第2話 歴史紡ぎの儀
雨の中を駆け抜け、見えてきたのは岩宿だった。
濡れた御影石は月光の青い光に縁どられ、森の中でみずから輝いているように見える。それまでカロンの一歩後ろを駆けていた子供たちも、それを見つけるなり、追い越さんばかりに加速する。ディーンの子供たちは次々と中へ突進した。
「ほらっ、着いたよ」
雨の滴る前髪を掻き上げながら、カロンはほっと息を吐いた。対する子供たちは、服の水けを絞りながら、初めて来たそこを注意深く観察している。
「ここが、儀式の場所?」
「ただのゴツゴツの岩にしか見えないよ」
口を尖らせて落胆する子供たちを見て、カロンはむしろ、嬉しそうな顔をした。子供たちの肩を指で突くと、まっすぐ、奥の暗闇を見るように促す。
「一瞬だからね」囁くと、持っていた炎の小さな松明を、岩壁に押し付けてしまった。
その瞬間、岩壁を稲妻のように炎が走った。炎は岩に刻まれていた溝をなぞり、黄金の文様を浮かび上がらせる。
それは、古よりディーン族に伝えられてきた意匠だった。もう、今は読まれることのなくなった古の言葉であった。炎に揺らめく絵は、人々の暮らしを切り取って伝えていた。
息を飲んで見惚れていた、その時だ。
「おいでな」
洞窟の奥から聞こえた張りのある老婆の声に、子どもたちは一瞬体を跳ねあげた。
だが、すぐに「語り部様だ!」と歓声をあげる。応えた老婆の声が反響する。
「私はここだよ、子供たち。壁を見ながら奥へおいでな。それはご先祖様の遺した、大事な物語なんだからね」
獣を狩る姿。木の実をもぐ姿。祈る姿。祀り。人々の前で何かを伝える姿。その周りには、いくつもの丸いものが浮かんでいる。
森に、大河に、空に。森羅万象、それはありとあらゆる場所に。
「精霊」
一人が呟いた声に、
「当たり。さあ、初めての冒険はどうだったかえ、子供たちよ。導き手のいう事は守ったか?」
角を曲がり、岩宿の奥、焚火の前で、その人は待っていた。
頭に紺色の鉢巻を巻き、枯草色の衣を纏った老婆――語り部は、日に焼けた顔に慈しみの笑みを浮かべている。節くれだった手で招き、
「ご苦労だったね、カロン。ちび達の先導は大変だったろう……おや、やっぱり濡れてるじゃないか。早く火にお当たり、みんな風邪をひいてしまうよ」
カロンの頭を撫でた語り部は、その癖ある亜麻色の髪が濡れそぼっているのを見て言った。
「語り部様、シーピースってどこに帰れないの? カロンったら、おしえてくれなかったんだ」
「お、教えなかったわけじゃないよ!」
待ちきれずに質問する子供に、カロンは慌てて否定した。そんな子供たちの様子に、語り部の笑いじわが深くなる。
「かっかっ、
「水鏡の国?」
「そうさ、この大陸の裏側、精霊たちの住まう世界、精霊たちの国さね。普通の人は立ち入ることを許されない、神聖な場所さぁ」
語り部は答えながら、焚火に薪をくべ、温めていた小鍋の中を木のへらでかき混ぜた。
芋を使った、ポルトゥカと呼ばれるスープだ。砕いたクルミと生姜を入れ、ヤギの乳とともにひと煮立ちさせる。木をくりぬいた器によそって、子供たちに配った。
雨に濡れて冷えた体には、普段飲んでいるスープすらごちそうになる。胃の中からじんわりと温まって、思わず身震いするほどだった。
「飲みながらお聞きな。ふだん、精霊たちは水鏡の国に暮らしている。こちらの世界とを行き来していた。だけどねぇ、世界が二つに断ち切られた時に、こちらの世界に置き去りにされて、帰れなくなってしまった精霊たちがいるのさ。自分たちの世界に帰りたい、でも帰れない。シーピースの声が悲しげなのは、そういうことさ」
ずず、とポルトゥカをすすりながら、おさげの少女が言った。
「知らなかった、精霊って人みたいに国で暮らしてたんだ」
「そうさ、目に見えなくても、彼らは彼らの暮らしがあるのさ」
「シーピースも、結局声ばっかで姿は見えなかったしね」
語り部は深く頷く。
