給料日夜話

守谷愛作

給料日夜話

         一、戯れ



 現場からの帰り道、島岡工務店のワゴン車の中では疲れた男たちが四人、ぐったりと座席にうずくまっていた。ただそんな中、後部座席にただ一人、松田と言う男だけは少し浮かれ気味に見えた。

「松ちゃん、なんかうれしそうですね?」

 隣に座る田島博史が、気になって声をかけた。

 田島たちの仕事はいわゆる型枠大工と言われるもので、鉄筋コンクリートの建物の建築の際に、コンクリートを流し込む型枠を組む仕事である。毎朝会社に集合して、会社の車に乗り合わせて現場に向かい、そして夕方仕事が終わると会社に戻り、そこから各自の自宅へ戻るのであった。今は現場の仕事を終えて、会社へ帰る途中なのである。

「田島ちゃんは楽しくないの?今日、給料日でしょ」

 松田は不思議そうに田島に聞き返した。松田は五十半ばの朗らかな男で、言葉にちょっと独特のイントネーションのある話し方をする。田島はまだ四十半ばで、松田には新人の頃から世話になっており、今でも親しい間柄である。

「給料日ねえ…。ちょっと複雑な感じですかねえ」

 田島の声は力がない。

「なに?なんかあるの?俺ら、このために毎日頑張ってるんじゃないの?」

 松田は田島の反応が気になるのか、心配げに聞いてきた。すると、その言葉を待っていたかのように、田島が不機嫌そうに話し始めた。

「だって、給料日って言ってもね?そのほとんどは嫁さんに取られて、俺のところにはホントに僅かな小遣いしか残らないでしょ?なんか虚しくなっちゃうんだよね。頑張って残業したり、休日出勤して給料が増えても、小遣いが増える訳でもないし…」

 それを聞いていたのか、前の座席に座る二人もプッと吹き出した。田島の家族構成は、みんなそれとなく知っている。奥さんと、まだ就学前の娘が一人である。笑ってしまったものの、その二人はまだ独身であるので、結婚も大変なものだぐらいの他人事であった。

「そうか…。お前んとこもそうなのか…」

 ただ一人、松田は違う反応を見せた。真面目な声で、静かに話し始めた。

「いや、うちも最初の頃はそうだったんだよね。でね、それで一度女房に相談したことがあったんだよね。さっきお前が言ったようなことをさ」

 田島は、松田の話の意外さに驚いて、つい松田の顔を見てしまった。

「そしたらね、女房も真剣に聞いてくれてさ、しばらく考え込んだんだよね。そして『ちょっと考えさせて』って言ったんだよね。で、その日はそれで終わったんだけど、何日かしてから言ったんだよ。『じゃあ、こうしましょう』って」

 その言葉に、田島だけではなく前に座る二人も聞き耳を立てた。

「女房が言ったんだ、『では、次の給料日から、もらったお給料はまず最初にあなたが思う存分使ってください』って」

 これにはみんな驚いて、松田の顔に視線を集めた。

「そして、『それからその残りを私に預けてください』って」

「なんですか、それ?」

 田島は思わず聞き返した。すると、松田は嬉しそうににやりと笑った。

「だから、俺は今晩、一人で酒池肉林の豪遊をするんだよ」

 松田の顔は得意満面である。

「え?ずるい!俺も連れて行ってくださいよ!」

 田島の叫びにも似た声に、松田は目を伏せて顔の前で手を振った。

「ダメダメ、二人分なんか出せないよ。俺一人じゃなきゃ」

 そう言う松田の顔は、ちょっと意地悪そうだった。




 カラン!

 松田が入り口のドアを開けると、乾いたドアチャイムの音が響いた。

 ここは、松田が行きつけの店「スナック美咲」。月に一度、もう十五年近く通い詰める店である。

 給料日の夜。それは、松田が唯一財布の中身を気にせずに遊べる日。松田は、この日ために一か月頑張ってきたと言っても過言ではない。

 入り口のドアを開けると、薄暗い店内にはミラーボールの光の玉が走り、そして松田の好きな音楽…昭和の終わりごろの歌謡曲が流れている。

「いらっしゃい。お待ちしてましたよ、松田さん」

 中に入った松田に、女性の優しく落ち着いた声が聞こえた。この店のママ、美咲みさきの声である。

 美咲は、紫のドレスに身を包み、慣れた仕草で松田を席へと誘う。松田は、にやけた笑顔で嬉しそうに誘われるまま席に着いた。

 店は狭い。小さなカウンターに四席と、ソファーのボックス席が一つだけである。

 美咲は、松田と同年代の筈だが、松田よりもはるかに若く見える。最初に合った頃と、ほとんど変わっていないようにも見え、近頃めっきり老け込んできた松田にしてみると、美咲と話している時は二十年前の自分に戻ったような気がして楽しかった。

「ここは、いつ来ても変わらないね」

 ソファーに腰かけた松田が、笑顔で店内を見回しながらそう言うと、美咲はややきつい視線を松田に向けた。

「ま、そこがいいんだけどね」

 松田の笑顔が美咲に向けられると、美咲の顔にも笑みが浮かんだ。

「ママも全然変わらないし…。なんか俺も昔のままの気がする」

「松田さんだって、全然変わってないですよ。いつもお若くて…」

 美咲も、松田の意図を悟ってお世辞を返す。

「そんなことないんだ。俺ももう爺だ。仕事してても全然だめさ」

 そうは言いつつも、若いと言われるとお世辞と分かっていてもい嬉しいものだ。

「それは、私もおばあさんと言うことですか?」

 美咲が、意地悪そうな笑顔を見せながら、松田の隣に座った。

「いやあ、そんなことないよ。ママはいつも若いよ。昔から全然変わらない」

「そうですか?先月いらしたときは、ここには若い娘がいないね?とか言ってたじゃありませんか」

 美咲が水割りを作りながら拗ねたように言った。

「え?俺そんなこと言ったかな?」

「ええ、仰いましたよ。結構酔ってらしたから、つい本音がこぼれたのかもしれませんね」

 美咲が、ちょっときつい眼差しを向けながら、水割りを差し出した。松田は気まずそうにそれを受け取ると、グラスに口を付けた。

―言ったかもしれない―

 松田は、何となく思い出した。酔った拍子に、そんなことを言ったような気がする。

 ただ、それは松田の本心ではなかった。空くまでも酔った拍子の冗談である。松田は、この店も美咲のことも気に入っていた。付き合いが長いせいもあってか、美咲は松田の好みを知り尽くしている。今、口にしている水割りもそうだ。酒の種類、水の割合、氷の量、全て松田の好みに合わせてくれる。つまみの種類や味付けもそうだし、会話の内容もそうだ。松田が嫌いな話題には絶対に触れない。受け答えの内容もタイミングも、松田を心地よくさせてくれる。若い娘もいいが、この心地よさを失いたくない思いの方が強かった。


 カラン!

