第7話
老いぼれの頭は、難しいことなんざ覚えていられない。もしも、寿限無寿限無と唱えられたなら、覚えることなど無理だった。なんでか娘によく似た名前。そんなもの、覚えようとしなくても、簡単に覚えられちまう。
タカヒコのことを考えながら、カゴに味噌と油あげと豆腐と納豆を突っ込んだ。あれ、もうひとつくらい、何か大豆を買おうとしていたような。うーん、うーん。わからねぇから、今日は買わねぇ。どうせ大したもんじゃねぇ。そうだ、野菜……野菜を食おうとしていた気がする。なんでだったか、忘れちまったけど。ふらり、ふらりと漬物コーナー。たくあんよりは、味噌かつおニンニクな気分だな。これが野菜か、わかんねぇけど。結局大豆か、変な奴。今日はきゅうりが高いんだなぁ。ポリポリポリポリ食わなくても、どうせ人生はダラダラダラダラ続いていく。今日のところは諦めるか。別にきゅうりは、なくていい。ネギはわりといつも通りだな。1本買っても仕方ないから、切れてるやつにしておこう。ふぅん、キャベツと牛蒡が特売か。買ってやってもいいけれど、遊びすぎたから金がない。きゅうり同様、諦める。
自分でなんでもできるってのに、店員は俺を年寄り扱いする。ここはセルフパックレジだ、テメェはあっちがいいんじゃねぇか、とニコニコ笑顔をはりつけて、言ってくる。大した量じゃねぇんだし、このくらいできなくてどうする。俺はまだ、神様に冥土へ連れて行ってもらえない、生かされた老いぼれだぞ。意地がひょこりと顔を出した。その意地は、何かを盾にして、隠れた。
「おお、そうか。じゃあ、あっちでお願いしようかな」
「どうぞ」
自分でも、どういう風の吹き回しか、分からない。けれど、今日は、なんとなく、素直に甘えてみようと思えた。きっと、タカヒコのせいだ。あいつの図々しさに触れたからだ。ああして、知らない人に甘えるだなんて、いつの日からか、恥だと思っていた。けれど、時に、甘えは人の心に染みるのだ。知らなかったのか、忘れていたのかはわからない。けれど、確かに、甘えは凝り固まった心をほぐして、あたためてくれた。
今度はタカヒコに、あの、訳のわからない何かを取ってやらねぇとな。あれ、一体どうやったら取れるんだ? 金、だいぶ貯めておかねぇと、だな。この下手くそな老いぼれにゃ、銭打たにゃ、あれは取れねぇ。
大豆だらけのビニール袋を、ぶらぶらと揺らしながら歩く。
今日も世界は、乱暴だ。
チリンチリンとそこのけそこのけ、プッププップとクラクション。人形のように立ち尽くす婆さんは、手が届く範囲の時の流れを歪めているかのように、乱暴な世界に小さな異界を作り出していた。カモが、ひとり。
「ハハハ、今日は気分がいい。カモさん救ってやっかなぁ」
婆さんの話し相手を代わってやろうと、ふたりに一歩、また一歩近づく。
ヴィーン――
乱暴な音が、蚊の羽音のように、遠く聞こえた。
目指す先、ちらりと見えた、左頬にホクロ。
ブルン――
婆さんが飛ばしたチラシを取ろうとしてんだろう、ぐいと伸ばした左の手。合谷に、痕。
ドン――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます