第3話

「じゃ、君は、その白骨死体が佐伯漣子だと思うんだね」

 

 待ち合わせて入ったカフェは、先生の勤務する高校に近いセルフサービスの店だった。ざわついた店の隅で、先生は沈痛な表情になった。

 

 会った瞬間よりも、話をはじめると、時が経ったことが身にしみた。先生の醸し出す雰囲気には、私が職場や通勤で目にする男たちと同じ疲労感があった。

 そして私の方も、同じ感慨を抱かせたに違いない。まだわずかではあるが髪に混じる白髪、痩せてしまった肩。なにより、ひとりで生きている私という女の強さが、あの頃の面影を消してしまっているだろう。

 

 掌の中のコーヒーカップをテーブルに戻し、私は続けた。


「遺留品に身元のわかるものは何ひとつなかった。ピアスひとつで漣子と決め付けることはできないんでしょうけど……」

「君がピアスを見れば、漣子のものだとわかるのか?」

 私は頼りなく首を振った。〇・〇1カラットのダイヤのピアスは、どこのデパートでも買うことができる。その小さな粒に、デザインされる余地はない。しかも漣子の肉体が朽ちてしまった以上、それが遺体のどの部分に付けられていたか断定はできないだろう。

 だが、この情報を警察に提供すれば、身元割り出しの手がかりになるのではないか。

 目を閉じ、先生が呟いた。


「その遺体が佐伯だったとしたら……誰が」

「もし、漣子が殺されているのだとしたら、私、犯人を知っているかもしれません」

 店の中のざわめきが、瞬間途切れたような錯覚に陥った。目を剥いた先生の顔が、目の前にある。

「彼女が行方不明になった夜の足取りを、君は知っているっていうのか?」

 私は曖昧に頷いた。

 そうだ。私には漣子を連れ去った者の心当たりがあったのだ。だが、十年前、私はその名前を警察に告げなかった。

 なぜだろう。なぜ、私は黙っていたのだろう。

 漣子が見つからないまま幾日も過ぎるなかで、私は心のどこかで、私の知っている誰かをかばっていたのだ。私の知っている誰かが、漣子の失踪にからんでいるかもしれない。

 そう思ったから、私は沈黙を守った。憶測だけで警察からの疑いの目を、その人物に向けるわけにはいかない。そう思った。

 

 いや、嘘だ。それだけじゃない。


 私は先生の目を見ることはできなかった。

 漣子の失踪を聞いたとき、私は心のどこかに安堵と、それとは比べものにならないくらい大きな勝利感を味わっていたのだ。

 このまま、漣子が現れなければいい。何度そう思ったかしれない。私は心の隅で、いつも漣子の不幸を望んでいたのだ。

 

 不意に私の頬を涙が伝った。


「あの夜のことをもう一度はっきりさせてから、警察に行こうと思います」

「はっきりさせるというのは?」

「記憶を、はっきりさせたいんです。そうすれば、警察はより確実に犯人に近づけるでしょう」

 あの夜の情景が、私の目の前に蘇ってきた。



 十年前のあの秋の夜、二十代最後の同窓会に集まった者は、先生を含めた十数人だった。場所は麻布十番にある、中華料理店の二階だった。私は少し遅れて参加した。店の入口で二階の客であることを告げたとき、楽しげな笑い声が聞えてきたのを覚えている。

 仕事の都合で遅刻したのは本当だが、遅れて出たいという気持ちもあった。気後れがあったのだ。年齢を重ねて美しく豹変できたというわけでもなく、仕事で自慢になるような業績を上げているわけでもなかった。みんなに交ざって打ち解けたとき、変わらないねと誰もが口にしたのは、素直な感想だったのだろう。

 それでも同窓会の葉書を受け取ったときから、出席すると決めていたのは、目的があったからだった。彼に会えるかもしれない。私の期待はただそれだけだった。

 高校三年間を通じて、私はにはひそかに思いを寄せた相手がいた。彼の名は、河野亮一。


 私が思いを寄せていたことを、河野本人はもちろん、クラスの誰もが気づいていなかった。私は懸命にそれを隠していたし、もし気づいた者がいたとしても問題にされなかったに違いない。彼はたくさんの女子から人気があった。スポーツは万能で、成績も優秀。快活で強引な性格。


 彼にまつわるエピソードの数々を、私はいくつも思い出すことができる。まるで映画の中のワンシーンのように、彼の笑顔やちょっと怒った顔、広い背中のシャツのたゆみや、俯いて机に向かっているときの、髪が頬にかかる様が鮮明に思い出される。同じ教室で、校庭の遠くから、行き帰りの電車の中やホームで、私はいつも彼の姿を追いかけていた。


