かしこい大家さん

柿月籠野(カキヅキコモノ)

第1話 デス作戦

「ぼくくん、ぼく君」


 仕事が終わってアパートに帰ると、「ぼく」が敷地に入ったところで一〇一号室の窓が開き、おばちゃんがひょっこり顔を出して「ぼく」を手招きする。


 おばちゃんは、このアパートの大家おおやさん。

「ぼく」とおばちゃんは、ただの住民と大家、という関係でしかないけれど、おばちゃんは一人暮らしの「ぼく」を気遣きづかってか、または自分が一人暮らしなのが寂しくてか、毎日こうして、に誘ってくれるのだ。


「ぼく」は「ただいま帰りました」と返事をして、柵の無い窓から、靴を脱いでおばちゃんの部屋に上がる。


 おばちゃんの部屋は、なんだか実家のようで安心する──はずなのだが、「ぼく」はこの日、いつも通り雑然としたテーブルに着いても、落ち着くことができなかった。


「ごめんねー。これしか無くってー」

 そう言って出された、紙パックのぶどうジュースを見て、「ぼく」は更に落ち着かなくなった。


 何故なぜなら──。


「あの、おばちゃん」


「ぼく」の呼び掛けに「ん?」と返事をしながら、おばちゃんは、冷えた缶チューハイをぷしゅ、といい音をさせて開けている。


「あれ、アルコールが良かった? でもぼく君、飲めないんでしょ?」

 おばちゃんはさらさらと喋りながら、缶チューハイをぐい、とあおる。

「ぼく」は成人はしているが酒には弱いので、このぶどうジュースは、ソフトドリンクであるという点では有難ありがたい。

 しかし──。


「いえ、その、アパートの、前の……」

「ああ、あれね!」

 おばちゃんはもう一口缶チューハイを呷ってから、大きく手を叩いて笑う。


 何故なぜおばちゃんは、こんなにも呑気のんきなのだろうか。

「ぼく」が帰ってきたとき、アパートの前で見たのは、電信柱の根元に山と積み上げられた、花束とそなものであった。


 供え物の中に、おもちゃやお菓子、ジュースがあったことから、亡くなったのは小さな子供なのだろう。

 そして、この花束と供え物の量。

「ぼく」は知らなかったが、報道されるような、酷い事件だったのかもしれない。

「ぼく」は、このようなときの作法など分からなかったが、花束と供え物の山の前で静かに手を合わせ、どうか安らかに、と心の中で祈っておいた。


 それなのに、何なのだ。このおばちゃんの態度は。

 それに──。


「ぼく」の目の前に置かれたこのぶどうジュースは、供え物の中にあったものと同じだ。


 ……いや。


 ぶどうの果汁に、人間ひとりの死など関係ない。


 それに、死に対する考え方は、人それぞれだ。

 おばちゃんは、人が死んでもくよくよせず、明るい気持ちでいる。そういう人なのだ。


「ぼく」は一人で頷いて、ぬるいぶどうジュースのパックからストローを外し、それを伸びきるまで伸ばして、細いストローぐちに刺す。


「あのね、夕方、ぼく君が帰ってくる前の時間なんだけどね」


 おばちゃんは変わらずチューハイをぐいぐいいきながら、呑気に喋る。


「ここ二週間くらいよ。よく分かんないおじちゃんたちが五、六人。そんで、平日は毎日。毎日よ! そこの前に集まってさ、酒飲んで、タバコ吸って、ぎゃはぎゃは騒ぐの!」


 おばちゃんは片手に持ったスルメをぶんぶん振りながら、アパートの前の道の方を指差す。


「で、それだけなら──いや、いいってことないけどさ、あの人たち、ゴミ捨ててくのよ! あのね、ビールの缶にタバコ詰めて、ドブの蓋開けて、中に入れるの! 缶もタバコのフィルターも土にゃ還らないのにさ、見えなきゃいいと思ってんのよ! でさ、ここ住んでる人たちからも、洗濯物にタバコのにおいが付く、うるさくて困る、治安が悪くなりそうで怖いって、苦情が来てて」


「そうだったんですか」

 誰かにとってはただの道端でも、他の誰かにとっては違う。

 しかし、アパート前にたむろする人たちと、亡くなった子供との間に、何の関係が──。


 ……!


「ぼく」は思わず、一口も飲んでいないぶどうジュースのパックを、握り潰しそうになる。


 アパート前にたむろしていた男性たちが、酔って、通りすがりの子供を……!?


「まー、あたしも迷惑してたし、見かけたら注意してたのよ。でもあいつら酔ってるからさ、全然効かなくって」


 ぶどうジュースのパックを握り締めたまま固まっている「ぼく」をよそに、おばちゃんは「あーいうのはさ、無敵の人っていうの? どこが無敵よ! あたし含めて敵だらけですから! それに気付いてないアホなだけですから!」と、一人で盛り上がっている。


「って、まあ、もうどうにもならないんで、のよ」


 おばちゃんはひとしきり盛り上がると、厚く紅を塗った唇の端を吊り上げ、笑う──。


 


 ──まさか。


「おばちゃんが、その人たちを!?」


「そう! 追っ払ったの! 『デス作戦』で!」


「ぼく」の目とおばちゃんの目が、すれ違って、そのまま通り過ぎる。


 ……ん?


「追っ払った……。で、です、作戦……?」


「そーそー。『デス作戦』」


 おばちゃんはもう二本目の缶チューハイを開けながら、自慢げに話し始める。


「今朝、色んなスーパーとか花屋さんとか回って、花束とお供え物いっぱい買って、置いといたの。子供が凄惨せいさんな事件で死んだみたいに見えるように。あ、それ外に置いてたやつね」

 おばちゃんは「ぼく」が握り締めている温いぶどうジュースを、食べかけの焼き鳥の串で指す。


「そしたらもう、あいつらまんまとまったわ!」

 おばちゃんは高らかに笑って、ぐびぐびとチューハイを流し込む。


「あたし見てたのよ! あいつらもう酔っ払って騒ぎながら歩いてきてさ、子供が死んだとこ見て、一瞬黙って、それから何事も無かったかのように騒ぎながら歩いてったの! あー! 面白かったわー! あいつらの、一瞬の、『あっ……』て顔! 思い知ったか!」


 おばちゃんは、酔っ払いたちの『あっ……』の顔の、比較的うまい物真似ものまねをしてみせると、悪の女王も顔負けの笑い声を上げる。


「あいつらにとっては、あそこは永遠に殺人事件現場! あいつらは罰当たりにも、事件直前にそこで騒いでゴミ捨てたのよ! あいつら今頃、偽物の子供の幽霊にでも取り憑かれてるわ! あー! なんて愉快ゆかいなの!」

 おばちゃんは立ち上がり、両腕を広げて、この世の全てを手に入れたかのように笑う、笑う、笑う──。


「おばちゃん、うるさいよ」

 上から、二〇一号室の邦俊くにとしさんの声がすると、おばちゃんは一瞬『あっ……』という顔をして、それから何事も無かったかのように席に座り、「でね、今日、カナコさんに会ったのよ。ほんとにバッタリよ」と、お喋りを続けた。


 うるさいのも罰当たりなのも、おばちゃんのほうだろうと、「ぼく」は思うのであった。

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