6-10   かけがえのない、この世界のたった一人

《わたしを、殺してほしいの》


 静かな口調で絞り出されるように。レイの震える声が、霧の耳にこだまする。

 霧は怒りの感情を目に宿しながら、ギュッと拳を握って言った。


「……嫌だよ、お断り。そんな頼みなら、おとといおいで」


 霧のその言葉を聞いたソイフラージュが、嫌な予感におののきながら、叫ぶ。


《何を、頼んだの?! 教えて霧! 今あなたは、レイと会話していたんでしょう?! レイは、あなたに何を頼んだの?!》


 答えられずにいる霧を見て、イサナがスッとソイフラージュの傍に移動して、通訳を代わってくれた。

 『竜辞典』の中にいるためか、イサナは今、人間に近い姿をしている。それは霧が名を与えた直後に見せた、イサナによる自分のイメージ像だ。14歳か15歳ぐらいの少年で、言獣との融合の名残なのか、背中に小さな白い翼を持ち、手足同様、複数の目を具えている。彼は本来人間が持つ二対の目だけを見開き、その場にいる面々に向かって言った。


《あのね、みんな、聞いて。ソイとレイの、二人の分断が、解呪を阻んでるんだと思う。二人は別々の方法で『辞典』に宿り、まったく別のにいる。今、この状態の霧になら、きっとレイを、ソイと同じ場所に連れてこれる、そしたら》


 イサナの言葉を遮り、レイが首を振る。


《……もう、いいの、イサナ。疲れたの。わたしは、ずっと、見てた。長い間……ひとりきりで……》


 虚ろな目で、レイが霧を見上げる。


《……もう、終わらせたい。霧、すべてをあなたに託したい。わたしごと、呪いを消滅させて》


「嫌だね。終わらせてなんか、やるもんか」


《霧……お願い》


「だってここで終わったら、何も救われないじゃないか! レイ、あなたにハッピーエンドが来ないなら、あたしが『竜辞典』に選ばれた意味なんかない!!」


《いいえ、意味はある。あなたはこの呪いを解いて、世界に破滅の運命を回避させられる。あなたは多くの人を救う》


「レイを、犠牲にして?」


《もともと、わたしが放った呪い。その責を取るだけ》


「違う、違う、違う!!」


 霧は激しく首を振り、固く握った拳を振り上げ、地団駄を踏んだ。全身で怒りを表すように。そうして、叫び続ける。


「世界が、レイに呪わせた! そうでしょ?! 誰もが、レイと同じ悲劇に見舞われる可能性があった! そんな、残酷な世界だった!!」


 霧の作ったストーリードームを見て、好きだと言ったレイ。

 アデルを助けるため、力を貸してくれたレイ。

 そばにいて、助言をくれたレイ。


 霧にとってレイは、邪悪な存在ではない。その逆だ。


「レイ、この呪いは、あなただけの責じゃない! 無関心だった周囲が、あなたをそこに追い込んだ! そうでしょ?! 一見無関係に見える他者は、決して、個人の選択と無関係じゃない!! 世間は、知っているのに見て見ぬふりをする! 自らの安寧と秤にかけて、犠牲者を生み出す! そしてそれに、気付かぬふりをする! 関係ないふりをする!」


 霧はそういうシーンを、何度も見てきた。何度も、体験してきた。

 全てが終わった後に、「言ってくれれば良かったのに」などと、悲しむふりをする。助けるつもりなど、最初から無かったくせに。人とは、そういう、ずるい存在なのだ。

 それを知っているから。

 よく知っているから――霧は、叫ぶ。


「たった一人と、その他大勢。それは等価。等価だよ、レイ! 人数の多い方が勝ることは無い!! 誰一人、誰かの犠牲になっていい命じゃない!」


 感情が、たかぶってくる。

 世の中が美談と煽る、一人対大勢の、犠牲を伴う救済劇。霧はあれが、大嫌いだった。


「自分が死ねば、みんなが救われる? はっ! 何がめでたしめでたしだ! 尊い自己犠牲? はっ! それは大勢という名の悪魔が生む生贄だ!」


 憤りが、爆発する。止まらなかった。腹が立って、たまらない。霧は怒りと悲しみで、叫び続けた。


「人数なんて関係ない! あたしは多い方を選んだりしない! たった一人ですら救えないなら、世界はもう、救われなくていい! けれどもし、あたしに誰かを救う力がるなら、世界ごと、救う力があるなら、レイ、あなたを真っ先に選ぶ!!」


