にをした。

事情を説明して返ってきた答えは

「海水は無理ですね・・・。真水でも相当厳しい状態です」

という切ないものであった。


責任感が人一倍強い、渡辺の心境を思うと胸が痛む。


とにかくこうなってしまった以上

考えられるのは再撮影である。


しかしタレントのスケジュールは押さえられるのか?

相手は大物である。

スケジュールはビッシリであろう。


しかしこっちにもO.Aがある。

テレビ番組はどんなにあがいても、納品を延ばすことが出来ない商品だ。


それに間に合うように

タレントを押さえるのは、かなり難しい作業と思える。


奇跡的に押さえたとしても、二重のギャラが発生する。

責任は全てこちらにある。当然のことだ。


しかしこれも頭が痛い。

完全に予算オーバーとなるだろう。

しかも最悪なことに

そのラッシュには大宮さん渾身のカットが入っていたそうだ。

特機(特殊機材)を多用し、何日も前から準備をしていたという。


撮影は基本的に最初が1番良い。

インタビューひとつでも

最初と2回目では、タレントやスタッフのノリが違う。


いくらプロでも「あーあ。やり直しかぁ」という気持ちはどうしても抑えられない。

長時間掛けて撮影をしたものと、全く同じことをするのだ。

無理もないだろう。


そして天候もあれば、全ての条件が最初と同じになるは難しい。

映画ならば日待ち(太陽が出るの待つ)もするが

番組ではなかなかそうもいかない。

どうしても、最初の方が良かったというカットが出てくる。


それらのことを考えれば

これは俺の起こしたミスにも匹敵する。


俺は今の渡辺の立場を考えると、胃がキリキリと痛んだ。


その時、渡辺が技術部の部屋に入ってきた!

顔面が蒼白である。

俺はこんな渡辺を見たことが無かった。


「渡辺・・・。お前ラッシュ・・・」

渡辺はかなり無理な笑顔をつくる。


無理しなくていいから!

別に笑わなくてもいいから!!


「うん・・・。大丈夫・・・だよ」


そういって渡辺は、持っていた荷物をロッカーに入れると

「なんか会議をするみたい・・・。スタッフで。行かなきゃ・・・」

そう言って部屋を出ていった。


会議・・・。それは事態の深刻さを物語っていた。


渡辺の問題は、会社レベルにまで発展している。


悔しいが俺のような新入社員には

力になれることが何もが無い。


俺は自分のデスクに戻ると

メールの受信に気づいた。まりあからであった。


「今日ゎぉ仕事ぉそぃですカ?(’ー’*)ノ」

仕事はヒマでもなければ忙しくもない。

帰ろうと思えば21時には帰宅できる。


俺は渡辺が心配であった。

なんとか励ましてあげたかった。


しかしそれをまりあの誘いを断る理由にするのはおかしい。

付き合って下さいと、お願いしたのはこの俺だ。

ずっと大切にすると、心の中で約束したはずだ。


しかもここ最近は、仕事の忙しさですれ違いが多く

ゆっくりと会うこともあまり無かった。


俺はまりあに「21時に帰ります」とメールを送った。


「(o・。・o)りよぉーかぃ♪シ(*^・^)CHU~☆つくってまってます(≧∇≦)ノ」


シ・・・チュー・・・かな?

俺はまりあが待ってくれている喜びを感じていた。

仕事の終わり時間を、メールするなんて・・・。

まるで新婚カップルのようではないか!


しかしそんなことはどうでも良い。

いま心配なのは渡辺である。


渡辺の話は今晩、部屋を訪ねて聞いてみることにした。


「おかえりなさい!」

部屋に行くと、まりあが満面の笑顔で出迎えてくれた。

仕事の疲れが一気に吹き飛ぶ。


更には、またしてもエプロンなんぞをしてやがる。


可愛すぎてムカつくという感情を、俺はこの時はじめて体験した。


ビールで乾杯をしたあと

俺たちはまりあが作ったシ(*^・^)CHU~☆を食べた。


まりあの作る料理は、カレーに限らず全てが美味かった。

おふくろの作る料理にすら肉迫している。

これは将来が末恐ろしいミスター(ミス)味っ子であるといえよう。

「光輝くん明日は早いの?」

そう言ってまりあが俺の前に麦茶を置いてくれた。


「明日は早朝ロケだよ。5時起き」


「大変だね。起こしてあげようか?」

この夫婦のような会話が実に喜ばしい。


「いや。いいよ。まりあも眠いだろうし。寝てな。」


俺はロケなら、どんな時間でも1人で起きられる。

逆に3日ほど寝ていなくても行ける。

業界の人は、みんなそうだろうが・・・。


「う~ん。でも起こしてあげるね!」


う~ん。カワユス・・・。


「今日は早く寝なきゃだね」


「そだね。そろそろ部屋に帰って寝るよ・・・。」


俺は渡辺の部屋を、訪ねることを黙っていた。

特に大きな理由はない。


完璧主義の渡辺のミス。

それをまりあに話すのが、渡辺に申し訳ないような気がしたのだ。

俺が逆の立場でも、やっぱり黙っておいて欲しい。


「ごちそうさま」

そういって俺は立ち上がった。

「明日がんばってね!」

そういうとまりあは、俺にキスをしようとしてきた。

自然にしているようだが、なんとなくぎこちない。


よくドラマなんかで観る

「行ってらっしゃい!アナタ♪」チュッ♪

ってのを再現したいのだろうが・・・。


まりあは俺の唇の位置を、ロックオンするのに手間取り

それを外さないように、ソロソロと唇を近づけてくる。


俺も

「キスが来るっ!」と

どうしても分かってしまう。


でもそんなまりあのキスは可愛かった。

俺は自分の唇と、まりあの唇が触れるのをジッと待った。

「おやすみ。ごちそうさま。」

そう言って俺は302号を出た。


そしてその足で304号のインターホンを押した。

自分だけが浮かれているわけにはいかない。


同期が苦しんでいるのだ。

俺には何もしてあげることは出来ないが・・・。


「はい・・・?」

304号のドアホンから渡辺の声が聞こえた。

よし!帰っている。

「二宮だけど。ちょっと話があって・・・」


すぐに304号のドアが開いた。

「二宮くん・・・」


渡辺の顔色は、会社で見て時よりも幾分良くなっていた。

しかし元気がないのは、ありありと分かる。


「とりあえず中にどうぞ」

そういって渡辺は俺をリビングに入れてくれた。

向かい合って座る。

「どうだった?会議?」

おれは少し遠慮気味に聞いてみた。


「うん・・・。とりあえず制作さんが、再撮影の準備を進めてくれる・・・。」

そうなのだ。

この業界で技術のミスは、最後に制作に廻ってくる。


自分でどうにか出来れば、渡辺も少しは気が楽だろうが・・・。

しかし技術の人間に出来ることは、撮影現場にしかないのだ。


「少しは元気・・・出た?」


「うん・・・。でも元気は・・・ないかな・・・。」

渡辺の弱気な発言は極めて珍しい。

そうとう落ち込んでいるのが分かる。


「落ち込むなよ。リュックから荷物が落ちたんだろ?

それは不注意といえばそれまでだけど・・・。仕方ない部分もあるよ。」


俺の言葉を聞いて、渡辺は静かに首を横に振った。

「私がね。落ち込んでいるのは・・・。もっと別の部分・・・。」


なんだろう??

「テープがね。海に落ちた瞬間・・・。

私ね、一瞬体が固まったの。どうしよう!!ってね。」

そりゃそうなるだろう。


「でもね・・・。田畑さん早かった。次の瞬間には海に飛び込んでいた。

きっと考えるよりも先に、体が動いたんだね。

もちろん田畑さんの携帯は壊れて、財布もズブ濡れ・・・」


あの人ならあり得る。

あの天才が1本の作品に掛ける執念は異常なくらいだ。

それは一緒に組んだことのない俺でも分かる。


「私ね。甘いなって思ったの。

作品に掛ける情熱が田畑さんの足元にも及んでいない。

自分では頑張っているつもりだったけど

私はやっぱり作品をそこまで愛していなかった・・・。」


渡辺は小さな声で言った。

「それがね・・・。悔しいの・・・」


真面目過ぎるよ。渡辺・・・。

あの田畑さんのテンションで、1本の作品に向き合うなんて

誰にもできないよ。

少なくともあの会社では誰もいないよ。


それに制作と技術では、仕事の形態が違いすぎる。

制作は作品の生い立ちから、O.A終了までが仕事だ。


その中には様々な工程がある。

その工程の中で、技術が関わる部分は撮影現場だけである。

制作と技術で、1本の作品に対する情熱が変わるのは仕方がないことだ。


渡辺の心意気は素晴らしいと思う。

でもそれはあまりにも無理があるよ。


「渡辺。お前疲れるぞ・・・。その考え方は」


渡辺は下を向いて

「そうかもね・・・。」

と呟いた。


俺は最後に

「元気出せよ・・・。」

そう言って立ち上がった。


渡辺は

「ありがとう・・・。」

と言って考えこんでいた。


俺はソッとリビングを出て

304号の部屋のドアを開けた。


その瞬間、302号のドアも同時に開いた。

中からは当然、まりあが出てきた。


俺とまりあの目が会った。

今にして思えば、円滑に回っていた公私の歯車が


少しずつ・・・。


少しずつ・・・。


ズレ始めたのは、この瞬間からだったのかもしれない。


まりあがキョトンとした顔で俺を見ている。


やばい・・・。

何か言わないと。

やばい・・・。


俺はまりあの部屋を出る時に、すぐに寝ると嘘をついていた。


「・・・なんで?」

先に口を開いたのはまりあだった。


俺はついとっさに

「渡辺を慰めようと・・・」と言いかけて言葉を飲んだ。


そうだ。

今回の渡辺の件はまりあには話していない。

いや。話しちゃいけないんだ。

「仕事の打ち合わせ・・・。」

出た言葉は我ながら嘘臭かった。


仕事の打ち合わせなら、会社ですればいい。

会社で出来なければ、電話ですればいい。


時間は23時。


同期とはいえ

1人暮らしの女の子の部屋に行って、話す時間では無い。


何かを考えている表情のまりあ。


しばらくの沈黙があった後

「そう・・・。私コンビニ行ってくる。おやすみなさい」


まりあそう言ってエレベーターに姿を消した。

————————————————

第15章 地獄の1丁目


暦は師走に入っていた。

社会人になって、初めての年末を迎える。


あの夜以降、まりあからのメールは増えた。

でもまりあは決して、俺と渡辺の関係を追及してくるこなかった。


メールは全て他愛のないものであった。

この時のまりあは、俺との関係が心配であったのかもしれない。


俺は仕事の合間を見つけてはメールを返した。


出来る限りは・・・。しかし・・・。


この時の俺の仕事量は、尋常では無かった。


1本の作品が終了間近→次の仕事が入る。

それが終了間近→次の仕事が2本入る。

その2本が終了間近→次の仕事が4本入る。


こなせばこなしていくほど、仕事量はねずみ講のように増えていった。


頼まれた仕事は、大小関係なく全て受けた。


若さかなのか?これが経験というものなのか?

仕事量は完全に、俺のキャパシティを超えていた。

それに気づいていなかった。


次第にまりあへの返信が困難になっていった。

その数は序々に減っていた。

今にして思えば早々と、ギブアップすれば良かったと思う。

しかしなまじ若いので体力がある。


睡眠時間を5時間から4時間。

そして3時間と減らしていき、仕事をこなしていく。


もはや何も見えていなかった。

俺はいま抱えている仕事をこなすことだけに全力だった。

とにかくそれが、一人前のディレクターになる道だと信じていた。


さすがにそんな俺の状況を、心配してくれる先輩もいた。

「そんなペースで仕事をやっていたら潰れるぞ!」


しかし当時の俺は、そんな言葉に耳を貸さなかった。

聞く耳も持たず、一心不乱に仕事をした。


まりあと会う時間は極端に減少した。


この頃になると、川辺や遊園地でデートをしていたのが

遠い昔のことのように思えた。


この時期は隣に住んでいながらも、まりあの顔を見ることは無かった。

家に帰らないのだから当然である。

帰ったとしても1週間に1回。

それもシャワーを浴びて

着替えを用意すれば、すぐに会社へ戻る。

2週間1度も帰らないこともあった。


それでも俺のまりあに対する、愛情が薄れていたわけではない。


いま抱えている仕事さえ終えれば

まりあと会う時間を確保できると思っていた。


しかし仕事は、無くなるどころか増えてゆく一方だった・・・。


そんなある日、女性プロデューサーの白井さんが声を掛けてきた。

「二宮くん。長尺物のディレクターしてみない?」


俺は即答だった。

「はい!やらせて下さい」


狂っていたとしか思えない。

今の状態でどこに、長尺物のディレクターをやる余裕があるのだ?

しかし俺は、そんなことなど考えていなかった。

短尺物しか経験していない俺には、長尺物は魅力的だった。


しかもディレクターをやらせてもらえるのだ。

これは俺に巡ってきた大チャンスだと思った。


「二宮くん長尺やったことないから、私もフォローするから」

この言葉で俺はかなり安心した。


大丈夫だ!できる!

睡眠時間を3時間から1時間に削れば

1週間に21時間確保できる。


当時の俺は、本気でそんなことを考えていたのだ。


しかしこの長尺物の仕事を受けたことが

地獄の1丁目への入り口だった。


この長尺物の番組は、15分の旅番組である。

1週間に1度のO.Aで、リポーターが色々な場所を訪れ

地域の人々と触れ合い、その土地を紹介していくものだ。


番組名を仮に「旅日記」としておこう。


俺の担当O.Aは来年1月の末週であった。

まだまだ時間はある。

なんとか旅日記の制作期間に入るまでに

他の仕事のメドを立てなければ。


なにせ初めての長尺物だ。

時間にゆとりが欲しい。

構成や制作手法を勉強するのにも時間がいる。


しかしそんな俺に追い討ちを掛ける事態が発生した。

ある日、会社で俺はいつも通り台本を書いていた。


社内が静かである。

今日はロケが多いのであろう。


そんな時、プロデューサーの片桐さんが声を掛けてきた。

「二宮。悪いけど今から局(TV局)に行くんだ。少し付き合ってくれ」


「はぁ・・・。でもどうして俺なんですか?」


片桐さんの話はこうだ。


この日は局で、新番組の打ち合わせがある。

うちの会社がそれを受けるらしい。


局側はディレクターを交えて、打ち合わせがしたいそうだ。

しかしこの日、社内にはディレクターがいなかった。

そこでとりあえず、急場しのぎに俺を連れて行きたいというのだ。


「ディレクターは持ち回りで受ける。この二宮もその1人である。」

片桐さんはこう紹介するそうである。


もちろん俺がディレクターをする予定はない。

番組が回転しはじめると、俺はフェードアウトする計画だ。


俺は適当に、相槌を打ち

1本目を担当するディレクターのために

制作進行の過程を聞けばいいとのこと。


「はぁ。打ち合わせに出席するくらいなら・・・。俺で良ければ・・・。」


この返答が、地獄への片道キップになった。

この時の俺の判断は、その後の人生を大きく変える。


もしこの申し出を断っていれば

俺は今と別の人生を歩んでいたに違いない。


何気ないこのやり取りは、人生の大きな分岐点だったのだ。

俺と片桐さんが局に到着すると

局P(TV局のプロデューサー)と局Dが出てきた。


局Pクラスになると、制作会社クラスからすれば神である。

ご機嫌を取らねば、うちの会社に仕事が回ってこない。


「これがディレクターの二宮です。」

片桐さんが俺を紹介した。


「よろしくお願いします。」

俺は内心ドキドキしていた。

おいおい大丈夫かよ?

俺みたいな若造で・・・。


しかしそんな俺にも、局Pと局Dは

「よろしく!」と言ってくれた。

とりあえずホッ・・・。


「早速、打ち合わせを始めましょう!」

局Dの木下さんの言葉で打ち合わせが開始した。


ふむふむ。なるほど。

朝の生番組が立ち上がるそうだ。

仮に番組名を「モーニングステーション」としておこう。

(安直でサーセンwwww)


うちの会社の担当は、その中のコーナーV(TR)である。

尺は15分前後。

旬の流行を捉えて、それを紹介するVである。


「それで二宮さんには、こんな感じの演出で創ってもらいたいんです」


え・・・??。


え・・・・・・・??


俺は話を聞きに来ただけですが?なにか?

俺は片桐さんを見る。

しかし木下さんの話に「ほうほう」と頷いているだけだ。


ちょっ・・・。片桐さん?

俺が1本目の担当じゃないって言わないと!!

このままだと木下さん勘違いしちゃいますよ?


そんな俺の思惑とは裏腹に

打ち合わせはどんどん進行していく。


話題は完全に、1本目のVの内容にまで及んでいった。


今さら俺が1本目を担当しない

とは言えない空気になっていた。


それが言えるのは片桐さん。

あんただけなんだよっっ!!!


その片桐さんが俺に言った言葉がこれだ

「二宮他に質問はないか?木下さんと一緒に頑張ってくれよ!」


・・・・・・・・・。


俺は言葉が出なかった。


「1回目のO.Aは来月の2週生目です。一緒にがんばろう!」

木下さんが握手を求めてきた。

俺は木下さんと握手をしてしまった。


この状況で、断れるほうがどうかしている。

しかしそれはまさに、契約成立を意味した。


俺は焦った。

一体どこにそんな時間があるんだよ・・・。

「ちょっと!片桐さん(コラ!オッサン)話が違うじゃないですか!」

会社への帰り道、俺は片桐さんに抗議をした。


今こんな仕事を受けてしまえば、旅日記もモーニングステーションも

共倒れする可能性がある。


しかもモーニングステーションも長尺物だ。

俺は長尺物を作った経験がない。

だから旅日記で、それを経験するつもりであった。


しかもモーニングステーションは新番組である。

新人の俺が手を出すような番組ではない。


「片桐さん。俺できませんよ!旅日記のDもするんです。来月は」


片桐さんは少し困った顔をしたが

「でも仕方ないだろ。ああなった以上は。旅日記は断れよ」


このオッサン、自分のことしか考えてないよ!


