2.5

 悟が千川のキックボクシングジムに通い始めたのは四歳の頃だった。ただでさえ脳天気な彼が、父親に連れられて訪れたその空間に当時の彼は何も思わなかった。何も思わなかった。ただ、教えられるという現象がそこで起きてる以上の情報が、彼にとっては無かった。


「今あそこに立ったら、お前は死んじゃうんだろうな」


 父親がリングを指さして言ったことだけを悟は明確に思い出せた。その言葉は、幼少期の彼のプライドを踏みにじった。兎も角、彼はその時そう感じていた。父親にとっては、当たり前のことを茶化して言っただけに過ぎないにしても。


「ありがとうございましたー」


 小学生に混じって、悟は投げ飛ばすように言う。何度も繰り返してきた儀式の内の一つ。次の時間からは社会人の人たちのクラスが始まるから、裏のガレージで一人で練習(?)をしようと、悟はタオルと水、グローブとを手に抱えた。


「あ、ちょっと待って」


コーチの吉永は、いそいそと抜け出そうとした悟を呼び止めた。


「なんですか」

「今度、大森でこういうのやるんだけど、出る?」

「あー……」


 "NEW FIGHTER"と題された、アマチュアの大会だった。規模の大きい大会ではないが、大会運営と締結しているジムが新人のアマチュアボクサーをそれぞれ一人ずつ選出し、試合に出す。悟はそのような大会を見るたびに(牛の品評会みたいだな……)と思っていた。


「別に、二回目出ちゃいけないなんて規約は無かったし、出てみれば」

「まあ、ハイ」

「じゃ、出しとくね。諸々日程分かったら言います」

「ハイ」


 悟はこの会話の中で一つの賭けに出ていた。傍点。

 彼はなんとなく、その大会に自らの意志で出ることを拒否した。まあ、言われたらやるけど……の距離感を保っていたかった。彼は他の大会で、出場経験が二桁を優に超える新人を見てきたし、そのくらいのコトは当たり前だと知っている。しかし、自分からその大会で新人を擦ることを、なんだか癪に感じた。なんでだろう?

 彼はガレージに戻って、適当な(でも大好きな)音楽を流した。ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、が連呼されるだけのテクノの創始者が作った音楽が流れた。彼の頭の中でも、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴーと流れ始める。濁流のようなそれは、彼の海馬に逆流して、強い快楽物質を発現させようと拳に力を込めさせた。

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