10 強くて可愛い女の子
「安全」だと、ユユをこの部屋に押し込めて出ていった白髪の『神』は言った。むしろけしかけたのがそっちではと疑惑が一瞬頭を掠めたが、結果から見ると、やはりその予感は正しかったと見るべきだろう。
「全然違う、あの嘘つき……!」
珍しく悪態を吐くユユの表情には余裕がなく、急速に膨れ上がる外の気配に怯え引き攣っている。
気づかれないように声を出さないとか、どこかに隠れようとか、そんなことを考えたいられる次元はとっくに過ぎ去っていた。そもそも部屋自体が殺風景すぎて隠れようがないのもあるが、それよりも。
──ガン、ガンと際限なく叩きつけられる壁が、遂に悲鳴を上げる。疑いようもなく、壁に遮られて見えないはずのそれら──ゾンビはユユの存在に気づいていた。
「むりむりむりほんと、やだ、来ないでください、頼むからっ」
嫌々と首を振り、一縷の望みにかけた早口の懇願。
そうまでして、ユユを葬り去りたいのだろうか、あの『神』は。──あんな顔、ユユに向けておいて。
「信じない信じない、もう絶対許さない……っ、次、会ったら、」
次、会ったら──、
◆
それはとある昼下がり。確か大体二年前。放課後にファミレス、一度やってみたかったのだ。ユユが。
「──ユユちゃんって、なんでそんなに『可愛い』って言ってもらいたがるの?」
灰色に近いふわふわとした癖毛。下の方で一つに纏めた腰よりも長い髪に、物憂げな瞳。目の前に座る、百五十センチメートル程度、低い身長の小動物じみた印象を与える少女が小首をかしげる。
あの時の『
「なんでって……ユユ、かわいくない?」
「え、それだけ?」
「かわいくない?」
「可愛いけど」
「でしょ〜」
望んだ返答を得られ──強引にもぎとったとも言う──ふふん、と満足げに笑むユユに鼎が嘆息。それを尻目に、まだ手付かずのパフェの、一番上に乗っかったイチゴを丁寧に皿により分けながら、ユユは目を伏せて、
「──ユユはかわいくて、強いの。そういう女の子」
「可愛いは分かるけど。強いって何? どこからきたの?」
「ひみつ」
「ひみつか~」
回答をユユが可愛く拒否すれば、それでその会話は断ち切られる。
思えばあの頃から──否、ずっと昔から。二人の間には越えてはいけない一線というのが確かにあって、それを互いに暗黙のうちに不可侵と定め、絶対に触れないようにしていたのだ。
壊れ物に触れるように、この時間が、関係がぱっきりと割れてしまわないように。
「……やっぱり、ちょっとだけ教えたげる」
その鉄則を破ったのは、この日の一度きりだった。それも、完全なる気まぐれで、ユユの方から。
パフェからはみ出ているチョコケーキを真っ先に口に入れ、咀嚼していた鼎の驚いた顔に、ユユは意表を突いたというちょっとした爽快感を覚えながら、
「『かわいいは正義』って、聞いたことない? ──正義って言うのに弱かったら、あれ言った人も、悲しくなっちゃわないかなって」
鼎は目をぱちくりさせていた。なんだかしばらく不思議なものを見るようにしていたが、それが不意に、ふっと柔らかく細まる。
その瞳には、ユユくらいにしか気づかれないだろう悪戯な光が宿っていて、──来る。とユユは身構える。
「『強い』って、ユユちゃんこの間のスポ
「それ走るやつでしょ。バレー部だもんユユ。玉入れ貢献したもん」
「そうだっけ」
くすくすと鼎が笑う。色素の薄い楚々とした外見とは裏腹に、気を許した相手には茶々を入れるのが好きな少女だった。
「きらーい」とそっぽを向いたユユがブーたれる、真綿に
それが嫌いじゃなかったから、賄賂として鼎に黒白の巻きチョコを渡されたユユは、すぐに機嫌を直してそれにぱくついたのだ。
「ふぁから頼ってくれていーよ。かなちゃんも」