今さら白井の仕事を断れるはずが無い。

元々向こうの仕事が先なのである。

白井さんだって、俺のためにその週のディレクターは空けてくれているのだ。


コイツでは話にならん。

俺は会社に帰って制作デスクの松井さんに掛け合った。

表向きは松井さんが、制作スタッフの割り振りを担当しているのである。

(現実はPがDに声を掛けて、引き抜き合戦が横行している)


俺と松井さんと片桐さんで話し合いが開始された。

しかし松井さんも俺の話に、うんうんと頷くものの


「こうなったら二宮にやってもらうしかないですよ。

向こうの局Pも局Dもその気になっているし。

いまさら1回目は他のDで!というワケにはいきません」

この片桐さんの話に押され気味である。


なぜここに白井さんがいないんだ。

それもおかしいじゃないか!?


松井さんが決断が下さした。

「モーニングステーションは、手の空いている先輩が手伝うということで。

でもメインディレクターは二宮くんで行こう。」


ちょっとふざけるなよ!

そんな男気のある先輩がこの社内のどこにいる?


結局松井さんは、面倒な話をサッサと片付けたいだけなのだ。


話し合いはそれで終了した。

こ・・・こうなれば・・・やるしかないのだ。

もし1つでも仕事がズレ込めば・・・。

これは大変なことになる・・・。


俺はそれを想像して少し震えた。


それから数日後、おふくろから電話があった。


「お正月は帰ってくるのかい?」


そうか正月休みか・・・。

いまの俺には休みなど頭になかった。


「うん。仕事忙しいから・・・。まだなんとも言えないよ・・・。」


「そうかい・・・。体は壊してないかい?」

おふくろは明らかにガッカリした様子だ。


引越し以来、実家には帰っていない。

やっぱりここは実家に帰って、親孝行をするべき時なのかもしれない。


「体は大丈夫だよ。やっぱり正月なんとかそっちに帰るよ。」


「そうかい。それじゃ美味しいおせち作らないとね~。」

おふくろの声が一気に明るくなった。


おふくろはやっぱり俺の顔が見たいんだ。

俺だっておふくろの顔は見たい。


「もしかしたら行けない可能性もあるから、あんまり期待しないでね。」

そう言って電話を切った。

正月、実家に帰るのであれば

更に仕事のスケジュールをタイトにする必要がある。


当時の俺のスケジュールは

パブの台本→モーニングステーションのネタ探し→パブのロケ

→モーニングステーションの企画書作成→旅日記の今までのO.Aプレビュー

→川田さんのAD→旅日記の企画書作成→パブのオフライン編集。


このように色々な業務が重なりあって

なにがなんだか分からない状態であった。


隙を見つけては、別の仕事を詰め込み

また隙を見つけては、別の仕事を詰め込む。

こんな状態であった。


まさに八方塞がりである。


まるで今の宮崎県知事のような生活だ。

スケジュールは分単位である。1分も無駄にはできない。

しかし俺には、彼のようにスケジュールを管理してくれる人間はいない。

スケジュール管理も全て自分で行う。


当然寝ている時間は無い。

3日徹夜して3時間寝るような暮らしであった。


そして案の定、モーニングステーションを手伝ってくれる先輩などいなかった。

みんな自分の仕事で手一杯である。


それでなくても、新番組の1本目などという責任重大な仕事に

自ら関わってくる人間などいない。


新人の俺が、先輩を捕まえて「手伝って下さい」など、とても言えない。


俺は自分のデスクで寝てしまうこともあった。

さすがに誰も起こそうとはしない。


居眠りを注意させないオーラも、俺の体から出まくっていた。

もしそれを注意しようものなら


「んじゃテメーがやってみろ!」くらいは言い出しそうな雰囲気があったと思う。

もうダメ・・・。死んじゃうかもしれない・・・。」


その日も俺はデスクに突っ伏していた。

しかし寝てはいなかった。意識はある。


そんな時、旅日記のプロデューサーである、白井さんが声を掛けてきた。

「二宮くん大丈夫?随分大変そうだけど」


俺は姿勢を正した。

この人の前では、あまり疲れた姿を見せるわけにはいかない。

俺をディレクターに選んだことを不安にさせてしまう。


「はい。大丈夫です」

嘘だ。全然大丈夫ではない。


「旅日記・・・出来る?」

この仕事を下りるか?と聞いているのだ。


これが最後の蜘蛛の糸だ。

この糸を切れば、俺はカンダタになってしまうかもしれない。


初めての長尺物。

しかもそれが2本。

更に1本は新番組。


精神的な重圧だけでもハンパでは無い。


逃げたい・・・。

どうしよう・・・。


1秒間考えたあと

「出来ます。大丈夫です」

俺はそう答えていた。

元々は白井さんの仕事が先だったんだ。

それを別番組のために断ることが、俺にはどうしても出来なかった。


それに白井さんは、新人の俺に初めて長尺物を任せてくれた人だ。

その期待に応えたい。


「そう・・・。それじゃよろしくね。」

そう言って白井さんは消えた。


なんとかなるさ・・・。


このままのペースでやっていけば・・・。


なんとかなるさ・・・。


その夜も俺は、社内で企画書を書いていた。

すると携帯が光った。

メールだ。


差出人はまりあであった。


そういえば、何日まりあに会っていないだろう?

もう正確には思い出せない。


最後にメールを返したが、いつかも思い出せない。

完全に日にちの感覚は奪われていた。


「30日にぢっかにかぇります。。。それまでにぁぇますか??」

顔文字が無い。


まりあの心情が逆によく分かった。

確か今日は・・・28日か・・・。

会うとすれば明日の夜しかない。


いまこの状況で、まりあに会う時間を割くのは危険だ。

その時間があれば、少しでも仕事が進められる。

正月には実家に帰る予定だし、仕事を進めなければ・・・。


しかし俺は

「明日の夜まりあの部屋に行きます」と

返信した。


俺はまりあが大好きなんだ。


本当に大好きなんだ。


彼女を大事にするって誓ったんだ。


仕事なんてまた徹夜で取り戻せばいい。


まりあから返信がきた。

「o(^-^o)(o^-^)o ヤッター♪まってるね☆⌒(*^∇゜)v ヴイッ」


俺はそのメールを見て少し幸せな気持ちになった。


まりあがいるから俺は頑張れるんだ・・・。


そして俺は企画書の続きに取り掛かった。

次の日、俺は仕事をなんとか片付け

(といってもメドがたっただけで、なにも片付いてはいない)会社を出た。

時間はすでに22時30分になっていた。


十数時間ぶりに外気に触れた。

ひんやりとした風がやけに心地よかった。


電車に乗る。そのことすら少し懐かしい。

これじゃ定期も無駄だよな・・・。

ボーッとそんなことを考える。


電車の中では眠った。

たった3駅だが、今はその時間すら貴重である。

いま眠ると起きる自信がない。

携帯にタイマーをセットした。


駅に着いてマンションまでの道のりを歩く。

初デートをした川が見えてきた。


しばらく川を見つめながら、初デートを思い出した。


暖かくなったら、またここでデートをしような・・・。

その時には、きっと仕事もヒマになっているはずだよ・・・。


俺は心の中でまりあに話し掛けていた。


マンションに到着してエレベーターに乗り込む。

3Fのボタンを押してフーッと息をつく。


やっと帰ってこれたよ・・・。


俺は302号のインターホンを押した。

「はい!」まりあの声は既に明るい。


「俺です。光輝です。」


すぐにドアが開いた。


そこには俺が大好きなまりあがいた。

何日も見ていなかったまりあの顔を見た瞬間

俺はギュッと胸が締め付けれる思いがした。


初めてここでまりあに会った時を思いだしていた。


「おかえり・・・。光輝くん・・・。」

まりあの目が潤んでいた。


こめんね。

今までほったらかしにして。


こんなにもまりあが大好きなのに・・・。


「ただいま。まりあ」

俺がそう言った瞬間、まりあが抱き付いてきた。


油田・・・。頼むから今だけは部屋から出てくるなよ。

リビングに入ると、まりあがそばを作ってくれた。

今年は一緒に年越しができない。

それで少し早い、年越しそばを用意してくれた。


まりあはご機嫌でだった。

そんなに俺と一緒にいるのが嬉しいのか?

こんな俺みたいなヤツでも・・・。


「元日と2日は俺も実家に帰るね」

まりあにはまだ言っていなかった。


「そっかぁ!親孝行しないとね!」

当然まりあも俺が片親なのを知っている。

そして俺がおふくろを大事にしていることも知っている。


まりあはそんな俺の気持ちを大切にしてくれた。


そばを食べ終えた俺は

まりあが食器を片付けている間に、つい眠ってしまった。


ダメだと思っても、気がつけば眠っていたのである。


そばらくして目が覚めた。

なんだか頭がフカフカする・・・。

まりあは俺に膝枕をしてくれていた。


もう1度目を瞑った。

なんだか気持ちいいなぁ。


まりあは俺の髪の毛を撫でながら

「こんなにボロボロになって・・・。可哀想だね。光輝くん・・・。」そう呟いた。


俺はその言葉を聞いて、再び深い眠りに落ちた・・・。

—————————————————

第16章 帰省


大晦日。

その日の深夜も俺は会社で仕事をしていた。


さすがに大晦日の夜は誰もいないや・・・。


通常は深夜の時間帯でも

1人か2人は、仕事をしている人がいても、おかしくは無い。


しかし、会社的な仕事納めも既に済んでいて

さすがに大晦日の深夜まで、仕事をしている物好きはいない。


そう・・・。俺以外には。


俺は一息ついて外に出た。


コンビニでカップそばでも買って来よう。

少し寂しいけど、年越しの行事はしておこう。


会社に戻り、カップそばにお湯を注いで、TVのある部屋に行った。

画面では新年のカウントダンウンに向けて盛り上がっている。


薄暗い会社の一室で

1人カップそばの出来上がりを待つ、侘しさが込み上げてくる。

新しい年まであと5分・・・。


俺は目を閉じて、今年の自分を振り返っていた。


色々あったなぁ。本当に色々と・・・。


おふくろと別れて、初めての1人暮らし。


まりあや油田との出会い。


入社早々に起こしてしまった大チョンボ。


でも川田さんがそんな俺を救ってくれた。


渡辺が隣に引っ越して来て・・・。


そうそう。まりあの誕生日!


あの時は焦ったよ。主役が来ないんだもんな。


でもあの日だったんだよね・・・。まりあと付き合ったのは。


初めてのデートで俺、川に落ちちゃったよ。本当にまぬけ。


次のデートの後か・・・。まりあと初めてキスしたのは。


その後は仕事が忙しくなっちゃって・・・。


そして大晦日の夜に、会社でカップそばなんか食おうとしてるよ・・・。


フーッ。と一つ大きなため息をついて目を開けた。

TV画面から「新年、明けましておめでとうございまーーす!!」

という賑やかな声が聞こえてきた。


俺は「新年、明けましておめでとうございます。まりあ」と心の中で呟いた。


そしてカップそばをズルズルと食べる。


やっぱりまりあが作ってくれたそばの方が

圧倒的に美味しいなぁ・・・。


ともかく新たな年に突入した。


俺の人生で、最も悲惨な1年がスタートした。

一旦マンションに戻ってから

俺は実家に帰る電車に揺られていた。


結局、大晦日から元日は徹夜で仕事をした。


今は朝の6時。

カウントダウンイベントのために徹夜で運行していたのかな?


そう考えると、鉄道会社の人も大変だよね。

忙しいのは俺だけじゃないんだね。

お疲れさまです・・・。


それにしても、みんな笑顔だよね。

初詣にでもいくのかな?


新年だもんな。

みんなウキウキして当然だよね。


こんな疲れた顔をしているのは、きっと俺だけだよ。

そう思うと少し笑えてくる。


俺は電車で約2時間揺られ、実家のある駅についた。


もうすぐおふくろと会える!

そう思うと自然と足取りが速くなる。


実家に到着した。しばらく家を眺める。

俺がおふくろと2人で暮らしていた家。

それは俺が出て行った時となにも変わってはいない。


少し懐かしくて、中に入るのが、なんだか照れくさいような・・・。

そんな不思議な感覚がした。

玄関のドアを開く。

カギは空いていた。


俺は元気な声で言った。


「ただいま~。帰ってきたよ。おふくろ~」


するとすぐに居間の方から

パタパタという足音と共に、おふくろが出てきた。


おふくろ・・・。


なんだか少し懐かしく感じるおふくろの顔。


少しシワが増えたかな?

髪も少し白くなったかもね?


でもその優しい笑顔は何も変わってないね。


「おかえりなさい。光輝・・・。」

そう言ったおふくろの目は、早くも潤み初めている。


「ただいま。おふくろ」

約8ヶ月ぶりに会ったおふくろははしゃいでいた。


「ちゃんとお野菜食べてるかい?母さんは心配だよ。」


「そうそう。お神酒持ってきてあげるから、飲みなさいね。」


「おせち食べなさいね。光輝はカズノコが好きだから多めに作ったよ。」


「あっ!甘いもの食べるかい?お饅頭があったはずなんだけど・・・。」


俺はつい、あははと笑ってしまった。


「いいよ。おふくろもここ座りなよ。一緒におせち食べようよ。」


おふくろは

「そうかい・・・」と言って俺の向かいに座った。


おふくろと向き合って座ると、この家に住んでいた時のことを思いだす。

それは妙に心地良い空間であった。


「光輝少し痩せたねぇ。お仕事忙しいのかい?かあさん心配だよ。」

俺の顔を覗き込みながら、おふくろはしみじみとそう言った。


「ん?大丈夫だよ。まだ1年目だし、慣れない部分で少し疲れただけだよ。

来年は後輩も入ってくるし!仕事はもっと楽になるよ!」


俺はおふくろを心配させないために、無理な笑顔を作った。


これは1年目の疲れでは無い。

完全なオーバーワークの疲れであった。

「それよりさぁ。おふくろ・・・」

そういって俺は鞄から、お年玉袋を取り出した。


「はい。お年玉だよ。受け取って。」


おふくろは驚いた顔で俺を見ている。

そして「子供からお年玉なんか貰えないよぉ。」と言った。


「いや。受け取ってよ!俺就職が決まった時にね。

お年玉をおふくろに渡すのが夢だったんだ」


俺の言葉を聞いたおふくろがポロポロと涙をこぼした。

俺はそんなおふくろの手を取って、そっとお年玉袋を握らせた。


「ありがとうね。光輝・・・。」

おふくろは涙声でそう言った。


その後は2人でおせちを食べた。


そうそう!この味だよな!


親父が亡くなって、家がどんなに貧しくなっても

おふくろはおせちだけは必ず作った。


そのグレードを落とすことも、決してしなかった。

そこには貧しいなりに、おふくろの意地を感じた。


おせちを食べたあと、俺はおふくろの肩を揉んでいた。

おふくろの肩を揉むのも随分久しぶりだよな・・・。


物思いにふけっていると、玄関がガラガラと開く音がした。


「明けましておめでとうございますーーー!!おばさん勝手に上がるよーーー!!」

懐かしいその声・・・。


それは俺の親友、悟の声だった。

居間に向かって、ドカドカと悟の足音が近づいてくる。


勝手知ったる幼馴染の家・・・ってやつか。


居間に入ってきた悟。


「おばさんおめでとーー。これ日本酒だよーー・・・」

俺の存在に気がついた悟が、驚いた表情で固まる。


「なんだよ!光輝!!帰ってたんかよーーー!!!」

相変わらず声のデカイやつだ。


俺の幼馴染であり、親友である悟はハッキリいってイケメンである。

身長も180cmあり、色黒でシャープな顔立ち。

速水もこみちにそっくりだ。


しかも社交性も抜群にあって。

スポーツ万能。趣味で3on3なるバスケもやっている。


職業はフリーターだが、全国の色々な場所を旅する

自称「自由人」である。


もちろん俺がコイツに勝てる部分は、外見でも内面でも1つもない。

「この後ね。お前の家に行こうと思ってたんだよ。」


俺がそう言うと「そうか!そうか!」と言って悟は肩を抱いてきた。


こういう行動がサラリと出来て、なおかつ嫌味がない。


はいはい。あんたは本当にカッコイイよ。


「そうだコレ飲め!高い日本酒だ!おぱさんも飲むよね?コップ3つお願いね」


本当に凄まじい社交性というか・・・。

なんというか・・・。


でも俺のおふくろも、悟のそういう性格は理解している。

根心の優しい、本当にイイ子だといつも言っている。


まさにその通りである。


今日も俺のおふくろを心配して、こうして訪ねて来てくれたのだ。


3人でおふくろのおせちを食べて

酒を飲み、大いに笑った。

やっぱり帰ってきて良かった。


仕事で張り詰めていた緊張が、ほぐれていくのが分かる。

やっぱりここは、俺が1番安らげる場所なんだな。


俺は悟を連れて自分の部屋に行った。

ここも何も変わっていない。


この机で俺は、毎晩勉強をしたんだ。

なにも楽しみが無かった。


来る日も来る日も、それまでの行いを贖罪するかのように

勉強ばかりしていた。


俺は悟と再び日本酒を飲み始めた。

さすがに寝ていないので、酒の回りが早い。


それでも親友と酒を飲みながら話すのは本当に楽しい

ついつい飲みすぎてしまう。


俺は親友に報告した。


「実はさ・・・。俺彼女できたんだよね。」

悟は驚いた様子で

「マジかよ!?どんな子なんだよ?可愛いのか?何歳なんだ?」

矢継ぎ早に質問をしてきた。


それらの質問に答えながら俺は最後に

「本当に大好きなんだ。こんなに女の子を好きになったの初めて・・・。今度悟にも紹介するよ」

と言った。


それを聞いた悟は

「んじゃ正月が明けたら、光輝ん家行っていいか?俺バイト辞めたばっかでヒマなんだ。

しばらくホームステイさせてくれよ!お前の住んでいる土地もブラブラしてみたいしさ。」


俺は気前良く言った。

「好きなだけいていいよ!俺は忙しいけど

他にも油田ってヤツとか、渡辺ってのがいて楽しいぜ!まるで下宿みたいだよ。」


そして俺は、酒に潰れてとうとう眠ってしまった。

「明日には帰らなきゃ・・・。仕事しなきゃ・・・。」

そんなことを考えながら。


意識が遠のく中で

悟がそっと布団を掛けてくれた記憶がある・・・。

———————————————————————

第17章 転落


「それじゃ帰るね!」

俺は玄関でおふくろにそう告げた。


当初の予定ではもう1泊くらいを考えていたが

そんな余裕はやっぱり無かった。


結局、俺の正月休みは1日だけとなった。


「本当に体だけには気をつけてね。無理だけはしないでよ」

おふくろは心配そうに俺を送り出してくれた。


「うん。大丈夫。じゃあね。」

そう言って俺は玄関を出た。


今度ここに帰ってくるのはいつだろう?


