第3話 卒業

 冬が終わる。

 卒業式が近づく。


 恥ずかしいくらい泣いてしまったあの日から、何度か先輩と一緒に帰った。

 ゲタ箱や校門で先輩が待っていて、声をかけられる。

 先輩にとっては遠回りになるのに「綾ちゃんと一緒に歩きたいから」と言って、ふわりと笑う。

 それが嬉しくて、ちょっぴり苦しくて。


 ただ、それだけ。


 特別なことは話さなかったし、特別なことを言うのが怖かった。

 そう、私たちは付き合っている訳じゃない。

 他の人よりもほんの少しだけ近い、先輩と後輩の距離を求められていた。

 ほんの少しでも気持ちを伝えようとしたら、この穏やかな時間が消えてなくなってしまうとわかっていたから、なんでもないような「二人の今」を大切にしたかった。


「綾ちゃん」って宝物みたいに名前を呼んでくれる先輩を好きになる。

 私の歩調に合わせて大きな歩幅をそれとなく緩めてくれるたび、先輩を好きになる。

 絵を描くのもいいけどデザインも写真も興味深いねって、穏やかな口調で語る先輩も好きになる。

 タコ焼きを買ってくれたけど実は猫舌で、タコをだけ先に掘り出してとろけた熱々の生地を私に食べさせようとする、子供っぽい先輩も好きになってしまう。


 先輩といて感じる「好き」が、私の中に降り積もっていく。

 北国の雪みたいに、深海のマリンスノーみたいに、先輩で心がいっぱいになる。

 付き合っている訳じゃないけど、側にいることが嬉しかった。

 先輩といるだけで、なにげない時間がキラキラと輝く想い出になる。

 一緒にいるだけで、特別だった。


 なのに、どうして?

 付き合えない、と断言された鋭さが、胸の奥に突き刺さって痛い。


 私がその理由を知ったのは、ずっと後。

 卒業式が終わってからだった。


 先輩は他県の大学に進学するのだ。

 最短で四年は地元を離れるし、就職で地元に帰ってくるとは限らない。

 それを知って追いかけようと思ったけれど、とっくに先輩は帰った後だった。


 小さな花束と万年筆を贈ったのに「サヨナラ」って笑うだけで、先輩から直接は理由を教えてくれなかった。

 それがあまりに先輩らしくて、でもやっぱり切なくて、胸が苦しい。


 教えてくれたのは、同じ部活の里奈ちゃんだ。

 ごめんね、と謝る里奈ちゃんはひどく居心地が悪そうだった。

「一緒に帰っていることも、綾が先輩のこと好きなのも知っていたけど……」と里奈ちゃんは頭を下げる。

「綾には内緒にしてくれって、吾妻先輩がみんなに頼んだの」


 遠距離恋愛なんて簡単じゃないし、待たせても戻ってくるとは限らない。

 だから今は、笑ってサヨナラが言えたらそれでいい。

 悲しそうに笑われると、みんな、何も言えなかったって。


「ごめんね」と繰り返す里奈ちゃんに、私は「そっか……」と答えるのがやっとだった。

 今まであふれていた「どうして?」への答えはもらったけれど、やっぱり「どうして?」が消えない。


 先輩の気持ちはなんとなくわかるけれど、自分勝手だ。

 それは付き合えない理由になったとしても、私の好きを受け取れない理由にならないと思うから。


 どうして? どうして?

 好きって言ったのに、どうして私の気持ちを置き去りにするの?


 せめて私からの「好き」も受け取ってほしかった。

 自分だけ言って満足して、私に「好き」を言わせてくれないなんてひどい。


 もう二度と会えない。

 道ですれ違うような偶然もない。

 遠く離れた私の知らない土地で、吾妻先輩は私の知らない生活を始めるのだ。


 わき上がる激情に、めまいがしそうだった。

 サヨナラの意味が、二度と会えない事実の重みを載せて、圧倒的な勢いで迫ってくる。


「泣かないで」


 おろおろしている里奈ちゃんにハンカチを差し出され、私は自分が泣いていることにやっと気がついた。

 嗚咽を飲みこもうとしたけれど、あふれてくる涙が止まらない。


 何も説明していないのに、里奈ちゃんはなんとなく事情を察したみたいだった。

 泣きやむまで背中をポンポンと優しく叩いて、私のかわりに「先輩のバカ!」と何度かつぶやいていた。


 恥ずかしいぐらい泣いて、やっと落ち着いた頃。

 どんな表情で顔をあげればいいかわからなくて、もぞもぞと抱きついていた手を動かしていたら、里奈ちゃんがギュっと強く抱きしめてきた。

 今まで自分がしがみついていたことも忘れて、その強さに驚いてしまう。

 どうしていいかわからなくなっていたら「綾だけが泣くことないよ」ってささやいてくる。


「安心して。先輩が引っ越す日、部員を総動員して調べるからね」


 決意のこもった声にまた泣けたけど、その言葉は嘘じゃなかった。

 もっと驚いたのは、里奈ちゃんが声をかける前に同じ部活の人たちが、吾妻先輩の予定をそれとなく調べてくれていたことだ。

 私たちのつかず離れずの様子があまりに不安定だったから、周囲にも多大な心配を与えていたみたいだった。


 吾妻先輩は私のことを「好きだ」って言いつつ「付き合えない」って他の部員にも言っていたらしく、訳のわからない行動をしていると他の人たちも思っていたみたいで、混乱しつつ見守ってくれていたとわかって苦笑するしかない。


「たとえ離れる日がわかっていても、一緒にいられる今を大事にすればいいのにね」って、里奈ちゃんはブツブツとぼやく。

 吾妻先輩って頭いいのにバカだよねって、そんなよけいなセリフまでついていて、思わず苦笑してしまう。


 バカってわけじゃないけど、優しさの使い方を間違えていると私も思う。

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