第2話 弱々しいノックの音

 歩き始めて十時間が経った。乾燥した大地の上を歩き続け、目的地までの距離の五分のニは移動した。

 だが二人は、まだ半分以上も道のりを残しているこの時点で、既にかなりの疲労状態にあった。

 直射日光が容赦なく皮膚を焼き続け、大量に汗をかいている。どこか陽光の影となる所で休みたい気持ちでいっぱいだが、あたり一面、広大な砂の海が広がるばかりだ。

 二人の目はうつろで、足は鉛のように重たい。一歩踏み出すのでさえ、今は辛い。

 歩き続けて行く中で、二人は何度も絶望感に苛まれた。どれだけ歩いても、変わり映えのしない風景。永遠にこの苦痛と無力感が続く気がした。

 肌は荒れ、唇も乾燥しきっている。脱水症状で頭痛と倦怠感が体を襲うが、猛暑は無慈悲に二人を襲い続ける。地獄とはこの事なのだと、二人は思った。

 水筒の水はあと半分。食料はパン一斤だった。

 それでも、二人は足跡の線を伸ばしていった。まだ二人は希望を捨てなかった。




 

 それから、四時間が経った。


 

 ドサッ!

 繋いでいた手が解かれる。

「お母さん!」

 倒れたのはレネイだった。疲労と脱水症状で体が限界を迎えていた。

「はっはっはっはっ・・・!!!」

 息をする事すら難しい状況にあった。足は痙攣してまともに立てず、顔は日に焼けて赤く膨れ上がっている。地面に横たわることしかできなかった。

 ウルメスは苦しさで心臓が痛くなった。母親が死んでしまうかもしれない不安と恐怖。母親を失いたくない、こんな別れ方をしたくない。

「お母さん、お母さん・・・」

 砂だらけの腕がレネイの肩を揺らす。

 水も食料も尽きた。


「(僕はここでお母さんともお別れするのか・・・)」

 

 そう思うと、痛い程の悲しみが湧いてきて、ウルメスは涙を流した。脳にひどい悲しみと、切なさが染み渡って行く感覚があった。

 悲しみの雨粒をいくら流そうと、また前が見えないくらい目に溜まっていく。

 けれど声はあげていない。声を上げられない程に、もう精神的に参っていた。蓄積された疲労がそうさせた。

 乾いた地面の上で、二つの命が静かに奪われて行く。

 

 俯いてポタポタと涙を落とすウルメスの頬に、レネイは最後の力を振り絞って手を当てる。

 ハッとするウルメス。レネイの顔を見る。

 苦しさで弱々しい表情に、まるで、今にも消えてしまいそうな飛行機雲のような笑顔で、本当に、すごく小さな声で、



 

「生きて……」


 


 そんな……最後みたいな言葉言わないでよ。

 



 

 「なんでだよ、お母さん。なんでなんだよ。そんなの……。どうしてそんな事言うんだ……。まだお母さんは死ぬなんて決まっていないじゃないか。そうだよ、まだわからないんだ。お母さんは死なない。ここではお母さんは死なない。絶対に僕が助けるから。そうだ!お母さんはここで僕に助けられて、生き延びるんだ!」

 突然、なぜだか不思議と力が湧いてきた。母親を背負って残りの数十キロメートルを渡り切る自信が湧いてきた。

 こんな絶望的な状況でどうしてこんな……

 この気持ちは何なのだろう……

 分からない。もしかしたら、怒りなのかも知れない。この残酷な自然に対する怒りなのだろうか。何に対して怒っているのかも分からない。

 

 いや、きっと母親のためだからだろうな。

 この人のためだから、力が出る。この人は自分にとってとても大切な人だから。


 「(そう、僕は、大切な人のためなら、底知れぬ力が湧いてくる。ごめんお母さん、苦しいだろうけれど、少しの間耐えて欲しい)」

 ウルメスは心臓に渾身の力を入れて、燃焼させる。

 ドーンッ!!

 巨大な爆発音が響き渡る。

 ウルメスはファーアウトしていた。


 ファーアウトとは、この世界の人類の、0.00001%程度の人間しか到達することの出来ない燃焼領域に達する事を意味する。

 ファーアウトは体に過度な負荷がかかる代わりに、莫大なエネルギーを生み出す事の出来る心臓の燃焼方法で、大抵は、血の滲むような訓練を経て習得出来るものなのだが、ウルメスは八歳にしてそれを行う事ができた。

 生まれながらにしてファーアウトを行う事が出来る極めて稀な、天賦の才を持った子供だった。

 ウルメス自身も、初めてのみなぎる力に少し困惑したけれど、それどころではないと、母を担いで走り出す。


 太陽光線が肌を焼く。通り過ぎる竜巻が行手を阻む。立ちはだかる砂の山。一歩登っても半歩下がる。乾燥地帯を、広大な大地を、走りつづける。何度も何度もつまずき転んでしまう。その度にレネイに謝り、力の入らない足と、苦しくて歪む肺に鞭打ち、ただひたすらに走る。この人ともう一度言葉を交わすのだと信じて。この人ともう一度手を繋いで歩くのだと信じて。この人ともう一度一緒に笑い合う事を信じて。





 砂まみれの風化した木造の一軒家に、一人の男が、月光に照らされている。椅子に腰掛けて、先刻入れたお茶を飲んでいる。暖炉には沸かしていたポットがあり、男はその炎を眺める。

 この日は静かな夜だった。だから良い夜だと思った。


 コン……コン……

「ん?何だこの音は」


 コン……コン……コン……

「ドアの方からする音だ。小さいな、ネズミでもいるのか?」

 男は少し不審に思いながら、音の鳴る方へと近づき、ドアを開ける。


 そこにいたのはレネイを抱えたまま倒れているウルメスだった。


 レネイは、もはや息をしているのかどうかもあやしく、ピクリとも動かない。顔も変わり果てていて、本当に生きているのか、死んでいるのか分からなかった。

 ウルメスは目を開ける力すらなくなっていたから、目が開けられなかった。それでも何とか這いつくばって、最後の力を振り絞って、ドアを叩いた。

  男は唖然とした。そう、この男はレネイの兄マーズであり、二人を見た瞬間に状況を理解した。開いた口が塞がらない。

 するとウルメスが言う。ガサガサに掠れた声で。

「お母さんを助けてください……」

 こうしてはいられない、早く応急処置をしなければ。

 「二人とも急いで中へ!」

 二人を抱いて家の中へ入る。





 ウルメスは叔父の家に辿り着いた。彼はやり遂げた。二人は同じベッドに寝かされ、すぐに水を与えられた。これっぽっちも体を動かす事が出来ない。もうなにも思考出来なかったけれど、母親がベッドに寝かされて、口に水を与えられている時、うっすらとした意識の中で、淡い安堵と嬉しさを、ウルメスは感じた。

 

 

 

 

 

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