11 メイン・ディッシュ



 ──上を目指すことは、何も悪いことではないと男は思う。何事もそうだ。己の願望には忠実に、貪欲に。むしろ、人はかくあるべきなのだ。


 その対象に食も含まれていることの、何がおかしいのだろう。

 美食を。まだ見ぬ可能性を。彼はそれを追い求め、世界に対して請い願い、飽くほどに欲していた。


 探して探して、やがて未知を見失い、全てを探しつくしても尚見つからない、そんな可能性に男が怯え始めたとき。


 ──それは、神の肉塊なのだと。


 灰髪を伸ばした随分と幼く見える少女に──否、神に。そう言われ、手ずから賜わったそれはまぎれもなく男にとっての福音で、『恵み』だった。


 だから男は感じるのだ。


 あのとき喉を滑り落ちた甘美なまでの感覚が、己に破滅をもたらしたのなら、それ以上に幸福なことはないと。



 ◆



「──随分馴染んだなァ、オマエ」


 頭からつま先まで白で統一され、浮世離れした見た目から放たれたとは思えないほどの、粗暴で乱雑な口調。


 その乱入者に男は瞠目し、青年は嘆息した。


 足を引きずる少女は間延びした意味不明な呟きを残し、男──古関こせきに近寄っていく。

 男の容姿はたった数分の間に見る影もなくなり、白髪交じりの髪は振り乱されて、落ち窪んだ眼は爛々と異様な輝きを放っていた。薬物中毒者と、そう称されるのも妥当なほどに。


 その見開かれた目が、わなわなと震える唇が、少女に対する畏れの深さを何よりも代弁する。


「どうしてここに、あの部屋からは、……一体どうやって」


「オマエが知る必要はねエし、なんでオマエの居場所が分かったかは簡単だ。──信者のいるトコロくらい、分かるに決まってんだろ」


 少女は不敵に言い放ち、とその奥にいた人間──なぜだかその発言を聞いて苦々しい表情になった青年へとその目が留まる。

 上から下まで、否、倒れているので右から左に眺め、少女はその有り様に目を細めた。


「可哀想なヤツ。介錯した方がいいか?」


「……そこまでじゃないし、僕には生きる気概しかないし、……っ、一方的な、被害者のように言われるのは癪だ。……ねえ、『メリ様』」


 全身に残る打撲痕や切り傷が、突如として男が引き起こした癇癪の酷さを物語る。

 痛む身体を引きずり、どうにか上体を起こした青年──君月きみつきに語りかけられた少女は唇を歪め、


「──『神』の名をそう軽々しく呼ぶなよ。ニンゲン」


 冷淡かつ高圧的な態度でそう応じる。

 直後、青年から「は」と小さく息の漏れる音がし、それが笑い声だと分かると、少女は胡乱げに眉根を上げた。痛みかそれ以外か、顔を歪める青年は続けざまに馴れ馴れしく、

 

「なら……本郷鼎ほんごう かなえはどうかい?」


「──。ユユか」


「──メリ様!!」


 ぽつりと漏らされた感情の読めない呟きを遮って、男が喚き叫んだ。見るからに錯乱したその様子に、少女が冷ややかな視線を向ける。


「お、体は……! 『恵み』は無事に、いやちがう、私は、違うのです、」


「うるせエな。オマエ」


「な、──あ?」


  バッサリと断ち切られた弁明に男は声を震わす。その瞬間、不意に己の四肢に違和感を感じ、男は首を動かしてそれを見やった。


 寄り集まり、まるで団子のように膨れ上がった死体の塊が、男の腕を包み込んでいた。


「あ、ああああああ!?」


 手足がない。違う、覆われて見えなくなっているだけだ。

 それを視界に収めた途端、唐突に麻痺していた触覚が蘇る。瞬く間に全身を駆け上ったその悍ましさに、喉を振り絞った男の絶叫が大気を震わした。


 ぶくぶくと腫れあがった巨大なミミズのような、比喩などではなくその姿はまさに肉襦袢。

 肉厚のそれは一見いち個体のように見えるが、さわりと腕と脚に纏わりつく感覚は人の腕の、指が触れる時のそれ。

 あちこちから飛び出た凹凸のある頭部が、晒されるからの眼窩が一様に男を見据え、一斉に無い唇を震わせて男をけたけたと嘲笑う。


 たまらず振りほどこうともがく男だが、肉色をした死体が隙間なくぴたりと密着し、腕を、脚をそれぞれに固く握りこんで離さない。幻聴が耳を焼き、その瞳が、爪を立てられるのが忌まわしくてしょうがない。