 突然、入り口のドアが開いた。松田は驚いて入り口を見た。今までこの店で、他の客と顔を合わせたことが無かったからだ。

 そして松田は、更に驚いて息をのんだ。そこには、二十歳前後とみられる若い女性がクリーム色のヒラヒラの多いワンピースを着て、両肩を丸出しにした姿で恥ずかしそうに顔を強張らせて立っているのだ。

「ああ、やっと来た。遅かったじゃない。来ないんじゃないかと思って心配してたんだから」

 美咲が慌てて席を立ち、その女性の所へ向かった。

「今日からここで働くことになった、ミキちゃんです」

 美咲が、女性の手を引いて松田のもとへ向かいながら、そう紹介した。

「先月、松田さんがあんまり言うもんだから、頑張って探したんですよ。今日がお店のデビューですから、可愛がってあげて下さいね」

 松田は、目を見開いて驚愕の表情を表している。

「ミキちゃんは、今年大学に入ったんですよ」

「ああー、そう!」

 美咲の説明に、松田は目を見開いたまま大きくうなずいた。

「うちの娘と一緒だ」

 松田の目は潤んでいる。

「大学生も、いろいろと入り用なんだそうで…、でもあんまり親におねだりするのも申し訳ないって言うから、じゃあうちでアルバイトしてみないかって誘ったんです」

「そうかい、そうかい。ミキちゃんは親孝行だねえ」

 美咲の話を聞きながら、松田は嬉しそうに何度もうなずいた。

「ん?ミキちゃんかー、いい名前だねえ」

 突然、松田がしみじみと漏らした。

「おじさんね、何と言ってもミキちゃんが良かったの」

 松田の突然の話に、ミキも美咲も戸惑った。

「ほかの友達はみんな、ランだ、スーだって騒いでたんだけどね、おじさんだけは誰が何と言ってもミキちゃんだったんだよ。うん、やっぱりミキちゃんが一番だ」

 ミキには何を言われているのか理解しかねたが、それを無視するかのように松田は満足そうに何度もうなずいた。

「じゃあ、おじさん嬉しいから、頑張ってるミキちゃんにお小遣いを上げよう」

 そう言うと、松田は懐から封筒を取り出すと、その封を切り、中から一万円札を引き出した。

 松田は、人差し指と中指の間に挟んだ一万円札を、ミキの顔の前に差し出すと思い留まるかのように、一瞬動きを止めた。しかしすぐにそれを、ミキの右手に握らせると笑顔で言った。

「遠慮しないで取っておきなさい」

 ミキは明らかに困惑していた。そして、その困惑した表情のまま美咲の方へ助けを求めるかのように視線を向けた。

「遠慮しなくていいから、有難く頂いておきなさい。お断りするのはかえって失礼になるから」

 美咲は、優しくミキの膝に手を置いてそう告げた。

「そうだよ、遠慮はいけないよ」

 松田も満足げだ。

「松田さん、本当にありがとうございます」

「いや良いんだよ。気を使ってくれたママに感謝する思いも込めてね。へへ…」

 松田は照れくさそうに笑った。

「いやー、今日はなんかすごく気分がいいなー。いっぱい飲んじゃおうかなー?」

「じゃあ、ほら、ミキちゃん、水割り作って差し上げて」

 美咲も嬉しそうにミキに指示した。




「松田さん?お時間、大丈夫ですか?」

 美咲が、時計を見ながら松田に囁いた。ご機嫌な松田は、いつもよりハイペースで飲み、いつも以上に陽気に騒いでいる。美咲に告げられた松田は、気が付いたように店の時計を見た。

「ええ?もうこんな時間?なんかいつもより早いんじゃない?」

 松田は、驚きと不満の織り交ざった声を上げた。

「今日は若い娘がいたからじゃないですか?すごく楽しそうでしたから」

「ああ、そうかもしれんな。確かに、いつもより楽しかった」

 そう言ってから、松田ははっと気が付いたように美咲に目をやった。しかし、美咲は優しい笑顔で松田を見つめながらカウンターへと向かった。それを見た松田は、ホッとしたようにため息を吐いた。

「ああ、じゃあお会計だね」

 松田は、そう言うとゆっくりとソファーから立ち上がった。

「松田さん、いつもありがとうございます」

 美咲が、にこやかに伝票を手渡す。それを受け取り、目を通した松田の顔から笑みが消えた。

「なんか、毎月これを見るたびに、酔いがさめるような気がするんだよなあ」

 苦笑いをした松田が、そう溢しながら懐の封筒を取り出した。その封筒には「給与」と書かれている。既に封を切られたその封筒の中の札を全部取り出すと、松田は枚数を数えてトレーの上に乗せた。

「あれ?どうして?」

 松田が叫んだ。松田の手元には、一万円札が二枚と小銭しか残っていないのだ。

「なんでこんなに少ないの?」

 松田は慌てていた。

「ああ、ひょっとして、ミキちゃんのお小遣いのせいじゃないですか?」

 美咲のその言葉に、ハッとしたように松田が、後ろにたたずむミキの方を見た。ミキは恐縮しきった顔で松田を見ていた。

「あ、いいんだよ。気にしなくていいからね。あれはおじさんの気持ちだから」

 松田は慌てて弁解をした。





 松田は帰宅後、すぐに床に就いた。給料日は、いつも帰宅後すぐに寝室に向かうのが習慣となっていた。

 キッチンでは、松田の妻が洗い物をしている。

「ねえ、お母さん」

 松田の娘、美由紀が対面キッチンの向かい側で母に声をかけた。

「なんだ、美由紀まだ起きてたの?あなたも早く寝なさい、明日も学校でしょ?」

 洗い物をしていた母親は、娘に微笑みながら言った。

「給料日の夜って、いつもああなの?」

 美由紀は、母親の言葉を無視するかのように言葉を続けた。それを聞いて母はクスリと笑った。

「驚いた?理解できないでしょ?でもまあ、これで一生懸命働いてくれるならいいんじゃない?」

「これだもん、給料日の度に私をおばあちゃんのところに預けていた訳だよね?」

 美由紀は呆れかえっていた。彼女が小学生の頃から、父親の給料日は祖父母の家に預けられるのが習慣となっていた。彼女も祖父母のことは好きだったし、祖父母も喜んでくれるので、それはそれで嬉しかったのではあったが。

