5 名前
──ぐちゃぐちゃと、何かをすり潰し、混ぜっ返し、咀嚼する音が聞こえる。
暴れているのだろう。くぐもっていながら時折混ざるバタバタという羽音が、生命の力強さをまざまざと見せつけている。
それが徐々に聞こえなくなっていくのも、そして今、この瞬間にぱたりと途絶えたのも。
なんらおかしくはない、ただ生があるならば死もあるのだと、全ての生命が持ちうるその無常さが、惜しみなく発揮されただけ。
ただ、それを成したのが、――であるだけだ。
「ふ、」
口を覆う両手の隙間から、か細い吐息が零れる。瞳孔が縮小と拡大とを繰り返し、その瞳を落ち着かなさげに揺らしながらも、少女は目の前の情景から目を離すことはできない。
ぐちゃぐちゃ、ばりばり。
生き絶えた生命が、噛み砕かれてただの肉に変わっていくのを、微動だにせずただじっと見つめている。
撒き散らされた白い羽が、ふわりと―の頭上から降り注ぐ。ゆったりと落ちてきて、―の長い白髪に紛れて見る間に見分けがつかなくなった。
色のない頭髪とセーラー服に斑点状のシミを残す、その赤以外は。
目眩がしそうなほど鮮やかなコントラストに、少女──ユユが思わず、ごくりと唾を飲んだのと。
―の細い喉が動き、口いっぱいに含まれたそれを嚥下したのは、全くもって同時だった。
◆
『
そう
支度はとっくに整えて、うろうろと落ち着きなく狭いワンルームを歩き回ること一、二時間。スマホを握りしめ、今か今かと連絡を待っていたユユが飛びついたのは言うまでもない。
『行きます。今すぐい
誤字を確認することもなく、手早くポケットに滑り込ませたスマートフォン。制服のいいところ、ポケットが大きい。嫌なところ、物が結構すぐ落ちる。
──一瞬、よぎった思いに気を取られかけた。
視界の端で落下しかけたスマートフォンに、ハッと意識を現実に引き戻され。落ちる寸前でキャッチしたそれをとりあえず両手に握りしめ、ユユはツインテールを揺らして家を飛び出した。
◆
「──上からユユ、自宅、多分……担任。お父さんとお母さん、あと確か叔父さん」
着いてすぐに手渡された、
否、『ずらりと』まではいかなかった。
あっという間に最下段まで到達したそのアドレス帳は、ユユも知るところである鼎の交友関係の少なさをしっかりと体現しており、
「これとこれ、これ……も、同級生。ここら辺も。──確かにこの人だけ、全く知らない人です」
「なんでそこまで知ってるのかっていう疑問はさておき、有益な情報だ。十分だよ」
更にいうと、彼女は学年が変わると連絡先を一新するタイプだった。そう付け加えれば、髪の左半分をブロンドに染めた青年──
「
「ないです」
「関係のない年上の男性への当たりが、急に強くなったとか……」
「ないです。変なこと言わないでください」
「一応だよ、一応」
肩をすくめる君月を一睨みし、ユユはそのまま視線を真下に滑らせる。
アカウント名は本名らしい。胡散臭い謳い文句の横で初老のスーツ姿が笑っている。身なりは清潔にしており、いかにも経営者といった風だ。
だが、気のせいだろうか。剥き出しにされた白い歯と眼鏡の奥の黒々とした瞳が、ユユにはどこか薄ら寒かった。
「この人が、かなちゃんを誘拐したんですか」
一通り目を通したのち、ユユはぽつりと不自然に凪いだ声で呟いた。
「結論を急ぐところで申し訳ないが、少しだけ回りくどくさせてくれ。先に言うべきことが多くてね」
イエスともノーとも返さず、一度言葉を切ったうえで君月は水を口にする。
長丁場になりそうだとユユは直感した。ひいては、ここからが本題なのだと。
ガラガラという音とともに、ホワイトボードが奥から登場する。それを押してきたのは景で、彼はおもむろに何かを赤いマーカーで書き出し、
「……め、りの」
「──『メリの
ユユはかぶりを振り、否定の意を示す。実際、聞いたことも見たこともない名前だった。──否、少しだけなら、どこかで。
「ある筋からの情報だ」
そう前置きすると、君月は指を一本立てた。その横で景が紙を複数枚、パチン、パチンと磁石で留めていく。