俺はふと、8ヶ月前の引越で

この家を出た時と同じことを思った。


でも今はあの時と状況が全然違う。


仕事では責任が課せられ

プライベートではまりあを大切にしなければいけない。


たった8ヶ月の間に、俺を取り巻く状況は変化したのだ。


俺は駅まで走った。

丸1日、24時間以上を無駄にした。

このロスは大きい。


早く会社に戻らねば!


電車の中でも俺は落ち着かなかった。

この時間があればアレもできるのに!コレもできるのに!と

仕事のことばかり考えていた。

俺は会社に飛び込むと、早速自分のデスクに向かった。

スケジュールを確認し直してみる。


モーニングステーションが今月2週目のO.A

旅日記が4週目のO.A

どう考えても時間が無い。


1週目の末には、モーニングステーションのロケを行わなければ。


2週目の前半で、モーニングステーションのオフライン編集、ナレーション台本を作成。

その合間を縫って、旅日記のロケハン(ロケーションハンティングの略。ロケ地の下見)

旅日記の企画書を作成。


2週目後半で、モーニングステーションのオンライン編集とMA。さらにはO.Aの立会い。

旅日記の取材先に許可申請。


3週目の前半で、旅日記の台本を作成。技術打ち合わせ。ロケ準備。


3週目の後半で、はロケ準備。ロケ。


4週目で、オフライン編集。ナレーション台本の作成。オンライン編集。MA。そしてO.A


俺は冷や汗が出た。


できるのか?一体・・・。


こんなスケジュールで・・・。

普通に考えてADの付いていない俺には、到底無理なスケジュールである。


あの天才田畑さんでも相当ヤバいスケジュールだろう。これは・・・。


しかも俺は長尺物が初めてである。

今回は2本ともがその長尺物だ。


もしどこかで、スケジュールがズレ込んだら・・・。

俺はそれを考えて、一瞬身震いがした。


でもやるしかない・・・。

やるしかないんだ・・・。


俺は早速仕事に取り掛かった。


その日からの記憶はあまりない。


日付は1月5日になっていた。


2日に会社に戻ってから一睡もしていなかった。

会社の新年会にも顔を出していない。


俺は自分のデスクにうつ伏せ状態になっていた。

体がピクピクと痙攣しているのが分る。

睡魔や疲労と戦っていた。


だめだ・・・寝ちゃだめだ。

でもこのままだと・・・。

今日は旅日記のロケハンに行かないといけないのに・・・。


その時、俺の目の前で携帯が光った。


着信だった。悟だ・・・!

電話に出た。

「はい・・・。」


「おう!光輝。俺だよ」


「ああ・・・。」


「今お前の家の近くなんだけど、今日は何時に帰ってくる?」

住所と地図は、おふくろに預けてきていた。


早速、来てくれたんだ・・・。


「わかんない・・・。でも遅いよ・・・。」


今日は帰る予定など初めからない。

でも悟が来てるんだ・・・。帰らないと・・・。まずいよね・・・。


俺はボーッとした意識でそんなことを考えていた。


「そっか。俺はその辺ブラブラしているから!

終わりそうな時間になったら電話してよ!」


「あっ・・・。待って悟・・・。」

「俺の電話が無い場合は301号に行って。

そこの油田・・・。友達だから。

事情説明してくれたらいいから・・・。」


でも油田も実家に帰っているかも?

どうなんだろ?


「もし油田がいなかったら・・・。」


まりあが帰っている。

昨日、そんなメールが来ていたような気がする。


「302号に行って。それ俺の彼女の部屋だから・・・。」

俺が紹介できないけど、まぁいいか・・・。

2人には早く仲良くなって欲しいし・・・。


今の俺ならば、そんなことを言わないかもしれない。

それは少し賢くなって、少し人を疑うことを覚えたといえる。


でもこの時は、純粋に悟とまりあを信用していた。

「信用していた」というのも適切ではない。


俺の親友と俺の彼女。

その2人になにかが起こるなんて、想像もしていないのだ。

俺はその電話の後、なんとか気力を振り絞ってロケハンに出ていった。

もはや立っているのすら危うい。

しかし現場までの電車で眠れるのが、俺には有り難かった。


なんとかロケハンを済まして会社へ戻る。

すぐにモーニングステーションの台本を書く。


それが苦痛で仕方がない。

それでもやるしかなかった。


それが俺の仕事だ。

もうスケージュールは、1日だって延ばすことは出来ない。


台本が完成した。

もう22時になっていた。

それを局Dの木下さんにメールした。


これでOKが出れば、やっとロケに出ることが出来る。

そうすれば、少しは先もは見えてくるというものだ。

俺はここでやっと悟のことを思いだす。


やばい・・・。

アイツ俺の部屋のカギ持ってないじゃん・・・。


俺は悟に電話をした。


悟が電話に出た。

「ごめん悟。いまどこ?」


悟は明るい声で言った。

「今まりあちゃんの部屋だよ!いい子だな。まりあちゃん」


ドクン・・・。

俺の胸が変な高鳴りをした。

なんだ?この感覚・・・。


「そ・・・そうなんだ・・・。まりあは?元気?」


「ちょっと待ってろよ!」

悟がそういって受話器から口を遠ざけた。


かすかに聞こえる声。

「光輝がまりあちゃんと話したいみたいだよ~。」


しかしまりあの返事は聞こえない。


その代わりに、悟のはっきりした声が返ってきた。

「なんかまりあちゃん、カレーの材料切ってて、手が離せないんだと」


ドクン・・・。

またあの変な胸の高鳴りだ。


「そ・・・そうか。俺も今から一旦家に戻るよ。

お前、俺の部屋のカギ持ってないしさ。そこにいてくれ・・・。」


「はいは~い」

という悟の返事を聞いて電話を切った。


俺は会社を出てタクシーを拾った。

疲れていて、電車に乗るのが苦痛であった。

しかしそれとは別に、もうひとつの感情もあった。


早く家に帰りたい!


俺はタクシーでずっと考えていた。

なんだろう・・・。この感覚は・・・?

心にポツリと出来た、違和感とでもいおうか・・・。


仕事でクタクタのはずの脳が、妙にクリアになってゆく。


俺はタクシーを降りるとエレベーターを待った。


エレベーターが1階に到着すると油田が降りてきた。

「どうもどうも!いや~二宮さん。なんかお久ですね~。」


テメーいるんじゃねーかよ!

肝心な時に留守にしてんじゃねーよ!


俺はエレベーターに乗り込むと、3階のボタンを押した。

なんでだ?なんで俺こんなに急いでいるんだ?


彼女と親友が一緒にいるだけじゃんよ。

なんも急ぐことなんかねーじゃんよ。

3階に到着すると、俺は真っ直ぐに302号へ。

慌ててインターホンを押した。


「はい!」

まりあの声だ。


「俺・・・。光輝」


すぐにドアは開いた。


「おかえりなさい!光輝くん」

まりあが笑顔で出迎えてくれた。


なぜかホッとする。


「お友達の・・・悟くん?待ってるよ。」


「うん。俺がここで待ってくれって言ったんだ。ごめんな」と言って

俺はリビングに上がった。


リビングでは悟がカレーを食べていた。


・・・なに?この感じ。

このすごく嫌な感じは?


悟は俺を確認すると

「よっ!遅くまでご苦労さん!」と言った。


俺は無言でリビングに腰を下ろした。


キッチンからまりあの声が聞こえる。

「光輝くんもカレー食べるでしょ?いま入れるからね!」


悟がコソッと俺に言ってきた。

「まりあちゃん可愛いな。やったじゃん」


まりあがカレーを温めながら言う。。

「悟くんって楽しい人だね。なんか光輝くんとタイプが違うね~。」


どういう意味だよ・・・。

「いらない」

そう言って俺は立ち上がった。


まりあは「え?なに?」と聞き返してきた。


「今はカレーなんか食べてる時間ないんだ。すぐに会社に戻らないと」

悟はそんな俺の言葉を聞いて、目を丸くしている。


「悟。これカギ。303号だから。今度いつ帰るか分からないから

自由に部屋を使ってくれ。」


そう言って悟にカギを渡すと、俺はリビングを出た。


キッチンにいる、まりあの横をすり抜ける。

まりあは意味が分からない、といった感じでキョトンとしていた。


302号を出るとエレベーターに乗り込み、再び会社に急いだ。


嫌な感じの正体は分かっていた。

それは嫉妬心だった。

俺は会社に戻ると、旅日記の仕事に取り掛かった。


もう何時間、寝ていないだろう・・・。


しかしやらなければ!


やらなければ・・・。


やらなければ・・・・・・。


怖い!怖い!怖い!怖い!


もし俺がやらなければ・・・・。



O.Aに穴が空く・・・。



怖い・・・。怖い・・・。怖い・・・。怖い・・・。


俺の心は完全に、仕事の恐怖に支配されていた。

しかも僅にある隙間には、嫉妬心が入りこんで来る。


もう作品を創る精神状態では無い。


でも手を休めるわけにはいかない。

俺がここで手を休めれば、全てが崩壊する。


心身ともに限界にきていたのは、自分でも気づいていた。


649 名前:二宮 ◆htHkuunP2I[] 投稿日:2008/06/27(金) 17:37:36.55 ID:igSjZhIo

俺はこの日も徹夜をした。

そのモチベーションは、仕事からくる恐怖心だけである。


朝になり、序々に社内に人が増えてくる。

しかしそんな事すら、もう眼中に入ってこない。


誰かの声が聞こえた。

「二宮~。電話~。木下さん」


ドキッ・・・。なんだ一体?


「はい。お世話になります。二宮です。」


木下さんの元気な声が、受話器から飛び込んでくる。

「どうも!木下です。昨日は台本ありがとうございました!」


「いえ。こちらこそ。遅くなりまして。」


ホッ・・・。そんなことか。

台本を受け取ったというの確認の電話か・・・。


「それでですねぇ・・・」


え・・・。


「台本にもう1ネタ盛り込んで欲しいんですよ。」


え・・・。待って・・・。

「はぁ・・・」


いまからもう1ネタなんて・・・。


時間的に無理だよ。


探す時間が無いよ。


探したとしても取材申請がいるよ。


それを台本に入れないといけないよ。


しかし局Dの意向である。

一見、お願いされているような感じだが、これは命令である。

こちら側に断る権利など、100%ないのだ。


「分かりました・・・。なんとか頑張ってみます・・・。」

そう言って電話を切った。


これは身の破滅だ。

どうしよう・・・。

もうどんなに頑張っても、スケジュールをずらし込む場所がない!


その時、俺の携帯が光った。

まりあからのメール受信だった。


「ヾ( ' - '*)オハヨ♪こんばんなんぢにかぇる??

悟くんの歓迎ぉかねて。こんや焼肉ぱーちーしませんか(o⌒∇⌒o)」


・・・・・・・・。


いまは悠長に焼肉なんか食ってる場合じゃないんだよ・・・。

それに悟って・・・。


俺は「2人で食べて下さい。」と返信した。


そんなことより仕事だ。


冷や汗が止まらない。

なんとかしなければ!!

俺は制作部の同期を捕まえた。

もう、なにふり構っていられる状況ではない。


「頼む。助けてくれ!この通りだ!」


俺は事情を説明した。

「2~3時間なら手伝えるよ」

同期は、そんな俺を見かねて快諾してくれた。


そして神様はいた。


同期の手伝いもあって

俺はなんとか、新たなネタを見つけ出すことができた。


「ありがとう。ありがとう。」

俺は同期に何度もお礼を言った。


僅かに延命が出来ただけかもしれない。

しかしなんとか延命ができた。


早速、局Dの木下さんに電話をして

新たのネタのOKを貰った。


しかし一連の作業は、夕方までの時間を俺から奪った。


もう本当に、待った無し!である。


そこから週末までは、2時間程度の睡眠で

なんとかモーニングス〇ーションのロケに持ち込めた。

もう時間の感覚は、完全に無かった。

24時間が早すぎる。

年末にカップそばを食べたあの頃が、嘘のように暇に思えた。


その間、まりあや悟から何度かメールがあったと思う。


いつのメールか?

どんな内容だったか?

返信はしたのか?


全く覚えていない。

でも恐らく返信はしていないと思う。


ロケから帰って、すぐにオフライン編集を開始した。

睡眠や休憩とることなど、初めから頭に無い。


これさえ終われば・・・。

これさえ終われば・・・・・・。


なんとか、旅日記の制作期間に入ることができる!


いまこの時点から、制作期間に入っても相当遅い。

一週間はまともに寝ることが出来ないであろう。


しかし今の俺には、それだけが僅かな希望の光であった。


次の日の朝10時過ぎに

オフライン編集が終了した。

早く局Dの木下さんに、プレビューをしてもらわなければ!


社内を見渡す。

片桐さんはまだ出社していない様子だ。


もうあんなオッサンを待っている暇など1秒もない。

俺は木下さんにアポを取り、会社を飛び出した。


木下さんは俺のオフラインをジッと観ている。


15分のVが終わると木下さんは

「うーん」と唸った。


ど・・・どうなんだ?OKなのか?


木下さんは「そうだなぁ・・・」と言って大きく伸びをした。


ドクン・・・。

ドクン・・・。


脂汗が出る。


「申し訳ないけどこのシーン。もう少しカット数増やして下さい」


そ・・・それは・・・。

つ・・・つまり・・・。


「再撮(影)お願いします。」



再・・・・撮・・・・。



身の破滅が決定した瞬間だった。

会社への帰り道、携帯にメールの着信がきた。

まりあからだった。


「悟くんと心配してぃます。。。ぃつかぇってきますカ??」


俺はフッと笑った。


悟くんと・・・か・・・。


携帯を閉じた。


俺は今から会社に帰ってある報告をする。

俺の信用を全て奪ってしまう、重要な報告である。


今度こそ会社を辞めるかもな・・・。


重い足取りで会社へ戻った。


俺は制作部のフロアに入ると、真っ直ぐに白井さんの元へ言った。


そして深々と頭を下げ

「申し訳ありません。旅日記は・・・。出来なくなりました。」と報告した。


白井さんは、驚いた顔で俺を見つめ

「なに言ってるのよ・・・今さら・・・」と震える声でそう呟いた。


俺は歯を食いしばった。

きっとこれから、俺に浴びせられる言葉は、想像を絶する罵倒だ。


「なに言ってるのよ!!!!あなたは!!!!」


白井さんは立ち上がって、俺を怒鳴りつけた。

フロアにいた全員が、こっちを見るのが分かった。


「私は1度、あなたにできるか?って聞いたわよね!!??

その時、あなたできるって言ったわよね!!??」


白井さんの声は更に大きくなった。


「申し訳ありません。自分の力不足でした・・・。」

俺は頭を下げたままそう言った。


涙がこぼれ落ちる。


「いい加減にしなさいよ!!!ふざけないでよ!!!」


当たり前だ。

白井さんが怒るのは無理もない。

この件で悪いのは全て俺だ。


白井さんは俺にチャンスをくれた。

それをこんな形で裏切ってしまった。

どんなに罵倒されても仕方がない。


「もうどっか行ってよっ!!あなたの顔なんか見たくもないからっ!!」


さすがにこの言葉はショックだった。

胸が潰されるような思いだ。


俺はもう一度

「大変申し訳ありませんでした・・・。」

と声を絞り出し、白井さんの元を離れた。

そしてそのまま真っ直ぐに、今度は片桐さんの所へ行った。


「モーニングス〇ーション。再撮になりました。」


片桐さんは俺の報告を聞いて、急に難しい顔になり

「おいおい大丈夫か?間に合うように出来るのか?」と言った。


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがブチッと切れた。


出来るのか?


・・・・出来るのか?


・・・・・・・・出来るのか?・・・だと?


気がつくと、俺は怒鳴っていた。


「最初に出来ねーって言ったのに、無理やりやらせたのはアンタだろがっ!!!!」


もう何がなんだか、分からない状態であった。


制作部のフロアが、水を打ったかように静まり返った。


驚きの表情で、ポカーンとしている片桐さんを尻目に

今度は制作デスクの松井さんの所に行った。


「俺。今から早退させてもらいます。失礼します。」


そう言って俺は自分のデスクに向かった。

松井さんが、俺を追いかけてきた。

「落ち着きたまえ。二宮くん!」


落ち着け・・・か。

その言葉を聞いて、なぜか笑いが込み上げてきそうになった。


「先輩は・・・。手伝ってくれる先輩はどこにいたんすか?」


1人で眠らずに仕事をやっていたことが、なんだか急にバカらしくなってきた。


俺はそういい残すと、自分の荷物を持って

サッサと会社を出て行った。


もう全てがどうでもいいと思った。


俺は電車に揺られながら、一点を見つめ

廃人のようになっていた。


さっきまで色々なことを、同時に考えていた脳が

今は1つのことにだけ支配されていた・・・。


「もうどっか行ってよっ!!アナタの顔なんか見たくもないからっ!!」


白井さんのその言葉が、何度も何度も俺の頭で木霊していた。


入社したてのミスの時は「死にたい」と思った。

しかし今回は違う「死にたい」と思うことすら面倒くさい。


時の流れに身を任せて、とにかくボーッとしていたかった。


マンションに到着した。少しホッとする。

とにかく寝よう。

今までの分も寝よう・・・。

エレベーターで3階に到着した。

もうすぐ部屋だ。

やっと眠れる・・・。


すると俺の部屋のドアが開いた。


中からはまりあが出てきた!