「そうだね、最初はあんたも小さかったからね。仕方なかったんだよね。でも、あんたももう大学生だし、親の恥ずかしい所を知っても大丈夫かな?って思ってね。今月から家にいてもらったの」

「いや、でもやっぱり知りたくなかったな。こんなこと」

 娘は渋い顔をした。

「でも、おかげであんたも臨時収入があったでしょ?良かったじゃない?」

「いやいや、かえってお父さんが可哀そうで、申し訳なかったよ」

「え、そう?まあ、あれも親孝行の一つだよ」

 母が笑った。

「でもね、あの時、一瞬お父さん、あのお札をあんたの胸に差そうとしたんだよ。さすがに思い止まっていたけどね。私も思わず笑っちゃいそうになっちゃった。なんか、可愛いじゃない?」

 母は愉快そうだった。陽気というよりも、能天気な母に娘は思わずため息を吐いた。そしてそのため息は、リビングの荷物に対してのものでもあった。

「あの荷物、明日全部お母さんが一人で片づけるの?」

 娘の視線の先には、ソファーやテーブル、プラスチックのケースなどが積み上げられている。

「何言ってるの、明日じゃなくて今晩やるのよ」

 母が呆れたように言った。

「え?なんで?」

 娘は驚いた。

「だって、明日の朝、お父さんが起きて来るでしょ?その時こんなものがリビングにあったら興ざめじゃないの」

 母の言葉に娘は絶句した。

「と言ってもまだ夜中だし、とりあえずあんたの部屋に仮置きなんだけどね。それで明日の朝、お父さんがいなくなってから、一階の倉庫に片付けるの」

「え?あたしの部屋使ってたの?」

「うん、そう。あんたおばあちゃんとこから直接学校に行っていたでしょ?だから。そう言う訳で、今晩一晩だけお願いね」

 母が、片目を閉じて手を合わせた。娘は目を丸くした。

「部屋の飾りつけも、お母さんひとりでやるの?」

「もちろんよ。当日の朝から一日がかりでね。でも、もう十年以上やっているから慣れたもんよ。まず、床にタイルカーペットを敷いて、壁にカーテンを掛けて、絵とかポスターを掛けて、天井に間接照明やミラーボール付けて、最後にソファーやテーブル、什器類を運ぶの。で、キッチンの中も所帯じみたものは見えないようにベニヤ板を張ったりして。でも、みんな取り付けの金具や配線は設置してあるから楽なもんよ。大変だったのは最初の頃だけ。今は何のことないわ」

「こんなことやってて、面倒だとは思わないの?」

 娘の言葉に、母の動きが止まった。そして、ちょっと悲しげな表情を見せた。

「あんたがね、まだ幼稚園の頃なんだけどね、ある時お父さんがしみじみ言ったのよ。なんか虚しいって」

 急な展開に、娘はどきりとした。

「お父さんが言うにはね?自分が家族のために働いているのは分かっているし、それが嫌なのではない。むしろそれが生きがいになっているのも事実だ。でも、必死で働いた結果のそのほとんどが、すぐに自分の手元から出て行ってしまうのが、何とも言えず寂しいんだって」

 母は、小さくため息を吐いた。

「なんか、その話を聞いて分かるなって思ったの。もし、お父さんが給料のすべてを管理して、必要な分だけその都度私が請求するんだったら、まだ納得できるのかもしれないとも考えたの。でも、お父さんの性格からすると、それをやっちゃったら、ぜんぜん残らないんじゃないかとも思えてね、いろいろ考えた末、こう言う方法を考えたの。まず、お父さんに給料を使い切ってもらおうって」

 母はクスリと笑った。

「これの醍醐味はね、最後のお会計なの。お父さんの会社は日給月給制だから、出勤日数によって給料が違うんだよね。それと、残業や休日出勤があっても変わってくるから、いくら請求するかが結構難しいのよ。多く請求しすぎると、お父さんのお小遣いが無くなっちゃうし、少なすぎるとお父さんが無駄遣いしちゃうし」

 母は娘にいたずらっぽい視線を向けた。

「だから、毎日お父さんの帰宅時間をよーく観察して、残業の具合を予想するの。そして出勤日数と合わせて給料の予想を立ててから、お父さんのお小遣いを差し引いて請求書を作るの。そして、それがぴったり合っていたときが、ものすごい快感なのよ。今月もぴったりだったんだけど、まさかあの人があんたに小遣い渡すなんて、完全に想定外のことだったから、お父さんにはちょっとかわいそうな結果になっちゃったけどね」

 母は満面の笑みを浮かべた。



 娘は部屋に戻り深いため息を吐いた。

 給料日の秘密。今まで気にはなっていたが、口にできずにいた事。今日、思いのほか知る結果となった訳だが、娘にとっては衝撃の事実であった。とてもではないが友人に話すことも出来ない。母はいろいろなことを言っていたが、娘の目には、ただ両親がいちゃついて楽しんでいるだけにしか見えなかった。

 娘は思った。

「あれはコスプレに他ならない。いわゆる『スナックプレイ』である」

 ただ、どんな形であれ、両親の仲がいいのは子供にとっては救いだとも思った。







         二、改竄



 田島博史は、会社の事務所へ戻っていた。他の社員はほとんど帰宅している。

「お?田島、どうした?帰ったんじゃなかったのか?」

 事務所には、いつも帰りの遅い専務が一人残って、パソコンに向かって何か仕事をしていた。

「ええ、ちょっと用事がありまして」

 田島は照れ笑いをしながら事務所の中へ入って行った。

「ちょっとパソコン借りていいですか?」

 専務にそっと声をかける。

「ん?何?いいよ、その辺の適当に使ったら?」

 専務は自分のパソコンを覗き込みながら、生返事を返した。

 事務所の中には、結構多くの事務机とパソコンがあり、現在誰も使用していない机とパソコンも何台かあるのだった。

 田島は、まずコピー機へと近寄った。そして、上着のポケットから給料袋を取り出すと、慎重にホチキスの針を外して封を開いた。田島が給料袋から取り出したのは、お金ではなく給与明細書である。


