第13話-4
フェルディナントは出撃前日の夜。久しぶりに予知夢を見た。
デルタ地帯を進む十字軍が行く手を阻まれたうえ、ナイル川の堤防を切られ、泥濘の中で右往左往する姿が見える。ナイル川を知り尽くした者にしかできない見事な戦術だ。
──アル=カーミルか。まだ後を継いだばかりだというのにさすがだな。よほど優秀な副官でも付いているのか。
翌日。フェルディナントは予知夢のことを誰にも話さなかった。そのようなことを話しても諸侯の誰も信じないと思ったからだ。
十字軍はマンスーラに向けて進撃を開始した。しばらくするとフェルディナントの様子がおかしい。青い顔をして腹を押さえている。
「痛タタタタタ……。腹が痛い」
「貴公。大丈夫か?」
バイエルン公ルードヴィヒⅠ世が心配して声をかけてきた。
「どうもナイル川の水が体に合わなかったようです。しばらく休めば治りますので、どうぞお先に。遅れるとペラギウスのやつがうるさいですよ」
「そうか。では、大事にな」
バイエルン公はそのまま十字軍諸侯に付いていった。バイエルン公の姿が見えなくなると、副官のレギーナがジト目でフェルディナントを見ながら言った。
「閣下。何なのです? その三文芝居は?」と副官のレギーナなが呆れている。
「いや。なかなかの出来だったと思うが。バイエルン公は騙されたぞ」
「それはバイエルン公が素直な気性のお方なだけです」
「とにかく、私は腹痛でしばらく動けないということにしておいてくれ」
「その心は?」とレギーナが尋ねる。さすがに、今回の意図までは読めない。
「間もなくアル=カーミルのやつがナイル川の堤防を切り、十字軍はデルタ地帯で孤立することになる」
レギーナは驚きで表情を変えた。
「それを早く知らせなくて良いのですか?」
「根拠のない自信家のペラギウスは、まず信じないだろう」
「では、同邦のバイエルン公だけでもお助けしてはいかがですか?」
「それもそうだな。良いことを指摘してくれた」
「閣下は思いやりがなさすぎです。特に男性に対して」と戒めを込めて指摘される。返す言葉がない。
「いや、面目ない」
フェルディナントはミーシャを呼んだ。
「ミーシャ。バイエルン公へ大至急伝令だ。そうだな『敵の伏兵を発見したから大至急応援に来てほしい』と伝えてくれ」
「伏兵なんてどこにいるにゃ?」
「いいから早く行け!」
「わかったにゃ」
ミーシャは空飛ぶサンダルのタラリアで飛翔すると、あっという間に見えなくなった。
バイエルン公の一行が川の浅瀬を渡り、デルタ地帯へ入った直後、ミーシャはバイエルン公に追いついた。
「バイエルン公。大公閣下から伝言にゃ。『敵の伏兵を発見したから大至急応援に来てほしい』だにゃ」
素直なバイエルン公はそれを信じた。
「何っ! それは一大事だ。『直ぐ駆け付ける』と伝えてくれ」
「わかったにゃ」
「全軍反転だ。ロートリンゲン公の救援に向かう」
「おーっ!」
バイエルン軍は命令に反応し、次々と戻って行く。
「おまえは、このことをペラギウス殿に伝えてくれ」
「了解しました」
しかし、これを聞いてもペラギウスは信じなかった。
「臆病者は勝手にさせておけ」
──おおかた。怖気づいて逃げたのだろう。意気地のないことだ。
十字軍がマンスーラ手前のナイル川デルタ地帯に達したとき、背の高い草むらに潜んでいたアイユーブ朝軍が矢の雨を射かけて来る。これにより十字軍は進撃を阻まれた。おりしも雨期のナイル川は氾濫期に入り、水かさが増していた。諸侯の誰かが叫んだ。
「これで退路を絶たれたら危険だぞ!」
それを聞いたペラギウスは色を失くした。
「全軍、全速力で撤退だ」
「荷駄はどうしますか?」
「そんなものは置いていけ」
「しかし、敵の手に渡る可能性がありますが」
「では、焼却してしまえ」
それを見たアル=カーミルはナイルの堤防を切らせると、ナイル川の水が怒涛のように押し寄せ、あっという間に十字軍は泥沼の中で孤立することになった。荷駄を早々と焼却したため食糧もない。これでは戦いにならない。十字軍は途方に暮れた。
フェルディナントのもとにたどり着いたバイエルン公は、フェルディナントを質していた。
「伏兵などいないではないか?」
「いますよ。ただし、あちらにね」
確かに十字軍の行く手に伏兵があらわれ矢の雨を降らせている。
「あれは助けにいかなくていいのか?」
「その前に面白いものが見られますよ」
「面白いもの?」
ナイルの堤防が切られ、水が怒涛のように押し寄せると、あっという間に十字軍は泥沼の中で孤立した。
「こ、これは……貴公はわかっておったのか?」
「アル=カーミルならやりかねないと思っていました」
「なぜ、そのことをペラギウス殿に伝えなかったのだ」
「言ったところで、臆病者扱いされて信じなかったでしょう」
「確かに。それはそうかもしれぬな」
「しかし、味方は助けねばなるまい。どうする?」
「あの濁流を渡るためには、船が絶対に必要です。しかし、土地勘のない我々では調達に何日かかるかわかりません。その間に体力が尽きて何人も死んでしまうでしょう。ここは降伏してアイユーブ朝軍に助けてもらうのが一番の早道ですね」
「しかし、それでは騎士の名誉というものが……」
「要するに名誉をとって死ぬか、不名誉をとって生きるかです。私ならこの程度の不名誉には甘んじて生きる方をとりますがね」
「それもそうだな」
結局、ロートリンゲンとバイエルン以外の十字軍はアイユーブ朝軍に降伏し、捕虜となったが、高額の賠償金を請求されたうえ、ダミエッタを返却する条件で解放された。
ペラギウスとジャン・ド・ブリエンヌが失敗の責任者として非難された。だが、フリードリヒⅡ世も自ら行かなかったことで大きな非難を受け、第六回十字軍を起こすことにつながっていくこととなる。
十字軍から帰還して一段落した頃、バイエルン公から使者がやってきた。ロートリンゲンとの婚姻により誼を通じたいということだ。
バイエルン公には娘がいなかったので、弟の娘のカーリンを嫁にということだった。バイエルン公はヴィッテルスバッハ家の人間なので、ベアトリスの遠縁ということになる。
また、オーストリア公の息子とマルティナの結婚のことも進めなければならない。
バイエルンもオーストリアも帝国の東寄りの公国だ。嫁たちは良い顔をしないだろうが、今まで帝国東部の公国とは縁が薄かったので良い機会かもしれない。
――そろそろ東にも目を向ける必要があるな。あのこともあるし……。
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