「一つ目、ここ数ヶ月の間に出た行方不明者の複数名に、ある共通点があった。それが、検索履歴に残されていた『メリの惠』というとある団体」
合計五枚。印刷されていたのはスクリーンショットだった。一部にモザイクがかけられているが、そのどれもが同じものを示していることが即座に分かる。
載っていたのは黒を基調としたウェブサイト。目立つのはやはり一番上の『メリの惠』という団体名と、背景にあしらわれた赤い──果実だろうか。
玉ねぎのようなそれにユユの見覚えはなく、首を捻りつつ君月の話の続きを耳に入れる。
「団体自体はごく最近作られたようだ。普通に検索しても見つからず、どうやら特定のネット掲示板で仲間を募っていたようでね。詳細は記録に残さないよう徹底されてたが──彼らがその『入り口』に入ったことは間違いない」
比較的小さな写真が一枚、ホワイトボードの真ん中に貼り付けられた。その顔は、ユユも先ほど見たばかりの。
「その関係者として候補に挙がってるのが、古関隆司だ」
黒と赤のウェブサイトに囲まれるようにして、歯を見せた男が笑っている。
──行方不明になったのは、彼と関わりのあった人々。
そんな人間と彼女が連絡を取っていたらしいと聞けば、当たり前に心中穏やかではいられない。
自然と普段は愛らしいユユの顔つきも、君月に問いただすその声も固いものに変わり、
「……かなちゃんも、それに入ってたってことですか」
「確率は非常に高い。どころか、」
頬を固くするユユを前に、言い淀んだ君月がブロンドの方の髪に手を割り込ませ、軽く頭を掻く。
「ああ、いや。すっごい怪しいって話だよ。警察も目をつけてはいるようだけど、あれでは遅すぎる。──と、ここで二つ目」
二本目、人差し指に次いで中指がスッと立てられた。
誤魔化された気がしないでもないが、口を挟む余地なく君月が続けて語り出したので、ユユも黙って聞くことにする。
「次、例のゴミ捨て場について」
いそいそと今度は景が地図を用意し始めた。空いた右側のスペースに配置されたそれの役割は分かりやすく、既に件の場所がしっかりと赤い丸で囲まれている。
「ゾンビの出現ポイント、つまり大元はあそこで間違いない。しかし出現確認後に色々と実験したところ、君を襲ったときのような挙動を見せた個体はいなかった」
どうやら、君月が昨日立てた仮説は証明されたようで。同時にその
正直ユユとしては一つ目の話が尾を引いていて、今はそれどころではないが。
「昨日の彼らは噂通りの、『人を襲わない幽霊のような死体』であったということだ」
『何か』を探していて、近づくとその姿を消す、実態不明の幽霊ゾンビ。
噂自体はやはり正しかったとすると、ますますユユの遭遇したゾンビの目的が分からなくなる。それに、奇妙な点はもう一つ。
「……でも、それなら」
「──そこで三つ目。君も知ってるだろうけど、昨晩死人が出た」
声を上げる直前、君月がユユの言わんとしていた疑問を引き継ぐ。彼は指を三本立てて、「説明は次で最後」と付け足し、
「結果は今までとそう大差なく、僕らが観察を切り上げた後のことだ。景、よろしく」
「はい」
青のマーカーで丸を書き加えていた景が、話を振られてこちらに顔を向けた。
「被害者は二十代〜四十代とおぼしき男性。本人確認にはまだ至っていません。現場はここ、」
と言うと青丸を手のひらで示し、
「
やたらと詳しげに、『事件』の概要を語った。
異常で凄惨、かつ不可解──すなわち、これが彼らの言うところの怪事件なのだろう。やだなあと眉をひそめながらもユユは納得する。
ただ、不思議なのはユユの知る限り、事件発生からまだ数時間程度しか経っていないこと。
それこそ警察の捜査資料でも流れてきていないと辻褄が合わない、と流石のユユも訝しむが、
「ある筋からの、だよ」
詮索を断るように君月がひらひらと手を振る。そして彼は芝居がかった仕草で、広げていた手のひらを握り拳に変えるとユユの方に差し出した。
腕を伸ばされた格好になるユユがわずかに身を引くと、彼は笑みを含ませて、
「もしもゾンビが狙う相手に条件があるのなら。今回の被害者氏と依頼人──」
