第2話 涙

 好きだって言われた。

 付き合えないって、同時に言われた。


 先輩に告白されたあの日から、私の心は迷子になってしまった。

 生まれたての気持ちに行き場がなくて、あてもなく「どうして?」って問いがさまよっている。


 先輩の好きは受け取ったのに、私の気持ちは差し出すことすらできない。

 今まで誰とも付き合ったことのない、恋愛初心者の私にはわからないことだらけだった。

 だけど、嫌いになんてなれない。

 好きだって言われてから、先輩を思い出すだけで鼓動が跳ねてしまうのに。

 自分が置かれている状況に戸惑うばかりだ。


 私はどうすればいいんだろう?


 先輩はというと、あの告白が夢だったんじゃないかと思うぐらい、何も変わらなかった。

 今までと同じように、学校に来て、部活に参加して、私と特別に目を合わせることもない。


 三月が来ると卒業する吾妻先輩と私は、もともと関わる時間が少なかった。

 部室であってもキャンバスと向かい合っていて、他の部員もいるから私から声はかけづらい。

 それでも、朝の登校時間や昼休憩の図書室。

 移動教室の途中に廊下ですれ違うたびに、私の目は吾妻先輩を見つけ出す。


 特別に目立つ特徴があるわけでもないのに、先輩だけはくっきりと見えた。

 軽く癖のある長めの髪や、ひんやりとした印象の大きな瞳。

 笑う時もひそやかな調子で、屈託のない周りの笑いには染まらない。

 いつも誰かが側にいて、その相手は楽しそうな調子で話しているから、私が想像していたよりもずっと友達が多いみたいだった。


 キャンバスに向かっている孤高の人みたいな背中ばかり見ていたから、人に囲まれている姿は少し意外だったけれど、なんだか嬉しかった。

 私なんかが話しかけてはいけない人だと思っていたけれど、クラスメイトの中にいる吾妻先輩はずっとずっと親しみやすい感じがした。


 笑った顔。困った顔。

 友達を見るときの、優しい眼差し。

 そして、ほんのわずかな瞬間に、私を見つけた時の先輩の不可思議な表情。


 ぶつかった視線はすぐにそらされるけれど、口もとにふわっと浮かぶやわらかな微笑みが、私の心をつかんで離さない。

 今まで知らなかった日常の先輩が、少しずつ私の中に集まって心を占めていく。


 先輩に話しかけたかった。

 先輩のことを、もっと知りたかった。

 すぐ側に立って、先輩の声を聞きたかった。


 見つめることしかできない私は、すぎていく時間の中で自分の想いを持てあましてしまう。

 先輩は三年生だから秋が過ぎて冬が終わると、春を待たずに卒業してしまうのに。

 文化祭が終わったら、先輩は部室にくることもない。

 想いが膨らむばかりで、このまま永遠に逢えなくなる予感に胸が震える。


 せめて、私の気持ちを伝えたかった。

 だけどそのたびに、先輩の冷たい指先を思い出す。

 唇を封じて私の言葉を拒絶した先輩の悲しい瞳を、再び見たくはなかった。


 直接告げるよりはいいかもしれないと手紙を書きかけたけど、返事がもらえない可能性に思い至り、無反応が怖くなって便箋をグシャグシャに丸めて捨てた。

「好きです」の文字に重ねた私の気持ちが、ゴミ箱の中で小さな紙くずに変わったことに気づいて、涙があふれた。


 言葉にならない想いが吹き出して、心臓がキリキリ痛む。

 意地悪な先輩のことなんて知らないってこのまま忘れて、紙クズみたいに捨ててしまえばいいいのに。

 どうしてこんなにつらいのか、ちっともわからない。


 吾妻先輩、私、迷子になってしまいました。


 いつのまにか、朝の空気が冷えてきた。

 このまま遠い存在になってしまうのかな?

 まぁ、もともと近づいてさえいなかったんだけど。


 ため息のように吐き出した深い息が、朝日に白く溶けて消える。

 冷えはじめた指先が秋の終わりを示していた。


「綾ちゃん、一緒に帰ろう」


 放課後。

 校門を出たところで、声をかけられた。

 振り向くと吾妻先輩だった。


 私が出てくるのを、ずっと待っていたのだろうか?

