8 最も簡易なる信仰



 夢の中で、ユユは山の中にいた。


 むせ返るような毒々しいまでの青と草の匂いをいっぱいに吸い込んで、あの山だ、と直感した。ぞくり、背筋が泡立った。


 選んだのは逃避の一手、けれどユユの体は動かない。むしろ指先に至るまで、どうやって動かしたらいいのかすら忘れてしまったような心地だ。

 不思議なくらいにいくら気が急こうが、顔の引き攣る感触も、手足に力が入った感覚もないのできっと本当に夢。慣れた位置にある視界の高さからして、姿勢は多分立ちっぱなし。──ただ、見せつけられて、聞かされているだけ。


 眼前にはあの、巨大な赤い一つ目。


 罪を、罪をとユユを誹る声が豪雨のように降り注ぐ。


 リフレイン。アンコール放送。耳にタコができれば片っ端から潰されていくくらい、おかしくなるほどに際限のない糾弾。夢だから、意識の飛ばし方も分からない。


 ──分かってます。


 罪には罰を。一つ覚えで繰り返されるその言葉に、ぼんやりと夢見心地のユユは頭の中でそう唱えた。


 ──だから、お願いですから、これ以上怒らないでください。



 ◆



 吹き込んできた隙間風に震えながら目が覚めて、真っ先に視界に映った白景色にユユは安堵した。

 辺り一面、昨日君月きみつきの言った通りに雪が降り積もっての真っ白しろ。その夢の中の新緑とは真反対の光景に、やはりあれは夢だったのだと確信して、心の底からのため息を吐いたユユだった。


 ──神が復活するという、『果ての二十日』まで残り一日。

 どうにかする手立ても見つからないまま、美曙みあけけいと、行方不明者だけが増えていく現状。


 もうこうなったら指示を待つだけではだめだと、とにかく朝一番でユユはいなくなった二人を探しに出かけることにした。


 奇妙なほどに何も言ってこない君月と、ふらふらしつつも有無を言わさない姿勢を示して着いてきたかなえと残った面子の動向も対照的だったが、いちいち構っている余裕はない。