 この会社の給与は、銀行振り込みではなく現金払いである。給料袋の中には、現金と共に給与明細が入っている。明細書は、A4サイズのコピー用紙で、かなり大きい。その大きさは、この会社の給与体系に理由がある。この会社は、日給月給制をとっているために、いつ出勤したかと言うことが重要になってくる。更に、その日の作業内容によって手当てが変わってくるのである。そのために、各日付けごとに「現場名」「労働時間」「労働時間の内訳(時間外・深夜・休日等)」「基本給」「各手当の内訳」などを記すようになっていて、それに伴いそれぞれの手当てなどが基本給に加算されるようになっている。それゆえに、明細書には表計算ソフトで作ったような表が大部分を占めている。そして、末日締めの翌月二十五日払いなのである。

 この明細書を、田島はコピー機でPDF形式で読み込んだ。そして、空いているパソコンの前に座ると、PDFの作成ソフトを開いて、今読み込んだ明細書を開いた。

 田島が今、何をしようとしているかと言うと、明細書の書き換えである。実は今月、田島は給料の前借りをしていたのだ。もちろん妻には内緒である。金額は一万円であるが、それは今月の給料から天引きされてしまっている。このまま帰って妻に給料袋を渡すと揉めるのは間違いないことだ。故に、それを何とか食い止めなくてはならないのである。

 解決すべき問題は、天引きされた一万円である。もし、一万円と言う金額が田島の手元にあるならば何の問題もない。明細書にはそのことは記載されておらず、別紙のメモのようなもので、前借り分の一万円を徴収済みと言う旨が記されているだけだからだ。給料袋に一万円を加えて、そのメモを抜きとればすべて解決なのである。しかし、言うまでもなく田島の財布にはそんなものが存在するはずがない。だから、少々面倒な作業が必要になるのである。

 田島は先月、日曜日に一度出勤をしている。つまり休日出勤をしていたのだ。そして、その前日の土曜日、妻は娘を連れて妻の実家へ遊びに行き、日曜の夜遅くに帰ってきている。つまり、妻はその休日出勤を知らない。そこで、この日の日当を無かったものとして、前借の一万円の穴埋めをしようと言うのである。そしてこの計画には、更なる旨みがあった。それは、田島の日当と休日出勤の手当てを合わせると、何と二万円近くになるのである。こんなおいしい話を見過ごすわけにはいかない。かくして、田島博史の給与明細改ざん計画が実行されたわけであった。田島の妻は、かなり細かい性格をしている。いつも明細書の隅々まで目を通している。中途半端なことをすると、必ずその矛盾に気が付いて追及されてしまう。あくまでも慎重に行わなければならない。


 田島はまず、明細書の紙の原本を見る。明細は、横に各項目があり、それを縦に日付ごとに並べてある。これの、目当ての日曜日の欄にマーカーでラインを引く。この日は休みになるから、現場名も消し、日当も各種手当もゼロになる。一番右の欄には、その日の合計金額の欄があり、そこもゼロになる。そして、表の最下段には各手当ごとの合計が記されている。だから、このマスもそれぞれ日曜日の分を減らさなければならない。スマホの電卓機能で計算した金額をボールペンで書き込む。

 更に、この表の右には別の小さな表があり、労働日数と労働時間、支給金額、控除金額の内訳が各項目ごとにあるので、それらも調整しなければならない。最後にそれらに矛盾がないかを入念に確認した後に、パソコンのデータを修正する。ここで注意するのは、普通に入力するとフォントが違ってしまうことがあるので、数字は全て表の中からコピーして貼り付けるようにするのだ。

 最後にもう一度全体を見直し、明細の金額と実際のお金の額に違いがないことを確認してから修正した明細書をプリントする。そして、全てを給料袋に収めて、ホチキスの針の穴がずれないように慎重に留めて完成である。

 田島は満足であった。いつもより、少し裕福な一か月のスタートである。







         三、誘惑



 下条進は給料袋を持ったまま、コンビニで夕食を買っただけで、すぐに帰宅した。彼の自宅は、賃貸のワンルームマンションである。下条は独身の一人暮らしだが、給料日だからと言って遊び歩いたりはしない。真面目で堅実な下条は、酒もたばこもやらず、外食もあまりしない。真面目と言えば聞こえはいいが、陰気で気の小さい、やや引き籠りっぽい性格なのである。

 彼が席を置く建設業界は、男の世界である。女性はほとんどいない。業界的には女性の参入を促す動きを見せているようだが、あまり進展しているようにも見えない。たまに女性の姿を見かけはするが、なかなか定着することが出来ないようだ。ただ、下条にはそれも仕方がないように思えていた。仕事の内容の大部分が力仕事で、汚い仕事である。更に、そこに従事する男はガサツな男が多く、昔から比べるとかなり良くはなっているものの、未だにセクハラやパワハラと捉えられる行為が少なくないのだ。そして、そんな環境に耐えられる女性など、決して多くはないのである。

 そう言う訳で、この業界では仕事関係での女性との出会いはなかなか難しい。いや、皆無と言えよう。だから、女性との出会いは職場の外に求めなければならないのだ。しかし、プライベートで女性との出会いを持てるような人間は決して多くはない。実際、彼を含めた彼の周囲にも、独身の男がごろごろしている。下条は、今年三十五になる。高齢化の一途をたどるこの業界では、十五年の経験を持ちながらも年齢的には若手である。そんな環境にいるせいか、まだ若いつもりでいても社会的にはもう決して若い年齢ではない。特に結婚のことを考えるとなると、もうぎりぎりと言える。

