第12話
アントワネットは人間の意思というものを信じていない。
環境、そのときの状況、周囲の人間の言葉、そして化学物質などで容易に変えられてしまう。その程度のものに、崇高さも大きな意味合いも見出すことができなかった。
透明な箱の中に閉じ込められたネズミは、いつまでも脱出の意思を持ち続けられない。
それは生き物としてしごく真っ当であり、だからこそ、人間は幻想として強い意思を信仰するのだと思っていた。
だから問う。
「どうしたいのか?」
と。
刻々と変化する状況の中で、相手の意思がどう変わるかを確かめたかったのだ。
状況というやつを、自分で変化させているから。
それは、ふんわりと握った手に閉じ込めた虫の動きを、感触で楽しむ子どものようだった。
王都の北。街道のすぐ近くに広がる小規模なぶどう農園を、馬の背からアントワネットは眺めていた。
栗毛で額に白の稲妻型の模様が入った馬。それに
「豊かさを感じる光景ですわね」
「ああ、王都の近辺は本当に豊かだ」
皮肉でもなく、純粋な感想としてクリスチャンも答える。
「クリスチャン様は、将来の夢はございますか?」
相乗りで近場へのお出かけ。男女二人でこれをやると、世間一般ではデートの類となる。貴族身分ではまず行われない。この新鮮さに、クリスチャンは内心浮かれていた。
「将来の夢……か」
クリスチャンは難しい顔をした。
実家に帰ったあとのことを思えば、この出来事も夢幻となる。厳しく過酷な現実に、肩まで身を浸からせることになるだろう。
間近から身を乗り出してその表情を覗き込んだアントワネットは、明るい声をあげて笑った。
「クリスチャン様、考えすぎですわ。もっと簡単で、曖昧で良くってよ。私は、今このときに決まりましたわ」
彼女はクリスチャンの腰にそえた手に少しだけ力を込めながら言う。
「こんな平和で豊かな風景を、王国中に広げることですわ」
あまりに壮大で綺麗な世迷言に、思わずクリスチャンも噴き出した。
「それは良い。最高の夢だよ」
「でしょう?」
ステップ6。
夢を語る。
相手との関係を詰めたら、夢を語って応援したい気持ちに誘導する。
これにより、内心では恋愛感情にもとづく下心での奉仕も、「夢を応援するために」と言い換えることができる。
相手の内心に言い訳を作ってあげることで、行動を起こしやすくさせる。
ここからがロマンス詐欺の第1歩だ。
「クリスチャン様も、よろしければ一緒にこの夢を見ませんこと?」
少女のような無垢さを感じる声で、アントワネットは朗らかに言った。まるで花冠を作ろうよと誘うようだ。
「そうだな。それも良いかもしれないね」
クリスチャンは背中に重みを感じた。
アントワネットが、クリスチャンの背中にもたれるように体重を預けていた。自然、密着する体に、心拍数が跳ね上がる。
「私、本気ですわ」
しっとりとした声だった。
真っ白だったシーツに、突然ルージュで一本線を引いたような色気の変化。クリスチャンは知らず知らずのうちに、息が浅くなっていた。
夕刻。
マリアンヌの屋敷に帰って来たアントワネットは上機嫌だった。
「楽しかったですか?」
不思議そうに問うマリアンヌの手をとり、くるりと一回転したアントワネットは笑う。
「大成功さ。ちょっとした支援をもぎ取って来たよ」
「どのような?」
「ギルド経由での生活費の送金と、頻繁なお手紙のやり取り。それに、今度やる立食パーティーに参加してもらえることになった。あ、そのお金も出してもらえるよ」
「本当にちょっとしたことですね。わざわざ遠乗りに出かけなくても良かったことではありませんか?」
「そうでもないさ。見てればわかる」
魔法の力で輝くランプを光源に、アントワネットは急いで手紙を3通書いた。
1つはクリスチャンに。今日という日のお礼や感想を綴ったもの。
2つ目は同じ屋敷に住むマリアンヌに。大した内容ではない。日頃の親交への感謝と、立食パーティーが楽しみだというもの。
3つ目はコルドゥアン男爵に。立食パーティーの会場を貸して欲しい、そして人を集めて欲しいというもの。
2つ目だけ差出人として自分の名を書き、残りは何も書かなかった。
使った紙は、最近できたという非常に薄い植物紙。陽光にかざせば透けてしまいそうなもの。
マリアンヌの封蝋を押し、差出人をそこで示す。
翌朝、アントワネットは配達人に手紙を渡した。
貴族の手紙は基本的に従僕などが直接運ぶ。珍しいことだと思った配達人は、すぐに上司に相談した。
上司の男は薄い紙を見て、光にかざしてみる。うっすらとだが、内容が読み取れた。
「おやおや、これは面白い。ちょっとボスに見せてくる」
人の口に戸は立てられない。
アントワネットが書いた手紙の内容は、すでに王都にいる人間3人が知るところとなった。
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