第二話 大学の噂



 一月、二月は講義が少ない。大学に行く日数もその分減り、友人と話す時間も同様に減少する。学期末の試験は早いものであれば一月下旬に終わり、選択科目により春休みは二か月にもなる。

 その間に運転免許合宿にいく者もあれば、バイトに明け暮れる者もいる。逆に今まで貯めたバイト代で長い旅行やご褒美代わりの楽しみに興じる者もいる。こうした自由な選択ができるのも今だけなのだ。

 社会人になれば良くて週休二日制、有給の残数と戦い、夏季休暇は職により同僚と重ならないように調整しなくてはならない。最近は働き方改革やワークライフバランスなどの言葉が定着し昔ほどではないらしいが、それでも学生の時に味わった自由はない。大学のOBやOGは必ず言う。学生の時にしかできないことをやっておけ、と。

 きっとそれも社会に出てから本当の意味で痛感するのだろう。



「涼子、顔色最悪だけどどうした」


 数少ない講義に参加するために久々の通学、大学のカフェテリアで眠気覚ましのコーヒーを飲みながら時間をつぶしていれば、同じ講義に参加するために来ていた友人に声を掛けられた。二週間まともに寝られていないのでコンシーラーでは隠し切れないくまがある。涼子は力なくにこりと笑い、友人はなんだなんだと苦笑をしながら隣に座った。リーディングのクラスで隣同士になってからよく話すようになった瑞希みずきはよく一緒に遊びに行く友達だ。お洒落で、ベリーショートの髪がまたキュートだ。この時期は寒いと言うが手入れを考えると楽なのだとさっぱりとした笑みを浮かべるタイプだ。


「瑞希、夢見のよくなる方法ってない?」

「おーし、話してごらん」


 カフェオレ奢りね、と言われ、笑って仕方ないなぁと五百円を渡す。瑞希はさっと買いに行って、涼子のおかわり分のカフェオレも買ってきた。奢りと言いながら同額を返す、お釣りはきちんと返してくれる。いつもの流れだ。貸し借りをしたくないのだと前に言われ、そういう子だからこそ長く付き合える気がした。

 涼子が夢の話をすれば瑞希はゴシゴシとメイク落としシートで目元を拭ってきた。せっかくのメイクが落ちてしまうので嫌だったが、目元を下に引っ張られて瑞希は心配そうに言った。


「それがおばあさんを亡くしたストレスかどうかわかんないけど、あんた本当に酷い顔してる」

「瑞希がメイク取っちゃうからでしょ、やり直さないといけないから全部一回落とさないと。シート三枚くらいちょうだい」

「いいよぉ、なんだったらメイクしてあげよっか」

「瑞希みたいなバチッとメイクは私には似合わなかったでしょ、すっごい笑われたの覚えてるんだから」

「あたしは顔が濃いもんでぇ」


 ほら、と瑞希が言葉とは裏腹に優しい手つきで顔全体をシートで撫でていく。小鼻、目元では数秒置いてから拭き取る丁寧さもある。顔と首の境目もしっかり拭いてから折り畳み式手鏡と化粧ポーチを差し出し、瑞希は言う。


「あんたそんなにおばあさんに懐いてた? 話は聞かなかったけど」

「好きだったけどそんな……、普通に良い祖母、良い孫の関係だったと思う。それに、鉈を持っている人はおばあちゃんじゃないよ」

「なんか追い詰められることでもあった?」

「就職活動かなぁ」


 あぁ、と瑞希がテーブルに雪崩れた。カフェテリアでメイクをやり直すのもどうかと思ったが、人も少ないのでさっさと済ませよう。下地を塗りながら瑞希をちらりと眺めた。下地が乾くのを待ちながら次のリキッドファンデーションを出していれば瑞希が顔を上げた。


「でも就職活動で苦しむのって鉈振り回すババァに追われるもんか? 夢診断とか見た?」

「みたみた、変化への不安とか、人間不信とか、何かへの不安とかだって」

「えーそれで同じ夢二週間も見るかぁ?」


 かといって、これで医者に行くというのも少し嫌だった。しばらく無言で瑞希はカフェオレを飲み、涼子は着々とメイクを終わらせた。途中、このアイライナー安いけど使いやすいよ、とオススメされ、実際にとても使い心地がよかった。近所のドラッグストアにあったはずなので帰りに寄ろうと決めた。

 話題は再び夢の話に戻った。


「なんか切っ掛けってないの? 突然見始めて二週間なんでしょ?」

「そういえば、おばあちゃんの形見分けでブローチを貰ってからかも」


 どれ、と言われたのでこれ、と鞄から取り出した。


「持ってんのうける」

「お母さんが着けなってうるさくて、でも失くしたらちょっと、高そうで」

「すごい良い色してるもんねぇ、持ってみてもいい?」


 差し出せば瑞希はひょいとそれを持った。銀細工の周りの装飾を摘まんで指の中でくるくると回し、ちょんと赤いところに触れた。うわ、すごい指紋ついた、と慌ててティッシュで恐る恐る拭い、ほぅっと息を吐いて箱に戻した。