―一人でも不自由しない、そんな社会構造が悪いんだ―

 下条は、いつもそう感じる。結婚しなければならない気もするが、どうも差し迫った緊張感を感じられないのだ。そうこうしているうちに、こんな年になってしまった。


 下条は、部屋着に着替えると缶コーヒーを飲みながらベッドに座った。給料袋を確認するためだ。別に、急を要するわけではない。一人暮らしの身だから、いつもの給料で無理なく暮らせる。むしろ貯金が増えているくらいだ。今後も結婚は難しそうだから、マンションでも買おうかと言う考えもあるくらいだ。ただ、たまに明細の内容が間違っていて、給料が少なくなることもあると言う話を聞いたことがあるので、念のためチェックをするだけのことである。

 下条の会社の給料は、現金支給である。世間一般では銀行振り込みが一般的らしいが、やはり現金でもらうのは、もらったと言う実感があっていい。

 改めて給料袋を手に取ってみると、何となくいつもより厚いような気がした。

―また、千円札が多いのか?―

 以前にもこんなことがあった。その時は、中身を確認すると一万円札と共に千円札が九枚入っていたことがあったのだ。今回もそんなことだろうと思い、封を切って中身を出してみると、現金と明細と共に銀行の封筒が一つ出て来た。よく、ATMの横に備えてある奴だ。何の封筒かと思い中を確認すると、そこには一万円札が十枚入っている。十万円である。

 下条は眉をしかめた。

「なんの金だ?」

 下条には、思い当たることがない。明細書を見てもそれらしき項目はない。そして、他に何かそれを示す伝票もメモもない。下条は考え込んだ。

―何かの間違いかもしれない―

 下条には、それ以外には考えられなかった。十万と言えば大金だから、変なトラブルに巻き込まれることにもなり兼ねない。すぐに経理の女性に確認することにした。

 下条の会社には経理部と言う部署があり、給料を含めたお金のことはすべてそこが管理している。経理部とは言っても、部長以下二名の部署なのであるが。しかも、そこの要となっているのが、部長ではなく部長の下にいる北本妙子と言う役職のない女性なのである。金銭関係で不明なことがあれば、まずはこの北本に問い合わせることになっている。

 北本は、年齢不詳、おそらく下条と同じくらいか少し上ぐらいかと思われる、やや陰気で物静かなタイプで、ちょっと不気味な印象を受ける女性である。そして北本は、経理の窓口として会社のスマホを持ち、社員もみんなその電話番号を知っていた。下条も、会社の電話だから気軽に電話を掛けることが出来た。

―はい、北本です―

 北本はすぐに電話に出た。いつもと同じ、落ち着いた低い声である。

「あ、お疲れ様、下条です。勤務時間外に申し訳ありません。今ちょっといいですか?」

 下条は、遠慮がちに応答した。

―はい、よろしいですよ。私もお電話、待っていたところですので…―

「え?」

 予想外の対応に、下条の頭が混乱して次の言葉が出てこなかった。

―で、ご用件は?―

 下条のためらいを無視するかのように、北本は追及してきた。その落ち着いた声には、なぜか嘲笑するかのような響きを感じた。

「はい、あの、今日の給料のことなんですが」

―はい―

 下条のうろたえとは対照的に、北本は落ち着き払っている。

「給料とは別に、封筒に入った十万円が出て来たんですけど…」

―はい―

「…あの、これはどういうことなのでしょうか?何かのお金が紛れ込んだのではないですか?」

―いいえ―

 下条は次の言葉が出てこなかった。何を言っていいのか分からなかったわけではない。北本の対応に不気味さを感じたからだ。短い北本の言葉に、何か下条をからかうような、笑いのような響きが感じられたからだ。下条はごくりと喉を鳴らした。

―ちゃんと入っていたんですね。良かった―

「な、何を…」

 スマホからは、北本が鼻で笑う音が聞こえた。

―別の人のに入れてたらどうしようかと思って、心配してたんですよ―

 北本は、「ククク…」と押し殺すような笑い声をあげている。下条は頭に血が上るのを感じ、思わず怒鳴りそうになった。しかし、

―これでチューしてもらえますか?―

 北本のこの言葉に、すべてが理解できた。この十万円の意味が。



 それは、数日前のことである。

 夕方、仕事の終わった下条たちは、会社の一階にある喫煙所にたむろして雑談を交わしていた。下条自身は煙草を吸わないが、ただ話に混ざると言う目的のために、喫煙所にいることはよくあった。

 話と言っても、こんな所でされる話などに意味のあることなどほとんどない。大体は仕事や同僚の愚痴や悪口、または根拠のないうわさ話である。その日もだらだらと垂れ流される言葉の中に、経理の北本のことが出て来た。北本は独特の雰囲気を持っているために、よく話のネタとして取り上げられることがある。下条としては、いくらその場にいないとはいえ、よく知りもしない相手のことを、勝手な印象だけで笑いものにするのには抵抗があったが、そんなことを言っても聞く耳を持つ連中ではないことは分かり切っていたので、いつものように黙って聞いていた。

「ああ、給料上がらないかな…」

 誰かが呟くように言った。

「そりゃ、無理だな」

 別の誰かが即答した。その場の全員が、その声の方を見た。そこにいるのは、のんびりと煙草を燻らせる経理部長であった。

「マジっすか?」

 経理部長にそう言われると、実もふたもない。落胆の声を上げた。それに対し部長は、にこりともせず吐き出すように言った。

「そうだよ。お前、シャンペンタワーって知ってるだろう?」

「ええ、知ってますよ。やったことはないですけど」

「金なんてもんはな、あれと同じなの。まず、上の方が一杯にならないと、下には降りてこないんだよ」

「マジかよ」

「そうだよ。しかもうちの会社は、そのタワーの上の方はシャンペングラスじゃないんだよ。バケツとか風呂桶みたいなものが置いてあるんだから、なかなか一杯にはならないんだよ」