なんで・・・?

なんでだよ・・・?


ドクン・・・。ドクン・・・。

俺の胸がまたあの嫌な高鳴りを始めた。


俺の存在に、まりあはまだ気づいていなかった。


中に向かって「おかずは温め直してね。」と言っている。


中にいるのは。


当然・・・。悟だ。


その瞬間俺は拳を握った。

この感情の正体は・・・。嫉妬心じゃない。


怒りだ。


部屋を出たまりあが、俺に気づいて驚いた顔をした。


「光輝くん・・・。」


「・・・・・・」


「顔色悪いよ。大丈夫?」


「・・・・・・」


「今ごはん作って、お部屋に置いておいたよ。食べられる?」


「・・・・・・」


俺はなんとか冷静さを保とうとした。


以前俺が渡辺の部屋から出てきた時

まりあだって同じ気持ちだったに違いない。

それに、彼女と親友が・・・。

と考えている自分に嫌悪感すら覚えた。


俺は必死に声を振り絞った

「大丈夫。ちょっと仕事・・・。疲れて・・・帰ってきただけ。寝るね・・・。」


それだけ言うと、俺はまりあの横をすり抜けて自分の部屋へ入っていった。


リビングに入ると悟がTVを観ていた。


俺に気づくと

「おお!光輝やっと帰ってきたのか!!少し顔色悪いぞ・・・。どうした?」と聞いてきた。


俺は「別に・・・。」というとテーブルをチラッと見た。

食後の食器が2つ・・・。


そうか。

お前とまりあが飯食ってたのね。ここで・・・。


そんな俺の視線を気にする様子も無く

「まりあちゃんが飯作ってくれてるよ。いまから食う?」

と言って悟は冷蔵庫に向かって行った。


「いや・・・。いらないや。寝たいんだ。悪いけどTV消すね。」

俺はそう言ってTVのスイッチを切った。


悟は心配気な表情で

「おいおい!大丈夫かよ?光輝」と聞いてきた。


俺はそのまま黙って布団に潜りこんだ。


そうだよ。

俺の大好きな2人が仲良くやってくれてんだよ。

俺もそれを望んでいたじゃん。

これでいいんだよ。


そうやって自分を納得させながら目を閉じた。

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第18章 崩壊


次の日、俺は起きた時からなんか変な感覚した。


自分の体が自分の物でないような

妙にフアフアした感覚とでもいおうか・・・。


第三者的、神の視点から自分を見ているような・・・。


しかし見下ろしている俺は、決して生物ではなく

ただの蛋白質の塊というか・・・。


言葉ではどう表現すればいいのか分からない

とにかく変な感覚であった。


時計を見た。

9時か・・・。


横では悟が本を読んでいた。


「おはよう」

俺は悟に挨拶をした。


悟は俺の挨拶に気づくと、心配そうに言った。

「おはよう。お前大丈夫か?体調悪そうだぞ?」


「うん。大丈夫」

俺はそう言って洗面所に向かうと、顔を洗ってリビングに戻った。


悟が「会社に行くのか?」と聞いてきた。


「いくよ。もちろん。」

俺はそう答えながら

すぐさま出勤の準備に取りかかった。


「昨日の夜。隣の渡辺さんが訪ねてきたぞ」


「渡辺が・・・。なんて?」


「いや。寝てるって言ったら、帰っていったよ」


そうか。

恐らく会社で俺のことを聞いて、心配をして来てくれたのだ。

あれ?なんかおかしい。

自分が・・・。


普通なら渡辺のそんな行動を、有り難いと思うのだが・・・。

もちろん有り難いとは思うのだが、その感覚がおかしいのだ。


行動の側面を捉えて、脳でありがたいと考えているような・・・。

普段ならば、湧き上がってくる「気持ち」で「感じる」ものなんだが・・・。


なんだか自分がよく分からなかった。


会社にも普通に出勤できた。

昨日あれだけのことをしたのだ。


恥ずかしさや、申し訳なさがあって当然なのだが

全くなにも感じない。


自分のデスクに座ると

極めて事務的に、モーニングステーションの再撮の準備を進めた。


恐ろしいほどに、作品に対する情熱が失せていた。


なんだかんだ言っても、昨日までは忙しい中にも

ディレクターのこだわりは持っていた。


ここを直せばもっと良くなる!!

ここはこうしなければ!!


そんな昨日までの情熱は消えていた。


ただ淡々と、ただ淡々と仕事を遂行していった。

旅日記が無くなったので、正直随分と楽にはなった。

こうなればモーニングス〇ーションだけでも

無事に完成させなければ。


仕事が1つ減ったからといって、激務に変化は無い。

俺の徹夜と、会社への泊り込みはそのまま続いた。


その間もまりあは、頻繁にメールをしてくれた。

メールの文章には、日増しに悟の文字が多くなっていった。


悟・・・。悟・・・。悟・・・。悟・・・。


たまに油田・・・。か・・・。


そりゃそうだ。

あいつは俺なんかより100倍楽しいヤツだ。

そりゃそうなるよ。


そのメールの数々は、俺の知らないところで

まりあと悟が会っているということを、如実に物語っていた。


俺はそれらのメールに適当な返事を返した。


なにか大きな波があって、いくら抵抗しても飲み込まれていく。

俺はあがくを止めて、その大きな波の思うがままに飲み込まれようと思っていた。

苦労の甲斐もあってか、モーニングス〇ーションのVは無事完成した。

それでもO.A前日の午前中というギリギリの納品だ。


木下さんは「またお願いしますよ!二宮さん」と言って

俺の労をねぎらってくれた。


さぁ・・・。どうだろうな・・・。

次は別のディレクターが、担当するんじゃないの・・・?


俺は曖昧な笑顔を返しておいた。


俺は納品からの帰り道を、トボトボと歩いていた。

長尺物をやり遂げた喜びはあまり無かった。


やっぱり旅日記の件が胸を締め付ける。

あの後、旅日記のディレクターは見つからなかった。


そりゃそうだ。

俺の報告が遅すぎた。

あんな制作期間で引き受けるディレクターなどいるはずもない。


結局は白井さんがP・D(プロデューサー・ディレクター)をする

ハメになってしまった。


本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。


俺が会社に戻ると偶然、渡辺に会った。

そういえば渡辺に会うのも、随分久しぶりであった。

「おう。渡辺!」


「二宮くん・・・。元気だった?」


俺と渡辺は昼食がてら、会社の近所の喫茶店に行った。


「ごめんな。渡辺。なんかこの前、来てくれたんだろ?夜」


「うん。会社で聞いてさ・・・。心配だったから。」


俺は胸がジーンときた。

心配してくれる人がいるって、本当に幸せなんだな。


「あの後もね。二宮くん会社で見かけたけど

なんか声掛けづらくて・・・。忙しそうだったから・・・。」


「ありがとうね。渡辺」

俺は感謝の言葉を口にした。


渡辺は「ううん」と首を振って。


「私がミスした時も、二宮くんが心配してくれたじゃん。」

と言ってニコッと笑った。


俺と渡辺は、昼食を食べながら色々なことを話した。

本当に心が和む瞬間だった。


すると突然、渡辺が言い出した。

「二宮くん。気を悪くしないでね。」


ん・・・?


「二宮くんの部屋にいる・・・。友達・・・。」


ドキッ・・・。悟のことだ。


「な・・・なによ?」

やばい。少し声がかすれたかも。

「あまり・・・良くないと思うんだ。やっぱ・・・」

渡辺が慎重に言葉を選んでいるのが分かる。


「まりあちゃんと部屋を・・・。行き来してるみたい。

私が見たのは1回だけど・・・。

なんとなく多分・・・。そんな感じがする。」


かなり言いにくそうだが、渡辺の言いたいことは分かった。


例え見たのが1回でも、渡辺なりに何か感じるところが

あったのであろう。女の勘というやつだろうか。


俺は急に目の前が、真っ暗になるような絶望感に襲われた。


「うん・・・。」

俺にはその一言を返すのが精一杯であった。

次の日、俺は生放送のO.Aに立ち会っていた。

その間もずっと思い出していた。


昨日の夜。

渡辺の忠告を聞いて、重い気持ちでマンションに帰った。


部屋に入ると、すぐに悟が切り出してきた。

「まりあちゃんが、夕飯用意してくれてるそうだぜ!行こうぜ。光輝」


俺はこの時、親友の悟を初めてウザいと思った。


なんでお前らはいつも一緒にいるんだよ?

なんでいつも、俺をおまけみたいに誘うんだよ?

なんでお前に誘われなきゃいけないんだよ?


嫉妬心以外の何者でもない。


でも俺は黙ってついて行くことにした。


怒るのも面倒くさい。

怒ったところで

「なにヤキモチ焼いてんだよ?」など言われたら余計に惨めだ。

3人で夕飯を食べても、ちっとも楽しく無かった。

なぜか空しい疎外感しか感じなかった。


俺は自分が食べ終わると、サッサと部屋に戻った。

2人を部屋に残してくることにすら、抵抗が無くなっていた。

いま悟を連れ出したところで、どうせ俺の仕事中に会う。


それに1人になりたかったのだ。

あの朝から続く気だるさ、無気力症候群とでもいうのか・・・。


この時は気づいていなかったが、俺の精神崩壊は始まっていた。


モーニングステーション2回目のディレクターも

あっさり俺に決まった。


理由は、みんな忙しいという極めてシンプルなものだった。

片桐さんの言った「ディレクター持ち回り案」も結局は嘘っぱちであった。


今月、3週目は他のプロダクションが担当する。

次の俺の担当は4週目。

本来なら、俺がディレクターの旅日記がO.Aしている週だった。


制作期間は2週間だ。


また徹夜の連続で会社に泊まる日々か・・・。

なーに。それも免疫がついて、丁度いい。

この時の俺は、完全に諦めの境地に入っていた。

家に帰るのも嫌だしな・・・。


全ての流れに対して

逆らうつもりも、その元気もサラサラ無かった。


精神崩壊は、完全に鬱の症状を引き出していった。

携帯を見ると吐き気がするようになっていた。


それが、仕事関係でも、まりあでも、悟でも

渡辺でも、(油田でも)・・・。


着信もメールも確認がつらくなっていた。


でもそんなバラバラになっていく、俺の心の中で

一つだけ確かなものがあった。


まりあが好きなんだ・・・!


それだけが崩壊していく精神を

ギリギリのところで支えていた。

モーニングス〇ーションの2回目のO.Aも無事終えた。

でも無事というのかな?この場合。


適当に書いた台本で、適当にロケして、適当に編集しただけだ。

そこに「魂」や「情熱」は全く入っていない。


ずっとこんな感じの

ディレクターになってしまったらどうしよう・・・。


そんなクズみたいな

ディレクターになってしまったら・・・。


人に何かを伝えたい!

自分の想いを形にして、電波に乗せたい!


そうして思って入ったこの業界だった。


しかし当初の目標を見失いつつあった。


無気力が、俺の情熱も覇気も全て奪っていく感じがした。

カレンダーは2月に入っていた。

新年が明けてからの1ヶ月は、凄まじい早さで過ぎ去っていった。


その日も俺は、気だるい気分の中

自分のデスクで仕事をしていた。


そんな俺に、ある人物が声を掛けきた。


「よお!元気か?」

俺は肩を叩かれて、顔を上げる。


「川田さん・・・。」


川田さんはニヤニヤしながら

「全然元気じゃねーな。死人の面だぜ。」と言ってケラケラと笑った。


今の俺の顔は、そんなにヤバいのか・・・?


「まぁいいや!今日、仕事終わったら飲みいくぜ!」


俺に川田さんの誘いを、断る権利は無い。

それに俺も、川田さんと飲みたい。


「了解しました!早く仕事を終わらせますので。」


モーニングステーションの2回目を終えて

仕事量は若干の余裕があった。


俺と川田さんは18時には、居酒屋のテーブルに腰を下ろしていた。

乾杯を済ませた後、川田さんはグイグイとビールを飲み干し言った。

「しかし、なんだな。モーニングステーションか?

あれの2回目のVを、南さんに観せてもらったけど、ありゃクズだな」


川田さんは、極めてご機嫌な様子でそう言った。


ドキッ・・・。


確かにあれは、ただ台本を書いて、ただ撮影をして、だた編集をしただけの

駄作だ。そこには「情熱」が入っていない。


同業者には分かるのだ。

川田さんほどのベテランが、それを見破れないわけがない。


「すみません・・・」

俺は素直に、師匠に謝った。


「別に俺に謝らんでいいけどよぉ」

そう言って追加のビールを注文した。


「ただお前を俺の会社に誘った時・・・。

俺は不器用だけど、一生懸命なお前と、仕事がしたいって思ったんだぜ!」

胸が締め付けられる。

確かに俺は、あの頃と変わってしまったのかもしれない。


仕事に対する情熱が、急激に減退していた。

がむしゃらに頑張る気持ちが、どこかへ行ってしまっていた。

自分を奮い立たせそうとするけれど、その方法が見つからない。


無口になった俺を見て、川田さんが聞いてきた。


「なにがあったんだ?話してみろ」


俺は川田さんに全てを話した。


自分のキャパシティを知らずに、仕事を受けすぎて

白井さんに迷惑を掛けたこと。


まりあと仕事を両立できなかったこと。


そして悟の存在。


最後に、全てに対して無気力になってしまったこと・・・。


たどたどしい口調ではあったが全て話した。

きっと誰かに話を聞いてもらいたかったのだ。

俺の話を聞き終えた川田さんはこう切り出した。

「まぁ。片桐のオッサンはPの資格なんかねぇな。

でも白井のババアの件はお前が悪いな。」


俺は下を向いて、ジッと川田さんの言葉に耳を傾けた。


「でもよ。お前の仕事に対する、行動は間違っていねぇよ。」


俺の・・・。仕事に対する行動・・・?


「俺はよぉ。お前とそのねーちゃんが、結婚しようが別れようが

そのショックで、ねーちゃんが自殺しようが、ハッキリ言って関係ねぇ」


相変わらず言葉がストレートな人だ・・・。


「もし今回の仕事で、俺がお前と組んでいたとして・・・。

テメーら2人のつまんねー色恋沙汰で、俺の仕事おろそかにしてたら・・・。」


してたら・・・。


「ブチ殺してたぜ!」


川田さんの声と手が小刻みに震えている。


頭でそのシチュエーションを想像しただけで

怒りがこみ上げてくるのであろう。


「お前がねーちゃん優先して、俺の命削って書いた台本や、魂かけて望んでる

ロケを適当にしていたら、殺してたわ。」

川田さんはそこまで話すと、店員を呼んで

「あ・・・。おねーちゃん。僕お代わりね♪」と早くも3杯目に入った。


もし俺に後輩が出来て、そいつが俺のA.Dになって・・・。

俺が書いた台本や、ラッシュを適当に扱って、デートに行ったとしたら・・・。


殴らないまでも、相当頭に来るであろう。


川田さんが、真剣な口調を取り戻した。

「仕事っちゅーのは、みんな人生抱えて、家族抱えてやってんだ。

局の人間も、スポンサーも、白井のババアも、カメラマンも、音声マンも、編集マンも。

お前が考えているよりも、お前の仕事は沢山の人の人生抱えてんだ。」


「はい・・・。」

俺は自分の甘さを痛感した。


「それが仕事だ。誰もテメーの恋愛なんか知ったことじゃねー。

ついで言うとテメーの女なんか、死のうが生きろうがこっちには関係ねー。」


さすがに、まりあの顔を思い浮かべて憂鬱になる。

川田さんは、俺をジッと見て

「だからお前は間違っていなかったよ!」と言った。


「はい・・・。ありがとうございます・・・。」

俺は泣き出しそうな声でそう言った。


今回の一件で「お前は間違っていない」と言われたのは初めてであった。

100%俺の間違いだと信じ込んでいた。


それだけに川田さんの言葉は、意外であり胸に染みた。


川田さんの声は明るいものに変わっていた。

「それによ。仕事が原因で男と女が別れるなんてよくある話だ。

今この瞬間に別れてるやつらもいるわ。

じゃなきゃ、付き合った連中はみんな結婚してるぜ。」


あの・・・。川田さん。俺らまだ別れてないんすけど・・・。


最後に川田さんはこう言った。

「でも、その悟ってのは追い出せ。決めるのはテメーだけどよ!」


そう言って川田さんは、なぜか俺の頭をペシリと叩いた。

川田さんと飲んだ帰り道、俺は考えていた。


俺に悟を追い出すことが出来るのか?

俺の親友であり、幼馴染の悟・・・。


俺がグレた時も、唯一それまで通りに接してくれた悟。

俺は悟が大切だ。

かけがえの無い存在だ。


しかし・・・。

まりあも大切だ。まりあも大好きだ。

でも、あの2人が一緒にいるところを見るのは

これ以上耐えられない。


そのためには、親友を追い出すしかないのか?


どうすりゃいんだ・・・?


「くそーっ!!」

俺の口からは、そんな言葉が吐き出されていた。


あの2人は、俺がこんなに悩んでいることを、知っているのか?


そんなことを考えながら歩いていると、携帯のバイブが振動した。

着信である。まりあだ。

「もしもし・・・。」


「あっ!光輝くん?まりあです。」


「うん。」


「いまどこ?今日は早い?」


「もうすぐマンションだよ。」


「そうなんだ!夕飯用意してるから食べにきてよ!」


俺はまりあの顔を見たかった。

とにかく、まりあの顔を見て安心したかったのだ。


口を開いて「行くよ」と言いかけたその瞬間!