ピッ、と人差し指を指し向けた。
「君との共通点を見つけ出せれば、解決の糸口になりそうだろ?」
「それなんですけど」
意趣返しというわけではないが。君月に倣い、ユユも遠慮せず強い口調で発言する。
『確認のため』と呼ばれたユユだが、なにもただじっと黙って話を聞いて、嫌な想像ばかりを膨らませるために来たわけではないのだ。
「昨日亡くなった人、ユユの知ってる人かもしれなくて」
切られた特大の手札に、君月の眉が持ち上がった。
◆
「ユユのバイト先のお客……常連さんが、昨晩亡くなったらしいんです。今朝、SNSでその人のお母さんが言ってて。これなんですけど、読み上げますか?」
「ふむ。頼んだ」
「はい。えっと……『息子を返してください。息子はあなたに食べられるために生まれてきたのではありません。あの子の命は肉は、神の』」
「そこまででいい」
ぴしゃり、冷たい静止が被さる。「え」ユユが瞠目し固まり、静寂が訪れた。
声の主である君月が、一拍遅れてハッとした顔に変わる。取り繕うように、瞬きをした無表情がぎこちなく動き、
「おおよそ理解した。から、うん。十分だ。ありがとう」
「あ、はい。えっと、リンクいります? アカウントの」
「景に」
と、君月が顎で示したのを了承と受け取り、ユユはぽちぽちとスマートフォンを操作する。
「『食べられる』ときたか。確かに状況と符合するね」
「そう、なん……です、今送りました」
ピロン、と音が鳴って送信完了。『小袋』というアカウント名の、匿名SNSにはよくあるプロフィールが表示されているはずだ。
どこからか持ち出してきたパソコンを開いた君月が、肘をつきながら画面を下にスライドし始める。最初の方はちらちらと横目に見ていたユユだったが、スクロールの速度に追いつかなくなったのでやめた。
「ふむふむ……家族は母以外おらず、話す内容はもっぱらアニメや漫画。最近はコンセプトカフェやら地下アイドル手を出してたようだ。投稿は平日の昼間にも多く見られ──」
「……一応、知ってる人だったんですよ。それで、故人です」
「うん?」
「君月さん」
「うん」
「今の言動、美曙さんがいたらどうなっていたか、考えてみてください」
「ふむ」
カリカリとマウスのホイールを回していた手を止め、君月は俯いたまま顎に指を当てて思案顔。景の、やんわりとした提案を吟味しているのだろうか。不遜な態度と思いきや殊勝な動きを見せる、どうにも不明瞭なものだった。
数秒後、ようやく顔を上げた彼は表情に変わりはないながらも、その視線はユユを真っ直ぐに捉えており。
「すまない、依頼人」
「謝れってほどじゃないです、けど」
「それと、気になるものがあった。これを見てくれ。景も」
──なるほど、今考えてたのそっちか。
分かりやすいにも程がある、その切り替えの速さにユユは頭の中で前言撤回。この人、人の心があんまりない。恐らく。
思い返せば、そもそも『神』を敵に回そうなどまともな神経で言えるセリフではなかった。分かりきっていた話と言われれば、そうだった。
「すみません。恐らく、反省はしています。その上で、これです」
「これでですか?」
「はい。これで」
曖昧な笑みを浮かべる景にフォローされ、ユユからは都合何度目か分からない半眼を向けられつつ、君月はくるりとパソコンの画面を外に向ける。
他二人が集まるのを待ってから、彼はある一つの投稿から成るスレッドを指し示した。
「一ヶ月前。『小袋』氏は『藤本』という人物と口論している」
「『恵みをくれ』、のとこですか?」
「そうそう」
口論は『恵み』を要求する『小袋』の投稿から始まり、『藤本』という匿名アカウントに批判を受けたところから始まっていた。
「『ここではやめろ』、『消せ』などと言われているが、『小袋』氏は方法が分からなかったようだ。最終的に、『藤本』氏の方が折れている」
「『藤本』氏は、普段から投稿はあまりしていないようです。プロフィールにも、情報はほとんどと言っていいほど載っていません。不自然なほどに」
「だろ。僕も思う」
景の補足に君月が同調。腕を組み、画面を睨むように注視しながら、