「しかも、いっぱいになる前に汲みだされて、別のところに持ってかれるからな」

 その場に、寂しい笑いが起きた。

「たまには、給料を間違えて多く入れてくれないもんかね」

 ため息交じりの妄想を漏らすものもいる。

「いや、経理のおばさんが優秀だから間違えないんだな、これが。少なく間違えることはあっても、多く入れることはないんだよな」

「北本さんか?その優秀なのって」

「おお、何かそうみたいだぞ。ねえ、部長?」

 話は、再び経理部長に振られた。部長は驚きもせずに、じろりと話を振った人に視線を向けると落ち着いた声で答えた。

「そうだよ。北本さんは優秀だよ。おかげで俺はこうして何もしないで煙草を吸っていられる」

 想定外の真面目な答えに、その場は沈黙した。

「なんであんな優秀な人が、こんな会社にいるのか不思議なくらい優秀だよ。知識も仕事のスピードも、俺より遥かにすごい」

 部長はそう言うと、フーッと煙草の煙を吐いて立ち上がり、出口の戸を開けた。

「言っておくけど、俺は北本さんの味方だからな。くれぐれも北本さんを怒らせるようなことは言わないようにな。もし、それで彼女が辞めるようなことがあったら、俺はお前らの給料をどんな手段を使ってでも削り取るからな。俺は北本さんのおかげで、定年までの期間をのんびり過ごせるんだから」

 部長はそう言いながら、にやりと笑って喫煙所を出て行った。残されたその場には、何となく重苦しいものが漂っていた。


「すごい信頼だな」

「ああ、まさに影の黒幕だ」

「と言うことは、北本さんなら裏金の操作くらい簡単なんじゃないのか?」

「かもしれんな」

 ため息とともに沈黙が流れた。

「おい、下条」

 急に自分の名を呼ばれて、下条は驚いてその人の方を見た。

「なに?」

 呼んだその人は、だるそうに下条の方を見ていた。

「おまえ、北本さんにチューしてやるから、十万円多く入れてくれって頼めよ」

 その場に笑いが漏れた。

「なんで俺がそんなことしなきゃならないんだよ」

 下条は、ふて腐れた声を上げた。

「なに?十万じゃ不足か?」

「いや、まあ、十万ももらえるなら、チューくらいしますけどね」

 みんな、噴き出した。




 そうだ、そんな会話があった。あくまでも暇つぶしの冗談ではあるが。

 あの話を北本が聞いていたんだろうか。確かに、あの喫煙室は廊下沿いにあるから、たまたまその話の時に通りかかる可能性はある。だからと言って、それを真に受ける奴はいないだろう。

 下条は、気まずそうに言った。

「北本さん、あの時の話聞いていたんですか?」

―はい、しっかり聞いちゃいました―

 北本の声は、何気に嬉しそうに聞こえた。下条の口からため息が漏れた。

「すいません。北本さんのいない所で悪口みたいなこと言っちゃって。謝ります」

―え?あれ、本気じゃなかったんですか?―

 北本の口から、予想外の言葉が返ってきた。

「当り前じゃないですか。あくまでも、その場のノリで言ったことですよ。まあ、北本さんとしては気分が悪かったと思いますけど」

―ええ?私は本気だと思って嬉しかったのに…―

「え?何ですか?」

 下条は、聞き違いかと思った。

―いや、だから、十万円払えば下条さんとキスが出来るんだな…って―

「いや、本当にすいません。もう、あんなこと言いませんから赦してください」

 北本の嫌味に焦りを感じた。今の時代、充分に「なんとかハラスメント」に該当する事案だからだ。しかし、北本本人の反応は違った。

―違うの。これで私にもキスが出来るチャンスが来たんだって期待したんですよね―

「は?」

―私だって…死ぬまでに一度くらいキッスと言うものを、経験してみたじゃないですか?―

「…」

 下条は言葉を失った。

―だから、もしよかったら、お願いできませんか?その十万円で、私とのキッスを…―

「で、でも、十万円って…」

―…安すぎますか…?―

「ち、違います!反対です!そんな大金…」

―あ、それは気にしなくていいです。私がちゃんとうまい事、処理してありますから―

「は?」

―下条さん、うちの会社の役員たちが、どれくらい無駄な経費を使っているか知ってますか?自分の財布と勘違いしているんじゃないかと思うくらいなんですよ。そんなのと比べたら、十万円の一回くらい、可愛いものですよ。他の経費に混ぜて、私がちゃんと処理してありますから―

 下条は怖くなった。北本の言っている内容もそうだが、北本の口調そのものが、下条の知っている北本とは違うのである。

―どうですか?―

 北本が迫ってくる。静かな声だが、結構な圧力を感じる。

―十万円のために、ほんの数秒我慢してみませんか?―

 十万円と言うのは、かなり魅力的だ。下条は、今のところお金に困ってはいない。しかし、仕事に必要な工具や作業着などを購入すると、すぐに万単位のお金が出て行く。電動工具になるともっとである。お金はいくらあってもいい。それが正直なところである。しかし…。

 これが下条にとって、奈落への入り口であるとも考えられる。北本の本音も良く分からない。

―下条さん。いかがですか?―

 北本が優しく詰め寄ってくる。

―いかがですか?―


 さあ、どうする、下条進…?








         四、齟齬



 中谷大樹は、ギリギリ約束の時間に間に合った。デートの待ち合わせである。

 仕事柄、平日夜の待ち合わせと言うのは時間の設定が難しい。突然の残業はもちろん、帰り道の状況によっては会社への到着が遅れたりすることもある上、会社自体が中心部から離れた工業団地内にあるので、待ち合わせの場所に行くのにも時間がかかる。他の同僚たちと乗り合わせて現場に通っているために、自分一人で行動することも出来ないのだ。もちろん現場から一人で直行と言うことも出来るが、会社に自分の車があるために、それを置いて帰ると翌日の出勤が面倒なことになる。最悪その手段を取らざるを得ないこともあるが、出来れば避けたい手段である。

 それに加えて、労働者は汚れる。出来ることなら、着替えとシャワーも済ませたいものだ。何しろデートなのだから。

 特に今日は給料日なので、何が何でも会社に寄って給料をもらわなければならない。今日の予定は、この給料があってこその計画なのだから。

 そこで大樹は、会社によって給料をもらってからそのまま自分の車で待ち合わせ場所に向かうことにした。帰りは運転代行でも何でも頼めばいい。着替えは車の中で、シャワーは諦めて汗拭きシートで済ませることにした。時間的に慌ただしいし、駐車代や運転代行など余計な出費がかさむが、今日のデートは何とかうまくいかせたいのだ。