「悟くん誘ってさ♪」


一瞬とてつもない絶望感に襲われた。


そして目の前が真っ暗になって、立っているのもつらい・・・。


悟・・・。


ダ・・・ダメだ。


言ってしまう・・・。

破滅の言葉を・・・言ってしまう・・・。

「・・・いらねーよ・・・。」

俺は絞り出すような声でそう言った。


「ん?なに?よく聞こえなかった。」


今度はハッキリとした声で言った。

「いらねーって言ったんだよ!悟と2人で食え!」


そう言って電話を切った。


もうなにもかもに絶望的だ。

まりあとの関係に終わりを感じた。

携帯の電源を切り、俺は川辺に行ってボーッと座っていた。


ここはまりあと、初めてデートをした場所だ。


あの時は、まりあが大きなおにぎり作って・・・。

油田に借りた網で、小魚を追って・・・。

俺が川に落ちて・・・。

2人で笑ったよな・・・。


「楽しかったな・・・。」

俺はポツリとそう呟いた。


なんで、こんな事になってしまったんだろう?


仕方ないよな・・・。


誰も悪くはないよ。

たまたま運命の歯車が、そうやって動いてしまったんだ。


仕方がない・・・。

仕方がない・・・・・・。


俺はそうやって、自分を納得させると腰を上げた。

部屋には帰れない。

いや・・・。帰りたくない。


あんなに楽しかった、あのマンションに

自分の居場所が、無くなったような気がした。


その夜も俺は会社に帰って、1人寂しく眠りについた。

悟が俺のマンションに来て、丁度1ヶ月。

全てが崩壊する日は、あっさりと訪れた。


俺はその日、会社を23時頃に出た。

いくらなんでも、ずっと家に帰らないわけにはいかない。


あそこは俺の部屋である。

逃げ隠れして、気を使う方がおかしい。


会社を出た俺はある決意をしていた。


悟には出て行ってもらおう!


そして元の生活を取り戻そう!


かなりの勇気が必要な決断であった。

電車でも、悟にどうやって伝えるべきか?

そればかり考えていた。


駅に到着してから、マンションまでの道のりも気が重い。


俺は今日、1番大切な親友を失うかもしれない・・・。

とうとうマンションに着いた。

俺はエレベーターで3階に上がり

自分の部屋のドアを開けた。


真っ暗だ・・・。


リビングに上がり、電気を点けようとして手を止める。

悟が寝ていた。


いま起こすのは可哀想だな。

そう思って、俺は暗闇の中でボーッとしていた。


その時、部屋の片隅で何かがピカピカと光った。


悟の携帯・・・?音は出ていなかった。


俺は携帯を手に取って、悟を起こしてあげようとした。


しかしその瞬間、手に持っていた携帯の光がピタリと止まった。


そして着信か、受信を知らせる光に切り替わった。


俺はそのまま、悟の携帯を元の場所に戻した。


その瞬間、俺の頭が別のことを考えた。


携帯・・・。悟の・・・。

俺の中で凄まじい葛藤が起こる。

その葛藤は数分間続いた。


そして・・・。


俺は震える手で、もう一度悟の携帯を手に取った。

やってはいけないという思い。

でも確認したいという思い。

そして安心したいという思い。


俺はそばらくの間、悟の携帯を握りしめたまま

立ち尽くしていた。


「悟・・・。」


俺は眠っている悟に対して、小さく呟くとその携帯を開いた。


1度限りにしよう・・・。

2度とこういうマネはよそう・・・。


それは賭けであった。

もし今の着信が、俺の思うその人物でなければ・・・。


それ以外は何も見ない。

着信履歴もメール受信も見ない。


この着信の主・・・。

その確認は、俺の中で勝手に決めた賭けであった。


ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。・・・・。


心臓がもの凄いスピードで脈打つのが分かる。

携帯の小さなボタンに指を添えた。

その指が震えている。


俺はボタンを押した。


そのディスプレイから、俺の目に飛び込んできた文字は・・・。

まりあちゃん


一瞬視界がブレた。

頭に血液が昇っていくのが分かる。

同時に頭がクラクラとした。


しかし俺は体を、ピクリとも動かすことが出来なかった。


数秒だったのか?

それとも数分だったのか?


俺は我に返った。


賭けは・・・。俺の負けだった。


悟・・・。悪いけど・・・。全部見させてもらう。


最初に感じた、罪悪感は全く無くなっていた。


着信・発信・送信・受信。


最近のものは、全てまりあだった。

受信ボックスから1番古い「まりあちゃん」の文字を見つけた。

それは悟が来てから、まだ日の浅い時のものであった。


こんなに早くの段階で、2人は番号とアドレスを交換していたのだ。

俺の時とは大違いだよな。


俺は1番古い受信メールを開いてみた。

「光輝くんがかぇってこなくて寂しぃぃぃ"(ノ_・、)" グスングスン」


最初の数日は、似たような内容の物ばかりであった。

俺が忙しくて、帰ってこないまりあの寂しさが綴られている。


しかし光輝という文字は、日が新しくなっていくにつれて

その数が序々に減っていった。


「きょぅのごはんゎナニがィィ??(〃∇〃) 」


「ぃまから部屋ぁそびぃってよぃ??(*^o^*) 」


「なんか光輝くんにぉこられたよ。。(。>_<。) えーん」

これは俺が電話で怒鳴った日だな・・・。


それから2~3通あとのメール。

「(。-_-。)ポッ」


なんだこれ??


俺はそのメールの日時に1番近い、悟の送信を探した。

開いてみる。


「俺まりあちゃんのこと好きだぜぃ!」


・・・・・・・・・・。


俺は自分に問いかけた。


もう・・・。切れていいよな?


もう・・・。我慢する必要はねーよな?

俺は横で寝ている親友の、胸倉を掴んで殴ろうとした。


悟・・・!!!

悟・・・・・・!!!

悟・・・・・・・・・・!!!


しかし、出来なかった。


俺は小2から、中3までボクシングをしていた。

7年間ボクシングで鍛えたこの拳・・・。


それを無防備な相手の顔面に、思いっきり打ち込んだら・・・。

鼻が潰れるどころの騒ぎではない・・・。


俺は奥歯をグッと噛み締めた。


悟の携帯をその場に置いて、俺はそっと自分の部屋を出た。

気がつくと俺は、304号の前に立っていた。

とにかく誰かと、話したかった。


インターホンを押す。

しばらくすると「はい?」という渡辺の声が聞こえた。


「遅くにごめん。二宮です・・・。」


「どうしたの!?」


「ごめん。少し話したくって・・・。」


「ちょっと待ってね。」


すぐにドアが開いた。


トレーナー姿の渡辺が姿を現す。

「どうしたの?二宮くん?」


俺はうつむいて、黙っていた。


俺の深刻な状況が伝わったのか

「とにかく入って。」

そう言うと、渡辺は俺を部屋に招き入れてくれた。

「二宮くん。どうしたの?話してみて?」

渡辺の優しい声が、逆に悲しくなってくる。


自分の頭の中での、整理も兼ねながら

俺はポツリ・・・ポツリと、今までの出来事を話した。


全てを聞き終わった渡辺が一言

「ひどい・・・。」と呟いた。


渡辺は立ち上がると、玄関に向かった。


「おい!渡辺!!」

渡辺が玄関のドアを開けて、飛び出して行った。


俺も慌てて、渡辺を追いかけた。


渡辺は302号のインターホンを押している。

「はい?」まりあが応答した。


「彩です。ちょっと開けて欲しい!」


「渡辺。何をする気だよ?」


渡辺は、俺の言葉を無視している。

俺は渡辺が、こんなに怒っている表情を初めて見た。


ガチャリとドアが開く。

渡辺の表情を見たまりあは

「彩さん・・・。」と言って驚いた表情をした。


まさに一瞬だった。


バチン!!!


乾いた音が廊下に響き渡った。

渡辺が力いっぱいまりあの頬を叩いた。


「あんたなんか!二宮くんがどんな思いで、仕事をしているか知らないくせに!」


まりあは叩かれた方の頬を押さえて、うつむいている。


いま俺の目の前で起こっている事が、現実のこととは思えなかった。


しかし・・・。


でも・・・。


そうだよな。


この辺りでそろそろ決着つけないとな。


俺は黙って部屋に戻った。


そしてリビングの電気を点けると悟を起こした。


「起きろ。悟」


う~ん。と言って伸びをしながら悟は起きた。


「どした光輝?今帰ってきたのか?」

悟は目を擦りながらそう言った。


「悪いけど出て行ってくれ。この部屋から」


悟の動きが急に止まった。

俺の顔を凝視している。


俺はもう1度言った。


「出て行ってくれ。この部屋から」

悟は全てを、悟ったかのように

立ち上がると、自分の荷物を鞄に詰め込み始めた。


俺は悟から目を背け、壁をじっと見つめていた。


悟は鞄に、荷物を全て詰め込むと

「今まで悪かった・・・。」と呟いた。


俺は悟の方を向いて、顔を見て聞いた。

「俺たちは・・・親友だよな・・・?」


数秒間の沈黙の後、悟は俯いたまま

「ああ。そうだ・・・」。と静かな声で言った。


そして鞄を持って、玄関の方へ歩き始めた。


俺は悟の背中に向けて言った。

「お前も・・・。まりあが好きなのか?」


悟が歩くのを止めた。

数秒間の沈黙。


そして玄関の方を向いたまま

「ごめん・・・。光輝」


そう言い残すと悟は、玄関のドアを開けて

俺の部屋から姿を消していった。

悟はがいなくなった部屋・・・。

俺の居場所が返ってきたはずなのに・・・。


あの夜から俺は、部屋に戻っていなかった。

またしても会社へ、泊まり込む日々。

生活は何も、変わらなかった。


ただ以前と違ったのは、泊まり込む理由が

仕事のためでなく

極めてプライベートなものに、変化していたことだろう。


今はまりあと、会いたくなかった。

それは向こうも同じであったであろう。


その証拠に、まりあからの着信もメールも一切なかった。


渡辺とは会社で会った。

彼女は「ごめんなさい」と頭を下げた。


俺は首を横に振って

「俺のために、やってくれたことじゃん。ありがとな」

と言って渡辺に感謝した。


あの日から、3日目の夜。

俺が会社の仮眠室で、眠りにつこうとした時のことだ。


携帯が光った。

メールの受信を知らせる光・・・。


差出人は、まりあであった。


そのメールには、こう書かれてあった。

「しばらく実家に帰ります。明日の夜会えますか?」

そうか実家に帰るのか・・・。

もうあのマンションは、住んでいてもつらいだけかもね。


去年はみんなで集まって、笑いあったあの場所。


みんな(油田以外)の気持ちがバラバラになった

今となっては、つらい場所でしかないよね。


こうやって1人・・・。

また1人って消えてゆくのかな・・・?


「分かりました。明日の夜、7時に俺の部屋へ来て下さい。」


明日で全てが終わるんだ。


これは予感ではない。


確信に近いものであった。

18時30分。

俺はリビングの電気を点けた。


見慣れたリビング。

それがなぜか、少し懐かしい感じに思えた。


「そうか・・・」俺は呟いた。


それは悟がいなくなったからか・・・。


仕事しか見えていなかった生活。

気持ちは常に、ピリピリと張り詰めてていた。


そしてたまに帰れば、そこに悟がいた・・・。


本当に安らいだ気持ちで

この部屋に1人でいるのは、久しぶりであった。


引越して来た日。


高ぶる気持ちと、不安の中で食べたカレー。

水っぽくて全然、美味しくなかったっけ・・・。


その時インターホンが鳴ったんだよね。

そこにプラスチックの容器を持ってる、まりあが立っていたんだ。


カレーのお裾分けだった。

そのカレーはすごく旨かったよ。

俺のカレーとは、比べ物にならないくらいにね。


もしかしたら

俺はその時から、まりあに恋してたのかもしれないね・・・。


その終焉の場所も・・・。ここか・・・。

そんなことを、しみじみと思っていると


ピンポーン。


インターホンの音がした。


相変わらず音がでかい。

俺は少し笑ってしまった。


ドアホンで応答する。


「はい・・・。」


「・・・・まりあです。」


「うん。開いているよ。入ってきて・・・」


まりあがリビングに入ってきた。


こんなに悲しそうなまりあの顔を

俺は今までに、見たことがなかった。


俺はまりあの笑顔が大好きだったのに・・・。


なんでこんな事になっちゃたんだろうね・・・?


まりあと向かい合わせに座った。


お互い何も話さない。


長い沈黙・・・。


最後は俺から、キチンと切り出そう。

「実家に帰るん・・・だ・・・?」

声が暗い。自分でもハッキリと分かる。


まりあはすぐには、返事をしなかった。


30秒ほど経ってからやっと

「うん・・・。」

その一言を吐き出した。


「大学・・・。通える?実家から・・・。」


「うん・・・。少し遠いけど・・・なんとか・・・。」


それからまた沈黙が流れる。

重苦しい空気が、部屋全体を包み込む。


確信に・・・。

入らなきゃな・・・。


「まりあが・・・。今日会いたいってメールくれたのは・・・。

実家に帰る・・・報告?」


「・・・・・・・・・・。」


「まりあ・・・。」


聞かなければいけないよな。


俺とまりあが、次のステップに踏み出すためには

どうしても避けては、通れないんだ。


「俺・・・と・・・悟・・・。どっちが好きなの・・・?」

こんなに重い言葉を言った経験は

それまでの人生で1度も無かった。


今後の人生でも出来れば言いたくない。

そんな重い言葉だ。


まりあ・・・。

はっきりとした返事をしてくれ・・・。


これが俺にできる、まりあへの最後のアプローチなんだ・・・!


沈黙の中、時間だけが過ぎていった。

もう後戻りはできない。


いくらでも待つから・・・。まりあ・・・。


俺か・・・。悟か・・・。


ハッキリとした返事が必要なんだよ・・・。


次の瞬間、まりあの目から一筋の涙が流れた。


そして一言

「なんで・・・。」


しかしその言葉の、続きは無かった・・・。

「なんでそんなこと聞くの?」


「なんでもっと私を、かまってくれなかったの?」


「なんでこんな事になっちゃったの?」


まりあが

「なんで・・・。」の後に言いたかった言葉は、今でも分からない。


でもこの時の、まりあの苦しさは

目の前にいる俺に、ヒシヒシと伝わってきた。


もう楽になっていいよ・・・。


もう苦しめたりしないからさ・・・。


まりあ・・・。


「悟が好きなら・・・。無理しなくていいよ。まりあ・・・。」


たった半年だったけど

俺がまりあの彼氏として、最後に言った言葉がこれであった。


まりあは俺の言葉を聞くと

しばらくして静かに立ち上がった。


そして最後にペコリと頭を下げて、リビングを後にした・・・。


まりあがいなくなった部屋で

俺は一晩中眠れずに、ただ壁を見つめていた。


もうまりあが戻ってくることは無かった・・・。


俺とまりあの全ては、こうして終わりを告げた。

もう俺に残っているのは、仕事だけだった。

モーニングス〇ーション、3本目の制作期間に突入していた。


また激務が待っている。

しかし俺に、創作意欲が戻ってくることは無かった。


燃え尽き症候群なのか・・・?

鬱病なのか・・・?


この時には、体の異変に気づいていた。

まず食事の回数が減った。

いくら食べなくても、平気なのである。


お腹が減らないのである。

体を壊さないために、無理して食べているといった感じであった。

そして量を食べようとすると吐いてしまった。


あとは起きるのが、極端につらくなってきた。

前までは仕事があれば、僅かな睡眠時間でも

パッと飛び起きることが出来た。


しかしこの時は、いくら寝ても起きるのがつらい。

起きるのがつらいというより、起きたくなくない。


起きれば、日常生活が嫌でも始まる。

それを体が拒否しているような感覚である。

そして心がおかしい。


まりあのことを思うと勿論

「悲しい」「つらい」「みじめ」「切ない」などの感情が頭をよぎる。


でもその感情すら鈍ってしまって、どこか他人事にようにすら思える。


1日中頭が冴えない、ボーッとした日々が続いた。


でも仕事はしなければならない。

そこで立ち止まっていると、O.Aの日はあっという間に近づいてくる。


もうこの時は手を動かすことすらも、つらい状態で仕事に挑んでいた。


そんな毎日が続く、2月下旬のある日。

俺がマンションに帰ると、301号から出てきた油田と会った。


油田は俺を見つけると「二宮さん!」と言って近づいてきた。


「おう・・・。あぶちゃん。久しぶり。」


「お久しぶりです・・・。ところで、なんでまりあちゃん部屋を解約したんですか?」


部屋を解約・・・!!


俺はまりあが部屋を解約したことを、この時初めて知った。

「学校で教えてくれたんですが・・・。理由までは教えてくれなかったんです。」

そういうと油田は寂しそうに俯いた。


そうか・・・。油田。

お前知らなかったんだよな。


「油田・・・。俺、彼女とは別れたんだ。」


その言葉を聞いた油田は、驚きの表情を見せた。

「どうしてなんですか・・・?」


俺はそんな油田の言葉を聞いて、少し微笑んだ。。

「まぁ。色々と・・・ね。」そういって

油田から離れ自室へ向かった。


俺の背中に向けて、油田が言った。

「二宮さんは・・・。出て行きませんよね?」


そこ言葉には回答せず、俺は部屋に入った。


僅かな時間だけど、4人で楽しく過ごした3階フロア。


そこから1人の人間がいなくなる。

それがまりあだなんて・・・。


半年前の俺は、想像もしていなかったな。


もうこれ以上の不幸は起こらないだろう。

これ以上は、俺にもちょっと想像がつかない。


しかし神様ってすごい。


こんな俺に最後の総仕上げを仕掛けてきた。

この時、社内での俺のポジションは

同期の中でのエース格になっていた。


偶然とはいえ入社1年未満の人間が、長尺物の番組を1本任されているのだ。


他の同期は長尺物どころか

短尺物すらディレクターの経験はない。


望んでそうなったワケではないが

社内での期待は日増しに大きくなっていた。


それと逆行するように、俺の仕事に対する熱意は薄れていった。


しかし俺の存在価値は、会社にしかなかった。


もう無理をしてでも、仕事をして

一人前のディレクターになることだけが、生き甲斐となっていた。


そんな3月の半ばのある日。


俺は制作デスクの松井さんから

重要な話があると、会議室に呼び出された。


なんだろう・・・?