 勘違いしてしまいそうなやわらかな微笑みを残して、先輩は歩きだす。

 私は戸惑ったけれど、先輩の後ろを追いかけた。


 いつも遠かった背中が、目の前にあった。

 だけど、怖くて横に並べなかった。

 声をかけることもできなかった。

 無言のままで私たちは歩き続ける。


 不意に、先輩が立ち止まった。

 自動販売機に小銭を入れて、なんでもない調子で二本買う。

 缶を取りだして立ち上がると、私を見てニコリと笑った。


「綾ちゃん、パス」


 不意打ちで投げられて、え? と驚いてしまう。

 受け取ろうとしたけれどカバンを持っていたから、片手ではうまくキャッチできなかった。

 カラカラと音をたてて舗装の上を転がって遠ざかっていく。


 取り落とした缶コーヒーは悲しかった気持ちを助長して、泣きたい気持ちで私は「ごめんなさい」と反射的に謝った。

 先輩の言葉と同じように、缶コーヒーの一つすら、私は上手く受け取れないのだ。

 拾おうとしゃがみかけた私の肩をそっと押さえて止めると、先輩は私の手の中にココアを握らせる。


「こういうときはね、ありがとう、でいいんだよ」


 そう言って動揺している私をよそに、アスファルトの上に落ちた缶コーヒーを拾い上げると、当たり前のように開けて、そのまま口をつける。


 私は手の中のココアを見つめる。

 確かな温もりがジンジンと手のひらからしみ込んできて、言葉にならない。


 私が受け取り損ねて、落とすことも先輩はわかっていたみたいだ。

 先輩が優しいから、言葉も涙も渋滞するぐらい嬉しくて、すごくせつなくて、胸に痛い。


 こんな小さなことでも、好きだって思い知らされるのに。

 先輩の気持ちを受け取ることは許されていても、私の気持ちを差し出してはいけない感じが、どうしても消えない。

「ココア、好きでしょ?」とそっと後押しされて、やっとの思いで返事をする。


「ありがとうございます」


 うん、と先輩は嬉しそうに笑った。

 その笑顔がまぶしくて、思わず目を細めてしまう。

 真っ直ぐな先輩の眼差しに、今なら言えそうな気がした。


「私……」とほとばしりそうな気持ちを、のばされてきた長い指が封じ込める。

 唇を押さえている指先は、私の「好き」が声になることを拒絶していた。

 先輩は、ダメだよ、と示すように首を横に振って、私からの気持ちを否定する。


 ぶわっとふくらんできた涙で、先輩の姿が見えなくなる。

 視界がにじんで、こぼれそうになる嗚咽を必死で飲み込んだ。

 どうして? と問いかけたくて、苦しくて。

 言葉のかわりに涙があふれてくる。


 私が言いたいことをわかっているくせに、言葉にして伝えることを許してくれないなんて、どうして?


「少しは私の気持ちも考えてください」

「考えてるよ、他の誰よりもずっと」


 だから付き合ったりしないと、吾妻先輩は断言した。

 それは拒絶なのになぜか優しい響きで、泣かないで、と頭を抱かれた。

 コツンとひたいが先輩の胸に当たる。


 抱きしめられるよりも遠いけれど、回された腕が優しくて、響いてくる心臓の鼓動が愛しくて。

 ぬくもりも、好きも、優しさも、先輩から受け取ることしか私には許されなくて。

 私から渡したい気持ちも言葉も拒絶されるから、唇をかみしめることしかできない。


「綾ちゃん、ごめんね」


 何度も謝る先輩の腕に、私はすがるようにして泣いた。

 どうして? どうして? 理由ぐらい教えてほしいのに。

 エンドレスの問いは涙をいくら流しても消えない。


 先輩は私が泣きやむまでずっと側にいてくれたけれど。

 この日は、好きだよ、と先輩は言ってくれなかった。


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