第6話 奥様

 暫く待っていると、家から主が何事も無かったかのようにこちらに歩いてきた。

ぼんやり月明かりの中でもわかるくらい戸川の頬は赤くなっている。


「妻への説明済んだから紹介するわ」


 扉に手をかけ取っ手を回すのだが扉が開かない。

戸川は扉の前で崩れ落ちそうになっている。


「そんな……」


 愕然とした顔で戸川はか細く呟く。


「嘘や嘘、冗談やん」


 中から鍵の開く音がし、かなり細身の女性が扉を開けてくれた。


「戸川の家内です」


 透明度があり小さめの鈴を鳴らしたような感じの声だった。

地味目ながら優しさの溢れた顔で、とても戸川の頬をつねるような人には見えない。

少しゆったり目の薄桜色の上下を着て、長い髪を首元で束ね前に垂らしている。

女性はやや首を傾けじっと岡部を見つめている。


「あ、岡部と言います。騎手をしています」


「キシュ……キシュいうたら音楽に合わせて旗振る人?」


 ああ戸川さんの奥さんだと岡部は妙に納得した。


「母さん、それはもう僕が言うたよ」


 戸川が少し恥ずかしそうに奥さんに指摘する。


「そうなんや。そしたら新聞書く人やね」


「それは記者やがな……」


 二人の世界に全く入り込めずにいると、戸川に後ろから手をまわされ、どうぞと家の中に案内された。




 玄関を上がると、奥さんに案内されるままに廊下を通り客間に通された。


「事前に言うてくれへんから、掃除もできてなくてごめんなさいね」


 異常に綺麗な客間でそんなことを言われても全く説得力を感じない。

あまりきょろきょろしては失礼だと、岡部は促されるままに大机の前の座布団に座った。

横の座布団に戸川が座り、目の前の座布団に奥さんが座る。


 あ、これは怒られるやつだと岡部は直感で感じた。


 奥さんの後ろの壁には、賞状がいくつかと何枚もの写真が飾られている。

ふと見ると戸川は力なく項垂れており、恐る恐る奥さんを見ると、じっとりとした目でこちらを見ている。


「あの、御迷惑おかけして申し訳ありません」


 少しの静寂が刺さるように痛い。

さすがに戸川は耐えきれなくなり何かを言おうとしたが、すぐに奥さんが話し始めた。


「何があったんかは今日は聞きません。どうせそのうちボロ出すやろうし」


 また戸川は項垂れている。

そういえば戸川が自分のことを話す時に、奥さんが怖いと言っていたのを思い出した。


「ゆうげは外で済ましてきはたんやったね。そしたらお風呂湧いてるんでどうですか?」


 戸川もこの空気が堪らなかったらしく、岡部に手で履きだす仕草をし客間を追い出すと、浴場に案内する口実で自身も客間を逃げ出した。


 脱いだものはここに入れておいてと籠を指さした。


「取り急ぎ下着を買うてくるから、ゆったりしといてくれたら良えからね」


 戸川は足早に脱衣所を出て、そのまま外に出て行った。

それほど長湯できる質ではない岡部は、脱衣所で少しのんびりした。

鏡をよく見ると体に見覚えのない痣が無数にできている。


 浴室に入り体を洗い湯船に浸かっていると、戸川から、替え着をここに置くからという声がした。

風呂から上がると、渋い青の寝巻と黒い下着が畳まれて置いてあった。



「お先にお風呂いただきました」


「あげたんちゃうよ、貸しただけやから」


 先ほどの客間に戻ると、奥さんが布団を敷いてくれていた。

奥さんの冗談に岡部が困惑していると、戸川が顔を出し、出世払いでいいぞと囃し立てた。

奥さんもそれを聞くと、やっと笑い出し岡部もつられて笑った。


「本当に御迷惑おかけします」


 岡部は、また奥さんに深く頭を下げた。


 簡単にここまでの経緯を奥さんに話し、本当に助かりましたと頭を下げた。


「困ってる人を路傍に捨ておくようなら人でなしですよ。あの人がそんな人やったら離婚やわ」


 奥さんは岡部に優しい笑顔を向ける。

そんな戸川は現在浴場に行っている。


「朝からどっか行ったきり帰って来へん思たら、あの人、そないなとこに行ってはったんやね。何も言わんと、ゆうげも無駄にして」


 あ、余計な事を言ったかもと、岡部は自分の失言を悔いたが、もう手遅れだある。


「余程、昨日の会長さんとの話が重圧やったんやね。最近ようチクチクやられてるようやし」


 奥さんは風呂場の方角を見て、ちょっと憐れんだ顔をする。


 ふと、奥さんは岡部の寝巻の袖を指差し、どうしたのと驚いた顔をした。


「わかりません。気が付いたら競竜場で倒れていましたので。まだ体中痛くて」


 岡部が痣を見ながら困り顔をすると、奥さんは湿布薬あるからと、ばたばたと客間を後にした。

どこか別の部屋で、何やらごそごそと音を立てた後、また、ばたばたと音を立て戻って来る。


「何から何まで申し訳ありません」


 岡部は、また深々と頭を下げる。


「今日は、ゆっくり休んだら良えよ。明日また先のことを相談しよね」


 奥さんは優しく微笑むと、立ち上がり、客間を出て行った。

すると何かを思い出したようにすぐに戻ってきた。


「そういえば苦手な食物ってあるん?」


「青臭い物がちょっと苦手です」


「あらあ。食べ盛りに好き嫌いやなんて生意気やわあ」


 優しい笑みに透き通る声で岡部をからかうと、厠の場所を教え、奥さんは客間を後にした。



 体中に湿布薬を貼ると、部屋の明かりを消し布団に横たわる。

これからどうするか、最初からある程度覚悟を決めておく必要があると感じている。


 元の世界に戻るのはもう考えない方が良いだろう。

戻りたい、そう思わないでもないが、戻る事を考えるより今を生きていく方が建設的だろう。


 こちらの世界で職と住居を得て生きていく。

職といっても、これまで騎手として生きてきた自分に、一体何の職に就けるというのだろう?

やはり騎手だろうか?


 できれば、あの大鳥のような恐竜に乗って大空でレースがしてみたい。

そう考えると胸の鼓動が高鳴るのを感じる。

自分はやはり勝負師なんだと実感する。


 住居はどうなのだろう?

競馬のように寮があったりするのだろうか?

そもそもどうやって騎手登録ができるのだろうか?



 そうこう色々考えているうちに岡部は意識が薄れていった。

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