「結局、何が強いのか言ってなくない?」
「かわいいが強いの!」
「……はいはい。別に私は、ユユちゃんがそうじゃなくても、──」
──あの続きは、なんて言っていたんだっけ。
脳裏によぎった記憶に、ユユはその眉間の皴を深めた。
複雑ではあるし、『どっち』の鼎が言っていたことかは分からないから、あくまで一応保険だ。けれどもし万が一、『こっち』だったら──、
「次会ったとき、めちゃくちゃ、ものすっごくぶっ飛ばす」
腹が、決まった。
──同時、土煙とともに壁が崩れる。都合三度目の遭遇において、先制を取ったのは、ユユだった。
踏み込み一発、万一に備えて入手しておいた『秘密兵器』──スタンガンが白い火花を散らす。
「
十七歳にとっては、これ以上ない気合い入れ。
口を開け、先陣を切って飛び込んできた一体のゾンビ──その胴体に見事、クリーンヒット。
「──ウ、ァア」
「うそ、効いてる……?」
煙を上げ、呆気なくゾンビはその場に崩れ落ちた。へっぴり腰で振りかぶり、一発当てた後すぐさまその場を飛びのいたユユだったが、その思わぬ威力に息を詰める。
──ユユには知る由もないことだが、実際のところ、スタンガンというのはこれ以上ない有効打だった。
ゾンビの元となった人間の肉体、その大半を占める可食部は既に一人の人間の腹に納まっている。彼らは
要するに意識だけで動いているような状態であり、物で殴るなどの攻撃では大して効かなかったところを、たまたまユユが弱点を突いたのだ。
「は、ははっ、なんだ、全然怖くない……し、みっ、見たかあ!」
おらあ、と口調も変わったユユがスタンガンを振り上げる。
しかしユユのその顔を見れば、それが虚勢であることなどすぐに分かる。三回目とあってはもう見慣れたかと思いきや、全然、全く慣れそうにない。普通に怖いしキモい。ていうかグロい。
相変わらず腰は引けていて、もはやお馴染みとなった今にも泣きそうな顔──ただし、その目には確かな覚悟が宿っている。
「──私を置いてくんだったら、髪ギュってして引っ張ってやる。首根っこも掴んで、すっ転んじゃえばいい」
物騒な恨み言を淡々と吐くのも、自分に向かって虚勢を張るため。気合い、十分。
思い知らせてやるのだ。──ユユに背中を向けるということが、どういうことかを。
──ぶっ飛ばして、全部話してもらう。
いつから成り代わっていたのか、また何故そうしたのか。本当の鼎が死んだというなら、その理由も。それがあの訳のわからない『神』への感情を一旦保留にして、ユユが出した結論だった。
◆
──人の身動きを取れなくしたいんだったら、一番はやっぱり手ごろに暴力だよなあ。
と、君月が揺らぐ意識の中でそんなことを考えていたのは、スタンガンは人にはそんなに効かない、と以前自分が依頼人の少女に言ったことが思い出されたから。
みぞおちに一発、それだけで事足りる。ちょうどこんな風に。
「っは、……!」
体格を隠すローブで分からなかったが、男──
腹部に走った衝撃に息が詰まり、よろよろと後退して膝を着く。次に君月が顔を上げたとき、目の前に突き付けられていたのはぎらりと光るナイフだった。
──言われた通り大人しく両手を上げ、小突かれるままに君月は暗い廊下を歩いた。
道はどんどんと細くなっていき、それは古関が向かっていた場所と別方向のようだで、君月はふうんと訝し気にしたり。
「いつも持ち歩いてるのかい、それ。物騒だねえ」と、まるで懲りていないと分かる無駄口を叩きながら──身内にも似たようなのはいるが、それをわざわざ言う必要はないだろう──十五分程だろうか。
「ふむ、相当古く見える。さしずめ、昔々に禁じられた教えを信仰していた人々の、緊急避難先ってとこかな」