「これなんの素材だろうね」

「わかんない、保証書みたいなのも入ってないから」


 ふうん、と瑞希は首を傾げ、そうだ、と手を叩いた。


「涼子さ、七不思議ってどう? 興味ある?」

「なに、突然。ホラー映画とか苦手なんだけど」

「あたし結構好きなんだ、よかったら覚えておいてよ」


 ぐいっと身を寄せて瑞希が囁いた。


「この大学に、幽霊と話せるやばい奴がいるって噂があんのよ」

「その噂がなによ?」

「いやぁ、祖母の葬式から戻って形見分けを貰ってから、なんてちょっとオカルトじゃん? 眉唾かもしんないけどさぁ、火のない所に煙は立たぬって言うし」

「えっと、おばあちゃんが悪いってこと? もしかしてあの鉈振り回してるのがおばあちゃんってこと?」

「そうじゃないって! ただの雑談! 講義終わったみたい、行こ! この話はまた後で!」


 前の講義の終わりを告げるチャイムが響き、空になったカップを振って片づけを要求された。にっと笑うその顔にまぁいいや、とメイク道具を片付け、涼子も立ち上がった。



 必修科目の他に教養科目と呼ばれる講義がある。必修だけでは単位が足りず、教養科目を足すことで単位が満たされる。この教養科目を一、二年でフル取得することで、三、四年は必修だけにすることもできる。涼子は三年に教養科目を一つ足せば足りる程度、のんびりと構えている。

 来週にはテストを迎えるこの講義は教養科目なので様々な学部の学生が、カフェテリア以外どこに居たのかと思える程度の人数が大教室にいる。上から下へ向かってばらばらと座っている中、涼子と瑞希も席に着く。


「涼子、ほら、さっき話してた噂の奴、あいつだよ」


 つんとつつかれて視線の方を振り返れば、一番後ろの角の席にヘッドフォンを首掛けた男子学生がいた。元々ツーブロックなのだろう、髪が伸びてやや落ちており、じっと目を瞑っていた。講義が始まるまで寝ているのかと思えば、ぱちりと目が開いてこちらに視線が向いた。ぱっと顔を前に戻した。


「この距離聞こえるわけないじゃんね? やっぱなんかあるよぉ、あいつは」

「もう、いいから見ないで。プリント回ってきた」


 いつの間にか教員が来ていて前からプリントがばさばさと回って来ていた。嫌な思いをさせたかもしれない。けれど、わざわざ謝りに行けばそれはそれで嫌な思いをするだろう。今のは少し、後ろを振り返っていて目が合っただけと自分に言い聞かせた。


 今日唯一の講義が終わり、鞄にノートと教材を仕舞い込む。立ち上がって振り返ればあの男子学生はもういなかった。それにホッとするやら申し訳ないやら、涼子は上着を着て鞄を肩に掛けた。


「涼子、今日はもう終わり? 終わりならお茶して帰らない? 喋り疲れたらよく寝れるかもしんないよ」

「瑞希大好き」

「よしよし、コーヒー飲みに行こ」

「それはそれで寝れなくなっちゃいそう」


 あはは、と笑い、こうして友人がいることに感謝をした。その日、涼子は夢を見ずに眠ることができた。



 翌日は講義がなく、涼子は眠れた幸せもあり、もう少し惰眠を貪ってからテスト勉強をすることにした。昨日の講義までがテスト範囲なので記憶はまだ新しいが、去年の分が薄れていた。そのあたりを復習しなくては落としてしまう。布団の中でもぞもぞしていればスマートフォンがメッセージの取得を知らせてきた。のそりと布団と外の境界でスマートフォンを開けば、昨日励ましてくれた瑞希だった。

 チャットの画面に思わず起き上がった。夢を見た、鉈を持ったババァに追いかけられる夢、と書いてある文字を二度、三度読んで困惑した。次いで、瑞希からは話を聞いて印象的だったのかも、と語尾に草の生えた一文も届いた。もし明日も見るようなら連絡しちゃうからね、とこちらも明るい文面で来て、その時は教えて、と返した。眠気も飛んだ。涼子はベッドから降りて階下へ足早に降りて行った。

 両親はいなかった。平日なのでどちらも仕事に出ており、冷蔵庫を覗けばお弁当の残りがラップしてあったので一先ずそれを電子レンジに入れた。瞬間湯沸かし器に水を入れてスイッチを押す。レンジのブーンという音を聞きながら、言い知れない不安が背中に張り付いて取れなかった。ホラーは苦手なのだ。

 チン、と鳴った音に一人飛び跳ねて、紅茶のティーパックをコップに入れ、湯を注ぐ。そこまでしておいて居ても立っても居られず、スマートフォンに飛びついた。電話の先は祖母の家、今は叔父の家だ。少しの時間を置いて、はい、と少しだけ訛った声が出た。