 ダリアの言葉が、霧の心の中に甦る。


―――――――――――――

かえりみられず、

咲く前に散っていった者たち、

それは、

どこかの他人などではない。

それは私。

それはあなた。

かけがえのない、

この世界の、たった一人。

―――――――――――――


 それは霧自身の、言葉でもあった。

 常に霧の心の中でくすぶっている、大勢と言う名の「世間」に対する、反旗だった。


――何としてでも、助け出す。悲しいままで、終わらせたりしない。


 その決意を胸に、霧は叫んだ。『辞典』を、意識して。


「レイフラージュの放った呪いを、あたしの前に視覚化しろ!」


 絡んだ根のような醜い塊が、目の前に現れた。その場にいる誰もが、ハッと息を呑む。呪いを視覚化する――思ってもみなかった発想だった。

 辞典主の強い力が辺りにみなぎる中、霧の声が響く。


「今日を限りでおまえの任を解く! ご苦労であったな! ほんの少しの恨みも残さず、きれいさっぱりほぐれてバラバラになり、消滅しろ! あーーーったたたたたあーーーーっ!!!!」


 冗談のような口調からは想像できないほど、霧のその言葉は絶大な効果を及ぼした。視覚化した塊が、霧の繰り出される拳の前に、あっという間に消滅する。レイもイサナもソイフラージュもミミも、ポカンとそれを見ていた。

 霧は鼻息を吹き出すとみんなを振り返り、パンパンと手を払って言った。


「お掃除完了!! どうだレイ、こんなもんのために死ぬとかいう愚かな選択も、これで木っ端微塵だ! 個人的にはシルヴィア先生に同意して、『男どもめ、ざまあみろ!的な人類滅亡説(ワラ)』も魅力的だったが、レイと天秤になんぞ、かけられるものか。さあ、行くぞっ!」


 霧はレイの手を取った。


「あっ……!!」


 霧が簡単にレイの手を繋いだことに――、レイは驚いた。――そして、納得する。彼女は辞典じてんぬしだ。辞典の中で繰り広げられる現象に、どんなハードルがあるというのか、と。


「レイ、見せてあげるよ、あたしの最適解。殺してくれ、なんていうレイの悲しいエゴを跳ね飛ばし、あたしのエゴによる最高の結末を、見せてあげる!」


 霧はそれだけ言うと、イサナに向かって言った。


「イサナ、導いて! ソイの元までレイを連れてゆく! さあ! あたしは今、羽根のように軽やかで、光のように速い!」


 辞典主の霧の言葉が、瞬く間に効力を持ち、霧とレイが光り輝く。イサナは嬉しそうに飛び跳ねると、はしゃいだ声を上げた。


《ああ、行こう! 霧、ついてきて!》


 光が明滅し、霧とレイとイサナを包む。周囲の風景が切り替わり、瞬く間に過ぎてゆく。いくつものエリアを抜け、レイを連れた霧とイサナは、次々と障壁を突破していった。

 容易たやすかった。霧の進路を妨げるものは、何も無い。


 長い長いトンネルのようなものを抜けると、やがてソイが一人佇む姿が見えてきた。

 

 そして遂に双子は、再会を果たす。

 

 1540年の歳月を、越えて、遂に。

 お互いの姿を目に宿し、双子は片割れの名を呼んだ。


 霧はレイの手を離し、二人が歓喜の涙を散らしながら走り寄るのを見守った。

 おさげ髪の二人の少女。その姿が、チカチカと明滅しながら移り変わる。

 ソイフラージュは幼い少女から、14歳のうら若き姿に、大人の女性に、そして老婆に変わり、また少女の姿に。

 レイフラージュは幼い少女から、14歳のうら若き姿に、そしてまた幼い少女の姿に。

 そうして二人は抱きしめ合うと、1540年の歳月越しに、再会を果たした。

 泣きながら、笑いながら。

 手を取り合う二人の間に、ミミが喜びながら舞う。

 そして次の瞬間、煌竜こうりゅうクルカントゥスが現れた。

 まばゆい光と共に現れた竜は、双子の周囲に虹を描く。希望の象徴のような、美しい虹を。1540年の時を経て、遂に片翼を取り戻した『竜辞典』は、歓喜で光り輝いていた。


(やり遂げた)