「今は私が屠殺場として使っている。それが全てだ」
カビ臭さだけではない異臭が漂う、どんよりとした重い空気。真っ黒な床と壁に、ちょうど古い手術台のような大きさに平積みされ、固定された木の台。その上に散らばる
また微かに風を感じたため、外に出たのだろうと君月はあたりをつける。予想でいうと山小屋で──疑いようもなく、ここが殺害現場だ。
壁につくよう促され、それに従う。平坦な視線で辺りを眺めると、「僕は、殺人犯には二種類いると思ってるんだけど」と君月は前置きし、
「い、つつ……黙らせてから殺すやつと、わざわざ殺すやつの声を、最後に聞きたがるやつ。どうやら、君は後者らしい」
腹を押さえ、流石に痛みに顔をしかめながらだが、その舌の回り具合は健在だ。
「あの奥に向かってたんだろ? そっちはいいのかい」
「……本当に口の減らない若造だな」
「生憎、口から生まれたのが僕でね。ふー……だから、死ぬときも口からがいいと思ってるんだけど。どう? いけそう?」
「──あの方のことを、どこまで知っている」
まともに取り合わないことが一番だと、先ほどの応酬で学習した古関が単刀直入にそう問う。──が、
「さあ?」
青ざめた顔でぱちぱちと大げさに瞬きし、賢しらに首をかしげてみせた青年に、それも遂に限界を迎えた。
「──誰にも邪魔されないよう、教団も『恵み』もあの方も、あの方を! ようやく手中にしたというのに。あの死人どももお前も、何故邪魔をする!」
激情。SNS用の胡散臭い笑みに、祭壇の前での厳かな喋り、
「おかげで全てやり直しだ!! 『恵み』を手に入れられなくなったらどうしてくれる、人を、肉を集めなくてはならないのに、」
ぐるぐると眼球を回し、狂気を帯びた瞳が四方に向けられる。
台を蹴散らし、近くにあった妙に蠢く
周りの音は、ひどい耳鳴りに閉ざされ耳まで届かない。
「ぁあああああ、足りない、足りないんだ『恵み』を、肉が、『恵み』が、肉を、」
頭を掻きむしり、千鳥足で『屠殺場』を歩き回る。歪な円を描き続けるその姿は、あのゾンビと瓜二つだった。目的を見失い彷徨い歩く屍人のような───もしくは、薬の切れた薬物中毒者のよう。
遡って、あるいはゾンビのあの特有のふらついた足取りは中毒者のそれだったのかとすら考えられる様。
ぶつぶつと彼は呂律の回らない不明瞭な呟きを繰り返し、しかし始まった時と同じように、唐突にそれは終わりを迎えた。
「まあ、とりあえず殺そう」
古関は、垣間見えた僅かな安寧──たった一つの、確かな真実に縋ることを決める。
ゾンビは殺せない。消えはするがそれも一時的だということを、古関は身をもって知っている。──だが、目の前の人間なら。
「ぁ、ぐ」
ふと耳にした呻きに、心が急速に凪いでいくのを感じた。
五感が戻る。幾度となく繰り返したことだ。ナイフを捨て、手に馴染む肉切り包丁に握り変えた。
そして今しがた声を上げた、いつの間にか横たわり、あちこちに切り傷と痣を作っていた青年に──体をくの字に折り、苦悶の表情を浮かべるそれに歩み寄り、
「……っ、と来たか」
血反吐を吐くかのごとく溢す、その顔は青白い光に照らされていた。明かりは付けていないはずで、──月の光だ、と古関ははたと思い当たる。誰かが戸を開けたのだと。「誰だ!」と振り向き、そして彼は言葉をなくした。
「──何故、貴方が」
「よお。──始末、付けにきてやったぜ」
小柄な体躯、白髪に眠り目。
『本郷鼎』の肉体を纏った自称『神』が、己を誇示するようにその顎を居丈高に持ち上げて。相反するような哀れみをその微笑に湛え、そこに立っていた。
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