 大樹も結婚はしたい。しかし、同僚や同業者の話を聞いても、周囲の男は独身がほとんどなのだ。同年代は未婚、年配の人たちはバツイチ。年寄りの離婚率の高さも気になるが、同年代の未婚率の高さの方が深刻だ。理由は分かる。出会いが無いのだ。同業者に女がいない。通勤が車だから帰りにちょっと飲みに行って、感じのいい人と出会うこともない。水商売の女性との出会いさえないのだ。人為的に、計画的に探さなければ女性と話す機会さえないのである。

 今日会う約束の白川美羽さんは、高校の時の友人の奥さんの友人である。大樹の悩みを聞いてくれた友人が、自分の奥さんに相談して紹介してくれたのだ。大樹は、一目で気に入った。歳は大樹よりも一つ上だがそれは気にならない。もともと自分には、年上の方がいいような気はしていたのだから。何よりも見た目も大樹の好みに合っていた。ちょっときれいで、知的でしっかりした印象があった。話も合うし、好みも似ているように感じた。

 相手の美羽も大樹のことを気に入ってくれたようで、終始笑顔で楽しそうにしてくれた。大樹の仕事に対しても偏見は無いようだった。美羽は「なんとか事務所」に勤めているとかでお堅いイメージがあったので、大樹のような労働者に対しては偏見があるのかと思っていた。しかし、思いのほか理解を示してくれて、建設業界は日本の経済を支える重要な業種だとかで、昨今の人材不足を憂いているようなことを言っていた。そして連絡先も交換して、また会おうと言う約束もして、その日は別れたのだった。それでこの前、大樹の方から連絡して、今日、会う約束を取り付けたのだった。なんとしてもモノにしたいチャンスなのである。それ故、奮発してちょっと名の通ったレストランを予約したのだ。



 待ち合わせの場所に着くと、もう既に彼女が待っていた。約束時間の五分前だ。

「白川さん、お待たせしました」

 大樹が声をかけると、美羽は振り向いて嬉しそうに笑顔を見せた。爽やかな笑顔だ。この笑顔が、大樹は気に入っていた。甘ったれた媚びるような笑顔ではなく、しっかりした責任感のある笑顔だ。

「ううん、私もさっき来たところ」

 美羽も嬉しそうに見えた。

 予約したレストランに着くと、美羽は驚いたようだった。

「ここって、けっこう有名なところだよね。大丈夫なの?」

 美羽の言葉はいわゆるタメ口と言うものだが、大樹を見下した感じは受けない。年下と言うよりも、同等と捉えてくれているような感じを受ける。

「うん、一度来てみたいなと思っていたんですけどね、なかなかこんなところ誘えるような仲間がいなかったので、白川さんを口実にしちゃいました」

 大樹がそう言うと、美羽はちょっと照れた笑みを浮かべた。

「でも、結構するんじゃないの?」

「あ、それは気にしないでください。今日は俺が持ちますので…、俺が誘ったんですし…」

 大樹は、そう言っていてる自分が恥ずかしくなって来た。美羽もクスリと笑った。それを見ると、余計恥ずかしくなった。それに気づいたのか、美羽は笑いを隠すと姿勢を正してお辞儀をした。

「ありがとう、うれしいです。でも、その敬語は何とかならないかな?なんか、よそよそしいから…」

 大樹は苦笑いをした。

「やっぱりそうですか?やり慣れないことはダメですね」

 二人は、顔を合わせると照れ笑いをした。

「じゃあ、入ろうか」

 大樹がドアを開けると、美羽は恥ずかしそうに会釈をして中に入った。




「なんか、緊張するな」

 席に着くなり、大樹の口からそんな言葉が突いて出た。

「それは、お店に対して?それとも、私に対して?」

 美羽がすかさず突っ込んできた。大樹は「あ!」と言って照れくさそうに笑った。

「どっちも…」

 照れ笑いしながら言う大樹に対して、美羽は嬉しそうな笑顔を返した。

「なんで私に緊張するの?私は中谷君に緊張はしないよ」

「え?そうなの?」

「うん、なんか、すっごく親しみやすい感じだから」

 その言葉に、大樹は嬉しそうに顔をほころばせた。

「じゃあ、大樹って呼んでもらっていい?名字で呼ばれることないから、中谷って呼ばれるとすごく構えちゃうんだよね」

「あ、いいの?じゃあ、私のことも美羽って呼んでよ。呼び捨てでいいから」

 二人は笑い合った。大樹の胸に、確かな手ごたえが感じられた。

「でも、私もこのお店には緊張するな…」

 美羽が、あたりを見回しながら言った。

「こういうところには、あまり来ないの?」

 大樹は意外そうに聞いた。

「うん、私は一般庶民だから、こういう所には縁がないな」

「へえ、女子はこういうおしゃれなところが好きなんだと思ってた」

「それは人に寄るんじゃないかな?まあ、うちの職場にもそう言う娘はいるけどね。でも…」

 そこまで言うと、美羽ははっと気が付いたように大樹を見た。

「ごめんなさい、せっかく誘ってくれたのに。決していやだって言うんじゃないの。どんなところかな?って言う関心はあるし、一度行ってみたいなって言う思いはあったの。だから、こういう所に入る機会を作ってくれたこととか、大樹が気を使って考えてくれたことはすごくうれしいんだからね」

 大樹はちょっと拍子抜けした。きっと、都会のオフィスレディーは、こう言うちょっと気取った店が好きなのかと思って、背伸びをしてしまったのだから。

「よかった…」

 大樹の口からため息とともに漏れた。

「じゃあ、この次はもっと緊張しない所にしてもいいんだね」

 それを聞いて美羽の顔に笑顔が広がった。

「この次はそうして下さい」

 美羽は嬉しそうに頭を下げた。



「でも、よかった」

 運ばれて来た料理を食べながら、安心したように美羽が呟いた。何が良かったのかと、大樹はその視線を料理から美羽へと動かした。美羽も優しい笑顔で大樹の方を見ていた。

「大樹は、しょっちゅうこんなお店に来ているのかと思って、心配しちゃった」

「いやいや、俺は初めてだよ、こんなところ。それに、来たとしても年に何回かの記念日ぐらいじゃないのかな、誕生日とか…。いくら何でも、しょっちゅうは来れないでしょう?俺らの年じゃ」