 足を速めるユユは念の為持ってきておいたマフラーに顔を埋め、逸る気持ちにむぎゅ、と顔をしかめることで一旦蓋をして、


「なァ。どこ行くんだ?」


「分かんないけど……丹羽にわさんとか。あのおばあちゃん、路代みちよさんだっけ、もなんか知ってそうだったし」


 不気味だったけど、あんまり関わりたくないけど。と口の中で呟きつつ。


 突然の雪にもやはりここに住む人々は慣れきっているようで、道は既に除雪されていて歩きにくいということはない。


 そうして仮宿からはだいぶ離れただろうかというところで、──あれ家分かんなくない? というユユの当然の気づき。そういえば普通に考えて、知らない土地だった。

 立ち止まり、ユユが少し気まずく鼎を見ると、やっと気づいたかと言わんばかりの白けた顔。向っ腹が立った。


「……違うから。どっちにしろ離れてるし、まずは真ん中行こうって思ったの。計画」


 仮宿が村の外れにあるのは事実。多分、とりあえず一番中心に向かうのが得策なのも事実。──うん、後付けじゃないと自分を納得させるユユ。反論は聞かない。


 中心部に目的地を定めたところで、一応本当にこの道で合っているか、来た方向を確かめようと振り向いて、


「あれ、人……?」


 村人だろうか、複数名の集団が今しがたユユたちが出てきたばかりの仮宿の周辺に陣取っていて、その謎の光景に「なんで?」とユユは首を傾げる。

 男の人も女の人も──年齢は大人だけだろうけれど、分け隔てなしの大勢だ。

 持ち主は既に亡くなっているということだったし、また彼が何かやらかしたのではないかとユユはそわそわした気持ちになり──、既視感に、気づく。


 それは極めて人口密度の低いこの村で、一度だけ彼らが一所に集まっていたとき。なんとなく、ミツバチが敵に群がるさまを連想した。


「『裁判』の、とき」


 ただ一人の『敵』を取り囲んで自壊を願う、無力な人々による祈りにも似た排斥行為。


 ──そういえばあの人、なんでか喪服着たまんまだった。


 嫌な答え合わせの予感がして、段々とユユの顔色が悪くなっていく。

 仮に、そうだとしたら──、


「あァ。これであいつ、助かったんじゃねえの」 


「あいつ、って……ぁ」


 完成間近の想像絵図、その最後のピースとなったのはユユと同じく振り返った鼎の発言だった。


 頭の中でぱちりと何かが嵌まった音がして、つじつまが合ってしまう。


「言った。の?」


 信じられないものを見る目をして、ユユが溢した一言。『被告』となった若者、熊谷くまがいに何かを囁いていた鼎。内容をユユが聞くと、はぐらかされたこと。その、全ての理由。

 あの顔の下半分に刻まれた黒線は、ぱっくりと割れるような笑みだったのだ。


「なん、っで!? これじゃあの人、死んじゃう、」


「なら、戻りゃいい」


 否定の言葉はなく、代わりに告げられたのは言われたそばから不可能と分かる代替案。提案のていすら成していない鼎の発言にユユは絶句した。


 ──こいつ、最初から。


 やけに従順だったのは、ここぞというときにこちらを嵌めるためか。二人の失踪に関しても、アリバイがあったためとに一度は引っ込めた疑惑だが間違いではなかったのではないかという予感すらしてくる。


 前回は悪事を働くのにわざわざユユから隠れていたくらいだ。一方的だが仮にも六年の付き合い、ユユが見ていればきっととんでもないことにはならない。


 なんて、とんでもない思い違いだった。


「それか、逃げて、隠れるかだ」


 提示された、二つ目にして唯一の選択肢。

 遠目にもにわかに騒がしくなってきた仮宿周辺。幸運にも今はまだ気づかれていないが、いずれこちらも怪しくなるだろうことは必然だった。


 それに今朝の君月の態度もある。彼がユユを何も言わず見送ったのは、もしかしたら逃がそうとしていたのかも、なんてことを考えた。だとしたら、ユユは罪悪感でいっぱいになってしまうけれど。


「……どこ、逃げるの」


「──ハイキングしようぜ、ユユ」


 ユユを置いて少し歩を進めたところで、鼎が首を回してこちらを向く。灰色の空と白く染まった山を背にして立つ、暗灰色と白の無彩色に彩られたセーラー服の『少女』。

 行き場を失い、それしか方法がないことを悟ったユユを嘲笑うように、鼎は歯を見せてそう言った。



 ◆



「『被告』が同じ村の住民という共同体内部の人間の場合、仲間を断罪している事実から目を逸らすため、本人に罪を認めさせるという過程が必要。うん、なるほど」


 冬の遅い日の出ではまだ外も薄暗く──光源は遠くの窓一つのみのため、そうでなくても眠気はやってきただろうが──心地よい霞のかかったままの脳をしゃっきり働かせるべく、君月は口を動かして思考が途絶えないようにする。頭と口が同時に動く状態から、自身の発言の意図を先んじて解するまでになったらおおよそ大丈夫だ。


「しかし、部外者相手にならそんな面倒しなくていい。と、理に敵ってるね。いいじゃないか。いいじゃん」


 しかし賞賛の相手はそこにはおらず、誰もいない殺風景の中、土壁に反響するだけにとどまった。一人はつまらないなあと、人好きを自称する君月であるため少し寂しく思う。

 しょうがないので、君月は五感で感じ取れる情報に専念することにする。──触覚、床は冷たい板敷。嗅覚、かび臭くて好みではない。四畳半ほどの狭い室内、視界を無粋に区切る木の格子。