「叔父さん、涼子だけど。ごめんね聞きたいことがあって」


 送ってくれた祖母のブローチのことを問えば、いやぁ、と首を傾げるような声が返ってきた。


『俺も興味ないもんだからよく知らないんだよ。うちも何代か続いてるから、もしかしたらばあちゃんの物じゃなかったのかもなぁ』

「なんかそういうの、他にもあったりする?」

『探せばまだあると思うぞ、まだまだ片付け終わらないなぁ、これは……』


 忙しいところごめんね、と言えば、いいよ、と叔父さんは優しい声で電話を切ってくれた。瑞希からすればこうして親戚付き合いのある涼子は珍しく思えるらしい。彼女は親もざっくばらん、言い方が悪ければ面倒くさがりで人に合わせるのが苦手、自分のことは自分でやれと父方の親族と大喧嘩をして別れているらしい。明日は水曜日、瑞希は講義がある。涼子は明日も大学に行こうと決めた。



 カフェテリアのいつもの位置に居れば瑞希が驚いた顔でいつもの席に座った。


「どした? 図書館にでも来た?」

「瑞希、夢は?」


 あぁ、と合点がいった様子で瑞希は笑う。


「今日は見なかったよ」


 ホッと息を吐けばよしよしと瑞希に撫でられた。話して見なくなったのだから、本当に何かのストレスだったのだろうか。気にし過ぎだよ、と苦笑され、ようやく肩から力が抜ける。


「せっかく来たんだしまたお茶してく?」

「バイト代入る前だから今日は別のところでいい?」

「いいよいいよ、じゃあこのカフェテリアでいいじゃん?」


 うん、と笑って、瑞希が次の講義に向かうまで雑談を楽しんだ。


「あいつも今日講義あるんだね」


 ふと瑞希が視線をやった先であの男子学生を見つけた。今日はヘッドフォンをしっかりと耳に当て、何かを聞いているらしい。離れたところに座って無料の水のカップを前に教材が開かれている。態度とは違い、真面目なのかもしれない。視線を送り過ぎたのかまた男子学生がバチリとこちらを見た。


「すげーまた気づいたよあいつ」

「ほんとだ、すごい」


 今度は思わず頷いてしまい、視線も逸らせなかった。男子学生は遠目でもわかるくらいのため息を吐いて荷物を片付け、水のカップをゴミ箱に投げ捨てるとカフェテリアを出ていった。驚きのあまりそれも全て眺めてしまった。人付き合いの苦手な人なのかもしれない。だからこそヘッドフォンを常に身に着けているのか。今度は心から悪いことをしたなと思った。チャイムが鳴ったので、その移動のタイミングと合ったのだと思いたい。


「んじゃ、行ってくる! 暇つぶしてて!」

「はーい、いってらっしゃい」


 瑞希が明るく席を立ち、軽やかな足取りでカフェテリアの階段を降りていく。それを見送り、涼子は気が抜けて少し眠って待とうとハンカチを枕に寝床を整えた。スマートフォンのアラームが鳴って、チャイムが鳴っても、瑞希は戻らなかった。



 ごめん、医務室、とチャットが来たのは講義が終わってから一時間もした後だ。慌てて駆けつければベッドに座って足を椅子に載せている瑞希が手を振った。


「どうしたの!?」

「いやぁ、段差で足滑らせちゃって」


 講義終了後、席を立ち教室を出ようとして三、四段の階段を滑ったという。足首を捻ってしまい、その場にいた人たちが運んでくれた。湿布を貼って包帯を巻かれ、鎮痛剤が効き始めてから思い出して連絡をした、と言われ、涼子は隣に腰掛けた。心配したと文句を言えばごめんって、と瑞希は笑う。


「この後、医者に行きなさいね。これは応急処置なんだから」

「はぁい、わかってまぁす」

「それから、あなたを連れてきてくれた子にもちゃんとお礼言いなさいよ」


 医務室の保険医に言われ、瑞希は肩を竦めた。


「瑞希、鞄、駅まで持ってあげようか」

「えーん、涼子大好き」


 ぎゅっと抱き着いてくる瑞希に笑っていれば、がちゃりとドアが開く。ヘッドフォンからジャカジャカと音漏れをさせながらあの男子学生がこちらに気づき、眉をぎゅっと潜めた。短い期間に二度も目が合っているからか、こちらの好奇心溢れる視線が不愉快だったか、向こうもしっかりと把握しているらしい。無言で差し出されたのは瑞希の化粧ポーチだった。


「ありがとー、助かったわ。うわ、ファンデ割れてる最悪……」


 男子学生は無言で踵を返して医務室を出ていこうとしたので、涼子は立ち上がって声を掛けた。


「あの、ありがとう。それから、ごめんね?」

「お前」


 初めて聞いた声は声変りをした低い男の声だった。


「うるさい」


 え、と短く声を上げているうちにドアは勢いよく閉められ、涼子は茫然とそれを見ていた。



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2024年12月15日 12:00

境怪異譚 きりしま @valacis

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