 大樹は、驚いたように弁解した。

「うん、そうだよね。それが普通の考えだと思う、私も…」

「いや、俺も今回は見え張っちゃって、ちょっと無理しちゃったんだよね」

「え?そんな、無理しなくていいのに…」

「おれ、こう言うのあまり経験が無くて、女の人が誘われて嬉しい所と言えばこんな所かな?って言う単純な発想だったんだよね」

「そんなことないよ。普通は自分の身の丈に合ったところが一番いいと思うよ。でも…特別な日は、特別なところでって言うのも嬉しいかな…」

 美羽は、はにかんだ笑顔を見せた。大樹も照れ笑いをした。

「でも、大丈夫なの?高いんでしょ?ここ」

 美羽の顔が、笑顔から心配する顔に変わった。

「ううん、大丈夫。今日、給料日だから」

 それを聞いた美羽の顔は切なそうになった。

「じゃあ、頑張ってくれたんだね。ありがとう」

「うん、まあ、今月はちょっと厳しくてね。ちょっと大変だったけど、やっと給料出たから大丈夫」

「え?じゃあ、お給料前は、ずっと切り詰めてくれたの?」

「うん、まあね。恥ずかしながら…」

「ええ?もうそんなことはしないでね。私のために無理なんかしないでよ。私は割り勘でも全然平気だから」

 大樹は、美羽の話に少し違和感を覚えた。

「いや、別に切り詰めたのは美羽のためじゃなくて、俺がちょっと使い過ぎたからなので…」

「え?」

「うん、今月は靴やら革手やらの消耗が結構激しくてさ、それに工具のバッテリーも一つダメになっちゃったせいで、出費がかさんじゃってね。結構厳しかったんだよね」

 美羽が難しい顔をして大樹を見ている。

「だから、節約して美羽にごちそうしている分けじゃないから」

「うそ!」

 大樹が言い終わる前に、美羽が叫んだ。

「じゃあ、ここのお金は今日もらったお給料から出すって言うの?」

 美羽は真剣な顔である。

「もちろん、そうだけど…」

「ええ?普通、こういうことは前月の繰り越し分でやるもんじゃないの?」

 美羽が、突然訳の分からないことを言い出した。

「だって、そんなことをやったら、今月また苦しくなるのが決定じゃないの?」

 大樹は何も言えずにいた。

「あなた、いつもそんなふうにやってるの?信じられない。普通は、お給料をもらったら、支払い分や積み立て分を除いてから生活費に充てるでしょう?そして、そこから切り詰めて切り詰めて残った分が翌月に繰り越されて、そのお金で初めてちょっとした贅沢をするものじゃないの?月初めからガッパリ使い込んでたら、その直後から節約生活じゃないの?何を考えているの?」

 美羽は、信じられないと言う顔をしている。大樹も同じような顔をしている。

 その時、二人は同じようなことを考えていた。

―この人、ちょっと合わないかも…―




         五、攻防




 田島博史は自宅に帰り、娘と一緒に床に就いていた。妻の有紀は一人居間に残り、夫の給料の仕分けをしていた。これからの一か月、この給料に頼って生きてゆかねばならない。他に頼るものはない。寂しい限りだ。この頼りない給料を、計画的に活用するのが主婦としての有紀の使命なのである。

 まずは、給与明細をじっくりと観察する。いくら見ても手持ちの給料に変わりはないのだが、細かい内容を知ることにより、夫の苦労をわずかでも理解してあげられそうな気がするのである。

 有紀の夫は、雨の日も、風の日も、しっかりと働いてくれている。残業も休日出勤もしてくれている。これを見ていると、夫に渡す小遣いに対する惜しい気持ちが、少しはなくなるのである。

「今月もお疲れさまでした。ありがとうございます」

 有紀は、別の封筒に取り分けた夫の小遣いを、押し頂いて感謝の言葉を述べた。これをまず抜いておかないと、夫の小遣いは存在できなくなるのである。

「あれ?」

 有紀はふと気が付いた。

「この日曜日…」

 そう呟いて、明細の日付をなぞってみる。その日、夫は日曜出勤だと言っていた筈だった。しかし、明細書には休みになっている。

「たしか、仕事だから実家には行けないと言っていたような…」

 ひょっとすると、計算ミスかもしれない。そうなれば、けっこうな額が返ってくることになる。

「明日、ちょっと旦那に聞いてみよう」

 ちょっと楽しくなって来た。


 しかし、ここからが勝負だ。これから超現実と戦うことになる。

 給料袋の中身をすべて出し、テーブルに広げる。そして、手元にある請求書の合計を出し、その額を取り分ける。これらは光熱費や通信費、保険料などである。あと、テレビの視聴料もある。子供が小さいので、幼児向けの番組にはお世話になっているので、これはどうしても外せない。あとは、これに家賃を加えた分を口座引き落とし用の通帳に挟んでおく。これは明日の日中に入金する。

 残ったお金を見ると、もう既にかなり心細い状態になっている。しかし、これからさらに心を奮い起こして、今月の積み立て分のお金を抜き取らなければならない。有紀の心に悪魔が囁く瞬間である。

「一か月くらい減らしても大丈夫!」

「いつも頑張っているんだから大丈夫!」

「来月多めにすればいいから大丈夫!」

 悪魔が有紀にまとわりつく。

 今月は少し減らそうか…、と心が揺れまくる。しかし、ここは心を鬼にして、涙をこらえて、いつもの額を抜き取り積み立て用の通帳に挟む。

 ここまで来ると、いつも息が切れる。ものすごい体力の消耗である。

 呼吸を整えてから、改めてテーブルの上を見る。テーブルの上には恐ろしく頼りないお金が、破片か残骸のように残っている。これが今月の生活費である。また、あの苦しい戦いが始まる。ここでいつも、夫の小遣いに未練が湧いて来る。今月は少し我慢してもらおうか…と。しかし、もう一度給与明細を見つめて夫の苦労に思いを馳せる。そして…

「お疲れさま、ありがとうございます」

 夫の小遣いに手を合わせる有紀である。

―早いところ、パートに出ないとまずいことになるな―

 テーブルの上に残った今月の生活費を見ながら、いつもそう感じる有紀であった。


 疲れ果てた有紀は、ため息交じりにカレンダーを見る。

「ああ、早く給料日が来ないかな…」






<主婦川柳>


    給料日 一夜明ければ 給料前


    給料日 十二回で  もう一年










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給料日夜話 守谷愛作 @isaac-moriah

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