「座敷牢。もうなんか、さすがだね」


 相手が誰であろうが手を上げることは罪とされているのか、道中非常に穏やかな護送だった。差し当たっては君月も抵抗などはせず、それが功を奏したようで拘束もなしに五体自由のまま通されたのがこの空間──座敷牢。


 ぺたぺたと君月が格子を触ってみると木材は劣化しているが、強固に組まれており握りしめた程度ではびくともしないことが分かる。

 匂いといい手触りといい、牢自体は大分古く使い込まれたもののように感じるが、特筆すべきは牢内、見える範囲で埃などがほとんど言っていいほど落ちていないこと。──つい最近、人の使用した気配。


「人気物件、とか」


 この村で出た直近の『裁判』による死者はかの峰岸教授。奇しくもと言うには作為があったが、どうやら彼が一つ前の入居者だったようで──聖地巡礼、なんて言葉が思い浮かんだ君月だった。


 はてさて、まさしく無味乾燥、見る物も大してない牢獄だ。せっかく案内された先だと、君月はどっかり座り込むと目を閉じ、ここまでの道中に思いを馳せることにした。



「──で、僕の罪状は? 何を訴えようって言うんだい」


 見える範囲で十五名超。倍近くはないとしても、二十名は優に数えるかもしれない人だかり。大勢の聴衆を前にして、君月はそうのたまった。


 白々しく放たれたその言葉に、しかし色めき立つでもない村人の様子に──ああ、と君月は新しく納得を覚える。

 これは以前目撃した『裁判』とは違うのだと。外からやってきた相手に、本人の了承のもと断罪するという村の暗黙のルールは適用されない。『被告』がしらばっくれようが罪を認めなかろうが、既定路線は揺るがない、ゆえに彼らの動揺もないというわけだ。


「──故人を利用して村に入り込み、悪事を働くつもりだったのでしょう」


 瘦せこけた中年、丹羽にわが代表して歩み出てくる。言われたことはあながち間違っていなかったため、どうしようという気持ちになる君月。

 その沈黙は肯定の代わりを果たし、余裕が生まれたのだろう、丹羽の態度がやや高圧的なものへと変わり、


「彼が告発してくれました。警告通り、村の決まりには従ってもらいます」


 告発者と謳われたのは丹羽の傍らにいた若者。年齢に見合わず杖を突いたその姿には見覚えがあり、おやと君月は首を傾げた。立ち姿はそれこそ、『裁判』で見たような──。


「あ、分かった。『被告』くんだろ、君」


 指をさされた若者──熊谷はというと、そう呼ばれたことに対してか不快そうに顔を歪め、杖を持っていない方の手でしきりに指の皮をはじいている。


「……今は、あんたがそう・・だ」


「なるほど、我が身可愛さってやつかい?」


 少しでも情報を引き出そうとしながら君月は思考する。この村の中で、君月はある程度怪しれようとも確信までは至らぬような振舞いを心掛けていた。それは君月だけでなく景も──美曙は置いておくとして──ユユの場合は「やらかした」のであれば、それを隠し通す腹芸ができるタイプじゃないだろうというのが証拠。

 余談だがこうなることも想定し、依頼人との間で擦り合わせを行ってから来たため、多少問い詰められようと問題はないはずだったのだが。


「あんたが……あんたらが悪いからだろ。俺は間違ってねえ」


 そう言いつつ、君月と目も合わせようとしない素振りの熊谷から見え隠れする罪悪感。


 昨日、君月の指示に従って熊谷と接触したのはユユ、そして鼎。

 ──大方、何かしら吹き込まれたというのが真相だろう、と君月は結論付けた。


「分からなくはないけどね」


 彼も被害者だったのになあ、と君月は内心残念に思う。それで言うなら、この村全体が被害に遭っている最中といっても間違いではないが。


「──だからこそ、僕らがいる」


「なんだ、」


「独り言。気にしないでくれ」


 村人の一人がそう反応したのに対し、手を振って流す。後ろからの声だった。

 君月が首を回して見やると、訝しげな顔をした村人が首を横に振っているところで、


「──どこに?」


 という査問が、その村人の報告を受けた丹羽から君月に向かって鋭く発せられた。言うまでもなく、仮宿の捜索を終え、しかし君月以外の面々の姿が見えないことに対してだろう。

