第4話
「ほんとにそう言ったのか?」
先生の声は、心なしか上ずった。私は深く頷いた。
「殺してやるって、たしかにそう聞えたんです。清掃のために集まってきた店員たちの声で、私のまわりは騒がしかった。でも、はっきり聞いたんです」
「そして、それから店を出たあと、佐伯漣子は行方不明になっている」
その先を想像するのが辛いといったふうに、先生は目を閉じた。私も俯き、膝の上の両手を固く握り閉めた。
「警察に行くべきだと、思う。いや、絶対に行かなきゃ駄目だ。その結果、榛原が逮捕されることになっても」
昨日から迷い続けてきたことに、先生がはっきり答を出して下さった。そう。警察に行くべきだ。元のクラスメイトを容疑者にすることになっても、それによって、もうひとりの元クラスメイトの魂が救われるのなら。
「私もいっしょに行こう」
私は首を振った。
「だいじょうぶか? そのために私を呼び出したんだろう?」
「いいえ、だいじょうぶです。先生を呼び出したのは、私の考えを誰かに言いたかったから。それに、先生、私、今は高校生じゃないんですよ」
「そうだな。君は昔から強い女の子だったし」
私は返事の代わりに笑顔を作り、
「でも、警察に行くのは、
先生の顔が曇った。
「確かめるって、何を?」
私は深く息を吸って、言った。
「真実を、です」
榛原と連絡が取れたのは、翌日の午後も遅くなってからだった。連絡先はすぐに知ることができた。同窓会名簿にあった勤務先の大学の研究室が十年前と同じだったからだ。
待ち合わせた店で、私はすぐに彼を見つけることができた。店の入口からこちらに向かってくる姿は、高校時代と少しも変わっていないように見えた。
丁寧に撫で付けられた短い髪、細い顎。表情を希薄に見せる厚い眼鏡。
榛原は私の目の前の椅子に落ち着くと、言った。
「どうしたの? 突然」
コーヒーに三つ目の砂糖を入れ、せわしなくかき回しながら、榛原は私を覗きこむように、見た。十年ぶりに交わす同級生に対する挨拶として、素っ気ないものだったが、彼らしいともいえた。
「新聞記事のことで、ちょっと話したいことがあって」
「新聞記事?」
「そう。一昨日の新聞にね、神奈川県の山林で、白骨死体が発見されたことが出ていたの」
コーヒーを飲もうとした榛原が、目を上げた。
「白骨死体は他殺体らしいわ。それと、ダイやのピアスが骨といっしょに出てきたのよ。――漣子かもしれないと思って……」
「それで突然連絡をよこしたってわけか」
榛原の目が、瞬間遠くを見るように細められる。
「神奈川県警に行ってみようと思ってるの。白骨死体が漣子だとしたら」
「身元確認に?」
「それもあるけど、――警察に提供できる情報があるし」
「情報?」
「そう。でも、その前に、あなたに会って訊きたいことがあったから」
私はまっすぐ榛原を見た。
「あの夜の三次会で、もうお開きになる頃よ、私、あなたが漣子と言い争っているのを聞いたのよ」
「僕が、言い争い? 漣子と?」
榛原の声は心なしか、震えた。
「そうよ。私一旦先に店を出たけれど、また戻ったの。そのときあなたと漣子が店のカウンターの脇で話をしているのに気づいたわ。そしてそのあと、私が出入り口のドアのところでゴミ袋を持った店員とぶつかったとき、聞いたのよ、あなたの呟きを。……殺してやるって」
「ちょっと待ってくれよ」
彼らしくもない、まわりを憚らない大きな声になった。
「僕じゃない。僕が漣子を殺すことなんて、できないよ」
「たしかに僕は君の言うとおり、十年前のあの夜、殺してやると漣子に言ったよ」
眼鏡を取り、目頭を押さえた榛原は、箱から大切なものを取り出すように、ゆっくりと続けた。