「実は・・・。二宮くん」

松井さんは、言いにくそうにしている。


「はぁ・・・。」


「来週から支社に行ってくれ・・・」


「・・・・・・・。」



俺はこの時のショックを、今でも忘れない。

本当に目の前が、真っ暗になった。


時間の流れが一瞬止まった・・・。


この時ばかりは

失っていたはずの感情が、沸々と湧き上がってきた。


「あっちで頑張ってもらいたい・・・。」

その松井さんの言葉は、

これは社の命令であるというニュアンスが、ありありと出ていた。


サラリーマンである俺は、それに従うしかない。

拒否をする権利など、勿論無いのである。


支社・・・。

それはただの営業所に過ぎない。


人数は4~5人しかいないと聞いた。

本社で定年前の役立たずが飛ばされる、姥捨て山のような場所らしい。


業務は簡単な営業と、資料整理くらいだという。


そこに行くことは即ち・・・。


映像制作の道が絶たれる!


そのことを意味していた。

精神の崩壊はこの時、完全に成立した。

唯一の生き甲斐であり、心の拠り所であった


「一人前のディレクターになりたい」という夢すら奪われた・・・。


俺は「失礼します。」と言って会議室を後にした。


歩いている床が

まるでトランポリンのようにフワフワとしていた。


後になって聞いた話だが

最初の段階では、支社に送る人物のリストに

俺は入っていなかった。


俺を強く推薦(嫌がらせ)してくれたのは他でもない、赤松と白井さんの

紅白コンビであったという。


それでも他のプロデューサーは、必死で抵抗してくれた。

だが紅白コンビが、最後まで譲らずに寄り切った形であったという。

俺は別にそれを恨んでない。


会社とは社会とは、そういう場所である。

理解も納得も出来る。


その命令が嫌であれば、それは会社を辞めるしかないのだ。


それがサラリーマンだ。


でも俺には心の支えが完全に無くなった。


なにを目標に生きていけばいいのだろう・・・。


支社に通うようになって、僅か2日目で俺は駅で倒れた。


心も体もとっくの昔に、悲鳴を上げていたのだろう。

それが限界に達して、崩壊したのだ。


気がつくと俺は、救急車の中にいた。

救急車の中では

救急隊員が会社へ電話を入れ、事情を説明してくれた。


救急車の中は思っていたよりも、雑然をした雰囲気であった。

救急隊員が俺に何度も、不調の具合を訊ねてきた。


そこに寝ている自分が、まるで非現実の世界にいるような感じだった。


病院に到着した俺は、血圧などを測られた記憶がある。


そしてそのままベットに寝かされた。


看護師が「ゆっくり眠っていいですよ」と優しい声を掛けてくれた。


俺はその言葉を聞いて、涙が出そうになった。


もう頑張らなくてもいいんですよ・・・。


そう言われているような気がした。


俺は目を閉じた。


院内は騒がしかったが

なぜか凄く安心した・・・。


これでやっと開放されたのかな?


もうずっと眠っていたいんだ・・・。

1時間ほどベットで寝させてもらった後、俺は立ち上がった。

近くにいた看護師に「もう大丈夫です。」と伝えた。


「それじゃ少し先生とお話をしましょう!」と促され

医師の前に座らされた。


医師は優しい声で

「疲れだと思いますが、心当りはありますか?」と聞いてきた。


俺は会社であったことを、適当に掻い摘んで医師に伝えた。


医師はジッと俺の顔を見つめて

「恐らく自律神経かと思いますね。」


自立神経・・・?

鬱病とはなにが違うのだろう・・・?


俺は「はぁ・・・。」と曖昧な返事をした。


医師は最後に

「診断書を書きますので、会社を2週間程度休んで

ゆっくりして下さい。」と言った。


自律神経・・・。

なんだかよく分からないが

俺の精神は、医学的に見ても病気らしい・・・。


それはやはりショックであった。


俺は診断書の入った、病院の封筒を持って

フラフラと駅へ歩いていった。


目は虚ろであったと思う。


電車に乗って向かったのは自宅ではない。

本社であった。

俺は会社に入ると、制作デスクの松井さんに近づいていった。


俺に気づいた松井さんは、驚いた表情をした。

「二宮くん。連絡は受けている。大丈夫なのか?」


「はぁ・・・。これ病院の診断書です。2週間程度休めとのことです」


「そうか。ゆっくり休みたまえ。」


俺はボーッとした表情でこう言った。

「いや・・・。僕・・・。会社を辞めさせて頂きます。辞表は後日郵送しますので・・・」


俺の言葉を聞いた松井さんが、ポカーンとしている。


そして辺りの人間が、ザワザワと騒ぎ始めた。


その時、会社の電話が鳴った。

そのコール音を聞いて、俺は吐き気を覚えた。


松井さんにペコリと頭を下げ会社を出た。


誰も追っては来なかった。


みんな呆気にとられている様子であった。

俺は部屋に戻ると、全てのカーテンを閉じた。

遮光カーテンなので、部屋は一瞬で真っ暗になった。


暗闇が妙に落ち着いた。


携帯の電源を切って、俺は眠り続けた。

今はおふくろの声ですらも、聞きたくなかった。


どうしても目が覚めてしまった時は

風呂に入って、またベットに潜り込んだ。


そして眠くなるのを、ただひたすらに待った。


食事もろくに摂らずに

何日も何日もただ眠っていた。


もう何日眠り続けたのか?それも分からない状態であった。


3日?5日?もしかして10日?

カーテンを一切開けないので、昼か夜かもハッキリと分からない。


その間2度ほど、渡辺が俺を心配をして訪ねて来てくれた。

俺がまりあと別れたことは、渡辺に報告していた。


渡辺は何度も「私のせいだ・・・」と言った。


「それは違うよ・・・。渡辺・・・。」

渡辺が胸を痛めていることがつらかった。


全ては俺の責任なのに・・・。


そんな渡辺に対しても

俺は玄関のドアを開けて、顔を見せることはしなかった。

今の自分の姿がどんなものなのか?


それは俺自身にも分からなかった。

きっと全身は痩せこけ、顔も真っ白であったに違いない。


その姿を渡辺に見せたくなかった。

ドアホン越しで会話した程度である。


「二宮くん・・・。本当に大丈夫?」

渡辺は心配そうな声でそう訪ねてくる。


「うん・・・。元気になったら報告するから・・・。」

俺はそれしか言えない状態であった。


ごめんな・・・。渡辺・・・。

その日も俺は暗闇の中で、ただ息をしていた。

眠りたいのに眠れない。


ジッと次の睡魔が来るのを待って、闇を見ていた。


その闇を切り裂いたのが


ピンポーン


というインターホンのバカでかい音であった。


俺は驚いて体をビクッと震わせた。


渡辺か・・・?油田か・・・?


俺は恐る恐るドアホンに出た。


「はい・・・?」


ドアホンの受話器から聞こえたその声・・・。


「・・・新田です。」


それはまりあの声だった!



この時俺は、徳永英明の「最後の言い訳」を

暗闇の中で唯一聴いていた曲です。

当時の心境を思い出すために、今もこれを聴きながら書いています。

聴きながら、読んで頂けると感情移入しやすいかもです。


「まり・・・あ・・・?」


俺は声が擦れた。


一体どうしたんだ?


なんの用なんだ?


今更・・・。この俺に・・・。


「引越しのご挨拶に・・・。来ました・・・。」


そうか。

このマンションは退去予定の、1ヶ月前に知らせなければいけない。


油田からまりあの退去を聞いたのが

ちょうど1ヶ月前・・・。


今日でまりあは302号の契約が切れるのか・・・。

俺は迷った。

ドアを開くべきか・・・。

開かないべきか・・・。


今のこの姿を見せたくない。


いかにも「あなたに振られて廃人になりました」

というようなものではないか・・・。


でも・・・。


でも・・・・・。


でも・・・・・・・・・。


あんなに大好きだったまりあ・・・。


自分の人生で、1番好きになった女性。


まりあ・・・。


これがまりあの顔を見る、最後になるかもしれない。


いや。間違いない!


これが最後だ!

「ちょっと・・・。待って・・・。ドア開けるから」

俺はまりあにそう言った。


ギリギリ髭は剃っている状態である。

でも髪はボサボサだ。

仕方がない・・・。


俺は玄関のドアを開く。


凄いスピードで脈打つのが分かる。


ドキン。ドキン。ドキン。


ドアを開けて、やっと今が夜だという事に気がついた。


薄暗い廊下の明かりのに照らされて


まりあが立っていた。


いま俺の目の前にいるまりあ・・・。


本当に本当に・・・。大好きだったんだ。


いや・・・。違う。


きっと今でも・・・。俺はまりあが好きなんだ・・・。

「まりあ・・・。」


俺の口から、思わずその言葉が漏れた。


「お久しぶりです。光輝くん・・・。」


まりあがそう言った。


そして俺の顔を見て、少し驚いた表情を見せた。

「光輝・・・くん。」


もう言い逃れはできないよな。

こんな姿を見られたら・・・。


「なにかあったの?光輝くん・・・?」


「ちょっとね。仕事で・・・。」


隠していても仕方がない。


まりあが黙り込んだ。

自分の責任を感じているか?


まりあのせいじゃないんだ。

こうなったのは・・・。


俺は心の中でそう呟いた。


「時間あるの・・・?もし良かったら・・・。中で話す?」


まりあは少しためらった様子のあと

コクンと頷いた。

俺はリビングにまりあを通した。

電気のスイッチを入れる。


数日間、ずっと暗闇にいたせいか目が痛い。

そしてなにより、精神的に落ち着かない。


「ごめん・・・。まりあ。豆球でいい?」


「うん・・・。」


この時の言動で

まりあは既に、俺がまともな状態ではないと悟ったのであろう。


俺とまりあは向かい合って座った。

流れる沈黙・・・。


俺はまりあに、話掛ける言葉を捜したが

それは見つからなかった。


「お仕事・・・。」

まりあがポツリとそう呟いた。


「お仕事・・・大変なの?」

まりあが俺の目を見てそう言った。


「うん・・・。大変というか・・・。会社辞めちゃった・・・。」

もう隠しても意味がないだろう。


まりあだって薄々感ずいているかもしれない。


「・・・そっか。」


またしても沈黙が流れる。

俺は少しだけ明るい声を出した。

「なんかね。仕事・・・。頑張りすぎたみたい。少し休めってさ。医者が」


まりあは黙って、ジッと俺の顔を見つめている。


何か・・・。何か話さなきゃ・・・。


「もうね・・・。ディレクターになれないみたい。なんだかね。もうダメみたい」


何で俺はこんな話してんだよ!でも言葉が止まらなかった。


まりあはそれでも、黙って俺の言葉に耳を傾けた。


「なんかね・・・。夢が無くなっちゃった・・・。みたい・・・。あはは・・・。」


あれ・・・?俺泣いている・・・?


自分では冷静なつもりなのに・・・。


気がつくと、俺の目から涙がポロポロと流れ落ちていた。

そしてそれは、全く止まる気配が無かった。


まりあはそんな俺を見て、静かに立ち上がった。


そして俺の横にひざまずいた。


まりあは俺の頭を抱えこみ、優しくその胸に抱き寄せた。


「疲れちゃったんだね・・・。光輝くん・・・。ごめん・・・ね。」


俺はまりあのそこ言葉を聞いて、更に激しく泣き出してしまった。


まりあはそんな俺の顔を、そっと両手をで包み込んだ。

そして優しくキスをしてくれた。

まりあのキスは長く続いた。


そしてそれは


少しずつ・・・。


少しずつ・・・。


激しさを増していった。


その流れは、ごく自然に来た。


まりあは最初、すごく痛がった。


しかし・・・。


「いいよ。光輝くん。大丈夫だから・・・」


俺とまりあは、初めてその一線を越えた。


終わった後も、しばらく抱き合っていた。


「電気点けていいかな・・・?」


まりあが俺に聞いてきた。


俺は「うん」と頷いて電気を点ける。


眩しい・・・。


俺はまりあがいるベットに戻った。


シーツを見ると、そこにはまりあの鮮血の痕があった。

俺は驚いた。


実は俺はまりあが、2番目の人である。


最初の人は、俺の人生を大きく変えた事件に起因している。


「まりあ・・・。」


俺はそう言って、まりあの顔を覗きこんだ。


まりあが言った「初めてだよ・・・。光輝くんが・・・。」


「悟とは・・・。」


そう言い掛けて俺は言葉を飲み込んだ。


今ここで、悟という名前は口に出したく無かった。


その夜は2人で抱き合って眠った・・・。


しかし次の日の朝


目を覚ました俺の横に、まりあはいなかった。


テーブルを見た。そこには1枚の紙切れがあった。


まりあからの置手紙である。


そこにはまりあの文字で

「いつかの答え・・・。もう少し待ってください。まりあ」とだけ書かれていた。

俺の辞表が、正式に受理された。


最後は総務部からの電話だった

「二宮さんの辞表が受理されました。

年金手帳と、雇用保険被保険証は郵送させて頂きます。


「分かりました。短い間でしたが、お世話になりました。」


あっけない幕切れであった。

俺は丁度、入社1年で会社を退職した。


もし戻って来いって言われても

もう体が働くことを、拒否してる状態だったんだけどね。


川田さんには退社の報告をしなきゃ・・・。

渡辺は・・・。もう会社で聞いているかな?


しかしどうしても、川田さんに電話が出来ない。

川田さんと、仕事をしていた現場が脳裏をよぎる。


仕事の現場を思い出すと震え出した。

これが・・・。鬱の症状なのか・・・?


俺は心の中で、川田さんに謝罪した。

「すみません・・・。川田さん・・・。」

あの夜以降、まりからからの連絡は全く無かった。

俺も連絡はしなかった。


ただまりあの答えを待った。

それしか、俺の出来ることは無かった。


退社が決まった日の夜、俺はコンビニに出かけた。

そこでタバコを買った。


17歳の時にやめたタバコ・・・。

なんでこんなものを、買ってしまったんだろう?


マンションに到着して、3階フロアに到着した。

まりあの住んでいた、302号の前を通り過ぎる。


俺は足を止めた。


そして302号の

302号の前に立つと、インターホンを押してみた。


ピンポーン。


室内で鳴り響く音が、外にいる俺の耳にも微かに聞こえた。


フッ・・・。と笑い出してしまった。


なにバカなことやってんだよ・・・。俺は・・・。


もうまりあはいるはずないのに・・・。


ズボンから、自分の部屋のカギを取り出して

カギ穴に差し込もうとした瞬間!


ガチャリ・・・。


俺の後方で、ドアが開く音がした。


まさか・・・。まさか・・・。


まりあ・・・?


俺は後ろを、振り向いた。

しかしそこには立っていたのは油田だった。


なんだオメーか・・・。


ドアの開く音は、301号だったのか。


「コンビニ行くの?」

俺は油田に話しかけた。


「ええ・・・。ところで二宮さん・・・。」


「ん?」


「まりあちゃん。カレー屋のバイト辞めたの・・・知ってますか?」


そうなんだ・・・。


そうだよな。

実家からあのカレー屋に通ってまで、バイトする意味ねーよな。


「ううん。知らなかったよ。」


「そうですか・・・。」


油田は急に、しおらしい声を出した。

「なんか・・・。寂しくなっちゃいましたね・・・。」


そうだな・・・。少し前までは・・・。

すっげー楽しかったのにな・・・。


「そうだね・・・。」

俺はそう言うと、自分の部屋へ入っていった。

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第19章 光


俺は部屋の引き出しを、ゴソゴソと探っていた。


あった。あった。


この部屋の契約書だ。


そこに明記されている、大家の番号に電話を掛ける。


「ありがとうございます。○○住建です。」


「○○の303号に住んでいる二宮です。」


「お世話になります。」


「5月一杯で、退去の手続きをお願いします。」


「かしこまりました。差し支えなければ退去の理由を・・・」


そんなやり取りを経て

俺は303号の契約を解除した。


俺が初めて、憧れの1人暮らしを始めた303号とも

あと1ヶ月で、お別れである。


そう思うとなんだか、寂しさが込み上げてきた。


部屋の壁にそっと手をあてた。


「たった1年と1ヶ月だったけど、今までありがとうな!

