裏街バケモノカルト
楢木野思案
一・羊の聖餐
1 月のない夜
かつて、神様はいなかったらしい。
そんな壮大な台詞を、ふと少女は思い起こす。らしい、という曖昧な助動詞付きで。
確実性に欠ける、ややふわっとした表現だ。しかし少女がまだ十七歳で、歴史の授業は全て机に突っ伏して潰していたことを考えれば実に妥当といえる。
神なき時代──『いる』か『いない』か、そんな些細なことで論争が起こっていた時代は終わりを迎えた。
数十年前、突如人々の前に現れたのは目に見えて、触れ、言葉を使う──けれど、人ではないモノ。しかも沢山。
新しき神世の始まりだと、それはそれは騒がれたという。
まさに世界が一変した、その瞬間に居合わせた彼らがどれほど驚いたことか。『神世』に生まれた少女にとっては、想像もできないことだった。
だって神はいる。そこの電子掲示板に、チラシに、新聞に。勧誘文句を携えた、よりどりみどり、選び放題の神様たち。
『お困りですか? 我らの神を崇めましょう』
ちょうど、息を切らして走る少女の真横をそんな文言が通り過ぎていった。なんてタイムリー。確かに困っている。路地のポスターに印刷された神様は、見事なまでにぴたりと少女の状況を言い当てた。──本当に、なんて煽りだ。
「──っなら、今! 助けてよ!」
ぷちん、と少女の中の何かが切れる。声をひっくり返して叫んで、後悔。ただでさえ少ない酸素を余計に消費しただけだった。
だけど、足を止めるわけにはいかない。
「なん、でっ、くるの!?」
少女は振り向くと、
「──ァ、ア」
呼応するように、少女を追う
ただでさえ街灯のない夜道だ。今日が新月であることも相まって、ここまでならあくまで不審者──少女なら通報を考える程度の──に収まっていただろう。
だがある一点でもって、
──頭が首からぶら下がっている人間など、間違いなくこの世に存在しないからだ。
喉は潰れているはずだ。骨は完全に折れたのか、皮だけで重い頭部を支える首の、一体どこから音を出せるのか。人体の不思議に少女の顔は恐怖を通り越し、口角はいっそ上に引き攣り始めた。
幸い、ぶらぶらと絶え間なく揺れる頭部に引き摺られ、重心の安定しない
問題はそれまで少女の体力が持つかだった。
「はっ、はぁ、っ」
もう数分、こうして逃げ続けている。もっと運動してればよかった。悔やんでも遅く、キリキリし始めた胃の痛みに腹を抑えて少女はただ走る。
──近頃、街にゾンビが出る。夜になると動き出して、朝になると消えている。
そんな噂を耳にした。
『変なの』が街に出ることなんて日常茶飯事。ましてやゾンビなんて超ビッグネーム、どこかしらの団体のパフォーマンスかと思って聞き流していたそれに、まさか自分が追いかけられるなんて思ってもみなかった。
ゾンビ映画はあまり見ない。アニメも。グロいの怖いから。
そんな少女が知っている、映画の法則は一つだけ。
──可愛い女の子は、死なない。
ツインテールを揺らし、前を見据える少女はいたって真剣な目。もし声にでも出して、誰かが聞いていれば鼻で笑いそうな理屈だが、生憎夜の街に
「メ、──」
「っ!」
ぬるい息が首筋にかかる。少女は息を弾ませた。否、幻覚だ。ただ、思ったより声が近くてびっくりしただけ──声が、近い?
意を決して再度振り向く。笑ってしまうほどの近さで、窪んだ空洞と目があった。
「ひ、──きゃあッ!?」
かつて目玉があったであろう、そのがらんどうに気を取られ、足がもつれる。派手な悲鳴をあげて、少女は見事にすっ転んだ。
「グ、……ィ」
「や、来ないでっ」
今度こそ、幻覚ではない。ゾッとするほど冷たい吐息から逃げるように、少女は震えながら地面に手をつき後ずさる。少女を見下ろすゾンビが、一歩一歩、距離を詰めていく。
逆さまに揺れるゾンビの頭には、目も鼻もなかった。
血の気のない相貌に、真っ黒な底なし穴が三つ。頭髪も千切れてほとんどなく、頰が比喩でもなんでもなくゴッソリ削れていて、骨は浮くどころか丸見えだ。
顔の全面に付着した赤黒いものは、本人のそれか、返り血かどうかも分からない。
──ああ、ゾンビだ。リアルだなあ。
場違いな感想を抱く少女を前に、ゾンビの数本だけ歯を残した口が動き、
「メ、……グミ」
「え?」
少女は目を瞬かせる。めぐみ。
「ユユ、
意思疎通ができることに一縷の望みを賭けて、少女──ユユは慌てて名前を口にした。声を上擦らせ、必死に繰り返し間違いを訴える。
自分で言っていて、その馬鹿らしさに泣きそうだった。
ゾンビに人間の違いが認識できる? そんな話、聞いたことない。聞いたことないってなんだ。映画の話? そもそもめぐみってなに? 聞き間違いかも。『目、食う』とかだった気がしてきた。絶対そっちでしょ。
「違う、から、ユユ、」
至極当たり前に、応答はなく。
気づけば、訴えは涙声に変わっていた。
「食べないで」
力が抜ける。怖い。なんで、こんなことになったんだろう。
──ただ、アレを探しにきただけなのに。
「かなちゃん……っ」
ユユは腕を掻き寄せ、縮こまってぎゅっと目を瞑る。