 ──『恵み』による肉体の変質、それを真っ先に把握したのは他でもない、男だ。

 その摂取量で大幅に勝っている以上、どの死体にも男は害されない。自らこそが不可侵であるはず、──だったというのに。


 死体にくるまれ、何故、なぜと己の無理解を叫び続ける古関に、諭すような少女の言葉が降りかかる。


「ずゥっとこうしたかったってよ。こいつらがわざわざオレに教えてくれたんだ。可愛いだろう」


 少女は心底愛おしそうに目を細める。それも一瞬のことで、すぐに温度のない眠り目が牽制の目的を持ち、古関の背後を射抜いた。


「邪魔ァするなよ、ユユの知己」


「……っ」


 目を向けられた先、その大半が少女の手によるものか肉塊と化したゾンビだったが、一体だけ外れた場所に置かれたそれがいた。

 目の前の惨状に立ち上がろうとしたところをゾンビに押さえつけられた、青年こと君月は唇を噛みしめる。


「離せ、渡さない、寄越すものか、私の『恵み』を、誰にも──!」


「オマエのじゃねえ、オレのだ。勘違いすんな。──ああ。それでオマエ、監禁なんざしやがったのか」


「何故ですか、何故死体などに手を貸すのですか、メリ様!! 貴方を手伝い、信者を増やし、守ってあげたのは私だというのに!!」


 手を伸ばそうとしたが死体に阻まれ、持ち上げることすらできない。心の底からあり得ないと叫び、血を吐くような古関の慟哭に少女は笑んで、


「いいや? これはオマエに対するお礼だ」


「お礼──? ならば『恵み』、めぐみを!! めぐみこそがもっとも、」


 裏切られたという絶望により、正気に戻ったように見えたのもつかの間、堰を切ったように狂気があふれ出した。


 拭くこともできない涎が垂れ流しになり、恵みを要求し、あの妙に満ちた魅惑の肉を、神のそれだと謳われたその名に違わない煌びやかな脂を、絶え間なく零れ落ちる肉汁と他に比類なき柔らかな感触を、もはや自分をただの人の肉などでは満たされなくした、あれを口にした取り込んだ人間でなければ味すら感じられない舌になった、足りない、満ち足りないこれでは今すぐにでも餓えて死ぬ──、

 「こっちを見ろ、古関隆司」──その声は慈愛に満ちていて、その透明な瞳はきっと、全てを見透かしていた。


 ──おれをしんじろ。


 額を突き合わせ、そう囁かれた言葉が、蝕むように古関の耳へするりと入り込んだ。四肢が弛緩し、口元がだらりと緩む。


「あぁ、」


 体を掴む煩わしい死体など、今はもう何も感じない。目の前の神以外、今となっては目に入らず、遠くで誰かが叫ぶ声など、直に耳に送り込まれる御言葉の邪魔をすることすら叶わない。


 額が離され、代わりに深淵が、古関の眼前にその口を開けた。どこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな暗闇が。


 真珠でできた刃のような歯牙が遠慮がちにその姿を見せ、ベルベットが敷き詰められたかのごとき真っ赤な舌が奥からちろりと覗く。

 ゆっくりと影が落ちていき、温かな闇に包まれる。


 それにこの身が迎え入れられることが嬉しくて、古関の頬を一筋、涙が伝った。


「────嗚呼、神よ」


 これが一番上。──これこそが、至上の恵みだ。


 暗黒に飲み込まれる寸前、それが『神の肉』に狂った殺害数不明の食人鬼──古関隆司りゅうじが最後に感じたことだった。



「──なァ、お礼って言ったろう。御馳走様」


 かくして聖餐はただ一体の『神』へ振る舞われ、腹を満たした少女──『神』が満足げな吐息を一つ落とす。

 見届けてしまった青年がほぞを噛み、次いで少女の矛先が向けられる予感に苦虫を嚙み潰したような顔を作る。


 無音だった。


 ──今の今まで気づかれなかった、戸口に立っていた一人の少女が、その声を震わせるまでは。



 ◆



 最初はどこがいいだろう、というのが、少女──すなわちユユが走りながら考えていたこと。


 顎を打ち砕くアッパーカット。心臓を揺らすボディーブロー。弁慶の泣き所、脛にキック。真っ赤な紅葉をつくる頬にビンタ。膝かっくん。デコピン。後はどうしよう。


 想像力の限界に挑戦するこのラインナップだけで、あの自称『神』をぼこぼこにすると決め、奮起するユユの気合いの入りようが分かる。

 それに、現実逃避と言われればそれでおしまいだが、意外にもこの妄想をしていると現実──対ゾンビの動きに磨きがかかる、ような気がするのだ。


「──このお! どっかいけえ!!」


 ドスの利いた声でも出ればよかったのだが、遺憾ながらユユは声も可愛い。気の抜ける脅しをかけつつ、へっぴり腰でスタンガンを振り回す。その姿はまさに、下手な鉄砲数打ちゃ当たる。


