境怪異譚
きりしま
始まりの怪異
第一話 はじまりの怪異
日常とは、これといった面白味のないものである。大きなトラブルに見舞われることもなく、同じような毎日を過ごすことが、多くの人にとって日常を指すだろう。それがどれほどに大事なものだったのかは失ってから気づくのもまた常。人というものはすぐそばにある幸せに気づけないようにつくられている。
大学に入ってから祖母に会いに行く頻度は下がり、年末年始も友人と初詣に行くことを優先し、お盆も親について行かなかった。最後に見た、涼子ちゃんが元気ならそれでいいの、と家庭菜園で焼けた肌をくしゃりとさせて笑う顔が思い出されてまた涙が零れた。体調が悪いなどと知らなかった。母も知らなかったと言い、亡くなったのも突然だったそうで、祖母と同居していた叔父すらも困惑を見せていた。もっと会いに行けばよかった、と今更後悔したところで遅い。
祖母が手入れをしていただろう家庭菜園を、縁側に座りぼんやりと眺め、涼子は柱にこつりと頭を預けた。もう二年も来ていなかったせいか閑散とした家庭菜園は少し物悲しい。ふぅと息を吐けばひんやりとした白い息が飛んでいった。年末も間近、クリスマスを目前に控えた十二月二十日、友人たちにはSNSのグループで喪中になることを伝え、初詣は辞退をするといった。息抜きは大事よ、と言ってはくれたが、さすがに意気消沈している母を置いてどこかに出かけるのは憚られた。
空気の読めない一人がお土産よろしくね、と返してくるのをいっそ笑い、小さく息を吐いてスマートフォンを膝に戻した。
山間の集落での葬儀は隣組の人たちが手を貸してくれるらしい。こういった田舎の雰囲気にも馴染めず、足が遠のいたのも一端ではある。大学が決まったお祝いをしようと言ってくれた祖母と叔父。両親と共に帰省したあの冬、そこで涼子は嫌な思いをした。誰かに危害を加えられたわけではない。祖母も叔父もお祝いをしてくれただけだ。ただ、この山間の空気が涼子を嫌な思いにさせたのだ。あれも今日と近い日付けだった。
今回も祖母の葬儀に手を貸してくれる自分よりもはるかに年上の男、その目が涼子には気味が悪かった。偏見かもしれないと、小さな自分を可愛がってくれたその人に対し申し訳ない気持ちもあった。変わらぬ人付き合いを心がけようとした涼子に、男は言った。
かわいそうに、にげられないぞ。
それがどういう意味なのか涼子は理解ができなかった、しなかった。怖くなって親に頼んで滞在日程を切り上げて帰宅したからだ。祖母の寂しそうな顔を思い出した。
「涼子、ちょっと来なさい」
喪服の母に呼ばれ縁側から立ち上がる。祖母の部屋に連れられて、そこで開かれていた呉服屋に視線を巡らせた。おいで、と部屋の中央に呼ばれて着物を体に合わせられる。
「おばあちゃんの遺品も整理していかないといけないから、あんたにもね」
「着物なんて着ないよ」
「来年はだめでも、再来年の初詣には着れるわよ。おばあちゃん、着物は良いものを持ってたから」
浴衣だって着ないというのに本当に着るだろうか。これをきっかけにすればいいと母は総友禅の着物を次々に当てて、たたみ、たとう紙で包んで桐の箱に戻す。四箱も持って帰って仕舞う場所があるのかと変な心配をしてしまった。
「うちの家系の一番若い女の子はあんただけだからね」
叔父に子供はいない。父方の従兄弟はいても女はいない。そのせいで苦労もしたのだが、こういう時には総取りだ、と母は笑った。その顔が無理矢理で見ていて辛くなった。だから好きにさせておこうと思った。
暫く母に付き合って呉服屋ごっこをしていれば、あら、と小さな箱を開けて母が首を傾げた。
「お母さん、こんなの持っていたかしら」
「なに? お宝?」
「そうかも?」
揶揄うように声を掛けて母の後ろから覗き込めば、綺麗な朱色のブローチだった。小さな桐の箱、丁寧に包まれたそれはとても高価なもののように思えた。つやつやとした赤い表面は触ったら指紋がつきそうなほど磨かれていた。思わず吸い寄せられるようにそれに手を伸ばし、振り返った母に尋ねられた。
「何かしらね、これ。石? サンゴ?」
「叔父さんに聞いてみる? おばあちゃんの大事なものかも」
「そうね、お母さんの思い入れのあるものなら、いっそ御棺に入れてあげてもいいし」
母がそれを持って叔父の名を呼び部屋を出ていく。母の着せ替え人形が疲れたのか、涼子はそうっと座り込んだ。あの艶やかな朱色がなぜか忘れられなかった。
祖母の葬儀は恙なく終わった。通夜も、通夜振舞いも、告別式も、滞りなく。手伝ってくれた隣組の人たちもただ故人を偲んで、あの人も黙って酒を飲んでいた。お骨を拾い、納め、年越しまでいるつもりだったが降雪の予報もあり、叔父にあとを任せて父の運転で帰路についた。とても疲れた。実の親を亡くした母の心労に比べれば随分ましだろう。ふと母を亡くすことを想像してしまい、もっと一緒に時間を過ごそうと思った。
