後編-4-

 あのときの投稿が思い出された。

 動かない体とは裏腹に頭だけは動く。いや、正確には思考の暴走だ。まるで空き巣に入ったかのように自分で自分の頭の中の引き出しを無作為に開けては、引っ張り出し、散らかしていく。


 エスポワール書房……夢カタルの作品を扱っていた……何で? いや、小説家として過去の作品に興味を――いや、取り扱っているジャンルが違いすぎる。あそこはファンタジーをばかりを扱っていて、俺の作品に興味を持つことなんて……では、何故? 受賞式を見て? 俺の姿を見て? 何か知っている? 何か知られている? アイは関係なかった? いや――


「……リークされたんだ」

「え? 何か言いました?」


 俺のか細い呟きを聞き取れなかった担当者が聞き返すが、俺はそれどころではない。

 そうだ、きっとそうだ。アイはダイレクトメールやコメントによる返信ではなく、夢カタルを探している出版社に情報をリークすることで俺を追い詰めて、小説家としての人生を終わらせようとしてるんだ。

 脅して何かを得ようなんて考えていない。ただ、俺を潰しに――だったら、警察に連絡した方が早くないか――馬鹿野郎、相手は最終的に俺を潰せれば良い。ただその過程を楽しんでいるんだ。何かを得たいなら接触してきたはずなのに、それをしなかった。脅してくると信じ込んで相手からの連絡を待つなんて、なんて甘い考えだ。

 アイは俺を潰せれば良いんだ。それは警察に言えばもっと早く、そして、確実に出来ることなのに、ただ長く苦しめて楽しむ為だけに――あぁ、なんて酷いんだ。なんて惨いんだ。

 あんなくだらない小説を書く夢カタルを一人殺しただけで、何でここまで酷く、惨いことが出来るんだ? 人の心はないのか?

 ここから、やっとここから俺は小説家として歩きだせるのに。世の人々を楽しませ、感嘆させる作品を生み出すことが出来るのに――


「大丈夫ですか? 顔色が悪いように見えますけど……」


 俺の顔を覗き込む担当者と目が合うと、びくりと反応し、何処かにさまよっていた思考が現実へと引き戻された。


「だ、大丈夫です。い、いや、やっぱり、ちょ、ちょっと体調が悪いみたいで、その、失礼します」


 俺は言葉を激しく振るわしながらも、一方的にそう言い切ると走って逃げ出した。


「あ、先生!」


 その声を置き去りにするように、俺は担当者に背を向けて一心不乱に走る。しかし、


「先生! ちょっと待ってください、先生!」


 担当者が俺を追ってくる。

 何故だ? 何故、追ってくる?

 あぁ、そうか。この担当者もグルだったんだ。俺に甘いことを囁いて、油断させて、夢カタルを殺害した犯人を捕まえようとしてるんだ。クソッ!

 俺は走り、階段を駆け下り、ロビーを走り抜けようとした。そのときだ。


「お、尾上くん、その人を捕まえて!」


 担当者の声が少し後ろから聞こえた。俺は無我夢中でロビーを駆け抜けて、出入口までくると近くにあったソファに座っていた一人の男性が立ち上がるのが見えた。




「うん、うん。こっちも今終わったから。じゃあ、ロビーで待ってて」




 そういえば、担当者は先程の電話でそう言っていた。ということは、今の男が――


「ひぃ、ひぃぃ」


 俺は急いで出版社を飛び出した。ようやく外に出ることが出来た俺は真っ直ぐ走り続ける。


「待て!」


 野太い男の声が聞こえた。少し振り返ると、ロビーにいた男が追いかけて来ている。若く、体も鍛えているようで体格が良く、着ているスーツもぴちっとしていた。

 あれ? でも、どこかで見たような――いや、そんなことはどうでもいい。このままじゃ追いつかれる。こっちは元々体調が優れなかったこともあり、心臓が爆発しそうなぐらいに暴れている。ねっとりとした汗も出てきて、息も切れて、吐き気もしてきた。口の中は唾液で溢れていて、既に零しながら走っている。そんな人間と若い男の追いかけっこなんて勝敗は目に見えていた。だが、諦めるわけにはいかない。逃げ切らないといけない。俺は少しでも距離を稼ぐために角を曲がる、曲がる、曲がる。

 だけど、足音と男の気配は確実に近づいているのがわかった。

 そして――


「待ってくださいって!」


 男の掌が力強く、俺の肩を掴んだ。


「ひぃぃぃ!」


 俺は半狂乱状態で、暴れる。


「ちょっと、落ち着いて。落ち着いてくださいって」


 男が何か言っているが、気にしてられない。暴れて、暴れて、相手の手を振り解こうとする。


「うわ!」


 暴れた手が相手の目に当たった。掴んでいた手が緩まるのを感じると、体をひねり、振り解く。


 離れた! 逃げろ! 何処に? 何処でもいい!


 俺の視界は疲労か、それとも精神状態が異常になっていたのか、どちらかのせいで霞んでいた。だから、正確な方向はわからないが男から離れる為に走り出した。


 逃げろ、逃げろ、逃げろ!


 俺は走った。だけど、


「危ない!」


 その声とガシャン、という音と女性の短い悲鳴が聞こえた――と同時に、俺の体は真横からの衝撃に跳ねられ、地面を転がった。

 痛い、何だ? 痛い。ゆっくり、体を起こすと自転車が横転している。その横にはスーパーの袋とその中に入っていた野菜。あと、女性も倒れている。ここは歩道だ。俺は悪くない。いや、そんなことより、逃げないと。

 そんな俺に影が覆い被さる。見上げると――あの男が立っている。彼は俺に手を近づけてくる。大きな手が迫ってくる。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 終わる、終わる、終わる。叫べ、叫べ、叫べ。出来ることを、ミステリー小説家として生きていく為に出来ることを。あぁ……あぁ……あぁ……


「大丈夫ですか? 夢カタル先生!」


 男がその名前を俺に向かって呼んだとき、目の前の視界が真っ暗になって意識を失った。

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