 何体かの犠牲を踏まえそれを学習したらしいゾンビは、間違って当たらないようにしているのか適度に距離を保ち、しかしユユのそばから離れる様子は微塵もない。

 早くあれを追わなくちゃいけないのに、とユユはギュッと眉根を寄せ、


「……えっ、あれ、そんな怖かった? そこまで?」


 突然反転し、背中を向けて下がっていくゾンビに困惑の声を上げる。

先ほどまでとは打って変わってユユに見向きもしなくなった彼らは、どうやら一様に同じ方向へと向かっているようで、混乱の真っ最中のユユを置き去りに廊下の奥へと消えていった。


 足を止めて、最後までその姿を見送って。拍子抜けと言っていい状況に行き場のなくなったスタンガン、もとい振り上げていた腕を下ろし、しばらく間の抜けた表情で立ち尽くしていたユユ。


 ──尾けてみよう、と最初に思い立ったのはただの勘だった。


 最初の衝撃が過ぎ去れば、残るのは一斉に不自然な動きを始めたゾンビに対する不審の念。何か目的でもあるのか、と考えて、


「っていうか、そもそもゾンビって、あいつがやった……ん、だよね?」


 『目的』の最たる可能性に思い当たる。

 ──すなわち、アレを追っていくことが自分の目的と一致するのではないか、という非常に期待だけに満ちた希望的な観測だ。


 しかしそこはアドレナリンパワー。ゾンビ相手にみせた自分史上最高の大立ち回りを経て、外れたリミッターの元。

 思い立ったが早いが、ユユはとっくに遠ざかっていたゾンビの背中めがけて走り出した。


 それこそ幽霊ゾンビの名の通り、時折フッと姿の消えるゾンビに必死に食らいつき──本当にユユに対する興味は失われたようで、追う追われるの逆転した関係に変な感じになりながら──細い道を歩いて、そして。


 ──辿り着いた場所であの日の再演が行われるのを、ユユはまたしても見ていることしかできなかった。



 ぽっかりと大口が開けられる。密集したゾンビに四肢を拘束された男性が、陶酔した表情を浮かべ、徐々に少女の口の中に含まれていく。


 物理的に不可能な事象だ。


 少女の頭部が肥大化し人ひとりを飲み込むに足るサイズになったというわけでも、男が縮んでそれを叶えたというわけでもない。自分の認識がおかしいのか、何かしら、空間やらなんやらが歪み、気づかれぬうちに世界が丸ごと発狂して法則を書き換えたのか。


 ただその上半身は既に、すっぽりと蜃気楼のような揺らぎを纏う少女の『口』に収まっていて、肉塊から解放された脚が少女の口の端から無機質に垂れ下がっていて、それだけが真実で。


 少女が──『神』が顎を思いきり逸らし、勢いをつけた男の足が最後に飲み込まれる。一滴の血も残さない、丸のみだった。



 ──止められなかった。


 その場にへたり込むユユの腰は砕けていて、その顔は一切の血の気が引いた蒼白色。


 ぶっ飛ばす、話を聞く。──自分は、なんて馬鹿なことを考えたのだろう。

 実際に事が起こっているのを前にしたら、出ていけるわけがなかった。急ごしらえの決意は歯が立たないどころか全く役に立たず、ユユは何も変わってなどいない、そう思い知らされるだけの結末。


 今更逃げることもできず、カチカチという上下の歯が打ち鳴らすささやかな音が、どうか気づかれないようにとそれだけを一心に願って。


 ──『神』が、奥に向かって歩を進めていることに気づく。否、奥にいる誰かに向かって、だ。


 一面にいたゾンビが煙のように塵も残さずその姿を消し、簡潔になった小屋の内部に目を凝らして、見えたのは二色の頭髪──金と、黒。


 ──やめて、と掠れた声がした。


 それが己のものであると気づいたのは、ぐりんと『神』の首が百八十度回転し、その乾いた瞳と目が合ってから。


「ぁ」


 その目に射られるまでもなく、とうにユユの足は凝り固まって動かない。


 近づいてくる、二つのガラス玉が揺れる。違う、自分が揺れている。がたがたとみっともなく震え、距離の縮まっていくそれを、ユユは間抜けにもただじっと見上げていて、


 来る。


「ユ、」

「──ユユちゃん。下がっててちょうだい」


 月のない夜に始まりを告げた、優雅な声。


 ひらりと和装の袖を翻し、飛び込んできたロングスカートが一拍遅れてぶわりと広がった。その女性はユユと『神』の間に割って入り、チャンキーヒールが境界線を引くように力強く地面を踏みしめて跡を刻む。