変わらない日常に帰ってきた。例年より少し慎ましやかにクリスマスや年末年始を終え、新しい一年がやってきた。二年の後期、もう就職活動を早々に始めている人もいる。自分の将来をどうするべきか考える頃だ。
涼子は家のソファで寝転びながらスマートフォンをいじり、飽きてぽんと腹の上に置いた。就職といったって、どこに行けばいいのだろう。
元々、テーマパークにもなっているアニメの元言語に憧れて、いつか世界中を飛び回ってみたいと思い、英語を勉強し始めた。好きこそものの、まさしくその状態で大学も英文学科を選んだ。実際、面白かった。リーディングもスピーキングも、リスニングもライティングも高校の時よりも専門的に勉強ができ、それを用いて英語圏の文化の勉強にもなった。二年になったらもっと深く論文などを英語で読むこともして、英文学について造詣を深めた。時代により文法に若干の差異もあれば、その当時の流行りの言い回しなどもあって、同じ講義を取っている友達とそれで盛り上がったりもした。
けれど、実際にこれをどう社会に活かせばいいのだろう。パッと思いつくのは旅行代理店、海外への添乗員としての随行や、現地とのやり取りが想像の中で浮かんだ。けれど、これはコミュニケーション力も高くなければ難しい気がした。
「一年の時に交換留学行けばよかったかも」
涼子の大学はイギリスの大学と交換留学をしており、一年の後期の学期を全て留学に費やすこともできた。もちろん、費用はかかる。学費を親に甘えている分行きたいと言えなかった。いや、言い訳だ。素直に言うならば大学に入って友人と遊ぶのが楽しくて、行くという選択肢がなかった。二年になって、留学に行った人と自分との差を感じるようになって、初めて後悔した。今からできることをやっていこうと自分を奮い立たせ、ため息を吐いた。
タイミングよくチャイムが鳴って、母が対応に出た。しばらくしてぱたぱたとスリッパの音が戻ってきた。
「涼子、叔父さんから荷物来たわよ」
「あ、おばあちゃんの着物?」
「そうそう、ちゃんと送ってくれたみたい」
運ぶのを手伝いなさい、と言われ、段ボールから横長の桐箱を四つ運ぶ。リビングで広げ、こうして明るいライトの下で見るととても見事なものだった。黒地の布に銀糸で刺繍された美しい鶴と細かな柄、紫のグラデーションの生地に大柄の牡丹、薄緑の色合いに舞い散る桜に、雪に舞う梅、独特の防虫剤のにおいはするけれど、ほうっと息を吐いた。確かに祖母は良い着物を持っていたらしい。
「気付けは教えてあげるから、年に一回でも二回でも袖通してあげて。メンテナンスの仕方も教えてあげるから」
「難しい?」
「手間は手間よ、でも、手入れをすると長く持つから」
ふぅん、と涼子はまず畳み方から教わった。
玄関の段ボールを片付けようと近寄れば、中にもう一つ小さな箱があった。底に置いてあったそれはあの日、母と共に覗き込んだもののように思えた。一番下に手紙もあって、涼子はどちらも持ってリビングに戻った。
「叔父さんから手紙入ってた」
「あぁ、ありがと、何かしら」
さくさくと開いて母が目を通し、あら、と言って涼子を振り返った。
「その小箱、涼子にあげるって」
「私に? 御棺に入れなかったんだ」
「叔父さんもそれ、あるの知らなかったみたいよ。綺麗だし若い子の方が使うんじゃないか、って。葬儀のどたばたで渡し損ねちゃってごめんね、だって」
別にいいのに、と言いながら箱を開ければ、朱色のブローチが涼子の前でちかりと輝いた。あの時と同じ、指紋一つついていない綺麗な状態で紙に包まれていた。
「すごく良いものだよね、これ。普段使いは難しいなぁ」
「気にしないで着けてみたら? ちょっとババくさいって言われちゃうかもしれないけどね」
「物はいいんだし、それは大丈夫だと思うけど。うん、まぁ、そうだね、新学期にでも」
お母さんは着物仕舞っちゃうから、涼子はそれ部屋に置いてきなさい、と言われ、自室への階段に足を掛けた。二階に上がり奥の部屋、好きなキャラクターの抱き枕が置いてあったり、学校の参考書が置いてある机、柔らかいピンクのカーテンの自室に入る。ベッド横の棚、小物入れや化粧品を入れている引き出しを開けて、隙間がある場所を探した。まるで元からそこがそうだったかのように小さな桐箱がすとんと収まった。紙を開いてその光沢をついと撫でてみた。指紋がついてしまい、ティッシュで軽く拭った。
銀細工のついたそのブローチ、今度の講義で着けていこうと思った。
その夜、涼子は夢を見た。
鈴の音が鳴り響き、鼓を叩く音がした。昔どこかで聞いた祭囃子。どこだろうと音の出所を探ろうと振り返り、鉈を振り上げた女に悲鳴を上げる。飛び起きて部屋を見渡す。女はいない。目の前に迫ったあの恐怖から逃れられた安堵感に涙が浮かんだ。
この夢がかれこれ二週間も続いていた。
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