第6話

 その日、まっすぐ家に帰った私は、引き込まれるようにベッドに倒れこんだ。

 何も考えられなかった。ただ眠りたかった。

 

 眠りの中では何度も、榛原や小山の言葉を聞いた。

 僕じゃない、僕は知らないと、彼らは私に訴えた。

 じゃあ、誰なの?と声にならない声で私は叫び、闇の中に河野の姿を見つけた。河野は後姿だった。

 振り向かなくていい。振り向かないで。そう願うのに、河野の姿は徐々に大きくなった。

 

 目が覚めたとき、背中に冷たい汗を感じた。ベッドの脇のサイドテーブルに、はずしておいたままの腕時計があった。ベッドに入る前に消し忘れたキッチンの電気が部屋の中に細い光の帯を作り、かろうじて時刻を知ることができた。まだ今日一日は終わっていなかった。

 

 喉の渇きを覚え、キッチンでコップに水を汲んだとき、電話が鳴った。織田先生だった。

「その後、どうしただろうと心配になってね」

 夢の重さから抜け切れないせいで、私の声は沈みがちになった。

「ありがとうございます。でも、だいじょうぶです」

「榛原には、会ったのか?」

「はい。小山君にも連絡が取れて、今日、会いました」

 話したいことはたくさんあった。彼らから聞いたこと、そして出した結論。けれど、うまく伝えられそうになかった。先生は信頼のおける人だが、それだけに、ひとりの女をめぐる愛憎の渦は理解できないだろう。

「もし、白骨死体が漣子であれば。もし殺されたのが、漣子なら。私、警察に言えることがたくさんあります」

 

 警察に何を言うのか。順序立てて言う自信はなかった。けれど、行かなくてならないと、思う。そうでなければ、あまりに漣子が惨めだ。

「明日、警察に行くつもりです」

 私の決心に、先生はただ、そうかと言っただけだった。

 近日中に報告することを約束して、私は先生との会話を終えた。疲れていた。先生と話したおかげで、いくらか気持ちは楽になっていたが、眠りはなかなかやって来なかった。

 ようやく意識が朦朧としはじめたとき、かすかに雨の音を聞いたように思った。



 雨は翌日の午後になってもやまなかった。私は昼休みに早退届を出し、会計士協会の編集者と待ち合わせる、いつものホテルへ向かった。

 早退届は警察へ行くために出したのだが、午前中に担当の編集者から電話が入った。急ぎの翻訳だという依頼を、私は断ることができなかった。副業である翻訳の仕事は、私が会計専門だけに途切れることはないが、気ままに断れるほど強気に出られるわけでもない。書類を受け取って、その足で警察へ向かうつもりだった。

 

 時間より早く来てしまいましたよと苦笑する編集者から書類を受け取り、私は待ち合わせのロビーを後にした。出口へ向かいながら、ハンドバッグから手帳を取り出し、警察署のある住所を確認した。神奈川県警は横浜の中華街に近いようだ。

 住所を確かめ、顔を上げたとき、私はひとりの男に目が釘付けになり、立ちすくんだ。正面玄関の自動ドアを出て行く男に、見覚えがあった。大柄で広い背中、忘れられない歩き方の癖。

 男はロータリーへ出ると、そのまま傘もささず、緩やかなスロープになった歩道を進んでいった。あれは、きっと。私は足を速め、男の後を付いていった。


 男が振り向いたのは、私の髪が雨でじっとり濡れてしまった頃だった。ホテルからはとうに離れ、地下鉄の駅の近くに来ていた。

「――伊藤じゃないか」

 それが十年ぶりに発せられた河野の言葉だった。

 河野の視線は私の手にある傘に注がれた。傘を持っているのにずぶ濡れな私を訝ったようだ。

「夢中で追いかけてきたから」

 私は両手で髪を整えてから、傘を広げ、河野に差し出した。

「いいよ。おまえがさせよ」

「でも」

 すると河野は腕を延ばし、私から傘を取り上げると、私を引き寄せた。紺色の、小さな女物の折り畳み傘だった。私の片腕が河野に触れる。


「こんなところで、昔の知り合いに会うなんてな。こんなこともあるんだな」

 河野は歩き出しながら、静かに呟いた。



 雨の中をしばらく歩いた後、私たちは地下鉄の駅にやってきた。仕事で神保町に向かうという河野にしたがって、駅のホームのベンチに腰を下ろしたのだった。


 雨に濡れたせいばかりじゃなく、河野はどこかうらぶれた感じをまとっていた。高校時代の押し出しの強さは影をひそめ、まわりから一歩引いたような目をしている。 

 私の横で濡れた傘を弄ぶ男を、私は小さく感じた。

 