 不幸中の幸いというべきか、むしろ最初からそのつもりだったのか。君月を売ったところである鼎は、ここでもユユだけは巻き込む気がないようだった。


「さあ。意外かもしれないけど、僕は嫌われ者なんだ。皆んなどっかに行ってしまってね」


 ──相変わらず気味の悪い行動をする、という鼎に対する個人的な所感は胸に秘め、肩をすくめた見事なとぼけっぷりを披露する君月。


「なんなら、君らのしたことじゃないかと疑ってたんだけど。順にいなくなってくなんて、ねえ。出来すぎだろ?」


「──」


「例えばこういった仮説も立てられる。そうだね、外部からやってきた邪魔者を一人ずつ攫い、残った者に恐怖を植え付ける。行動を制限し、じわりじわりと追い詰め、あとは相手がヘタを打つのを待つだけ。──ほら、これなら僕らは被害者だ」


 多少詭弁を弄したが、事実、結果的に仲間割れのようになったのだから、仮にそうだとしたら適当な策だ。

 昨日のユユの反応──落ち着かせようと景の真似をして微笑んでみたものの、なぜかユユの纏う不信の気配は悪化したという悲しい記憶を思い起こし、君月は少しばかり物思いにふけりたくなった。


 とはいえ敵中真っただ中、感傷に浸るのは今ではないことくらい君月とて理解している。「ま、だから何が言いたいかって言うと」と、相手方の思考を先読みした発言。そして、


「嘘吐きは僕以外にもいるかもしれないぜ、ってことさ」


 君月がそう言った途端、一斉にしんと静まり返るのだから、なんとも憎みがたい連中だった。



「『裁判』は既に終わりました。罪人に、許しを請うことは許されていない。 神の審判を受ける権利は、貴方にはありません」


 放り込まれた牢で、君月が最後に聞いた言葉がこれだ。


 以前の『被告』のように、無実を主張するでもない君月を丹羽がどう思ったのかは定かでない。


 断固たる否定を告げた丹羽、だがこれを『神』に対する盲信と言うのではまた毛色が違う。──不明瞭な態度を取り続ける君月を見て、彼の頭に「万が一」がよぎったであろうことは、わざわざ誰に言われるでもなく彼自身がこれを口にしたという事実が示している。

 複雑な身の上は、彼の中で絶対となる信仰の発生を妨げた。


 その根幹は信仰心ではなく諦念に似て、彼の警告はむしろ懇願に近しいもの。そう、ユユの抱いた印象に近いものを結論とした君月。


 最も簡易なる信仰は、その行いの容易さと裏腹に長く根深い効力を発揮する。


 当の『被告』が一貫して罪を否定し続けたために起こった、その受容を前提とする『裁判』の不結実。 

 罪が裁かれないかもしれない。神が見ている中で、罪人を野放しにしてしまうかもしれない。──もしそれが、同罪とされたなら。

 村人たちの幾人かがこの考えに至り、それが村全体に一種の恐慌状態を引き起こしたであろうことは想像に容易い。


 あの窓の外に丹羽が何を見たのか。状況を打破する一手となりうる、おあつらえ向きの『罪人』の来訪を知らされたとき、何を思ったのか。



「──なら、僕は稗田村はつ。上訴権を行使した罪人になってやろうじゃないか」


 一審だけで決まるなど、なんと罪人冥利に尽きないことか、と君月は一人ごちる。

 それは囚われの身という自覚がまるで見当たらない、誰もいない格子の向こうを爛々と光る眼で見据えながらの、堂々たる宣戦布告だった。


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