 今思うと、私はそうして密かに彼を眺めていることに、喜びを見出していたように思う。気持ちを打ち明けて、彼からなんらかのリアクションを受け取ろうとは、一度も思ったことはなかった。思いというのは、密かであればあるほど、胸の中で輝きを増してくるのではないだろうか。大人になっていくつかの恋愛をし、強くそう思うようになった。

 なんにせよ、もし私が河野に気持ちを打ち明けていたとしても、なんの進展もなかったことは明らかだ。彼の気持ちは、いつもひとりの少女に向いていた。

 それは、漣子だった。佐伯漣子。私が思いを寄せていた人の心を占めていたのは、彼女だった。

 

 あの頃、漣子の心は、誰に向いていたのだろう。漣子の信奉者は、河野のほかに何人もいたが、特に目立っていたのは、物静かだったが成績抜群の榛原、テニス部で活躍していた小山の二人だった。

 あの同窓会の夜、二つの円卓に分かれて談笑していたとき、漣子と同じテーブルに、河野と榛原はいばら、そして小山がいたことを覚えている。彼らの視線から、漣子を巡る男たちの戦いが、高校を卒業して十年を経ても、以前終わっていないことを知った。



 ビンゴゲームを最後に一次会が終わり、二次会の居酒屋へ。三次会は麻布十番のわき道にあるバーへ行くことになった。

 漣子、河野、榛原、小山がいた。

 そして私とほかに数人の男女。先生はたしか遅れていらして下さった。

 

 細長いカウンターにもたれて、どんな話をしたのだったろう。誰の顔も、アルコールで赤くなっていた。私もお酒で弛緩した体を持て余しながら、まわりの話にぼんやりと耳を傾けていた。一次会では微妙に残っていたぎこちなさは完全に消え、空気は昔の教室そのものだった。

 

 やがて、漣子を取り巻く三人の男たちに、いいようのない緊張感が漂いはじめた。彼らのときどき絡みあう視線に、漣子がそれを避けるように宙を見る目に、私は何かただならないものを感じ取った。何かよくないことが起こりそうな、嫌な予感がした。

 日付が変わり、そろそろ店が閉まりかけたときだった。私が手洗いから出てくると、狭い廊下に河野がいた。明らかに私を待っていたのがわかった。


『ちょっと、お願いがあるんだよ』

 そう言って河野の顔が近づいてきたときの嬉しさを、いまだ忘れることができない。狭い廊下で、河野と二人きり。私が夢に見た状況だった。ところが、そんな私の期待は、すぐに打ち砕かれた。次に発せられた河野の言葉に、私という女の役目をはっきり知らされたからだ。

『漣子に伝えて欲しいことがあるんだ。直接言いたいんだけど、なかなか機会がなくてさ』

 河野の頼み事というのは、このあと待ち合わす場所を伝えることだった。

 冷えた心で私は頷き、それきり背を向けて去った河野の後姿を見つめた。――伝えてあげるわ、漣子に必ず。


 席に戻ると、誰もが帰り支度をはじめていた。小山と先生がいっしょに立ち上がった。榛原は会計をするために、金を集めていた。河野は伝言を頼んだ安心感からか、もう席にはいなかった。

 結局店の中に最後まで残っていたのは、私と漣子と榛原だった。漣子は早くから席を立っていたにもかかわらず、クロークの前で待たされるはめになった。漣子のコートが迷子になったのである。

 漣子はなかなか出てこなかった。表に出、通りを交差点のところまで歩いたものの、私は気になって店に戻ることにした。まだ河野からの伝言を伝えていなかったし、真夜中の路上は寒くて、少しでも店の中にいたいと思ったのだ。

 ふたたび店のドアを開けたときだ。すでに照明を半分落とした薄暗い店内の、カウンターの横で、漣子と榛原が親密な様子で向かい合っていた。いや、親密というよりも、痴話喧嘩をはじめる前の男女が、相手を罵る言葉を今吐き出さんとしているような。

 

 そのとき、横の通路から店員のひとりが、大きな黒いビニール袋を抱えて出てきた。私がそれに気づかなかったのは、漣子と榛原に心を奪われていたからだろう。私を避けたビニール袋が、ドアの取っ手にひっかかり破れた。汚れた紙や野菜の屑が、無残にも店の入口にひろがった。

 何度も謝ったのは相手の方で、私は恐縮するしかなかった。非はこちらにあるのに。衣服に付いた汚れを差し出されたタオルで拭きながら、クリーニング代を払うという店員に、その必要はないと私は繰り返した。すると、その呟きが聞えてきたのだった。


「……殺してやる」


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