第26話 検証
翌日、厩舎へ向かうと既に日勤の担当厩務員が出勤していた。
この日の担当は、
戸川は、そのうちの池田と大野を呼ぶと、昨日と同じように岡部を紹介した。
池田は明らかに年齢が高く、戸川と同じくらいの年齢である。
髪も白いものがだいぶ混ざっている。
非常に人の良さそうな顔をしており、岡部と目が合うと小さく手を振ってくれた。
大野は垣屋より少し年齢が上に見える。
非常に背が高く角刈りのような短髪。
池田とは対照的に、かなり不機嫌そうな表情をしていて、戸川の説明を面倒そうに聞いている。
この日は、池田に見てもらいながら、体調監視、竜房の清掃、引き運動を終えた。
その後、『サケショウリ』という九歳の鹿毛の牡竜の調教を行う事になった。
長井は『サケホウシン』という脚を怪我している七歳の栗毛の牝竜に騎乗。
厩舎に着くと、明日は『ショウケン』一頭だけだから一人で乗ってみて欲しいと長井は言った。
「不安やとは思うけども、近くで見ててあげるから心配せんでも良えから。それと、今日の午後はいよいよ検証やから、それまでしっかり体を休めとくようにね」
そう言って微笑むと長井は事務室へ入って行った。
すでに『ホウシン』を曳いていた大野の姿は無く、岡部は顔を摺り寄せる『ショウリ』の首をさすって洗い場に向かった。
洗い場から竜房に向かうと、竜房には垣屋だけが待っていた。
後の二人はと尋ねると、もう休憩に行ってしまったのだそうだ。
朝飼を与える頃には垣屋も竜房から姿を消していた。
午後、長井と岡部は調教場に向かった。
既に吉川が待機していた。
少し遅れて戸川が、相良と津野を引き連れて向かってきた。
長井は訓練用の竜三頭を用意し、そのうちの一頭に跨り乗り運動を始めた。
津野と岡部も遅れて乗り運動を始める。
竜の準備が整うと三人は一旦竜から降り、まずはちょっとした会議が行われた。
最年長の吉川が、こういうのでよくある事例は二つだと言いだした。
一つは速度、もう一つは並走。
両方試してみたら良いと提案した。
少しでも異変を感じたら即竜を止めるようにと、長井は岡部に釘を刺した。
さっそく岡部は自分が乗り運動をしていた竜に跨ると、輪乗り場から調教場へ竜を移した。
まずは直線路で徐々に速度を上げていく。
速度はぐんぐんと上り、かなり高速と思われる速度まで上げていく。
そのまま曲線路に入り、反対側の直線で一鞭入れ全速で追い始める。
直線が終わる辺りでふっと速度を緩め、最初の輪乗り場に戻って来た。
特に異常は無かった。
吉川と相良は戸川と、中々騎乗姿勢が綺麗だと言い合っている。
長井と津野は、新人とは思えない思い切った追い切りだと言い合っている。
岡部が帰ってくると津野は、自分が乗り運動していた竜に跨った。
一方の岡部は竜から降り、長井が乗り運動していた竜に乗り換える。
長井から休憩しなくて良いかと問われたが、岡部は息一つ上がっておらず、大丈夫ですと微笑んだ。
長井は吉川と戸川の両方からお前とどれだけ年齢が違うと思っているんだと笑われた。
先に津野が調教場に入り、次いで岡部が入る。
まず津野が竜を走らせ始め、少し遅れて岡部がそれを追走。
曲線が終わると岡部は津野に追いつき、直線に入ってから二人は鞭を入れ全速で追う。
特に問題は起らず、二人はゆっくりと戻ってきた。
吉川がどうだと聞くのだが、今のところは問題がないと言うしかなかった。
一人観覧台に行っていた相良は輪乗り場に戻ってきてから、ちょっと思う事があると言いだした。
あの時と今日で一つ違うことがあると。
「苛々するわあ。もったいぶらんと、はっきり言えや!」
吉川は相良を睨めつけて叱り飛ばした。
その一喝で相良は明らかに委縮。
戸川は、まあまあと言って吉川を宥めた。
「最後の直線で追っても何も問題は無いんやないですかね。前回って曲線の終わり頃やったと思うんです。つまり……」
曲線で『一杯』で追って、曲線の間に並走を始めるのがダメなんじゃないか。
相良の指摘に三人の調教師は口をつぐんだ。
調教場が静寂と変な緊張感に包まれた。
一番危険な場所だと戸川が呟いた。
だが確かに試す価値はあると吉川が重い口調で言った。
相良は二人の調教助手と共に黙っている。
結局、これ以上竜は追えないから続きは明日という事になった。
翌日、出勤すると朝の担当は既に集まっていた。
この日の担当は、
坂崎は明らかに戸川よりも上の年齢で、老厩務員という風だった。
顔はまるで年輪のように皺が刻まれていて、体は細く肌は浅黒い。