 必要以上に気を張らないその声に、見上げたその人の横顔──今度こそ月のもとで見ることが叶ったその顔は、美しくも凛々しく『神』をその眼で見据えている。


 手には、白銀に光りを放つ玉鋼。


「ごめんなさい。遅れたのはわざとじゃないの。──ちょっと、道に迷っちゃって」


 最後の登場人物が現れ、『神』殺しの舞台がここに整った。



 ◆



美曙みあけ


 目を瞑り、穏やかな顔で君月が呼びかける。

 

「頼んだ」


 何の気負いもなく息を吐くように吐露されたそれに、女性──美曙は「ええ」とあでやかに微笑み返す。


「なんだオマエら。警察……探偵かなんかか」


 白い目つきで二人を見比べ、今しがた人を呑んだ『神』が胡乱げな問いかけ。だが、


「食えりゃアいいか」


 返答より前に自己完結し、『神』はゆらりとした動作で腰を落とす。だらんと両腕がぶら下がり、自然体の構え。


 相対する美曙は一度、刀を鞘に戻した。絶えず浮かべていた笑みを消し、腰を低くして足を大股に開く。

 場は整い、視界に映すは互いのみ。そうして彼女は厳かに名乗った。


結城ゆいらぎ。結城美曙。名前は覚えなくていいわ。刃の熱さの方が、目に焼き付くでしょうから」


「──トウテツ」


 はたしてそれは名乗りだったのか。


 耳慣れない言葉を置き去りにして、空を切った白刃と前歯とがぶつかり合う。飛びついた格好の『神』はにやりと嗤うと顎を鳴らし、咥えた刀を嚙み砕かんと──、


「美曙! 口だ!」


 警戒を促す声に目を鋭くした美曙が咄嗟に腕を引き、直後、ガツンと音を立てて歯が打ち合わされる。『神』は寸前で逃した獲物に舌を出し──その横っ面をつかかしらが強かに打ち据える。


「ぎ、──ッ」


 ぽたり、滴り落ちた鮮血。己の牙に切り裂かれた舌が真っ赤に染まり、『神』はペッと溜まった血液を吐き捨てた。そこに、一切の容赦なく追撃が頭上に振り下ろされる。


「──ウメェもん食わせるなよ。満足するだろうが」


 受け止めたのは生白い光を放つ脚だった。頭と蹴り上げた脚の上下が逆転し、交錯。

 刀の腹にあてがったそれを、『神』は刀を握る美曙の腕ごと巻き込むように振り落とし、晒された白いその首に食らいついて、


「あ?」

「満足して死ねるなら、幸せじゃない?」


 口を開けていた『神』の頭が、突然斜めに傾く。足首を境に分かたれた体がバランスを崩し、崩れ落ちるように膝をつく。

 その隙を逃す美曙ではない。足を切り落としたばかりの刀を振るい、次いで腕、胴を薙ぐ。『神』の身に纏う白のセーラー服が、見る間に朱に染まっていく。


「──!」


 ガッ、と歯のぶつかる音が響き渡った。

 鬼気迫る形相で『神』は首を伸ばしており、『何か』を食らわんとした──のだろう。事前の忠告通りしっかりと距離を取った美曙の様相に変わりはなく、周りにも変化のようなものは起こらない。


 目論みを外したとばかりに、血に塗れた『神』が舌打ちを落とす。その姿は何とも呆気なく、既に満身創痍だった。

 『神』が見せようとし、そして失敗したらしい不思議な動き──それに加えてのもう一つの違和感に眉をひそめた美曙だが、すぐさま余計な思考はシャットアウト。


「──あの世で、また会いましょう」


 その言葉に、情はない。

 時間にしておよそ十数秒。ひどく速やかに行われた幕引きに、ギリと歯を食いしばる『神』も含め、何かを口にするものは誰もいない。


 二度、その頭蓋へと刀が振り下ろされる。


 ──だから、その場で唯一響いたのは。


「ころさ、ないでぇ……っ」


 決めてきたはずの覚悟も、留めようとした思いも、その全てが崩され、意味をなくされた少女の涙声。


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