第26話 感情的になる

 マリアンヌは、後継者を作るための夜の行為もまともにできないサナのほうがずっと哀れだと罵った。

 憤懣ふんまんに支配されたサナは、拳を握り、歯噛みして、なんとか怒りを抑え込もうとする。


「あら……。エルヴァンクロー公爵夫妻の夫婦仲が危うい、夜の営みもできていないという噂は真実だったのですわね……」


 怒りを抑え込もうとしているサナの努力を嘲笑うかの如く、マリアンヌがせせら笑う。


「アルベルクに問題があるとは思えませんし……まさか、公爵夫人に何か問題があるのですか?」


 マリアンヌは口元に人差し指を当てながら、可愛らしく首を傾げる。


「たとえば、夫であるアルベルクを満足させてあげることができないとか……アルベルクが公爵夫人の体に魅力を感じないとか……」


 マリアンヌがサナとの距離を詰めながら、小声で囁く。


「一見夫の問題のように思えることでも、妻であるあなたの問題ではありませんか?」


 ついに我慢ならなくなったサナは、マリアンヌの頬を「ふんっ!」と力を込めて平手打ちした。あまりの力の強さに、マリアンヌは美しい顔を見事に歪ませ、吐血しながら宙を舞う。空中で何回転か回った彼女は、地面に尻もちをつく。頬に刻まれた赤い紅葉に手を添えながら、唖然とこちらを見つめてくる。「今、バチンではなくてバチコーン!!! だったわよね?」と言いたげな目に、サナは鼻を鳴らす。


「あぁ、気持ちよかった……。よくも好き勝手言ってくれたわね?」


 指の関節を鳴らしながらマリアンヌにそう言うと、彼女はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。その笑顔に違和感を抱いたと同時に、背後に人の気配を感じ取る。


「サナ?」


 勢いよく振り向くと、そこにはなんとアルベルクとトリンプラ侯爵がいた。

 サナは、はめられたと一瞬で理解する。マリアンヌはあらかじめ、アルベルクとトリンプラ侯爵をこの場に呼んでいたのだ。そしてわざとサナを怒らせ、彼女が憤慨したタイミングでアルベルクたちと鉢合わせるよう策略していたのではないか。


「ま、マリアンヌ!」


 トリンプラ侯爵は、倒れ込んでいるマリアンヌに駆け寄る。


「お父様……」

「一体何があったんだ! マリアンヌ!」

「公爵夫人に、頬を叩かれて……」

「な、なんだと!?」


 トリンプラ侯爵は涙を流してしゃくり上げるマリアンヌに寄り添い、サナに非難する視線を向けた。


「公爵夫人! いくら公爵夫人といえど、侯爵家の令嬢を叩くことは許される行いではございません! それもまだ嫁入り前の娘の顔に傷をっ……! 私はあなた様の行いを断固だんこ非難します!!!」


 トリンプラ侯爵は腹の底から叫ぶ。サナは少しも取り乱すことなく、むしろ堂々と彼の話を聞いていた。彼の言うことは、間違ってはいないから。傘下の貴族令嬢に暴行することは許されざる行いだ。だからと言って、マリアンヌの数々の失礼な言動も許されてはいけないが。


「サナ、どういうことだ」


 アルベルクの一言に、サナはビクリと体を震わせる。背筋が徐々に凍っていく。アルベルクの声は、聞いたことがないくらい低く冷たかったから。


「私はただ、公爵夫人とふたりでお話をしたかっただけですのに……公爵のことをお尋ねした瞬間、急に叩かれて……!」


 マリアンヌの演技は、劇団に所属する女優と同等レベルだ。サナとは比べ物にならない時間をアルベルクと過ごしたくせに、その演技で落とせなかったのだろうか。哀れな人間だ。


「令嬢の言うことは事実か? サナ」


 アルベルクに問われたサナは、拳をギュッと握る。

 事実かどうかなんて、確認する必要性はない。アルベルクならば妻である自分を信じてくれるだろうと思い込んでいたが、違ったらしい。どうしてそんな、責められる口調で問われなければならないのか。


「なぜ、何も言わない……?」


 追い討ちをかけられ、より一層責められている気分に陥ったサナは、踵を返し騒動の場を立ち去る。アルベルクの顔を一度も見ることなく、温室を飛び出した。




 西の温室〝天使の楽園〟を飛び出したサナは、無我夢中で走った。庭園の中、アーチ状の花道の途中で、ふと立ち止まる。目頭が熱くなり、視界が霞む。涙がこぼれ落ち、サナはその場でうずくまった。

 あの状況ならば、過去に悪女と噂されていたサナがマリアンヌに一方的に暴力を振るったと勘違いされてもなんらおかしくない。それなのに、アルベルクは無条件で自分の味方なのだと思い込んでいた。

 マリアンヌの意図的な煽りにまんまと乗せられ、感情的に振る舞ってしまった自分に腹が立つ。


「はぁ……」


 冷静さを取り戻したサナは、深く溜息を吐く。

 アルベルクはただ、マリアンヌの主張が本当なのか尋ねてくれただけなのに。サナの主張も聞いてくれようとしていたかもしれないのに。

 感情的になってしまったことは後悔しているが、今さら戻ることなんてできない。自分やマリアンヌへの怒りとアルベルクへの申し訳なさで、複雑な感情に苛まれたのであった。

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