 電車がホームに滑りこんで来、また遠ざかっていった。乗降客のざわめきが静まったとき、河野が口を開いた。

「十年ぶりになるんだな。あの同窓会の夜以来……」

 私は思わず前髪に手をやった。横にいるのは、雨に濡れた髪では会いたくない男だった。

「仕事で?」

「ええ。あのホテルで待ち合わせがあって」

 どんな仕事なのか、河野は訊いてこなかった。興味はないといったふうに、そうかとだけ呟き、視線を手元に移した。傘は乾きはじめている。


「河野君も、仕事?」

「ああ」

 私もそれ以上は尋ねなかった。同窓会名簿の河野の部分は、毎年必ず目を通してきた。ここ二、三年、職業欄が空白だった。

「会えてよかったわ。訊きたいことがあったから」

「訊きたいこと?」

 私は唾を飲み込んだ。

「同窓会の夜のことで」

 河野が振り返った。


「覚えてる? ビンゴゲームをしたときのこと。あのとき、河野君、私の手を握ったのよ」

 私は何を言おうとしているのだろう。

「伊藤の手を? 俺が?」

 そう。あれが河野と肌を触れた最初で最後だった。ゲームが終盤になりかけたとき、偶然河野と私は隣同士だった。河野のカードは、あと一息でビンゴだった。ようし、次は出るぞ、絶対出るぞ。そう言って河野は私の手を握り締めたのだった。


 酔っていたのだろう。

 周りの馬鹿騒ぎに呑まれた一瞬だったのだろう。

 けれど私には、忘れられない一瞬だった。私の青春を左右する、その後の人生も左右する一瞬だった。

 

 あのとき、私の胸に、漣子への憎悪がはっきり芽生えた。ゲームの進行に夢中な河野の横顔を見つめながら、私は漣子を呪っていた。


「――思い出せないな」

「いいの。ただ、嬉しかったから」

 河野が私の目を見た。

 あなたのこと、想い続けてきたのよ。そう言おうとしたとき、また次の電車が来た。ホームは乗降客で溢れた。静かになったとき、気持ちを打ち明ける機会は去ったように思われた。


「三日前にね、あのホテルで漣子の名前を耳にした」

 河野が息を呑むのがわかった。

「聞こえてきたの。私の近くのテーブル席の男性が、佐伯蓮子と口にしているのが」

「――それは」

「その夜にね、神奈川県の山林で白骨死体が発見されたという新聞記事を見たわ。殺された痕跡があるそうよ。記事には、遺留品にダイヤのピアスがあったともあって」

「漣子なのか?」

「――可能性はあると思うわ」

 深い溜息が河野から漏れた。

「……無駄だったって、ことだな」

「無駄って?」

 そして河野は意外なことを言った。

「漣子はあのホテルが好きでさ、行方不明になるまでは、誕生日には二人であのホテルで過ごしていたんだ。だから漣子がいなくなってからも毎年、俺はあのホテルで漣子を待つことにしていた。今年もそうしたかったんだが、どうしても抜けられない用があって、行けなかった」


「会えるかどうかなんて確信のない相手のために、十年も待ってたの? 毎年、あのロビーで?」


 いいようのない寂しさが、私の体を突き抜けていった。様々な出会いがあっても、心の底にある河野への想いは消せなかった。その河野は、漣子への思慕の火をずっと灯し続けてきたというのか。


「じゃ、誰なの? 誰が十年前、漣子を殺したの? お腹の子供の父親はあなたでしょう?」

「違う」

「漣子の妊娠を聞いて、あなたは衝撃を受けてたと、小山君が言ってたわ。あなたは困ったんでしょう? それであの夜、漣子と言い争いになって、挙句……」

「違う。俺の子供じゃない。漣子とはあの頃、そういう関係じゃなかったんだ。俺はあの頃、漣子から離れようとしていたんだ。でも妊娠を聞いたとき、そんな決意はどこかへ飛んでっちゃったよ――悔しくて、悔しくて。それであの夜、漣子に問い質すつもりだったんだ。相手は誰かって」

「それで私に伝言を頼んだ……」

「そうだ。でも漣子は待ち合わせ場所に来なかった。そして、そのままどこかへ消えてしまった」


 両手で顔を覆った河野を見つめながら、私は十年前のあの夜を見ていた。バーの狭い廊下で私を待っていた河野の姿。ありがとう、わかったわと、そう応えた漣子の顔。 

 自分の姿も蘇ってきた。何気ない笑顔で、私は漣子に伝言を伝えたのだ。親切そうに、友人を気取って。



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