「聞こえただけで十分だよ。シーピースのような『そこにいる』と分かるものだけではない。知っての通り、ほんとうはね、森羅万象、ありとあらゆる場所に精霊はいる。ただ、ほとんどが姿形はおろか、存在を捕えられぬ空気のような存在だ。それゆえ、人間は普段、精霊の存在を意識しないんだよ。いいや、気配を感じることができるのさえ、今や我々ディーン族くらいなものだからね。でも、この子はさらに見えてもいたはずさ、シーピースの姿まで」
指さした先に、カロンがいた。ず、とすする音が止まる。
「ええっ! 見えてたの、カロンは?」
「うん、まあ……」
早く言ってよ、と不満が零れる。カロンは苦笑しながら謝った。
「ごめんね。なんだか当たり前に“いる”から、みんなが見えないのを忘れちゃって。……シーピースは、白くて長い衣を纏った女の人みたいで。髪も肌も白、唇はきれいな薄緑色。夢みたいに綺麗なんだよ」
へー、と声が漏れる。それなら見てみたかったかも、と子供たちは声を弾ませた。
そんな様子を見守っていた語り部だが、おもむろに身を起こした。
「……さて、子供たち。ここに来た、本当の目的を教えなくてはね。我らがご先祖様の物語、この大陸に流れる時間の帯を眺め、紡ぐための儀式。訊きたいことも山ほどあるだろう。精霊の物語、水鏡の国。いま、聞かせよう」
語り部は、傍らに立てかけていた飴色の弦楽器を手に取った。調整を済ませると、四本の弦に弓を構えてゆっくりと弾く。するとどうだろう、岩宿の中で音が反響して、共に音色を奏で始めたではないか。
高く、鉱石を打ち合うように。低く、木の洞を風が通るように。
さあお聞き
遥か彼方 砂を傾け 時をもどせ
荒れ狂う空の下 大地もまた咆え猛る
それは戦 王の中の王を決める戦なり
地を潤すは赤き血潮 野を駆けるは武具馬の蹄
暖かい慈雨は
王の中の王は何処におわす
丘の上 少年は一人涙を落とす
石の下 多くの民で作らるる 死者の国
精霊は囁く 川は枯れた 国を潤すものは無し
少年は問う 王の中の王なぞいるのか
精霊は囁く 森を見よ 天と地と 一つで成り立つものは無し
少年は願う この戦の炎を収めん 地の世界に人よ往くなかれ
星の精がこれを聞く
見事な黄金の剣を天より持ち出で
少年に渡して囁く
神の腰を飾る帯より拝す これを持て
命じよ 全ての剣を納めよと
黄金の時代より銅の時代に濁る今
そなたが時を黄金へ導け と
かくして少年 声をあげる
丘の上より世界へ 命ず
武器を捨てよ 歩を止めよ
血は宝 己のうちから流すことなかれ
帰れ母国へ 帰れ友と
かくして少年 戦を止めん
王たちは畏れ 覇王と呼ぶ
黄金の剣は子から子へ
覇王の剣とよばれ伝わる
最後の一節が語られ、弦の震えが止まった。
洞窟内に、さあさあと雨の音が戻ってくる。
「……ここまでが、初代覇王様の物語だよ。左の天井から壁をご覧な。立派な絵だろう」
しわがれた指先のさされるがままに、子どもたちは壁を眺めたが、誰も彼もぼんやりとした顔をして、歌から覚めていないようすだった。後ろで一緒になって聞いていたカロンが、「難しかったかな」と尋ねる。すると、三人は一斉に頷いた。
「ええと、つまりね、昔々に色んな国の王様たちが戦争を起こしたんだ。みんな、自分の国を大きくして、大陸の王様になることを目指していた。だけど、戦争によって多くの人が死んでしまって、死者が住む『地下の国』ができてしまったんだよ。ここへ行ったらもう地上には出て来られない」
「お墓のこと?」
「そう、だね……つまりそういうこと。自分も仲間を亡くしてしまった少年が、このことを丘の上で泣いていたんだ。精霊たちもこの子と同じで悲しんでいた。天と地で世界がなりたつように、たった一人の王様で世界が収まるはずなんてないのにねって」
カロンが壁画を指さす。ひときわ威光を放つ、伝説の剣士の姿がある。
「そこに現れたのが星の精霊で、天の神様からもらってきたっていう黄金の剣を少年に渡したの。その剣を掲げて、王様たちに戦争を止めるよう命令したんだ。そうしたら、剣の力でみんなが言うことを聞いて戦争を止めた。少年は覇王と呼ばれ、剣は覇王の剣と呼ばれて、子供たちに受け継がれていったよって話」