あの子は、こんなことに巻き込まれていたのだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「──大丈夫よ」
飛び込んできた声に、目を見開く。涙で滲んだ視界に映ったのは、今まさにゾンビへ刀を翻した和装の女性で。
刀身がひらめき、それで仕舞いだった。
「……ァ、ガ」
ひどく静かな断末魔。
バッサリと背中を両断されたゾンビは一際大きく痙攣し、瞬きの後にはもう、その姿は跡形もなく消えていた。
「あら、消えた」
「ぁ、……え?」
異様な光景に、ユユはひたすら呆気に取られた。
女性にも想定外だったようで、しげしげと今しがた異形を斬り捨てた刀を見つめ、首を傾げている。
不思議なことに、刀身は汚れ一つないまっさらな抜き身を晒していた。
「し、んだ……?」
「のかしら、ねえ」
「あ、分からないんだ……じゃなくてその、……助けてくれて、」
と、いつまでも呆けているわけにはいかない。ユユはすっかり固まった首を無理くり動かし、小さく頭を下げる。
つい先程までの、あの息を呑むような絶望感。助かったとすっぱり忘れて切り替えられるほど、ユユは図太くはない。
まだ、手足は小刻みに震えている。
「ありがとうございました。……ほんとに」
心からの謝礼。声を震わせ、言葉を絞り出したユユに女性はさっぱりとした笑みを返し、
「ええ。無事でよかったわ」
その言葉に、ようやく緊張がほぐれていくのを感じる。
そうしてあらためて見た、女性の年齢は二十代前半程度に見えた。
腰まで届く長さの茶髪に、やや伏せられた柔和な雰囲気を醸し出す垂れ目。
最初は和装かと思ったが、よく見ると和物は上半身だけ。それにロングスカートを合わせた和洋折衷を身に纏う女性は、ユユが座り込んでいることを加味しても、百六十センチは優に超えるであろう、なかなかの長身だった。
月があれば、照らされて綺麗に映えたであろう
「ところであなた、今困ってる?」
「はい?」
虚をつかれ、思わず素で聞き返したそれに返答はなく。
忘れていたと言わんばかりに、女性は刀に目を向け、「あら忘れてた」 と──言わんばかりではなく、言った。
次の瞬間には、キンという小気味よい音がして、
ただもはや、そんなのはユユの気にするところではない。
──嫌なのだ。
ユユは顔をしかめ、重い足取りで立ち上がる。その先ほどとは打って変わった苦い顔に、女性は小首を傾げた。
「……助けてくれて、感謝はしてます。けど、そういうのやらないんです」
「そういうのって?」
「宗教。だから、ごめんなさい」
「ああ、違うわよ」
着物の袖を口元に当て、女性は優雅に微笑む。
「そうね、自己紹介しましょう。私は
美曙と名乗った女性の長い茶髪が風になびき、ユユを見下ろす瞳が柔らかにたわむ。優しげながらも凛とした声が、秋の夜をすっと通り抜けていった。
「……相談所」
「
「あるなら?」
「私たちに任せてもらえない? そのお困りごと、さっさと解決しちゃいましょ」
その言葉はユユに、言葉にしがたいほどの衝撃を与えた。
ゆっくりと俯き、ユユは唇を噛み締める。
きっと善意だ。それは分かる。見るからに厄介ごとに巻き込まれた子どもに対し、救いの手を差し伸べたくなったのだろう。
神が存在するこの世界において、救いとはもはや義務だ。迷える子羊は、よってたかって完膚なきまでに救われる。
相談所とやらが何かは分からないが、詐欺の可能性を考慮するのを躊躇われる程度には助けられた自覚もある。
けれど同時に、すぐさまはいとは頷けない理由もあった。
「……あ、りがたいん、ですけど」
──神ではなく人に頼るなんて、馬鹿らしいのだ。効率が悪く、成功率も低い。人間が何人いたって、何になるというのだろう。
今どき誰もしないほど前時代的な作業へのハードルは、ユユにすらあった。
言葉に詰まり、落ち着けなさげに視線を揺らす少女に美曙は軽く「そこまで重く考えなくていいわよ」と告げた。
「というより、むしろお願いしたいの。あの──ゾンビは、私たちの調査対象だから。無理にとは言わないけど、ご協力、お願いできないかしら」
顔を上げると、美曙は眉を下げて微笑んだまま、ただじっとユユの反応を待っていた。
そこまで気遣われては決まりが悪いのはユユの方で、
「……それなら、行きます」
どちらかといえば、助けてもらった恩があるからという、消極的な思考からだった。
──元より、彼女が巻き込まれていたとしたら、関わらない選択肢はなかったのだ。
「依頼する?」
「そこに! 行ってから、決めます。だから──案内してください」
そんな小生意気なことを言い放ったユユに、美曙は一拍おいて、どこか満足げに相好を崩す。
「ええ、もちろん」
きゅっと上がった口の端から、八重歯がチラリと覗いた。
◆
通りをいくつも抜けた先、呻きたくなるほど雑多で煌びやかなネオンサインに紛れるようにひっそりと、その相談所は佇んでいた。
「ようこそお客人。ご依頼かな?」
長い足を組み、指も組んで、顔の角度は右斜め上の二十度弱。
やたらと格好つけて気取りきった青年のテノールボイスが、物語の始まりを告げた。
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