「『恵み』っていうのも、おおよそ日常で目にする単語じゃない。彼はゲームは趣味じゃなかったようだし──」
「──あっ!?」
「ましてや断られるほどの何かとなると、だ。なんかあったのかい、依頼人」
「ユユ、恵み、ってどっかで聞いた気がしてたんです」
突如叫んだかと思うと、口を手で押さえ、驚きを露わにしたユユ。どうしたのかと問われると一転、彼女は神妙な面持ちで目を瞑った。
そして、今度こそはっきりと蘇った、あの日の記憶を脳裏に思い描く。
「最初は名前かと思ったんですけど。あの追っかけてきたゾンビが……一言だけ、『恵み』って」
ユユは確かに、そう聞いたのだ。唯一ゾンビが口にしていた、『アァ』でも『ウゥ』でもない、明確な単語。
「これが、関係してるんだったら」
「──『何かを探している』、という下りがどこから来たのか不明だった」
コツコツ、爪でパソコンをリズミカルに叩き、ぽつぽつと君月が一人呟きを零す。
「噂が生まれるには、それ相応の理屈が必要だ。『探している』と捉えられたのは、ゾンビが特定の『何か』を繰り返し呟いていたから。そう考えると筋は通る」
死体の
「と、すると……藤本。……
「あぶなっ……い!」
目の前を急に横切ったディスプレイにユユが声をあげながら仰け反り、慌てて取り繕う。
景はというと、君月がぶつぶつ言い始めたあたりから不自然に退いていた。今考えれば納得である。
ユユの怒声未満も意に介さず、パソコンを自分の方にひっくり返した君月がキーボードを叩き始め、
「アタリだ」
軽やかに打ち込まれたエンターキー。満足げな呟きを残し、それきり黙り込んだ君月。
その興味は既に、アタリとやらへ完全に移っている。じっと食い入るように画面を見つめ、口数の多い彼が急に静かになるとその違和感はすごいものだった。
そうなると、ユユも気になるのは当たり前で。
「なんですかそれ、見せてください、」
画面の見える側に回ろうとした直前、バタンとパソコンが閉じられた。「えっ」ユユはびっくりして目を瞬かせる。
どういうつもりかと君月に向き直ると、彼はどこか遠くを見つめながら、うろうろと思案げに指を彷徨わせて、
「ダメ」
「ダメ!?」
迷った末、出た言葉はまるで子どもだった。こほん、と誤魔化すような咳払いが一つ。仕切り直しと言わんばかりの鋭い視線に思わずユユが怯むと、
「君はここまでだ、依頼人。擦り合わせは終わり。助かったよ。遅くなる前に帰ってくれ」
無機質かつ口早に、彼は必要事項だけを詰め込んで告げた。まるで業務連絡かと錯覚するような──否、錯覚ではなくそのつもりのようだった。
「……ユユ、バカってわけじゃないんですけど」
であればこちらも、淡々と返す心算だ。
「バカじゃないので、ちゃんと分かるんですけど。──何か隠してますよね」
「それは君もだろ? 依頼人」
「──」
声色を冷え込ませ問い詰めにかかったユユが、君月の反論に口ごもる。口元を皮肉げに歪め、事もなげに言い放った彼はゆっくりと目を細めた。
押し黙ったままのユユ、その反応が何よりの肯定だったからだ。
「名前呼ばないの、それ知ってたからですか」
返答はない。負け惜しみのようで癪だが、出し渋る方がもっと気に食わなかった。しかしそれも、すげなくされて終わる。
誰も何も口にしない、重苦しい沈黙が散々に染み渡った頃、ユユは出し抜けに立ち上がった。
「帰ります」
間髪入れず「送ります」と景が腰を浮かすが、ユユは断固としてそれを制し、
「大丈夫です。……。その、お疲れ様です」
決まりの悪そうに使い慣れない社交辞令を付け足して、反応を待たずに出口に向かって歩き出す。
──最初にここに来たときの帰り際、扉をくぐる直前にユユは一度足を止めた。
あの時、言いかけた言葉を今度は喉奥に仕舞い込む。二度目は立ち止まらず、振り返らずに、ユユは重い扉を押し開く。
後はただコツコツと、ローファーの鳴らす足音が遠ざかっていくだけだった。
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