カロンは自分の言葉で、身振り手振り今の歌を説明した。簡単な言葉で、子供たちも納得したようだ。
壁に描かれた金色の剣を見ていた子供は、困ったように首を傾げた。
「でも、こんな剣、見たことも聞いたこともないよ。ご先祖様の話で、子供たちに伝わっていったんでしょ? どうして?」
「ふむ、では続きを語るとしようかね。もう少しお聞き。我らに託された、最後の使命だよ」
幾年若葉が大樹となるまで
黄金の時代は続く 剣の心のまま
水鏡の国よりこの世を眺む
悪しき精霊 飛び立つまで
初めに氷の槍が降りしきり
二日目 火の蛇大地を這う
三日目 稲妻地上を刺して
四日目 濁流国をも飲む
五日目 竜巻全てを巻き上げ
六日目 暗雲太陽奪う
覇王も巫女も力尽き
人共絶望の淵に立たされん
されど剣を手にするは
新たな覇王の青年なり
風を操り 火を穿ち
水を携え 陽光纏い
精霊の王を鎮めれば
二つの世に明かりが差す
かの者はルクソード
覇王の剣にて二つの世を分け
この剣を封印す
かく英雄の所業なり
忘れるな
彼の英雄の赤き瞳を
なにゆえ赤いか
忘れるな
橙色の明かりが、岩肌を舐めていた。
反響していた調は終わり、同時に、詠っていた岩宿もその喉を閉じた。
「……これが、精霊戦争と呼ばれる戦と、覇王ルクソードの物語さ」
語り部は琴をおろした。
「英雄様だ」
子供の一人が身を乗り出して言う。
「そう、歴代最強の覇王、精霊戦争の英雄、もっとも精霊と心を通わせた『霊剣使い』。カロンの直接のご先祖様だよ。覇王の剣に認められた彼は、精霊に対して、自然の力を切り取り纏う能力『霊剣』で対抗したのさ。そして荒れ狂う精霊王を鎮め、概ねの精霊を帰すと、水鏡の国と人間界を繋ぐ道を断ち切った。かの国から流れる精霊を止めるには、これしか方法がなかったからね。だが、シーピースをはじめ、こちらに残された精霊は生まれ故郷へ帰れなくなった……」
楽器を傍らに置きながら、語り部は深く息を吐いた。
「さっき、覇王の剣を見たことが無いと言ったね。当然さ、ルクソード様がお隠しになってしまったのだから。戦争が終わった後にね、もう誰の手にも渡らないよう、遠い所へ封印されたのさ。世界を断ち切る剣は、同時に世界を繋げる剣でもあるからね」
子供たちはしばらく口をとざしていた。しかしぽつりと、「残された精霊がかわいそう」と呟く。
「……この歴史は、大陸ではほとんど語られなくなってしまった。だがこのディーン族の誇りにかけ、埋もれさせてはならぬ。遺跡は朽ちて書物は燃えた。だが言葉は、絶やさぬ限り壊されはしない。子らよ、詩を理解できたお主らも、これで歴史の担い手じゃ。そのことを自覚するための、この儀式さね」
でもさあ、と腕を頭の後ろで組んだ一人が眉をしかめる。
「なにも剣を隠すことなかったのに。星の精霊からもらった神様の剣なんでしょ?」
「ほっほっ、よほど見たかったと見える」
「だって」
「まあ良いではないか。絶対の力を持つ剣と使い手がいるとならば、邪な考えを持つ者が現われんとも言い切れん。幸い黄金の時代とは言えずとも、銀の時代は続いておる」
今は不要の代物よ、と語り部はしみじみ言った。
「それにねぇ、覇王の剣は『霊剣』を使いこなす者にしか扱えん。もし、ここに覇王の剣があったとしても、使う資格のあるのはカロンだけさ。いや、カロンも使えるか分からん」
「どうして?」
「覇王の剣はその気高さゆえ、使い手を慎重に選ぶ。自分を使う資格がないと判断すれば、触れることすらかなわんそうだ」
子供たちはカロンを見る。
「カロンは、覇王の剣を使えたら使う?」
訊かれて、唸った。
「……使い、たくはないかな。なんだか怖いし」
「カロンは優しいもんね。みんなに命令するのは、似合わないし」
黙って聞いていた語り部は顎を撫でて目を細め、「どうも、子供たちの成長ははやいねぇ」などと笑っている。
「ねえ、カロン」
「なに?」
