星堕ちた春
水神鈴衣菜
本文
今日も私は、星を見上げる。どこまでも綺麗で、どこまでも続くその星を。春の風は柔らかく、私の頬を撫ぜる。ああ、綺麗だ。この母なる大地を一様に埋める、この星は。何度見ても、飽きることはない──。
いつしか、空は暗闇に紛れ、昔『星』と呼ばれていたもの、太陽と呼ばれていたものは姿を消した。だが人間は、星を諦めなかった。幾年掛かろうと、星を空に取り戻そうとした。だがそれは、神ではない人間には、到底なし得なかった。
果たして、なぜ空が暗闇に閉ざされたのか。私には決して分からない。ただそれが、もう何十年も昔の出来事で、既に事実を実体験として知っている人間はこの世に存在しないだろうということならば、分かる。
今、人間は地上を星空にしようとしていた。煌々ときらめく街灯。そのどれもが星のように──私は本当の星を実際に見たことはないのだが──空が暗いことを意に介さぬようにと、人間は街を照らし続けることに専念したのだ。
再び春の風が私の頬を撫ぜた。私の髪を攫って、はらりとひらめかせる。
春。その名もおそらく、既に意味を成さない。空が消えてから、季節もなくなった。何の因果か、神が憐憫を垂れてくださったのか、太陽を失ってなお、この地球は暖かく、緩やかな風が人間を癒していた。その速度は、緩まることも、速まることもない。
「あ、いた」
後ろから声がかかる。私はそれに振り向くと、小柄な女性が少し遠くに立っている。
「またこんな所にいるの?」
「いいじゃないか、私はここが好きなんだ」
「急にいなくなられると困るの」
「……それは君が? それとも周りの人間が?」
「どっちもに決まってるでしょ! 変なこと言ってはぐらかそうとしたって無駄なんだからね」
彼女はふん、と息を巻くと、私の手を掴もうとする。
「人間が好きなら、ちゃんと生かそうとしてあげてよ」
その声に、私は沈黙で返した。
人呼んで、『神の落とし子』。皆が私をそう呼ぶのだ。奇病を治す天才。身元不明で、どこでどうやって生きてきたかも分からない。不思議で、だからこそ、皆は私を崇めるように神聖視する。私は人間は好きだが、こんな風にしてくる身勝手な部分は嫌いだ。そういうところまで好ましいと思う者もいるようだが、それには全く賛成できなかった。
「……で、今日は?」
「またあの病気。顔が黒くなって、周りの人を襲い始めるの」
「ああ……」
「頑張って取り押さえて、気絶させてから来てくれたみたいだから」
「それはありがたいことだ」
「お願いしますね、先生」
彼女の敬語は、ここからは仕事の時間だと私に知らせてくれる。だから少し苦手で……けれど嫌な気持ちにはならない。他の人間から向けられるような、私を神と同じように見る目を、彼女はしていないからだろうか。そんなことをふらふらと考えながら、私は今日も新しい患者を治すのだ。
私を『神の落とし子』と、最初に呼んだのは誰だったか。全く真意をついたことを言ってくれた訳だ。
私には、相手に触れると、その病を治すことができる力がある。それはまさしく、神の成す奇跡と見紛うものだろう。だがそれは決して羨まれるに値するものではない。それ相応の犠牲を、私は払っている。
「……」
私は何事かを呟くふりをして、わざと自分の力ではないように周囲に思わせる。神が力を貸してくださった。そういうことにしておく方が、都合がいいからだ。そして患者に触れる。顔を覆うようになぞると、その顔の黒さは消えていき、苦難の表情も和らぐ。付き添いに来ていた家族か誰かは、それを見て涙を浮かべ、私に対して何度も礼を言った。患者はたいてい静かだから良いのだが、付き添いに来た人間は少々うるさいので苦手だ。
「お大事に」
マニュアルのようにそう言い、私は患者たちを外へ帰す。終わった。そう思った瞬間、思考がふっと切り替わる。息が詰まり、耐え難い衝動が全身を貫く。
憎い。アレが憎い。壊したい。壊したい。ぜんぶ、ぜんぶこわしたい。なにもいらない。ゆるさない。こわす。しぬ。ころす。ころす、ころす──。
「ポラリス!」
大きな声が呼ぶ。ポラリス。頭で反芻する。ポラリス。何のことだ。ポラリス。北極星。航海。旅路の目印。ポラリス。私に名前をつけてくれたあの方は、今は何をしているのだろうか。
ポラリス。私の名前だ。
「っ……、はぁっ……」
私がこの病を治すための代償。それは、病によって侵される精神の歪みを、自分の身に受け、そして克服することだ。克服できるまで、耳鳴りと頭痛、そして頭がおかしな方向にしか働かなくなる。
「いつも苦しそう、もうやめたら?」
そして、彼女が克服を手伝ってくれるのだ。彼女の金切り声が、私をこの世に引き戻してくれる。
「……人間が好きなら助けてやれと言ったのは、君だよ、スピカ」
「辛そうなのは、やっぱり嫌だわ」
「……世間が、やめるなんてこと、許さないだろうね」
「私はあなたが辛いことを知ってる。あなたがいつも一人で立ち向かって、負けそうになっているのを知ってる」
「君がいれば、私はいつまでも生きられる」
「私はあなたより先に死ぬわ」
「……寂しいことを言うじゃないか」
「だって事実ですもの」
彼女は、なんてことないように呟く。その表情は穏やかで、それに比べて私は、苦しい顔をせざるを得なかった。
「ねえ、空から落とされた星どうし、仲良く一緒にいるためにも」
そう言うとスピカは、私の心臓があるあたりをすっと撫でた。
「全ての星の中心にいるのに、他の星より弱いあなたを、私が守ってあげるわ」
星堕ちた春 水神鈴衣菜 @riina
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