次は、いい人に住んでもらえよ・・・」

そういって俺は、303号にお礼を言った。

その日の夜、油田と渡辺にメールを送った。

「5月一杯で303号を出ます。」


油田の返信は「嫌ですよ!!ずっといて下さいよ!!」

渡辺の返信は「寂しくなるね・・・」

であった。


2人の気持ちは、痛いほど嬉しかった。


それから退去日までの生活は、特に書くべきことが無い。


寝て、起きて、ボーッとして、ご飯を食べて、風呂に入るだけだ。

完全なニート状態である。


退去日の前日に、俺は油田と渡辺に挨拶をしに行った。


渡辺は留守であった。

もしかして、泊まりロケかもしれない。


俺は部屋に戻って

「今までありがとう。二宮」

そう書いたメモ書きを、304号の郵便受けに入れておいた。


俺はその後、301号のインターホンを押した。

「はい・・・?」

油田が応答した。


「俺だよ。二宮。ちょっと開けてよ。」


油田が出てきた。


退去お知らせメールの後も

ちょくちょく顔は会わせていたが、正式な挨拶はこれが初めてだった。


「俺、明日出て行くからね。今までありがとな!」


引越して来た日の夜。

お前とコンビニで会って、そこから毎日が楽しくなったんだ。


そんな毎日が送れたのは、マジでお前のお陰だよ。

ありがとうな。油田・・・。


「僕・・・。寂しいですよ・・・。やっぱり。」

急に油田が、メガネを外して泣き始めた。


お前ってば本当にいいヤツね・・・。


「なに泣いてんだよ!バカじゃねーの・・・。」


ヤバイ・・・。

俺も泣きそうになってしまう・・・。


油田に泣かされてしまう・・・。

「だって・・・。だって・・・。」


全く・・・。弟みたいなヤツだな。


俺一人っ子だけどさ・・・。


「また遊びに来るよ!そん時までに、ゲームとマンガ増やしててな!」

そういって俺は、油田と最後の別れを終えた。


退去日の当日は、大家の社員が部屋の点検に来た。


「綺麗に使用して下さって、ありがとうございます。

この状態ですと、敷引きは満額返ってきますよ!」


「そうですか!」

それは有り難い。

俺は今や無職なのである。


ここで敷引きを、多く取られでもしたら・・・。

唯一の心配事がそれであった。

社員が「部屋のカギを貰いますね。」と言った。


303号の部屋のカギ・・・。


最初の頃はこれをドアのカギ穴に差し込むのが

嬉しかったよな・・・。

やっと大人になれた気分だったよ。


俺は303号のカギを渡した。


「なんか少し寂しい感じがするでしょ?」


その社員が訊ねてきた。


「そうですね・・・。」


社員が玄関のドアを開けてくれた。


俺はもう1度だけ振り返って、部屋中を見渡した。


まりあとこの部屋で、最後に会った時の事を思い出した。


目を閉じて心の中で呟いた。


ありがとう・・・。303号・・・。


俺は玄関を出た。


こうして憧れの1人暮らしは、終了したのである。

実家に帰った俺を、おふくろは温かく迎え入れてくれた。


「ただいま」

そう言って俺は、玄関の敷居を跨いだ。


正月にこの玄関を出た時は

まさかこんなに早く戻って来るなんて、思ってもみなかった。


会社を辞めるなんて・・・。

そして・・・まりあと別れるだなんて・・・。


おふくろが俺の顔を見て、最初に掛けてくれた言葉が

「おかえり光輝。今までお疲れ様でした。」

であった。


俺は仕事が忙しい時には、おふくろにも連絡を入れていなかった。


でもおふくろは、理解していたのかも知れないな。

俺がどんな状況だったのかを・・・。


すごいよな。母親ってさ。

おふくろは、俺が会社を辞めた理由を一切聞いてこなかった。


今は聞くべき時ではない。

いつか話してくるだろう・・・息子から。


それがおふくろなりの、気遣いだったに違いない。

俺はそんなおふくろの、気遣いに感謝した。


居間でおふくろが俺にお茶を入れながら言った。

「そうそう。悟くんは・・・。」


ドキッ!悟・・・。


「1人で上手くやっているのかい?」


???


なんのことだ?


俺が不思議な顔をしていると


「あら。知らないのかい?悟君が1人暮らし始めたのを・・・」


全く知らなかった・・・。


悟が俺の部屋を出てからの状況は、全く分からない。


俺と悟は、連絡を一切とっていないのだ。


おふくろは恐らく、悟の母親に聞いたのであろう。


でも俺と悟が、こんな関係になってしまったことを

わざわざおふくろに知らせる必要もない。


言っても悲しむだけである。

「いや。知ってるよ。まぁ器用なヤツだし・・・。大丈夫だよ!」

適当に言葉を濁しておいた。


しかし・・・。意外な情報であった。

悟だって現在は、金に余裕があるわけではないだろう。


それでも出て行く理由・・・。


もしかして・・・。


まりあと暮らしているのか・・・?


ドクン・・・。ドクン・・・。


急に胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

すっかり忘れてた嫉妬心が、再び沸き起こる。


やめろ・・・。嫉妬なんかすんじゃねーよ!

もう元カノじゃねーか!

みっともない感情を出してんじゃねーよ!


しかし理性で感情を押さえ込むのは、非常に困難な作業であった。


まだ・・・。


まだ・・・・・。


一緒に暮らしていると、決まったわけじゃねー!


唯一その方向に、精神安定の活路を見出していた。


あの日から約2ヶ月・・・。


「いつかの答え・・・。もう少し待ってください。」


しかしいくら待っていても

答えを知らす連絡は、未だに来なかった。


もしかして、答えはもう出ているんじゃないのか?


まりあ・・・。

季節は梅雨を終えて、夏・・・。

8月15日。

まりあの誕生日を迎えても、俺の鬱は一向に改善されていなかった。


毎日自室に閉じこもって、ボーッとしている日々。


TVはあまり観なかった。

どうしても、仕事を連想してしまうからだ。


そして・・・。


まりあからの返事も、未だにきていなかった。


「終戦まりあ記念日か・・・。」


去年は楽しかったよな。


8月15日・・・。


色紙のリングなんか作っちゃって


でも、主役が来ないんだよ。


笑っちゃうぜ。

それを知らずに、油田と渡辺はケーキとチキンを買ってくるしさ。


しかも油田は

アリ伝説DXとかいう、不気味なプレゼント用意してんの。



・・・・・・・・・。



あの日だよな・・・。


俺とまりあが付き合った日も・・・。


もう1年も経っちゃった。


たった1年で、廃人になっちゃった。


まりあ・・・。


21歳の誕生日おめでとう。


俺は心の中で、まりあの誕生日を祝った。

鬱病というのは、本当に恐ろしい。


焦れば焦るほど、仕事が出来ない。


おふくろに心配を掛けたくない!

そう強く思えば思うほど、仕事が出来ない。


早々に病院へ行けばいいのだが

おふくろの悲しむ姿を想像して行けない。


まさに地獄の、無限ループである。


そんな俺を、おふくろは何も言わずに

ただ見守っていてくれた。

カレンダーは、9月半ばに入っていた。


部屋の窓を開けると、秋の香りが漂っていた。


それは、いつかまりあに教えてもらった

キンモクセイの香りだった。


俺が感傷的になっていた

その時、携帯がブルブルと振動した。


着信だ!誰だろう?


携帯画面に表示されているその文字は


「川田さん」であった。


すごい早さで、脈打つのが分かる。

心臓がバクバクする・・・。


川田さんが・・・。なんで?


俺は不義理なことに、会社を辞めてから

川田さんに一切連絡をしていなかった。


申し訳ない気持ちはあるのだが

どうしても連絡が出来なかった。


仕事関係の人間と話をすることを

心が頑なに拒否していた。


俺は迷った。


出るべきか・・・?

逃げるべききか・・・?

俺はソロソロと携帯を手に取って、受話ボタンを押した。


心の奥底にしまい込まれていた

「師匠への感謝の念」が俺の心を動かした。


この人からは・・・。


この人だけは・・・・・・。


逃げちゃいけないんだ!


「も・・・もしもし」


声が震えている。


退社後、仕事関係の人間と話をするのは

渡辺以外で、これが初めてであった。


激務を抱えていた時の情景が頭をよぎる。


「おー!二宮。俺だよ」


久しぶりに聞く川田さんの声。

いつもと変わらず、陽気なその声・・・。


「川田さん!その節は申し訳ありませんでしたっ!!」


俺は川田さんに謝った。

しかし川田さんは、とぼけた声で

「なにが~??」

と言っている。


「お世話になった、川田さんに対して

会社を辞めた報告を怠ってしまい、誠に申し訳ありませんでした。」


俺は携帯を握りしめながら、頭を下げていた。


川田さんは数秒間、考え込むように間を取ると。

「報告なんかいらないよ。だって俺、あの会社の人間じゃねーもん。」

と言った。


「そんなことより・・・」

川田さんが続けて言葉を発する。


「お前の有給は、もう終わりだよ!」


???


俺は会社を辞めたんだ。

有給休暇をとっていたわけじゃない。


「明日から出勤な!俺の事務所に。」


川田さん・・・。

「でも・・・でも俺・・・。映像の仕事は・・・。」


俺の心の中で根付いてしまった鬱が

川田さんの温情を、突っぱねようとする。


川田さんは、そんな俺の鬱もお構いなしに

「バカヤロー。

お前なんかに恐ろしくて、映像の仕事なんかさせられるかよ。」


それじゃなぜ・・・?


「お前の仕事は、今も昔も俺とキャバ行くことだろが!」


涙が溢れてきた。

心の奥底に眠っていた、熱い感情が沸々と湧き上がってくる。


「ぅぅぅっっ・・・。分かりました。

明日・・・。事務所に行かせていただきます・・・。」


ずっとずっと、真っ暗闇の中、1人彷徨っていた俺。

そんな俺に、僅かな光が差し込んできた瞬間であった。

次の日、俺は川田さんの事務所に出掛けて行った。


家を出る時、おふくろに声を掛けた。

「おふくろ。ちょっと出てくるね。」


「どこに行くんだい?」

数ヶ月間、家から一歩も出なかった俺に対して

おふくろは、少し驚いた表情を見せた。


「んーー。仕事」

俺はそう答えた。


そんな俺の言葉に対して、おふくろは少し嬉しそうに

「そうかい。気をつけて行っておいで!」

と言って俺を送り出してくれた。


地面を踏みしめるのにも違和感があった。

そして外の空気がやけに新鮮である。


川田さんの事務所まで、電車を乗り継ぐ。

電車に揺られていることが、日常とかけ離れた行為に思えた。


「ここか・・・。」

川田さんの事務所の場所は、以前に聞いていた。

しかし訪ねるのは、初めてであった。


久しぶりに会う川田さん。

どんな顔をして会えばいいのだろう?


俺は少し緊張していた。


「失礼します。」そう言って俺は事務所のドアを開けた。

少し狭いが、小奇麗な事務所であった。


その1番奥で、川田さんはパソコンに向かって

なにやら作業をしている様子だ。


俺に気づいた川田さんは

「おう!二宮~~。久しぶりだな!」

そう言って俺に近づいて来た。


「あ・・・。川田さん。お仕事続けて下さい!」

俺は慌ててそう言った。


「そうか?すまんな。ちょっと急ぎの仕事があってなぁ。

ちょっと待っててくれや。適当にその辺に座っててくれ。」

そう言って川田さんは、デスクに戻って仕事を再開した。


俺は近くのデスクに座って、川田さんが仕事を終えるのを待った。

そのデスクには、ある番組の台本が置かれていた。


その台本を手に取って、そっと中身を見た。

台本なんて、何ヶ月ぶりに見るんだろう・・・。


一瞬、強烈な吐き気がした。

まだダメだ!心が映像業界を強く拒否しているのが分かる。

その時川田さんが、パソコン画面を見ながら話しかけてきた。

「ったくよぉ。毎日毎日忙しくって嫌になるぜ・・・。」


「は・・・はい・・・。」


「金が貯まって仕方ないんだわ。こう仕事が忙しいとよ・・・。」


「・・・・・・。」


「ちょっとは貧乏な青年に分けてやらねーとなぁ。金」


川田さん・・・。


嘘だ。そんな余裕がある訳がない。

会社を興したのだって最近である。


いくら今までの地盤があるとはいえ

金に余裕があるはずはない。


今だって会社を軌道に乗せるために

安くてやりたくもない仕事をやっているに違いない。


「おっしゃ!!終わったぜーーー!!ちょっと早いけど飲みいくぞ!!」


川田さんは、俺を連れ出して飲み屋に向かった。


最後には潰されてしまったけど

仕事が俺に残してくれた財産は、川田さんだったんだ。


仕事がこの人に引き合わせてくれた運命に、俺は感謝した。

その日から俺は、毎日川田さんの事務所に顔を出した。

時間はフレックス制である。


川田さんは、いかにも会社くさいルールを作るのが

大嫌いな人であった。


やることが無いなら来るな!

あるなら徹夜でもなんでもしろ!


実に分かり易い。


1ヶ月の間

川田さんは俺に、一切映像の仕事はさせなかった。


その代わり俺を連れて、毎晩飲みに繰り出した。


よく毎晩、体がもつな・・・。

大丈夫か?川田さん・・・。


俺が川田さんの体を、心配するほどであった。


しかしこの人にとって、酒は栄養ドリンクみたいな物だ。

飲めば飲むほど、疲れが取れるらしい。


そんな俺に、川田さんは給料までくれた。

しかもそれは、前の会社と同額の給料である。


俺は情けなかった・・・。


なにか川田さんの役に立ちたかった。

しかしどうしても、映像の仕事だけは出来ない。


そこで俺は昼間事務所に行くと、コピーや掃除、お茶汲みなどをした。

まるでOLのようだ。


これが俺なりに出来る、精一杯の仕事であった。


悔しいが・・・。

10月末のある日。

俺は事務所に飾ってある、お花の水変えをしていた。


「二宮~。ちょっと来い。」

川田さんに呼ばれた。


「はい。なんですか?」


「いま非常につまらん仕事を抱えて困っている。」


「はぁ・・・。」


「バカなカップルが、披露宴で上演するVを作りたいそうだ。」



川田さんの話のでは、新婚カップルが

安室奈美恵の CAN YOU CELEBRATE? をBGMにして

ドラマを作りたいそうだ。


内容は2人が出会って、遊園地でデートをして

最後は抱き合って終わる。


それを披露宴で上映して、来賓者の笑いを取りたいらしい。


正気の沙汰とは思えない、バカバカしい仕事である。

「俺はさぁー。一流のDじゃん?だからこんな仕事できないわけよ。分かる?」


「は・・・はぁ。」


「お前がやってくれたら・・・。助かるんだわ。」


川田さんの目を見る。

冗談っぽく話しているが、その目はマジである。


戻ってこい!

こっち側に戻ってこい!二宮!!


川田さんの目が、俺にそう訴えかけてきていた。


俺は腹をくくった!


「分かりました。やらせて下さい!その仕事。」


これが俺の転機となった。

次の日、俺と川田さんは

依頼主のカップルとの、打ち合わせに出掛けた。


依頼主の要望を聞く。


なるほど・・・。


早速、脳内で映像を想像して、組み立ててみる。

実にバカバカしい構成だが、少し面白そうである。


面白い・・・。


なんだこの感情は・・・?


映像を面白いと思っている自分がいた。


こんな感覚はいつ振りだろう・・・?


その時、川田さんが俺に聞いてきた。


「どうだ?二宮は何か意見があるか?」


こうすればもっと面白くなる!


こうすればもっとバカバカしくなる!


俺は一瞬で考えた演出プランを、依頼主に伝えた。


依頼主も俺の話を聞いて、笑いながら乗ってきた。

旦那は大喜びである。

「それはいいですねー。爆笑とれるぞ!」


奥さんも

「でも恥ずかしいよー!」等と言っているが

まんざらでも無さそうだ。


俺は打ち合わせを終えると

事務所に帰って、構成を練り直した。


それを書面にして行く。


番組やVPと比べれば、本当に小さな仕事だ。


でも構成を考えている俺は、仕事を楽しんでいた。


少しでも依頼主に、喜んでもらいたい!

少しでも披露宴にやって来た、客を笑わせたい!


それが俺のモチベーションになっていた。


それからは毎日、夜中まで残って

夢中で台本を作った。


本来ならこんな台本は、3時間もあれば出来る。


しかし俺は、丁寧に丁寧に台本を書いていった。

川田さんが「二宮ーーー!!飲みくり出すぞ!!」と誘っても

俺は「すみません。台本書かせて下さい!」と言って断った。


川田さんは「寂ちぃぃぃ・・・。」と言って、事務所から出て行った。


この仕事だ!!


この仕事で俺は・・・。


もう一度、再起するんだ!!


俺の決意は、確固たるものになっていた。

披露宴会場の、照明がスッと落ちた。

いままで歓談を楽しんでいた、お客さんが黙り込む・・・。


俺の再起を賭けた作品が、スクリーンに映し出された。


たった40人程度の、視聴者しかいない。

番組とは、比べ物にならない少なさである。


俺は付き添ってくれた、川田さんと

会場の1番奥で、その光景を静かに見守っていた。


Vが進むに連れて、会場からは笑い声が出てきた。


あちこちから新郎新婦に対して、冷やかしの言葉が飛ぶ。

その度に、恥ずかしそうに笑う新郎新婦。


番組では視聴者の反応を、目の前で見ることは出来ない。


みんなが俺の創った映像で笑っている・・・。

それってこんなに、素晴らしいことなんだ・・・。

人に何かを伝えたくて入った、映像業界。


俺の映像は、たった40人の視聴者だけど


そのたった40人の視聴者に対して、確実に何かを伝えている。


クライマックスで、大爆笑が起きた。


それをきっかけにして、場内が明るくなった。

会場スタッフがスクリーンを片付け始める。


俺の再起作は、幕を閉じた。


その時、川田が言った。

「どうだ?二宮。映像っておもしれーだろ?」


俺はジッと正面をと見据えて言った。

「はい・・・。すごく面白いです!」

—————————————————

最終章 まりあへ


2007年の正月1通の年賀状が来た。

その年賀状には可愛い文字でこう書かれていた。


「明けましておめでとうございます。来年悟くんと結婚します。」


この年賀状の差出人は俺の元カノまりあだ。


その端には、小さな字でこう書かれていた。


「式は10月の予定です・・・。これがあの日の答えです。」


俺は自宅のポストから取り出した、その年賀状を鞄に入れて駅へ走って行った。


1月5日。今日は仕事初めである。

旧住所から転送されてきた、その年賀状は律儀に俺の実家へ届いた。

そっか・・・。


結婚か・・・。


大学を卒業して、すぐに結婚するだなんて

それくらい悟が好きなんだな・・・。


まりあ・・・。悟・・・。


結婚おめでとう!


俺も頑張るからな!


やっと仕事が出来るようになったんだ。


小さい仕事だけど


少しずつ・・・。


少しずつ・・・・・。


俺の中で映像を創りたい!っていう気持ちが、沸き起こってきてるんだ!


俺はやっぱり映像が好きなんだ!