 満ち足りた清々しい気持ちで、そう思った時。


 ――霧は、目覚めた。


 大泣きして、叫びながら。


「うああっ……うぇええええぇ?!」


 目を開けた霧の視界に、リューエストとトリフォンの、心配げに覗き込む顔が映る。霧は、ソファで横たわったまま、息を弾ませながら周囲を見回した。

 そこは、図書塔天上階の、温室のような不思議な部屋。


「ああ……帰ってきたのか。『辞典』の中から。ふおぉぉう……おああああ……。夢、じゃないよね、あれ……。あたし、やり遂げたよね?」


 人類滅亡の呪いを解き、イサナの力を借りて双子を再会させた――それを。


《夢じゃない。ありがとう、霧。私たち、互いを取り戻した》

《すべてが、ほぐれて、ゆるされた。ああ、あなたの魔法の、なんて力強く、温かいこと。本当にありがとう、霧》


 霧の目の前に、ソイフラージュとレイフラージュの双子が現れ、同時に言葉をかけてきた。二人は幼い少女の姿でしっかり手を繋ぎ、無邪気に笑い合っている。そのそばにはミミが飛び回り、喜びではちきれんばかりの笑顔を見せていた。

 そして次の瞬間には、ぬっとイサナが『竜辞典』から現れ、その奇怪なクジラのような大きな体を天井付近に浮かばせながら、何かを叫び始める。リューエストとトリフォンは突如現れたイサナに驚いたが、すぐに相好を崩した。なぜならイサナは、すごく嬉しそうにすべての目をにっこりと細め、心地よい歌のような調べを奏でていたから。それは、イサナの言葉だった。イサナは霧にだけわかる言葉を、紡いでいたのだ。


《なんて居心地がいいんだろう、霧、君の傍は。僕はこの先ずっと、君の最適解を見守ることにした。いいよね、ずっとずっと、傍にいて、いいよね?》


 霧は弾かれたように笑い、即答した。


「いいに決まってる! ありがとう、イサナのおかげだ! イサナが導いてくれたおかげで、迷いなく辿り着けた!」


 ソイフラージュとレイフラージュもまたイサナに礼を言い、霧と双子とイサナとミミは、ひとしきり笑い合った。

 そして双子は何かを相談しあうと、うんうんと頷き、霧に向かって言った。


《あと少しね、霧。もうすぐ学園に帰れる》

《霧、入学旅行、楽しんで》


 それだけ言うと、みんなは揃って『竜辞典』の中へと戻って行った。


 長い息を吐き出し、再びソファに倒れ込んだ霧に、リューエストがホッとした表情で問いかける。


「キリ、うまくいったんだね?」


「うん、おかげさまで」


 霧は目を閉じて深呼吸すると、再び目を開けた。


「取り戻せた。そして、消滅させた。すっかり元通り。この先、生まれてくる女の子たち……、みんな、大事にされて、幸せになってくれると、嬉しいな」


 そう言って少し寂し気に笑う霧に、リューエストは囁くような小さな声で言った。


「そうだね。まあ、僕にとって一番幸せになって欲しい女の子は目の前にいるし、この先、一番幸せにするつもりだよ」


 リューエストの宝石のような、愛に満ちた輝きが霧に降り注ぐ。霧は恥ずかしくなってパッと目をそらすと、「いや……その、超絶イケメンの殺し文句、刺激パネェし」と、口の中でゴニョゴニョ呟いた。


(……大丈夫だよ、リューエスト。あたしの呪いも、もう、過去のものになったから)


 霧は心の中でそう付け加えると、トリフォンに向かって言った。


「ありがとう、トリフォン。ここに連れてきてもらったおかげで、目的が果たせた。ついでに1540年前の呪いも木っ端微塵にできたよ。この先はちゃんと、女の子も、生まれてくる。男の子と、同じように」


 それを聞いたトリフォンは、一瞬だけ驚いたが、すぐに目を細めて笑うと言った。


「ほほう、重畳ちょうじょう、まことに重畳。弥栄いやさかなり」


 トリフォンは詳細を訊き出すなど野暮なことはせず、ただ嬉しそうに、一仕事終えた霧の頭を、労わるように撫でた。――愛おしい孫の一人に、触れるように。

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