笑ったりはするのだが非常に口数が少なく、いかにも職人という感じの印象を受ける。
戸川は坂崎を呼ぶと岡部を紹介した。
坂崎は頭を少し下げただけで仕事に行ってしまった。
岡部が竜房に向かうと、坂崎は、見ているから一人でやってみてくれと言った。
『サケショウケン』という九歳の青毛の牡竜の世話を始める。
『ショウケン』は他の竜とは異なり、あまり岡部に懐いた態度をとらない。
『ショウケン』に鞍を乗せ、まずは引き運動を行う。
ところが、いくら引き運動を行っても体の硬さが治らない。
不審に思い脚元を念入りに確認すると、左後脚に小さな木片が刺さっているのを見つけた。
それを坂崎に伝えると坂崎はすぐに戸川に報告に行った。
戸川の指示は調教の中止であった。
岡部は『ショウケン』の体を洗うと、木片の刺さっていた患部に軟膏を塗り込んで竜房へと戻した。
午後、昨日同様、三人の調教師と二人の調教助手、岡部の六人が調教場に集まった。
前日同様、乗り運動が終わると念入りな会議が始まった。
戸川は石を使って、長井、岡部、津野に説明を始めた。
まず長井が先行し、それを岡部が追走、距離を取り津野が追う。
直線で十分な速度を出し、そのまま曲線に入り、曲線の半ばで長井に並びかけ直線に向かう。
岡部はそこまでで少しでも異常が見られたら直ちに竜を停止させる。
もし岡部が竜を制御できていないように感じたら、津野が竜を追い停止させる。
「後ろから見てるだけで、わかるもんなんです?」
津野が疑問を呈した。
「明らかに体がこわばるから、わかると思う」
相良はそう言うのだが津野は半信半疑だった。
「もし今日再現せんくても、明日もう一遍同じ事をしてみるから、そのつもりでな」
吉川がそう言うと一同は首を縦に振った。
「これでもし前回と同じような事になったら、岡部君に調教やらせて大丈夫かいう問題が出るやもしれへんな」
輪乗り場から出た長井はそう不安を口にした。
「もしこれが原因やったとしたら、逆に調整だけやったら全然問題無いいう事になるんやないですかね? どうせ並走一杯みたいな本調教は騎手がやるんやから、助手やったら十分でしょ?」
津野はそう言って長井に微笑んだ。
それもそうかと長井も頷いた。
「ほな、そろそろ行くで!」
長井は、直線路で徐々に竜の速度を上げて行った。
それを岡部が追走した。
曲線に入って岡部が追い出しにかかった。
その姿を見て、津野はまだ半信半疑であった。
本当にこんな事で意識が無くなるなんて事があるのだろうか?
ところが曲線半ばで、岡部はわずかにだが竜を停止させるような動きをした。
その動きで竜は少しづつ速度を緩めた。
津野の目にも、はっきりと岡部の異変は見てとれた。
津野は竜に鞭を振り一気に加速すると、岡部の竜に並走し手綱を引いて竜を急停止させる。
岡部は完全に気を失っているらしく、停止の衝撃でぼてっと落竜。
津野も落ちる岡部を支えようとしたのだが、加速しすぎて通り過ぎてしまった。
長井は直線でちらりと後ろを振り返り、二頭が付いてきていない事に気づき速度を緩め、逆走を始めた。
「おい! 大丈夫なのか?」
長井が大声で津野に叫んだ。
「大丈夫です! ただ落ちただけですわ!」
津野はそう言って手を振った。
二人は岡部の竜に岡部を荷物のように乗せ、ゆっくりと三頭並んで元の輪乗り場に戻ってきた。
戸川は、その光景を見てまさかと呟き腰を抜かした。
長井はそんな戸川を見て、気を失ってるだけだからと笑った。
観覧台から吉川と相良が戻ってきた。
「どうやら、これやったらしいな」
吉川はそう言って戸川を見て小さく頷いた。
気が遠くなってから岡部は、暗闇の中を彷徨っているような変な感覚を味わい続けている。
手探りで歪んだ空間を泳いでいるような、おかしな感覚でもある。
目の前に一筋の光が映ると、その光は視界一杯に広がっていく。
目が覚めると見慣れない場所にいた。
横にはすみれが座っている。
「気分はどうですか?」
すみれの透き通った声が耳に心地良かった。
「少し眩暈がするだけで他は問題ないです。ここは?」
すみれは、事務棟内の救護室だと教えると、内線で戸川厩舎に連絡を入れた。
「お水、持ってきましょか?」
連絡を終えたすみれは、岡部の顔を見て優しく微笑んだ。
「……麦酒が飲みたいです」
すみれは、それを聞いてにっこり笑った。
「そしたら、お水持ってきますね」
そう言って、すみれは救護室を出ていった。
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