あの日の、披露宴のVを境にして

俺は徐々に、映像の仕事へ復帰していった。


川田さんも、俺の精神状態を見極めつつ

俺に出来そうな、仕事を割り振ってくれた。


立ち直るのには、何度も葛藤があったけど

その度に川田さんが、俺を支えてくれた。


そしておふくろが、俺を支えてくれた。


俺の実家と、悟の実家は近所である。


さすがに正月くらいは、顔を会わす覚悟をしていたが・・・。


向こうが俺を避けているのか

ニアミスなのか・・・?


悟と会うことは、全くなかった。


春には、俺はほぼ元通りの姿に戻っていた。

2007年こそが、本当に勝負の年である。

俺は必死になって仕事をした。


しかし過去の教訓を生かして

オーバーワークにだけは気をつけた。


自分のキャパシティを知ろう!

それが社会人として

俺が学ぶべき、最初の仕事なのかもしれない。


8月15日

3度目の終戦まりあ記念日も、俺は仕事をしていた。


川田さんや、他のスタッフは、お盆休みを取っていた。


俺も特に仕事は無かったが、出社していた。

なぜかこの日だけは、家にいたくなかったのだ。


会社の窓から、夕暮れを見つめながら思った。


まりあ・・・。22歳の誕生日おめでとう!

俺と初めて出会った時、まりあはまだ19歳だったよな・・・。


もう随分と、時間が経ってしまったね。

その時、まりあが昔俺に教えてくれた、将来の夢を思い出した。


「光輝くん。私ってどんな仕事が向いていると思う?」


「うーん。カレー屋かな?やっぱり」

俺は冗談でそう答えた。


まりあは少し、すねた感じで

「カレー屋さんはバイトで十分です!私ね・・・。保母さんになりたいの」


そうか・・・。

まりあは子供が好きそうであった。

いかにもまりあらしい仕事である。


「夢が叶うといいね。」


「うん。私がんばるよ!!」

その時の、まりあの笑顔を思い出す。


夢が叶うといいな。


悟・・・。まりあを大切にしてやってくれ。

俺の何倍も何十倍もな!



終戦まりあ記念日を

心の中でお祝いするのは、今年で最後だ!


最後にするね・・・。まりあ・・・。


俺は自分のデスクに戻って、仕事を再開した。

この年は、俺にとっても必死であったが

みんなも必死で、生きていた。


川田さんは会社を大きくするために、必死で営業をした。

プライドが高いあの川田さんが、仕事欲しさに頭を下げまくっていた。


渡辺も必死であった。

カメラマンになるために、休みもろくに取らず仕事をしていた。

俺は過去の自分の経験から、内心ドキドキしながら応援した。


そして油田も必死だった。

就職活動でクタクタになっている様子である。

たまに俺に電話をしてきては、泣き言をほざいていた。


それでも就職は決まらなかった。

少し高望みしすぎじゃないか?お前は・・・。


まりあと悟の状況は、全く分からなかった。


それでも、油田と渡辺も

まりあと悟が、結婚することは知っていた。


まりあは、あの2人にも年賀状で知らせたようだ。


その年は、すごい早さで過ぎていった。

そして今年。


今年は、まりあからの年賀状が届くことはなかった。


きっと悟と2人で幸せにしているさ・・・。


おふくろは俺と悟が、こんな関係になってしまったことを

薄々感づいている様子だ。


悟に関する話題は、一切振ってこなかった。


俺はもう平気なんだけどね・・・。


いまバッタリ悟に会ったとしても

「おう!元気にしてた?」と声を掛ける自信がある。


俺は今年の正月。

意味もなく、悟の実家の前をブラブラしていた。


今年は実家に、帰っているかも・・・?


どうせいつか会うのだ。

こんなに実家が近いんのだ。

それなら早く顔を会わせてしまった方が楽になる。


しかし今年の正月も、悟に会うことは無かった。

悟はまだ、俺に会いたくないのかも知れないな。


今年は、飛躍の年にしよう!

去年は、転機の年だった。


川田さんと頑張って、事務所を少しでも大きくしよう!

俺は仕事に燃えていた。


俺はこの時、まだ気づいていなかった。


今年にも大きな、転機が訪れることを・・・。


俺とまりあに、大きな転機が訪れることを・・・。

3月になった。


春のポカポカとした、日差しが心地いい。

俺は駅のホームで、電車を待っていた。


納品の帰りである。

この後は、事務所に戻って、川田さんと合流をして

新しい仕事の、打ち合わせに出かける。


川田さんが会社興してから、その仕事は今までで1番大きな仕事になる。

俺と川田さんが、2人で演出をするのだ。


ディレクターと、ADの関係では無く

初めて対等な立場として、同じ舞台に立つ。


失敗は許されない!

今までの経験を、全て出し切るんだ!


その時、俺の携帯が鳴った。


油田である。


俺は電話に出た。

「もしもし。あぶちゃん。久しぶり~!」


「二宮さん!僕、今日卒業式だったんです!!」


「あっそ。おめでとさん。就職決まった?」


「就職浪人です・・・。いや!そんなことより!!!」


「なんだよ。なに興奮してんの?」


「今日卒業式で、まりあちゃんと、久しぶりに会ったんです!!」


まりあ・・・。


「彼女・・・。結婚取りやめたみたいですよ!!!」


え・・・。


結婚取りやめ・・・?


なんで・・・・・・?


「おい!油田!!理由はなんだ!?理由は!!??」


その時、ホームに電車が入ってきた。


クソッ!!うるさくて電話の音が聞き取れない!!

「それは・・・よく・・・分からない・・・んです。」


「ごめん油田!!電話切るね!!」


なんだ・・・?


一体どういうことなんだ・・・?


去年の正月から・・・。1年と3ヶ月・・・。


この間に、まりあと悟に何があったんだ・・・??


分からない・・・。


俺には全然分からない・・・。


いくら考えても想像がつかない・・・。


俺は再び携帯を握った。


このアドレスにメールを送るのは・・・。約2年ぶりだ。


まりあ・・・。


俺は、まりあにメールを送った。


「油田に聞きました!結婚取りやめの話。理由を教えて下さい!」


俺は駅の階段を、駆け下りた。


ここだと万一、電話が掛かってきた時にうるさい。


改札を飛び出し、少し静かなところで返信を待った。

まりあ・・・。


なんでなんだ??


悟となにがあったんだ??


電話でもメールでもいいから、返事をして来い!!


その瞬間、俺の携帯がピカピカと光った。


携帯の画面を見る。


「まりあ」


俺は慌てて、本文を見た。


意外な文章が、俺の目に飛び込んできた!


「勝手でごめんなさい。。。光輝くんに会いたいです。。。」


会いたい・・・??俺と・・・??


なんだ??


なにがあったんだ???


俺はすぐに、メールを返した。


「とりあえず、何があったのか教えて下さい!!」


今度の返信は、すぐに来た。


「光輝くんにとても会いたいです。。。待ってます。。。」


話にならない。


俺は電話に切り替えた。

しかし、いくら電話を掛けても全く出ない。


またしても、メールに切り替えた。


「どこで待ってますか?場所を教えて下さい!」


送信して5分以上が経過した。


しかし返信が来ない。


ちくしょーーー!!!


会社に戻らなければいけないんだよ。


今日は川田さんと、大切な打ち合わせに出かけるんだよ!!


理由だけでも知りたい!!


・・・・・・・・。


もうこの方法しか、残っていない!!


悟だ・・・。


アイツに聞くしかない!!


俺は悟の番号に、電話を掛けた。

しかしコール音は、鳴るものの

こっちも全く、電話には出ない。


俺は何度も掛け直した。


時間がねーんだよっ!!頼むから出てくれよっ!!


そして10回くらい掛け直してやっと


ガチャ・・・。

という音がした。


出た!!!


悟が電話に出た!!


「俺だ!!光輝だ!!」


悟は少し暗い声で

「ああ・・・。久しぶりだな」と言った。


そんな挨拶などどうでも良い。


「結婚が中止になったって聞いた。理由はなんなんだ?」

俺も若干、声のトーンを抑えた。

冷静に話そう・・・。冷静に・・・。


しかし悟は

そんな俺の言葉を、無視するかのように黙りこんだ。


時間が無いんだよ!!早く答えてくれ!!


「頼む悟・・・。教えてくれ・・・。」


俺は静かにそう呼びかけた。

「お前がまりあを・・・。振ったのか・・・??悟・・・。」


「・・・そうだ。」

やっと反応があった。


「なぜだ?まりあが好きなんだろ?なぜなんだ?教えてくれ・・・。」


俺は次の悟の、言葉を静かに待った。

話出すまで待つしかない様子だ。


「信用出来なくなった・・・。」

悟の声は更に暗くなっていた。


こんな悟の声は、今までに聞いたことが無い。


「どういうことなんだ?」

俺は更に問い詰めた。


「俺と彼女が付き合ってから・・・。

どれくらい経ったと思う・・・??」

俺に質問返しをしてきた。


知るか!!そんなこと!!


悟が次の言葉を吐き出した。


「甘やかしてくれないんだよ・・・。彼女・・・。」


え・・・??


そんな・・・理由で・・・。


そんな理由・・・なのか・・・??


結婚を取りやめる理由が・・・。


まさかそれなのか・・・?


頭の血管が、切れそうになった。

「結婚するまでダメだってさ・・・。笑っちゃうだろ・・・?」


・・・・・・・。


バカなのか??テメーは??


笑えるわけがねーーーーだろがぁぁぁぁーーーー!!


そんなクソみたいな理由で、結婚中止ってか!!??


あんまりザケたこと、抜かしてんじゃねーーーぞ!!!


完全にやんちゃ時代の、俺に戻っていた。


「やっぱりテメーは、あん時ブチ殺すべきだったな・・・。」

俺は怒りに震える声でそう言った。


コイツはもう親友では無い。


「・・・・・・・・。」

悟が黙り込む。


「おいコラ!!テメー!!反応しろや!!」

こんな言葉がまだ出てくるなんて・・・。自分でもかなり驚いた。


もう何を言っても、悟は反応しなかった。


こんなヤツ相手にしていても仕方がない。


「テメー今度、実家に帰ってくる時は気ぃつけろや・・・。

うっかり俺に会ったら、半殺しにしてくれんぞ!」


そう言って電話を切った。

電話を切った後

メールセンターへ

新着メールが届いていないか、アクセスしてみた。


「新着メールはありません」の文字。


会いたいって言われても、どこに行けばいいんだよ!!


俺はこの後、大事な打ち合わせがあるんだよ・・・。


打ち合わせ・・・。


仕事と・・・。まりあ・・・。


またこの2つを天秤に掛けるのか・・・??


汗が出てくる。


まりあは心配である・・・。


でも今日の仕事は・・・。打ち合わせは・・・。

今までで1番大きな仕事なんだ・・・。


川田さんは以前、俺にこう言った。

「色恋沙汰ごときで、仕事をおろそかにしたら、許さない!」


もし俺がここで、まりあを選択したら。

俺こそ川田さんに、半殺しにされる・・・。


いや。そんなことで済めばまだいい。


ここでまりあを選択すれば

せっかく復帰したのに、もう映像の仕事ができないかもしれない・・・。

廃人からここまで立ち直るのに、どんだけ苦労をしたんだよ!!

師匠であり恩人である川田さんに、迷惑を掛けることができるかよ!!


2年前のあの時と同じで、仕事を選択すればいいんだよ!!


まりあはもう、元カノなんだよ!!

まりあもう、他人なんだよ!!


チクショーーーーー!!!!!!!!!!!!!!


俺は携帯を握りしめた。


そして電話を掛けた。


川田さんに!!


手が震えた・・・。


まりあや悟に、電話をするのと訳が違う・・・。


でも・・・。


やっぱり・・・。


やっぱり・・・。


やっぱりまりあが心配なんだ!!


俺は川田さんの、携帯へ電話を掛けた。

川田さんは、すぐに電話へ出た。


「おう!二宮。今どこだ~?」


俺は大きく息を、吸い込んだ。


「川田さん・・・。申し訳ありません・・・。」

もう後戻りは、出来ない。


「打ち合わせは・・・。川田さん1人で行ってもえらないでしょうか・・・?」

川田さんの反応がない・・・。


切れているのか・・・?

そりゃ切れて当然のことを、俺はいま言っている・・・。


「なんでだ?」

川田さんの声が、急に怖くなった。


俺は奥歯を噛み締めた・・・。

そして言った。


「申し訳ありません・・・。色恋沙汰です・・・。」


別にまりあと、ヨリを戻したいわけではない

でもこれは立派な、色恋沙汰であろう。


川田さんは

「二宮よぉ・・・」と低い声を出した。


獣が唸り上げるような声だ。

「すみません・・・。行かせて下さい。」

俺は静かな声で、もう1度お願いした。


川田さんの、反応を待った。

「二宮・・・。お前は急に、別の仕事が入ったんだ・・・。」


???


「今度局Pに会った時にはそう言え。ちゃんと口裏合わせろよ」


「ありがとうございます!!」

そう言って俺は川田さんの電話を切った。


ありがとうございます・・・。川田さん・・・。


まりあが待っている場所は分からない。

でもとにかく電車に乗り込んだ。


俺の冷静な部分が

「なにバカみたいなことやってんだ?ドラマじゃねーんだぞ」と訴えかけてくる。


しかしもう仕事は、断ってしまった。

こうなればせめて、まりあに会いたい。


会ってなにができるだろう?


全く何も分からない。

でも行くしかないよな・・・。


俺は電車に乗っている間も

まりあにメールを入れ続けた。


「場所を教えて下さい!」


同じ文章を、何度も何度も・・・。


しかし返信は来ない。

最悪の事態が、脳裏をよぎった。


まさか・・・。それはないよな・・・。


俺はマンションのある駅に降り立った。

そう・・・。

俺とまりあが出会った、あのマンションだ。


まりあが待っているとしたら、もうこの場所しか思いつかなかった。


これでもし、まりあが待っていなかったら

ピエロすぎて、笑い死ぬぜ!


辺りはそろそろ、暗くなり始めていた。

俺はマンションまで、全力で走った。


途中で、まりあがバイトをしていたカレー屋が出てきた。

一応外から確認してみる。


もしここでまりあが

カレーを食べていたら驚きだが、それはなかった。

川が見えた、まりあと最初にデートをした

俺が大好きな川だ。


川辺を見ても、ここからでは暗くてよく確認ができない。


俺は下に降りてみた。


マンション以外だと、次に有力なのがここである。


まりあとおにぎりを、食べた辺りを探してみる。

しかしここにも、まりあの姿は無かった。


もうマンションしかない!!


俺はまた走り出した。


俺はアホだ・・・。


何やってんだ・・・。


まりあがいるわけないじゃん・・・。


ここでまりあがいるのは、ドラマの世界なんだよ・・・。


でもさ・・・。


でもさ・・・・・・。


もう後悔したくないじゃん・・・。


あの時みたいにさ・・・。


だって・・・。


だって・・・・・。


俺やっぱり、まりあが好きだもん!!


もう自分の感情に、嘘がつけなかった。


未練タラタラのみっともない男ですよ!!


俺は・・・・。


それでも、まりあ好きなんだから、仕方ないじゃんよぉぉぉぉーーーー!!!!

俺はマンションに到着した。


この場所に来るのも、約2年ぶりだ。


俺はマンションの前で、まりあの姿を探した。


しかしどこにも、まりあはいなかった。


俺はマンションを見上げた。

妙に懐かしい気分が、込み上げてきた。


目を閉じてみる・・・。


色々な思い出が、次々と蘇ってきた。


まりあと初めて出会った日のこと。


油田と3人で、カレーを食べたこと。


まりあの部屋で

俺のディレクターデビュー作を観たこと。


渡辺が引越してきた日のこと。


終戦まりあ記念日のこと。


まりあへ告白したこと。


まりあと初めてキスしたこと。


悟と3人での夕飯を食べたこと。


まりあと初めて、一線を越えた夜のこと。


そして最後に、303号を出た日のこと。


全部・・・。全部・・・。


ここから始まって、ここで終わったんだ・・・。

俺はエレベーターホールに入った。


エレベーターに乗り込んで、3階のボタンを押した。


なんだか久しぶりだよな。


このエレベーターも・・・。


3階フロアに到着した。


もうここしかないよ。


ここにいなければ諦めるよ・・・。


エレベーターを降りて、部屋がある廊下に出た。


302号室の前・・・。


袴姿の女の子が立っていた。


俺の住んでいた、303号の方を向いている。


後ろ姿だが、間違いない。



まりあだ・・・。



そうか今日は卒業式だったよな・・・。


「まりあ・・・。」


俺はその後姿に、声を掛けた。


まりあがそっとこっちを振り向いた。


「光輝くん・・・。」


「来ちゃった・・・。多分ここしか無いかなって・・・。」


まりあは俺の顔をジッと見つめて


「ありがとう・・・。光輝くん・・・。」と呟いた。


「俺やっぱり無理みたい。まだまりあのこと好きみたい・・・。」


もうバレてるよね。普通にさ・・・。


まりあの目から、涙がこぼれ落ちた。

「ごめんね・・・。光輝くん・・・。」


もう・・・。ね・・・。

ごめん。我慢できなよ。


「やっぱり、まりあが好きなんだよ」

今度はハッキリとそう言った。


いいのか・・・。

抱き寄せていいのか・・・。

いや・・・。抱き寄せるべきなのか・・・?


分からない・・・。


でも体が勝手に、行動を起こしていた。


俺はまりあを、抱き寄せた。


まりあが俺の胸の中で泣いている。


「私もね・・・。光輝くん・・・。」


「うん・・・。」


「やっぱり光輝くんが好き・・・でした・・・。」


なんかちょっとだけ分かっていたかも・・・。

悟の電話で話した時に・・・。


一緒にいようぜ・・・。


これからは・・・。


ずっと・・・。


一緒にいようぜ・・・。


「これからは、何があっても一緒にいようぜ!」


そう言って、もう一度強くまりあを抱きしめた。


まりあは小さな声で

「はい・・・」と呟いた。


窓辺の隣人、恋の隣人


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窓辺の隣人、心の隣人 石崎あずさ @kinntarou0413

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