「いつものみせてよ、語り部様のはなしを聞いてたら、見たくなっちゃった」
「そうだよ、見たいな、『霊剣』!」
「……松明しか、ないんだけどなぁ」
本来は剣を持って行うはずの能力だし、松明に火を灯すだけなら焚火に突っ込んだ方が早いに決まっている。
それでも、カロンはずっしりとした木の棒を、確かめるように何度も握った。そして、目を閉じ、肺の空気を全て吐ききった。束の間の静寂。鼻から一息吸うと、短く口を動かした。
「纏え」
カロンの手から青い炎が迸った。
それはたちまち焚火の炎と絡み合い、二匹の蛇のように、手に持った松明に螺旋を描いて上っていく。
あっという間に、松明にごうごうと炎が灯った。
「いいなぁ、それ」
子供たちは羨ましそうに、松明の先に灯った炎を見た。
「どうしてカロンしか使えないのかな、『霊剣』」
「覇王の剣と一緒に、みんなどこかに置いてきちゃったのかな」
「どうしてだろうね……うーん、私も分かんないや」
月明かりに照らされた道を、子どもたちと語り部は帰って行く。
「私たちには帰るところがあって、よかったねぇ」と、幼子の一人が漏らした。
当時の世に思いを馳せ、語り合い。帰路の会話も尽きることはなかった。
集落では待ちかねていた大人たちが、五人を歓迎した。トドラの葉でくるんで焼いた鹿肉が切り分けられ、大人たちは子供の話す冒険譚を、喜んで耳にした。
蛍蔦の実は冒険の成果だった。手のひらを翡翠に染める種子を、大人たちは懐かしそうに見つめ、
「カロンや」
ふと、柔らかな声で彼女を呼ぶ者があった。
族長にしてカロンの祖父のパオドゥフだ。蓄えた長いひげの下で、品のよい笑みを浮かべている。
「爺様!」
「よくぞ、無事に帰ってきた。やはり、導き手をお前にして良かったのう」
「知ってる場所だったから……」
「そうではない。怖がる子を、お前なりに励ましながら進んだのじゃろう。ごらん、行く前はあんなに不安がっていた子らを。お前が笑顔にして帰した子供たちだよ」
指さされた先を振り返ると、子供たちが、連なった蛍蔓の種を腕に巻いて掲げていた。
頭を撫でてくれる祖父の手は大きく、優しい。思わず眉をさげて、湧いてきた幸せを噛みしめた。
夜はふけ、睡魔が瞼を重くするまで、ささやかな宴は続いた。やがて星の傾きに気付いた大人が促し、一族は心地よい眠りについた。いつもより少し胸躍らせた、ある晩の出来事であった。
――明日も、少し楽しいことが待っていますように。
毛布にくるまりながら、綿の枕に頭を埋めて、カロンは夢見心地に願った。
――ああ、でも、起きたら師匠のところに行かなくちゃ。今日は勘弁してもらったけど、また剣の稽古がある。
余計なことを考えたせいで、少し気分が滅入る。師匠のことは好きだ。父とおない年の、屈強な、それでいてよく気の回る人だから。ただし、彼の稽古が好きかと言われれば、むしろ逆だった。一族に伝わる剣の稽古は、いつだって大変だ。
ことさら、霊剣が使えるとあって、カロンは大事に指導されている。
――本当に、なんで私が霊剣を使えるんだろう。もしも師匠が使えたなら、どこかにある覇王の剣だって認めただろうにな。
天井を見つめて考えていても、仕方のないことだった。気付けば瞼は落ちていて、森のささやきを子守唄に、ぐっすり眠ってしまっていた。
翌日の朝であった。
朝日を浴びて黄金に輝く朝露を散らして、集落内を大人が駆ける。昨晩とは打って変わった剣呑な大人たちに、子供たちですら、なにか起きたのだと悟った。
一族外の人間もちらほらと見える。大河の上流に住むヴェレダの民の人々だ。衣の裾を腰のあたりまで捲って纏めている。海馬に乗って川をくだり、膝から下を川の水で濡らしたまま、森を駆けてきたらしい。草や泥が足を汚していた。
やがてパオドゥフが現われて、集落の外から伝えられた
大河の向こう、対岸の街で起きた血なまぐさい惨劇を。
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