「大学を卒業してからも、僕の気持ちは漣子から離れることはなかった。十代の頃からひとりの女に執着し続けているなんて、世間ではめずらしいことなのかもしれないけど、本当なんだ。むしろ、大人になってからのほうが、その気持ちは強くなった。肉体関係もあった。会うたびというわけにはいかなかったけど、ときどきなら許してくれた。だけど、悲しいかな、漣子との距離はずっといっしょだったな。たぶん彼女は、一度も僕に恋愛感情を抱いたことはないと思う。従順な下僕とでも思っていたんだろう。彼女がときおり見せた、冷ややかな視線。それが会ったあとに思い出されて、なんで会うんだろうって、もうやめようって、何度思ったかしれない」
漣子を知らない誰かが聞いたら、青臭く、女というものを知らない男の言葉と受け取れるだろう。けれど私には、そうは思えなかった。漣子という女、高校時代の彼らの関係、そして目の前の男の真摯な目は、どの言葉にも真実の息を吹き込んだ。
「漣子はほかにも僕のような付き合いをしている男が何人かいてね。その中に、君も覚えてるだろう? 同じクラスだった河野や小山を」
私は思わず目を伏せた。わかっていたことだが、あらためて榛原の口から河野の名前が出ると、気持ちが乱れる。
「僕は、それでもいいと思っていたんだよ。ほかのやつらにライバル心もあったし。だけどあの夜は」
話が同窓会の夜におよんで、私は我に返った。
「三次会の終わり近くだった。もうかなりみんな酔いがまわっていたな。織田先生が漣子にこんなことを言ったんだ。君もそろそろ結婚を考えたほうがいいんじゃないか。すると漣子はなんだか妙に明るくなって、ご心配なく、もう決めている人がいますからって。僕はその言葉で酔いが覚めたよ。河野や小山も同じだったと思う。そうか、誰なんだ。先生がからかうように訊いた。すると漣子は、僕ら三人を眺め回して言ったんだ。この中のひとりとするんです。冗談には聞えなかった。漣子の目は真剣だったから」
榛原は皮肉な笑いを口元に浮かべた。
「それから漣子が馬鹿げたことをやりだしたんだ。僕ら三人の掌を順番に握って、河野亮一、あなたは佐伯漣子に永遠の愛を誓えますか?」
漣子の得意気な表情が見えるようだった。漣子は人の気持ちを試すのが好きだった。
「僕の順番が回ってきた。漣子は体を僕に向けて始めたんだ。榛原――。ところが漣子はそこで言葉に詰まった。どうしたんだろうとみんなが訝ったとき、彼女はさもおもしろいといったふうに笑った。やだあ、榛原君のフルネーム思い出せないわ。――酔ってたんだと思うだろ。違う。漣子はたいして飲んでなかった。ふと忘れたんじゃないんだ。ずっと忘れたままだったんだよ。――本気で憎しみを覚えたね。そんなことで、どうしてと思うかもしれない。でもこのことに、漣子の薄情が集約されてると感じたんだ」
耳を傾けながら、私はいつしか当時の榛原の姿に、自分の姿を重ね合わせていた。報われない恋に身をやつした榛原の疲れは、そのまま私の疲れでもあった。
「憎んでいたのは、本当だ。でも僕は、殺してなんか、いない。レジで清算を終え、店を出ようとすると、漣子に呼び止められた。あのとき僕は漣子とは口も聞きたくない気持ちだったんだけど、彼女の切羽詰まったような目に、なんとなくそのままにはできなかったんだ。僕は漣子と店の中に戻ろうとした。そのときだ。漣子はまるで人事みたいに、後ろからさりげなく言ったんだ、あたし妊娠したわ、あなたの子よって。――僕はつくづく自分をおめでたい人間だと思うよ。そう聞かされて、自分でもびっくりするくらい嬉しさがこみ上げてきたんだ。だけど、それもほんのつかの間、すぐに作り話だとわかった。口元を両手で押さえて、漣子はクスクス笑い出したからね。その顔を見て、僕はつい呟いてしまったんだ。――殺してやるって」
「それから?」
「それから僕は店の前で彼女と別れたよ。彼女は誰かとどこかで待ち合わせしているみたいだったから」
「そしてそのまま、漣子は行方不明になったわ」
「僕は漣子と店の前で別れた。それが彼女を見た最後だ。嘘じゃない。僕はそのあと彼女がどこに行ったのか誰に会ったのか、知らない」
私には思い浮かぶ顔があった。
漣子が榛原と別れたあと、会いに行った男の顔が。
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